マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

発展

2006年11月17日 | ハ行
 1、発展という日本語は、多分、明治のころに英語の developmentの訳語として生まれたのでしょう。それとも漢語には昔から発展という語があって、それを訳語として使ったのでしょうか。

 ドイツ語ではそれは Entwickelung と言います。いずれも「包まれている物を解く」という意味です。

 2、その「包まれている物を解く」ということを「発展」と訳したのですが、「発」とは「暴(あば)く」「開く」ということであり、「展」とは「延ばし広げる」ことです。つまり、「解く」という面だけを捉えて訳したのです。

 3、誰がいつこの訳語を始めて使ったのかは知りません。井上ひさし氏などはそういう事に詳しいようで氏の著書にはそういう事が時々書かれています。辞書にはこのような「単語の履歴」みたいなことも載せてほしいものです。

 4、似た言葉としては、展開、発達、成長、進歩などがあります。意味としてはほとんど同じだと思います。ただ、習慣上、どういう場合にどの単語を使うかが大体決まっているのだと思います。

 5、発展とは何か。「新明解国語辞典」は「広い範囲に広がり、より進んだ段階に進むこと」と説明しています。常識的な理解はこんなものでしょう。

 6、哲学の歴史では発展の理解には二種あります。量的発展観と質的発展観とです。

 両者の違いは「包まれているものを解く」という時のその「包まれているもの」の「包まれ方」をどう理解するかの違いです。あるいはAからBが出てきた時、BはAの中にどのような仕方で含まれていたのかという問題です。

 量的なそれでは、Bは目に見えない小さな形ではあるがともかくそのままの姿でAの中に含まれていた、と考えます。これを箱詰めの仮説と言います。

 顕微鏡が発明されて目に見えなかった微小な世界が見えるようになった時、この考えは力を得ました。この考えによると、全人類はアダムとイヴの中に小さな形で含まれていたということになります。そこでアダムの中にあったという見解とイヴの中にあったという見解が対立しました。

 7、それに対して質的な発展観ではBはAの中に an sich(アンジッヒ)な形で潜在していた、と考えます。それはどういうことか、これが問題です。

 8、弁証法が発展の論理として理解されたために唯物論の陣営ではよくこの発展という言葉が使われます。教科書的なものには発展とは何かの説明がありますが、その代表例として寺沢恒信氏の説明を引用します。

 「変化というなかには、水が氷になり、とけてまた水になる、というような、行きつもどりつする変化もあれば、春夏秋冬が一めぐりしてまた春がやってくるように、循環する変化もある。このような変化は、何度くりかえしていても、そこからは新しいものが生まれてくることがない。このような変化は発展ではない。

 発展というのは、表面上は同じことのくりかえしのように見えていても長い時間のあいだに、その中から、それまでにはなかった状態、質的に新しい状態が生まれてくるような変化のことである。質的に新しい状態というのは、ただくりかえして回数がますとか、その規模が大きくなるというような量のうえでのちがいがおこるだけでなく、前にあったものとは性質のちがった新しい状態をいうのである。」
(『毛沢東の矛盾論』)

 これは変化のことです。ただ「新しい性質の出てくるような変化」ということですが、「変化」とは「新しい性質が出てくること」です。寺沢氏は変化と発展の違いが分かっていないようです。

 また、この寺沢氏の考え方は表象的思考の見本です。発展とは何かなと考えて、思い浮かんだイメージを言葉にしただけです。先人の成果も学ばず、発展及びそれと関係した言葉の使い方も比較検討していません。

 9、弁証法の完成者であるヘーゲルはもちろん発展を科学的に定義しました。それを掘り出して復活させたのは許萬元氏の功績です。

 ── ヘーゲルは言う。「概念の進展はもはや移行でもなければ他者への反照でもなく、発展である」。だが、「発展」とは一体何か。

 もし概念が、まことヘーゲルが言うように「有と本質との統一である」とすれば、概念の論理は「移行」と「反省」との統一でなければならぬはずである。即ち、他者へ移行することが直接に自己へ反省するということでなければならぬのであろう。

 事実、ヘーゲル自身次のように述べている。「自己の外へ歩み行くそれぞれの新しい段階は、換言すれば、規定をすすめてゆくそれぞれの新しい段階は、また、自己のうちへ進んでゆくことでもある」。

 もしそうだとしたら、ヘーゲルの言う「発展」とは、自己を外へ一歩一歩と形成してゆくことが、直接に自己のうちへ一歩一歩と反省してゆくような進展のことであらねばならぬ。これを私は「形成即反省」の論理と名づけたいのである。

 あるいはまた、逆に言っても同じであろう。即ち、自己の内へ内へと反省することが、逆に、自己の外へ外へと形成することである、と。したがって「反省即形成」の論理と言ってもよいであろう。

 ヘーゲルは言っている。「認識をこのように想起と考えるからといって、人間のうちに潜在的にあるものの発展が排除されているのではない」。むしろ、「プラトンのようにあらゆる学習を単なる想起と見る人々が念頭に置いているのも、その過程において自己を自己自身からの展開として示すこうした概念の本性なのである」。

 まさしく自己の内なるものへの「想起」が、同時に自己の外への展開でもあるということは「反省即形成」としての概念の論理的本性からして当然のことでなければならない。
 (許萬元「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」、東京都立大学哲学研究室発行「哲学誌」第7号)

 10、つまり発展とは「本質に帰るような変化(進展)」のことです。なぜ本質に「帰る」というのか。それは本質をどこに見るかということと関係しています。

 普通は物事の本質は複数の事例を比較してそれらに共通する性質の中に見ると理解されています。しかし、それだと、共通の性質が2つ以上あった時どうするのかという問題が出てくるし、本質的な性質は隠れたり歪んだりしているかもしれないという問題も出てきます。

 そこでヘーゲルは、本質はその事物がそれとして生まれた時、それをそれとして他者から区別する性質である、としたのです。或る事柄の発生時にはその事柄の本質だけが純粋な形で現れるからです。それは未発達ではあるが、純粋なのです。純粋なのだが未発達なのです。だから発展する必要があるのです。

 11、「新しい性質が出てくるような変化」という定義だと、進歩と退歩の違いが説明できません。常識的な見解にあるように、発展とはやはり「より進んだ段階に進む」ことであって、「より遅れた段階に戻る」あるいは「おかしな方向に逸(そ)れていく」ことではありません。その基準を与えるものが「発生時に決まっているそのものの本質」なのです。

 12、ヘーゲルが精神界にのみ発展を認めて自然界にはそれを認めなかったのは有名です。自然界には変化があるだけで本当の意味での発展はないというのです。しかしこれは間違いです。

 ヘーゲルの真意は、多分、自然界の発展は「自己との闘争」ではないからということだったと思います。これなら正しいです。ではこの「自己との闘争」とは何か。精神界の発展だけが「自己との闘争」であるとはどういうことか。分かりやすく言うと「悩み」を克服して発展するということです。拙稿「子供は正直」参照。

   参考

 01、帰結にも二種類ある。一つは或る原理をその細部まで仕上げることである。もう一つは一層深い原理へと遡ることである。(小論理学、第2版への序文)

 02、概念の運動は発展であるが、発展では潜在的に存在しているものが定立される(顕在化される)だけである。(小論理学161節への付録)

 03、発展の原理は変化以上のものを含んでいる。即ち、〔発展にあっては〕内的な規定が、潜在的にあった前提が根底にあって、それが現出存在するようになるのである。(歴史における理性151頁)

 04、しかし、かの有機的個体の発展は直接的で対立のない妨げられない仕方でなされる。即ち、概念とその実現との間に、種子の本性(それはまだ潜在的にすぎない)と現出存在がその本性に合致することとの間に、何者も入り込まないのである。しかし、精神界では事情が異なる。精神の使命〔規定〕がその実現へと移行するのは意識と意志とを介してである。(歴史における理性151頁)

 05、発展はそれ自体としては静かな産出である。なぜならそれは外化しながらも自分と等しく、自己内に留まることだからである。しかし精神界ではそれは一つの精神の中での自己に対する厳しい無限の闘争なのである。(歴史における理性152頁)

 06、〔精神の発展〕運動は具体的なものだから、系列をなす諸発展である。しかし、その系列とは抽象的な無限の中へと続く直線ではなく、円環として、自己自身へ帰ることとして考えなければならない。この円環はその円周上に多くの円環を持つものである。(ズ全集第18巻46頁)

 07、歴史においても歴史の文献上での反映〔歴史学〕においても、発展はおおまかに見れば最も単純な関係から一層複雑な関係へと進んでいく。(マルエン全集第13巻474頁)

 08、ところで社会の発展史は一つの点で自然の発展史と本質的に異なっている。自然においては、人間による自然への反作用を度外視すれば、意志され意識された目的として起こるものは何もない。これに反して社会史では行為者は意識や情熱を持っており、意図や目標なしに起こるものは何もない。しかしこの違いは個々の時代や事件の研究ではどんなに重要であろうとも、歴史の経過が内的な一般法則によって支配されていることを変えるものではない。(フォイエルバッハ論第4章要旨)

 09、発展というものは、簡単に言えば、次々と不断に新しいものが生ずることである。発展は単なる繰り返し、循環的な運動ではなく、前進的な、歴史的な運動である。(松村一人『変革の論理のために』こぶし文庫、24頁)
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