(77)『自然と人間の歴史』承久の変後の政策(鎌倉幕府の地方支配)

2017-08-05 21:28:40 | Weblog
(77)『自然と人間の歴史』承久の変後の政策(鎌倉幕府の地方支配)

 私たちの備前、備中及び美作の領国支配を巡っては、鎌倉幕府のまずは地頭職が置かれ、その中には足利氏の名も見える。詳しくは、承久の変後の1222年(承久四年・貞応元年)、足利義氏は、北条義時の後を承けて、陸奥守に任官していた。名は三郎義氏といい、母は北条時政の次女時子とあるから、北条氏とは元々親戚の間柄か。そのかれがこの変に功があったとして1224年(貞応三年・元仁元年)「美作国に於て、新野保(現在の津山市新野東)以下数箇所を受領せしが、やがて左馬頭に進み、正四位下に叙せられたり」(『梅松論』、読み下し文は、「「左馬頭義氏」『足利市史・上巻』(足利市役所編纂、1928年(昭和3年)」からの引用)とある。この辺り、足利氏がじわりじわりと中央政界に顔を覗かしつつあることを示唆している一コマである、といえるのではないか。
 こうした地頭職の上に君臨して、かれらを指揮・監督する御家人に守護職があった。1184年(寿永3年・元暦元年)には土肥実平がその職に就任した。ところが、1221年(承久3年)の承久の変前後に備前の守護は佐々木信実(盛綱の子)にかわった。それが1264年(文永元年)頃には長井泰重(政所別当の大江広元の孫)に、さらに鎌倉期末期には加地氏(佐々木盛綱の子孫)に移る。備中の守護は、1279年(弘安2年)前後に北条の特宗(嫡統の本家)の所領になっていた。
 美作の守護は、1184年(寿永3年・元暦元年)から梶原景時(かじわらかげとき)であった。景時と美作との関わりは「源平の合戦」以来であり、この年、「平家方の木下一族の守る新宮城が梶原景時の軍勢に攻められ、激戦の末に落城した」(宮澤靖彦『津山市広野の歴史散歩ー文化財と解説』、1994年版)ことが伝わっている。それが1200年(正治2年)になると、和田義盛にとってかわられた。その後1213年(健保元年)、義盛は幕府に対し反乱ということで、その敗戦で美作の守護職誰の手に渡ったかはわかっていないようだ。さらに1264年(文永元年)から1292年(正応5年)の文永・正応の頃になると、これも北条の特宗(嫡統の本家)の所領になっている。ここにあるように、守護職に任じられていたのは、関東の有力部族なり、かれらを最終的に束ねる北条一族の長となっているのは、驚きというほかはない。

(続く)

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