マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

本質、das Wesen

2012年01月18日 | ハ行
 1、本質という用語は多分英語の essenceの訳語として作られたのであろう。いつ誰が作ったのかは知らない。その時「本質」という言葉には「本当の性質」という意味が込められていたと思う。つまり、「本当でない性質」「表面的な性質」と考えられた「現象」に対して、その奥にある「本当の性質」ということが考えられていたのであろう。

 2、この考えは決して間違ってはいない。つまり事物なり事柄なりを二重に見る見方が前提されているのである。

 3、ここから更にいろいろな問題が出てくる。第1に、本質と現象との関係はどうかという問題である。第2に、本質はどこに現れているのか、それはをどうやって認識するのかという問題である。そして第3に、本質以上の側面はないのかという問題である。

 4、第1の問題については、多くの哲学者は「本質は現象の中に現れる」と考える。両者を切り離したのはカントである。カントはかくして本質を「物自体」として認識不可能なものだとした。

 5、第2の問題についてはたいていの学者が「多くの個別的な物や事柄を比較してそれらの中に共通する性質を本質とする」と答えている。この考えで行くと、共通する性質が2つ以上あった場合どうするのか、本質が2つも3つもあっていいのか、という問題が出てくる。又、本質は必ずしも表面に出ているとは限らないから、本質が隠れていたり歪んで出ている場合はどうするのかという問題も出てくる。

 6、この本質認識の方法の問題について基本的にだが正しい回答を出したのが参考の19に掲げた許萬元氏である。氏の考えの欠陥は、過去への反省の悪無限的性格を証明しようとして「人間-動物-生物-物体-分子-原子-素粒子」という考えを出したことである。人間から物体まではより広い類へと遡っているが、「物体-分子-原子-素粒子」は類への遡行ではない。現に、氏は私の指摘を受けてその後はこれを引っ込めている。

 7、要するに、或る物なり事柄なりの本質とは、その物なり事柄なりが「それとして生まれた時の姿」の中にある。なぜなら、それがそれとして生まれた時はそのものの本質だけが純粋な形で出ているからである。

 8、第3の問題は「本質以上の側面はないのか」という問題であった。これはヘーゲルが出しかつ自分で答えた問題である。その後誰も理解していない問題でもある。

 事物を現象と本質として見る見方は、事物なり事柄なりをそれだけとして孤立して考察する立場である。これに気づいたヘーゲルは、それを全体の中に位置づけた場合の本質を考えて、それを「概念」とした。従ってヘーゲルは事物を、現象・本質・概念の3つのレベルで考察する方法を築いたのである。

 ヘーゲルの概念については、それを単に主観的な観念の一種としか理解しない浅薄な唯物論がほとんどだが、それではヘーゲルの真理観は理解できない。このことは真理の項で述べた。

 参考

 01、本質の理念、規定された存在の直接性の中で自己自身と同一であること。(大論理学第1巻339頁)

 02、本質は初めはただ内的なものであるにすぎず、従ってそれは又全く外的で、体系なき共通性とも為される。(大論理学第2巻154頁)

 03、〔「論理学」の本質論について〕
 論理学の第2部全体、つまり本質論は、直接性と媒介性との同一性がその本質に基づいて定立される過程を扱っている。(小論理学第65節への注釈)

 04、本質〔という概念〕も又没規定的なものです。しかし、それは既に媒介を通り、規定を止揚したものとして含む没規定性です。(小論理学第86節への付録1)

 05、本質の中にはいかなる移行もありません。そこには関係があるだけです。関係の形式〔仕方〕は、存在の中では〔存在論の段階では〕ただ我々の反省が初めてそのように関係させるというだけでしたが、本質の中では〔本質論の段階になると〕本質の関係は本質自身の規定となっているのです。(小論理学第 111節への付録)

 06、存在のなかではすべての者は直接的です。本質の中ではすべての者は相対的です。(小論理学第 111節への付録)

 07、本質の立場は一般に反省の立場です。(小論理学第 112節への付録)

 08、Seinの過去形が gewesenで、本質 Wesenを含んでいることは、存在と本質との正しい関係についての正しい考え方です。本質は一般に「過ぎ去った過去」ですが、それが抽象的に否定されたものではなく、保存されているものなのです。(小論理学第112節への付録)

 09、Wesen という語が日常生活の中で関連や総和を意味する時(Postwesen 郵便制度) 、そこでは事物は個別にその直接性においてではなく、その集団の中で、その諸関係の中で捉えられなければならない、ということが意味されているのです。(小論理学第112節への付録)

 10、本質における自己関係は同一性とか自己内反省という形式である。それは存在の直接性にとって代わるものである。同一性も直接性も自己関係という抽象である。(小論理学』第113節)
 11、本質の展開の中に現れる諸規定は存在の展開の中に出てくるものと同じなのだが、それが反省された形で現れてくる〔という違いがある〕のである。(小論理学第114節への注釈)

 12,、或る存在がその中で満足するところのものは、その存在の対象的な本質〔その存在の本質が対象として客観的に現れたもの〕にほかならない。詩人に満足する人はその人自身が詩人という性質を持っているのであり、哲学者に満足する人はその人自身が哲学者という性質を持っているのである。(フォイエルバッハ『根本命題』第6節)

 13、或る存在が何であるかはただその対象からのみ認識される。或る存在が必然的に関係する対象はそれの啓示された本質にほかならない。例えば、草食動物の対象は植物である。そして、この対象によってこの動物はそれとは別な動物である肉食動物から本質的に区別される。(フォイエルバッハ『根本命題』第7節)

 14、人間の疎外とか、人間が自分自身に対してとる関係の疎外は、どんなものでも皆、人間が他の人間に対して持つ関係の中で初めて現実化され、表現される。(マルエン全集第1巻 S.518)

 15、 その人の友を見ればその人が分かる、と諺に言う。(レーニン邦訳全集第7巻 367頁)
 16、賢い敵の評価には全くの誤解などはめったにないものである。君を褒める者の名を聞けば、君がどういう誤りを犯したかが分かるというわけである。(レーニン邦訳全集第7巻 400-401頁)
 17、〔大論理学の本質論について〕
 本質論の全体を通じて、「本質」とはそもそも「否定する運動」であるということを忘れてはならない。(略)それは反省作用、反省する運動である。(寺沢訳『大論理学2』以文社、284-5 頁)

 18、もちろんこれは単なる考え方の問題です。良心のことを「里心」と呼び、「黄金時代」を過去に置いて考え、地上の楽園を「出立点」として考え、我々はすべてそれらから次第に遠ざかりつつあるものと見なして、そしてしかも意識の進化発展の真諦をば或る種の「失地回復」「本源の挽回」「本然相の再獲得」と見立てるのは、あらゆる民族のあらゆる文化段階に現れてくるごく自然な考え方であり、その反対、すなわち昔は混沌と分裂と野蛮そのものであったが、未来の彼方に至って初めて神代が控えているといったような考え方は余り聞きません。

 けれどもこれは単に考え方の問題です。人間というものはおのれ自身をそういう風に考えるものだ、というのがこの現象の真諦でしょう。だから、神代や黄金時代や本然相を探るためには何の根拠にもならないが、人間というものは己自身の本然相をそういう風に過去的に再帰的に考えるものだというこの解釈相それ自体は直ちに以て人間そのものの本然相(das An-sich )でなければなりますまい。本然相という意味は少々従来のとは違ってくるかもしれませんが、そもそも物に本然相なるものを設けて考えるとするならば、これこそ最も現象に忠なる本然相ではありますまいか。(『関口存男ドイツ語論集』 S.304)

 19、悟性は対象の外面から内的な本質、普遍者へ向かって悪無限をつづける性格をもっていた。だが、これはどこまで行っても感性的な有から内的な本質への進行であることにかわりがない。ところでヘーゲルは、注目すべきことには、この「有」から「本質」への反省行為を「想起」だというのである。

 「かくて知識がこの直接的な有から自己を想起するとき、はじめて、知識はこの媒介を通じて本質を見出すのである。けだし、本質はすぎ去った有であって、しかも無時間的にすぎ去った有だからである」。

 この本質を求める認識作用を、一般に「想起」としてとらえることのうちには、きわめて深い洞察が横たわっているのである。普通、プラトンゆずりのこの想起説はあまり注目されていないようだが、私見によれば、これを具体化し、その現実的な意味を理解することこそ、もっとも重要なことのように思われる。では何故、本質をもとめる反省行為が「想起」であるのだろうか?

 ヘーゲルは答える。「本質はすぎ去った有、しかも無時間的にすぎ去った有だからである」。事実、われわれが「人間」から始めて、その類を一歩一歩と深く求めてゆくならば、「人間-動物-生物-物体-分子-原子-素粒子」への道をたどるであろう。だが、これは一体何を意味するか? ほかでもない。それは、現存する対象のうちへのわれわれの反省的認識がまさにそれ故に、現存のものから過去の存在への歴史的反省という意義をもつものだ、ということである。そのかぎり、まさしくヘーゲルの言うように、反省はつねに「想起」という意味をもつのである。

 一般に「それ自体」という言葉は、ものの本来の姿または本質という悟性的抽象を意味する言葉である。ところが、この悟性的な抽象的一般性をさすはずの "an sich"をヘーゲルは次のように例証しているのである。

 「例えば人間自体は子供である」。「同じ意味で、胚もまた植物自体と見ることができる」。

 子供が何故に人間自体にあたり、胚が何故に植物自体にあたるかという問題は、本質が過去の存在(「すぎ去った有」)としての意義をもち、したがって本質への反省がつねに歴史的反省(「想起」)としての意義をもつということを考慮することなしには、全く不可解なこととなるであろう。

 見田(甘粕)石介氏もその著書「資本論の方法」の中で次のように述べている。「最初の生物、最初の労働、最初の道具、最初の法律や国家など、これらは、それがその一般に、生命、労働、道具、法律、国家等々であるために必要なものは具えているが、それ以上副次的なものはもたない単純なものであるから、そこにはそのものの一般的本性がむき出しに見られることになる」。

 もしそうだとすると、悟性的普遍者なるものはつねに、歴史的に真の始元存在という意味をもたなければならぬであろう。とはいえ、われわれがここに「歴史的に真の始元存在」と言っている場合、それは実在的な歴史を経験的にたどって行ったことを意味するのではなく、あくまでわれわれの認識の論理的な次元での話であるにすぎない。それ故にこそヘーゲルも "zeitlos"〔無時間的〕と言ったのである。したがって、たとえ実在の歴史が偶然的諸条件によって論理の教えと厳重に一致しなかったとしても、何ら事柄の本質をかえるものではないであろう。(許萬元「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」、東京都立大学哲学研究室発行『哲学誌』第7号)

 20、「本質」とはいったい何であったか?ヘーゲルは答える。「本質とは自己のうちへはいっていった存在である」。つまり、外面的な「存在」から「自己内行」という働きによって見いだされるもの、それが「本質」であって、そのかぎりでそれはすでに「あった」(gewesen) ものである。だから「自己内行」という働きがないならば、「本質」はけっして措定されはしなかったであろう。すなわち、「存在」のなかで無反省にとどまっているものは、けっして自分の本質にいたることはないのである。

「本質」を措定するものは「反省」という働きのみである、ということを意味しているであろう。とすれば、「本質」とは、結局、「反省」の結果的表現にすぎない、といえよう。なぜなら、それは「反省」の結果としてのみ措定されるものだからである。したがって、過程的には、「反省」のみが、「本質」そのものであることになる。かくして、「本質」の根本的な規定は、「自己内反省」ということに帰着する。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店)

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