マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

物質と観念、die Materie und der Gedanke

2011年11月24日 | ハ行
 唯物論か観念論かを考えるためには、その前提として物質と観念(精神、意識)の定義がはっきりしていなければなりません。観念論者によってこれが曖昧にされていますが、自称唯物論者でも明確に分かっている人は少ないでしょう。

 多くの人は参考の10に引いたレーニンの言葉を挙げますが、ここにある3つの規定は性質が違います。この中の「(まず)感覚に与えられる」という規定だけが物質の哲学的概念の「定義」(命名的定義)です。2番目の「感覚からの独立」と3番目の「感覚に反映される」は一層進んだ規定(概念規定的定義)です。最後の「客観的実在」は2番目の規定の繰り返しで意味がありません。

 一般に或る物の定義では、例えば「人間は理性的動物である」(単純化すると「人間は動物の1種である」)といったように「一層広い概念に包摂する」ことで定義するのですが、物質と観念の定義ではこの方法は使えません。なぜなら、物質と観念の定義では、世界中の全ての存在をその2つに分けて、それを定義するのですから、その2概念以上に広い概念はないからです。

 従って、ここでは所与の対象を物質か観念かを判定するのは人間ですから、人間の能力を感覚と知性に分けて、そのどちらに「まず」与えられるかを基準にするしか方法がないのです。ここで大切な点は「まず」という事です。「その後、色々な事があってから」何に与えられるかではない、という事です。

 「まず」感覚器官に与えられるものを「物質」と名付けます。いや、人々が無意識的に、半意識的に「物質」という言葉で考えてきたことを純化するとこうなります。

 逆に「まず」思考(知性)に与えられるものが「観念」です。観念は言葉とか音楽とか絵画とかいった物質に担われていますから、「まず」感覚器官に与えられると思うと、違います。言葉とか音楽とか絵画とかいった物質に担われているとはいえ、観念自体は「まず最初に、直接的に」感覚器官には与えられません。「まず」思考に与えられます。

 もちろん長い修業によって感覚器官も発達し、観念を感じ取るようになることもあるかもしれませんが、それは「修業」という媒介を経て初めて達成される事で、そういう事は今は問題になっていません。

 この定義の仕方では、「同類の物は同類の物と関係する」という古代ギリシャで公理のようになっていた考え方が使われています。日本でも「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが、あれに似た考え方です。AがBとではなくCと関係したとすると、それはAとCとが同類だという証拠です。これ以外に2者の同類性を判断する基準があるでしょうか。サルなどを同類か否かを判断する基準は、確か、「交尾が可能か否か」だったと思います。

 さて、このように物質と観念の定義(命名的定義)がはっきりした後に初めて、どちらが先か、どちらからどちらが出て来たか、といった進んだ問題に答えることが出来ます。物質が先で、観念が後、と答える人は唯物論者です。観念論者は観念が先だと考えます。その時、唯物論では観念は物質の「機能」(働き)と考えます。観念論者は観念が実体として存在していると考えています。

 参考の14にあるように、「物質とは客観的実在のことである」とするの人はたくさんいますが、これは間違いです。これは「定義」と「(性質の)説明」とを(あるいは「命名的定義」と「概念規定的定義」とを)混同しているからです。物質は「客観的」かどうか、即ち意識から独立しているか否かを問題にする前に、まず意識と物質とを区別しなければなりません。

 イエス(という歴史上の人物)がキリスト(旧約聖書でヤーヴェの神が約束してくれた救い主)であるか否かを議論している時に、キリスト教信者は「イエス・キリスト」という言葉を使うことがありますが、これでは議論にならないのと同じです。

 定義は定冠詞の世界であり、説明は不定冠詞の世界です。

 物質と観念の定義が混乱するのは、第1に、観念論者がこの問題を避けているからです。第2に、唯物論の世界では政治が介入してきて、自分の考えと少しでも違うような意見にはすぐに「観念論的偏向」というレッテルを張り付けて、「自己批判」とやらを迫ったり、政治的に葬ったりするので、多くの腰抜けは「客観的実在」という規定ばかり繰り返していて、その先に進まないからです。

 今ではその政治的しばりはほとんどなくなりましたが、今度は同時に議論そのものがほとんどなくなってしまいました。

  付記

 命名的定義と概念規定的定義については「辞書の辞書」(「生活のなかの哲学」に所収)をご覧ください。


  参考

 01、自由は意志の根本規定であり、同様に重力は物体に根本規定である。……物質は重力そのものである。(法の哲学第4節への付録)

 02、抵抗を為すものが物質である。(法の哲学第52節への注釈)

 03、物質という抽象は、形式を持たないものではなく、そこでは形式が内容にとってどうでも好い外的な規定なのである。(小論理学第99節への付録)

 04、物質とはこの際、それ自体としてはまったく無規定であるが、どのような規定も可能なものであり、同時に端的に永久的であり、どのような変化の中でも自己同一なものである。(小論理学第128節への付録)

 05、物質は理性の本質的な対象である。もし物質がなかったとしたら、理性には考えるための刺激も素材もなく、なんらの内容もないであろう。理性を放棄せずして物質を放棄することはできない。理性を承認せずして物質を承認することはできない。唯物論者は合理論者である。(フォイエルバッハ「将来の哲学」第16節)

 06、物質の不滅性は単に量的にのみ捉えてはならない。それはまた質的にも捉えなければならない。(マルエン全集第20巻325頁)

 07-1、実際には思考する存在へと進み、発展するのは物質の本性なのである。(マルエン全集第20巻479頁)

 07-2、ヘーゲルが繁殖を媒介にして生命から認識に移行する時、次のような発展理論の萌芽がある。即ち、有機的生命がひとたび与えられれば、諸世代にわたる発展を通じて思考する存在という類へと発展しなければならないという理論である。(マルエン全集第20巻566頁)

 08、究極物質──物質とそれに内属している運動。この物質は決して抽象物ではない。既に太陽の中で個々の素材は分解していて、その作用に関しては区別がなくなっている。又、星雲のガス球の中では素材はたとえ別れて存在していても、全て融解して純粋な物質そのものになってしまっていて、互いに種として区別される性質を持たず、ただ物質として作用しているのである。(マルエン全集第20巻509頁)

 感想・最初の物はその物そのものである、という事です。同じ頁にはUrmaterie(原物質)という言葉もあります。この論理については「昭和元禄と哲学」(『生活のなかの哲学』に所収)を参照。

 09、物質そのものとは純粋な思考の創造物であり、抽象である。我々は物体的に存在している様々な事物を物質という概念の下に包括することによってそれらの事物の質的差異を捨象する。規定された実在的諸物質とは区別された物質そのものとは、かくして感性的に存在しているものではないのである。(マルエン全集第20巻519頁)

 感想・常識的な考えで、08と反対の考えです。

 10、物質とは、人間にその感覚において与えられており、我々の感覚から独立して存在しながら、我々の感覚によって模写され、撮影され、反映される客観的実在を言い表すための哲学的カテゴリーである。(レーニン「唯物論と経験批判論」第2章第4節)

 11、唯物論は、自然科学と完全に一致して、物質を第1次的に与えられているものとし、いしき、思考、感覚を第2次的なものと見なす。(レーニン「唯物論と経験批判論」第1章第1節)

 12、物質のあれこれの構造に関する学説と物質の認識論的カテゴリーとを混同することは許し難い。(レーニン「唯物論と経験批判論」第2章第4節)

 13、世界は運動している物質である。(レーニン「唯物論と経験批判論」第5章第4節)

 14、レーニンが物質を哲学的に考えた時、それを単に我々人間の意識から独立した客観的実在と規定しただけではなかった。更に、この規定を徹底して、それを自己運動するものとしたのである。(梯〔かけはし〕明秀「社会の起源」青木文庫32頁)

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