(82)『自然と人間の歴史』鎌倉期にかけての民衆文化(文芸)

2017-08-05 21:58:35 | Weblog
(82)『自然と人間の歴史』鎌倉期にかけての民衆文化(文芸)

 鴨長明(かものちょうめい)は、1155年頃、京都下鴨神社の神職鴨長継の次男して生まれた。9歳で父の死にあったものの、なんとか成人にこぎつけたようで、それからは「地下歌人(じげかじん)」として活躍のすがら、後鳥羽上皇に認められ、朝廷付の和歌寄人となることができた。さらにそれからは、『新古今集』に10首を献じるなど活躍を広めていく。ところが、油がのったであろう50歳を過ぎたところで出家し、京都の郊外大原に庵を構え、隠遁生活を始める。彼の随筆『方丈記』にし、当時の京の都を中心に社会の出来事が刻まれ、そのおりおりの朝廷や武士にとどまらず、民衆の有様についてもかなりの記述が含まれている。「ゆく河の流れは絶えずして」云々で始まるのは、まるで琵琶法師が奏でつつ語り始めるかのようにも感じられる。
 その釈迦に似た無常観から発した語り人の調べから生々しいところを少し紹介すると、「さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。」とある。これにあるように、長明の時代は、1180年に「辻風」と「福原遷都」、1181年には「養和の大飢饉」、1185年の「元暦の大飢饉」と、社会的弱者にとっては尚更大変な時代であったろう。
 このルポルタージュ風の記述の終わりに近いところでは、自分の身の上につき、「假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす」と、しんみり調となっていて、先の見えていない現代人の心に沁みる。
 吉田兼好は1283年頃、京都吉田神社の神官の家系に生まれた。御宇多上皇の時代に御所の北面を守る武士として左右衛門佐に至るも、30歳前後には出家したものと見える。それからの彼は、歌人として、随筆家として、はたまた隠居人(隠者)として貴族や武士と幅広く交流したことが伝わる。1352年に没するまで、当時としては、破格の風流人、強いて言うならば自由人として振る舞えたのではないか。「つれづれなるままに」で始まる『徒然草』からは、閑居の身の上で、社会の様々な事象に思いをはせる兼好の生活の様子が浮かび上がってくる。
 興味深いところでは、例えば109段、武家で木登りを通して気の緩みへの戒めが語られており、そこまでしていたのかと驚かざるを得ない。変わったところでは、第19段の「折節の移り変わるこそ」に、当時の京都人々が時節の移り変わりをどのように過ごしていたかがつらつら述べられていて、それにはこうある。
 「折節のうつり變るこそ、物毎に哀れなれ。物の哀れは秋こそまされと、人毎にいふめれど、それも然るものにて〔一應尤もな事で〕、今一きは心もうきたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色だつほどこそあれ、をりしも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になりゆくまで、萬に唯心をのみぞなやます。花橘は名にこそおへれ〔花橘は昔を追懷せしむると云ふ聯想があつた。「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(在原業平)〕、なほ梅のにほひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹のきよげに、藤のおぼつかなき〔藤の花のなよなよしたのを心もとないと形容したのである〕樣したる、すべて思ひすて難きことおほし。
 灌佛〔四月八日に行はるゝ佛生會、釋迦の誕生日でその像に香水を灌ぐ式がある。〕のころ、祭のころ〔陰暦四月中の酉の日にある賀茂の祭禮〕、若葉の梢すゞしげに繁りゆくほどこそ、世のあはれも人の戀しさもまされと、人のおほせられしこそ、實にさるものなれ。五月(さつき)、あやめ葺くころ〔五月の端午の節句に屋根軒に菖蒲をふく。〕、早苗とる〔稻の苗を田に移し植ゑる〕ころ、水鷄(くひな)のたゝく〔水鷄の啼聲は人が戸を叩く音に似て居るのでかく云ふ。〕など、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の頃あやしき家に、夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。七夕祭る〔七月七日牽牛織女二星を祭り技藝の上達を祈る。〕こそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、鴈なきて來る頃、萩の下葉色づくほど、早稻田(わさだ)刈りほすなど、とり集めたることは秋のみぞおほかる。また野分の朝こそをかしけれ。いひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、おなじ事また今更にいはじとにもあらず。おぼしき事云はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かいやり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。さて冬枯の景色こそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじき物にして見る人もなき月の、寒けく澄める二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。
 御佛名(おぶつみゃう)、荷前(のさき)の使たつなどぞ、あはれにやんごとなき。公事どもしげく、春のいそぎにとり重ねて、催し行はるゝ樣ぞいみじきや。追儺より四方拜につゞくこそおもしろけれ。晦日(つごもり)の夜いたう暗きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらむ、ことことことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつる〔昔は十二月晦日にも魂祭をしたのである。〕わざは、このごろ都には無きを、東の方には猶することにてありしこそ、あはれなりしか。かくて明けゆく空のけしき、昨日に變りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、また哀れなれ。」(尾上八郎解題・山崎麓校訂『校註日本文學大系3」国民図書株式會社、1924)
 とはいえ、彼らの作品などに当時の民衆の姿、息遣いまでもがどれくらい伝わっているだろうかを考える時、やはり大概は上からの、あるいは外側からの視点に留まっているのではあるまいか。ここでは、主に戦後の歴史学研究で光が当てられるようになってきつつある中世「非人」に着目し、「私自身は中世における非人を「職人」身分のひとつと捕らえる立場に立つ」と言われる網野善彦氏の論説から少し紹介しておきたい。
 「鎌倉後期、洛中洛外を中心として、蓮台野、東悲田院、獄舎、清水坂、大籠(だいろう)などに非人が多数おり、これに散在非人と散所非人とを加えると、総数二〇二七人に及んだことは、最近公刊された『公衡公記』によって、すでに周知の事実となった。その居住地やその後の活動状況から見て、葬送・刑吏・掃除・土木工事等に従事し、乞食・芸能にも関わりを持ち、病者・囚人をも含むと見られるこうした非人集団が、鎌倉中期以降、奈良を中心とする大和をはじめ、畿内および周辺の国々、さらに鎌倉等にも存在していたことはよく知られているが、このような多様な職能を持つ人々が非人としてまとまり、一個の職能集団を形成するようになるのは、おおよそ十一世紀、平安後期以降のことと考えられる。それは古代国家の機構の弛緩・解体・中世的な京都・奈良等の都市の形成と深く関連する動きであった。」(「網野善彦著作集」第十一巻、芸能・身分・女性、岩波書店、2008)
 鎌倉期の民衆の生活については、これを伝えるめずらしい書物もある。その一つが、西洋人による日本伝聞記である『東方見聞録』である。この本の著者・マルコ・ポーロは、1271年の17歳の時、商人の父と叔父に付いてベネチア(現在のイタリアにある中世からの都市)を出発した。元(げん、中国語ではユアン)の皇帝フビライ・ハーンのもとで17年間もの間、宮廷生活を送った。特使としても活躍した。滞在したのは、北京だけでなく、敦煌や杭州、酒泉、張○も訪れている。
 帰国後、25年間の体験をまとめた『東方見聞録』(正式名は『世界の叙述』)を出版する。彼はこの中で「黄金の国ジパング」を取り上げた。後にキリスト教宣教師たちが日本にやって来て、さまざまに日本の実像を伝えたのに比べ、彼の旅行記の日本部分はあくまで伝承の域を出ない。とはいえ、当時の中国大陸で日本がどのような国であるとされていたか、その手掛かりを与える史料であることに変わりはない。
 「チパング(訳註 「日本」の中国音ジーベン・グオの訛り)は東の方、大陸から千五百マイルの公海中にある島である。しかも、まことに大きな島である。住民は色白で、慇懃(いんぎん)、優雅な偶像教徒である。ここは独立国で、彼ら自身の君主をいただいて、どこの国の君主からも掣肘(せいちゅう)を受けていない。
 莫大な量の黄金があるが、この島では非常に豊かに産するのである。それに大陸からは、商人さえもこの島へこないので、黄金を国外に持ち出す者もいない。いま話したように、大量の黄金のあるのもそのためである。
 真珠も、美しいバラ色の、しかも円くて大きな真珠がたくさんとれる。これは、白い真珠と同じように高価なものである。実際はもっと値打がある。この島では、人が死ぬと土葬にする場合もあれば、火葬にする場合もある。土葬にするときは、死んだ人の口の中に真珠を一つ入れる。これはこの島の風習である。真珠のほかにも、いろいろな宝石を豊富に産出する。その富を語りつくせぬほど、まことに豊かな島である。」(マルコ・ポーロ著・青木和夫訳『東方見聞録』校倉書房、1960年)

(続く)

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