マキペディア(発行人・牧野紀之)

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都市と農村

2011年11月16日 | タ行
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 01、だから、住宅問題のブルジョア的解決は、明白に失敗したのだ、都市と農村の対立につきあたって失敗したのだ。ここでわれわれは問題の核心に到達した。住宅問題は、今日の資本主義社会によって極限までおしすすめられた都市と農村の対立の廃止に着手できるほどに社会が変革されたときはじめて、解決できるのである。

 資本主義社会は、この対立を廃止できるどころか、反対に、日ごとにますますこの対立を激化させずにはおかない。これに反して、近代の最初のユートピア社会主義者オーエンとフーリエは、すでにこの事を正しく認識していた。彼らの模範建造物では、都市と農村の対立はもはや存在しないのである。(エンゲルス『住宅問題』村田陽一訳国民文庫75頁)

 02、都市と農村の対立を廃止することがユートピアでないのは、資本家と賃金労働者の対立を廃止することがユートピアでないのと、何ら選ぶ所が無い。この対立の廃止は、工業生産にとっても農業生産にとっても、日毎にますます実際的な要求になっている。

 リービヒが農業化学についてのその著書の中で要求した以上に声高くこの要求をした者は誰もいない。そこでは、人間が畑から受け取った物は畑に返すと言う事がつねに彼の第一の要求になっており、又それを妨げているものは、都市、ことに大都市の存在だけであることが、証明されている。

 ここロンドンだけでもザクセン王国全体が作りり出すよりも大量の糞尿が毎日毎日莫大な費用をかけて海に流されていることを知れば、そしてこの糞尿が全ロンドンを汚染しないように防ぐのにどんなに大掛かりな施設が必要とされるかを知れば、都市と農村の対立の廃止というユートピアは、際立って実際的な基礎を持ってくる。比較的小さいベルリンでさえ、少くとも30年このかた、自分の汚物の悪臭に息が詰まりそうになっているのだ。

 他方、プルードンのように、今日のブルジョア社会は変革するが、農民はそのままにしておこうと望む者は、全くのユートピアである。人口が全国に出来るだけ平均するようになった時に初めて、工業生産と農業生産が緊密に結びつけられ、又それによって必要となった交通手段の拡張が合せて行われる時に初めて──この場合、資本主義的生産様式は廃止されたものと前提する──、農村住民を、彼らが数千年の昔からほとんど変ることなくその中で無為の生活を送ってきた孤立と愚昧化から引き出すことが出来る。

 人間の歴史的過去によって作り上げられた鎖からの人間の解放は、都市と農村の対立が廃止されて初めて完全となると主張すること、それがユートピアなのではない。現存の社会のこの対立や、その他何らかの対立が解決されるべき形態を、「現存の諸関係から出発して」あえて指定しようとする時、その時に初めてユートビアが生れるのである。(エンゲルス『住宅問題』村田陽一訳国民文庫139~140頁)

 03、しかし資本主義社会における大都市の進歩的意義を承認したからといって、この事は都市と農村の対立の廃止を我々の理想の中に取り入れる事を少しも妨げない。反対である。それはこれらの財宝を全人民の手に入るものにするために、又「農村生活の愚昧」(マルクス)の克服、つまり農村住民の文化からの疎外の克服のために必要なのである。

 そして、電気や交通運輸手段の発達で科学と文化の財宝を全国民が等しく利用する事は可能になったのである。

 しかし、この対立の廃止は1回限りの行為ではなく、一連の措置と考えなければならない。又、この廃止を要求するものは「美的感覚」だけではない。糞尿の中で窒息している大都市の住民は新鮮な空気を求めて定期的に都市から逃げているし、きれいな水を必要とする工業も全国に広がっている。都市の汚物の合理的な利用もまたこの廃止を求めている。(レーニン邦訳全集第5巻150-1頁)

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