マキペディア(発行人・牧野紀之)

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概念

2010年07月10日 | カ行
 「概念」で「国語大辞典」(学研。1978年)を引くと、「対象となるいくつかの事象から共通の要素を抜き出し、それらを総合して得た[第1条件]一般性のある表象[第2条件]。語で表され[第3条件]、内包と外延を持つ[第4条件]」と説明しています。ここには私が角括弧で明示したように4つの条件がありますが、最低の要素は第2条件と第3条件でしょう。第1条件はそれの獲得ないし形成の手続きの説明です。第4条件は第3条件の内部の分析です。

 粟田賢三・古在由重編「岩波小辞典・哲学」(1958年)の説明もほぼ同じです(多分、学研の方が岩波を参考にしたのでしょう)。要点を抜き書きしますと、「概念は事物の本質的な特徴(徴表)を捉える思考形式である。(略)こうした[複数の徴表の総括を概念の内包と言う。(略)概念の適用される事物の範囲を概念の外延と言う。従って、概念では多くの事物に共通な特徴が取り出され(抽象)、それ以外の性質は度外視(捨象)されている」。ここまでは学研と同じでしょう。唯一異なるのは次の説明です。

 「概念の構成については、類似の事物を比較して共通の特徴を取りだすこととして説明するのが普通であるが、科学的概念はかような簡単な手続きで出来るものではない。事物の性質の分析、諸性質の相互の連関、作用、他の物との相互の関係、作用の研究によって事物の本質が捉えられるのである」。

 「共通点を取りだす」という方法に対するこの対案は、対案になっていません。なぜなら、共通点を取りだすまでの「研究」(手続き)を詳しく述べたにすぎないからです。いずれも「本質判断における外面的・悟性的方法」です。では、その理性的方法とはどういうものか。それは「本質」の項で述べました。

 更に根本的には、ヘーゲルがその「論理学」を存在論・本質論・概念論と3つに分けて構成した時、その「概念」とは、上に見たように「頭の中に作られた観念」と認識論的にのみ理解するだけで好いのか、という問題があります。この点についても「本質」の項で述べておきました。

 関連項目

本質
仮象
発展
真理

 参考

 01、我々が諸事物について語ろうとする時、我々はそれらの事物の本性または本質をそれらの「概念」と呼ぶが、この「概念」は思考に対してしか存在しない。(ヘーゲル『大論理学』ラッソン版第1巻 S.14 )
 02、その始原と原理において、即ちその概念において(ヘーゲル『大論理学』第1巻 S.258-9)
 03、十分な根拠、即ち概念。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.88 )
  cf.ライプニッツの「十分な」理由とは、機械的原因に対立している。つまり目的原因、部分的な諸規定を全体としてまとめて捉えるのは概念であり、目的である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.65-6 )
 04、本質の運動は一般に「概念への生成」である。内的なものと外的なものとの関係の中で概念の本質的契機が現れた。即ち概念の関係の諸規定は各々がただちにその他者であるばかりでなく、全体の全体性でもあるという風な否定的統一の中にあるものとして定立されている。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.153)
 05、概念は存在(直接性)と本質(反省)とに対しては第3のものである。これら二者は概念の生成の契機であり、概念はこれら二者の根拠であり、真理である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.213)

 06、概念の具体的生成の叙述の中に概念の本性が含まれている。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.214)
 07、概念についての科学にあっては、概念の内容と規定はただ内在的演繹によってしか与えられないのだが、その内在的演繹は概念の生成の中に含まれている。( S.219)
 08、ここに述べられた概念の概念は通常「概念」という言葉の下で理解されている事と違っているように見えるので、ここで概念として現れたものが他の表象や説明のなかにどのように含まれているを示せと要求されるかもしれない。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.219)
 09、概念、それは思考の最高点でる。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.220)
 10、自由な現存在にまで到達した概念は自我つまり純粋自己意識にほかならない。たしかに私〔自我〕は諸概念(規定された諸概念)を「持っている」が、自我〔私〕は純粋な概念そのものであり、概念として定存在に到達した概念なのである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.220)

 11、概念とは何かを認識するためには自我の本性が想起されるというカント哲学の主要命題によってこの事が正当化されるのは、このためである。しかし逆に言うと、このためには自我の概念を捉えなければならないこと、前述の通りである。日常意識に現れる自我の単なる表象に止まっている限り概念は自我の占有物ないし特性として内属することになる。この表象は~概念の概念的理解に役立たない。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.223)
 12、概念は自然の一段階であり、精神の一段階である。概念が現出する自然の段階は生命と有機的自然である。しかしそれは盲目的な概念、自己自身を捉えない概念、思考しない概念としてであり、思考する概念はただ精神にのみ属する。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.224)
 13、概念そのものはいまだ完全ではなく、理念に高まらなければならない。理念にして初めて概念と実在との統一なのである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.225)
 14、概念が自己に与える実在は概念自身から導出されなければならない。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.225)
 15、概念論のテーマは、概念の中で消失している実在性を、概念がいかにして自己の中で自己の中から形成するかを叙述することである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.229)

 16、本質は存在の第1の否定である。それによって存在は仮象になったのである。概念は第2の否定であり、否定の否定である。かくしてそれは「復活された存在」である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.235)
 17、概念が主観的思考であり、事柄にとって外的な反省である時、その概念の立脚点をなすものは直接的概念の形態である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.236)
 18、存在とか、定存在とか、或るものとか、又は全体と部分、等々は、それだけでは思考規定である。その各規定が自分の他者、または自分の対立物との統一において認識される限りで、それらは規定された概念として捉えられる。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.247)
 19、概念の空虚さについて。①規定されているという意味では、空虚ではない。②一面的な規定しか持たないという意味では、空虚である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.247-)
 20、概念の中では、同一性は普遍性へ、区別は特殊性へ、根拠へと還帰する対立は個別性へと形成し進んだ。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.256)
 感想・私が「概念論の契機の普遍・特殊・個別とは、概念の立場から捉え直された存在と本質及び概念自身のことである」(仮象の4)と言うのはこれに基づいています。23も参照。

 21、概念の規定は、その本質からいって、それ自身関係である。なぜなら、それは普遍であるからである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.271)
 22、全ての内容的規定の統一は概念に等しい。その統一を含む命題は、従ってそれ自身再び定義である。が、単に直接取り上げられた概念ではなく、その規定された、実在的な区別の中へと展開した概念、または概念の全き定存在を表現しているのである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.467)
 23、自己自身の対象である概念が絶対的に規定されることによって、主体は個別として規定される。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.477)
 24、概念がそれだけとして考察された時[概念そのものとしては]、それは直接性において現れていた。[概念の]反省、あるいは概念を考察する概念は我々の知に属していた。[しかるに]方法とはこの知自身であり、この知に対しては、概念は単に対象であるだけでなく、その対象自身の主体的な行為でもあり、従って認識活動から区別はされるがその活動自身の本質性でもあるものとしても自覚されているのである。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.487)
 25、実際には、矛盾を思考することが概念の本質的契機である。(ヘーゲル『大論理学』第2巻 S.496)

 26、初めは単にその概念から見てそうであるもの、つまり潜在的にのみそうであるものは、単に直接的で単に自然的であるにすぎない。例えば、子どもは潜在的には理性的であるが、現実にはそうではない。顕在的にも理性的になるには、自己を超えて行き、自己の中へと形成して行かなければならない。(ヘーゲル『法の哲学』第10節の付録)
 27、同じ1つの内容について2つの言葉があるのであり、1つは感情、表象及び有限なカテゴリーや一面的な抽象物の中に住んでいる悟性的思考の言葉であり、もう1つは具体的概念の言葉である。(グロックナー版全集第8巻17頁)
 感想・ここで「具体的」とは「対立物の統一として捉える」ということです。
 28、概念は自己自身及び没概念的な形態を理解するが、[逆に]没概念的な形態はその固有の本性からして、概念を理解することはできないのである。(グロックナー版全集第8巻24頁)
 感想・一般化して言えば、理解力の上の人は下の人の考えを理解できるが、その逆はない、ということでしょう。
 29、思弁的な意味での概念と通常の意味での概念とは区別しなければならない。後者の意味では、無限者は概念によっては捉えられない、と言われている。(小論理学、第9節への注釈)
 30、精神の最も内的なもの、即ち概念(小論理学、第51節への注釈)

 31、概念の立場は絶対的観念論の立場である。(小論理学、第160節への付録)
 感想・ヘーゲルの観念論とはどういう意味か。→実在論
 32、形式論理学における概念と思弁的概念[ヘーゲルの概念]との間の隔たりがどのように大きなものであろうと、更に詳しく考察するならば、概念の一層深い意味は、その単語の普通の使い方と、初めにそう見える程疎遠ではないということが分かるだろう。
 或る内容、例えば財産に関する法の諸規定を財産の概念から導き出すとか、あるいは逆に、それらの内容を概念に引き戻すというようなことを言う。では、そこで承認されていることは何かと言うと、概念はそれ自体としては無内容な形式にすぎないというようなものではない、ということである。なぜなら、[もし概念が無内容な形式であるなら]第1に、そういうものからは何も導き出せないであろうし、第2に、所与の内容を概念という空虚な形式に引き戻したところで、その内容の規定性が奪われるだけで、認識されはしないだろうからである。(小論理学、第160節への付録)
 感想・拙稿「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学」参照。
 33、概念の進行は、もはや移行[存在の進行]でも他者への反照[本質の進行]でもなく、発展である。(小論理学、第161節)
 34、普通概念という語で理解されていることは悟性規定であり、単なる普遍的表象にすぎないのである。(小論理学、第162節)
 35、対象が先にあり、それが我々の表象の内容をなしている。そこに主観の活動が加わって概念を作る、というのは逆である。真に第1のものは概念である。事物がその物になるのは、そこに内在し、自己を開示する概念の活動によるのである。(小論理学、第163節への付録2)
 感想・これがヘーゲルの概念の「存在論的意味」です。

 36、概念は我々が作るものではない。それは、一般に、「発生した或るもの」ではない。(略)概念は自己によって自己自身と媒介するものである。(略)概念こそむしろ真の始原であり、物が今そうあるのは、その物に内在し、そこで自己を啓示している概念の働きによるのである。(小論理学、第163節への付録2)
 37、①概念は事物に内在している。②それによって、事物はそうあるのである。③或る対象を概念的に理解するとは、それの概念を意識することである。④或る対象を評価するとは、その対象をそれの概念によって定立された規定性において考察することである。(小論理学、第166節への付録)
 38、単なる悟性概念と理性概念とを区別するのが習わしとなっているが、それは2種の概念があるという風に理解してはならない。概念の単なる否定的で抽象的[一面的]な形式に止まるか、概念の本性に従って、それを同時に肯定的で具体的なもの[対立物の統一]として捉えるかという、我々の行為が問題なのである。(小論理学、第182節への付録)

 39、或る対象の本性というのは、その対象の概念というのと同じである。(歴史における理性、116頁)
 感想・これだけだと、本質と概念の区別がなくなってしまいます。
 40、[統一と区別の統一としての]「3」は、宗教では三位一体として、哲学では概念として、[ピタゴラス派の1+2=3]より深い形で表れている。(ズールカンプ版全集第18巻110頁)
 41、全ての関係は、言語ではただ概念として表現するしかない。(マル・エン「ドイツイデオロギー」古在訳198頁)
 42、経済学上のカテゴリーは、これらの実在している関係の抽象にすぎず、それはこの関係が存在する限りでしか真理ではない。(マルクス「アンネンコフへの手紙」、全集第4巻552頁)
 43、ロートベルトスの叙述は、その先行者たちのそれと同様、次のような欠点を持っている。即ち、彼は、労働とか資本とか価値とかいった経済学上のカテゴリーを、経済学者たちから与えられたままの形で、その現象にくっついていて離れないような粗野な形で、吟味もせずに、即ちそれらのカテゴリーの内実へと突っ込んで掘り下げることなしに受け取るのである。
 そのために、彼は[それらのカテゴリーと科学とを]一層発展させる道をみな断ち切ってしまう(この点で、これらの64年も昔からしばしば繰り返された命題から、初めてちょっとしたものを作り上げたマルクスと反対である)のみならず、これから示すように、空想の世界にまっすぐに通じている道を自分で自分に開くようにもなってしまうのである。(エンゲルス「マルエン全集」第4巻561頁。「哲学の貧困」ドイツ語版第1版への序文)
 44、自然科学の経験の総括された結果が概念であり、概念を操作する技は生得的なものでもなければ、日常生活の平凡な意識に与えられるものでもなく、それは真の思考を要求するものである。そして、その真の思考は経験的な自然研究と同様、長い経験的な歴史を持っているのである。(マルエン全集第20巻14頁)
 感想・概念を操作する技を身につけるには哲学史を勉強しなければならない、ということです。
 45、〔ヘーゲルの『論理学』の〕第3巻[概念論]では、実体間の相互作用によってまさに両者の同一性が示されており、両者を媒介するすすんだ本質があることが示される。これこそ「概念」である。もちろん、ここにいう「概念」は認識論的な意味だけの概念をいうのではなく、何よりもまず存在論的に解された概念であって、いわば概念的な存在者と解すべきものであろう。(許萬元『認識論としての弁証法』青木書店、第2編第5章)