(76)『138億年の日本史』承久の変後の政策(寛喜の飢饉など)

2017-08-05 21:27:03 | Weblog
(76)『138億年の日本史』承久の変後の政策(寛喜の飢饉など)

 おりしも、1230年(寛喜2年)旧暦6月頃から、日本列島の天候不順が押し寄せてきていた。翌1231年(寛喜2年)、関東に伺候している者に対し、贅沢禁止令を発布した。そのまた翌年まで続く「寛喜の飢饉」の始まりである。北条泰時は、武州伊豆・駿河両国の間に起きていた飢饉の救済を目的に、幕府の倉庫を開いて、幾ばくかの物資を民衆に供給したことになっている。これを伝える『吾妻鏡』の1231年(寛喜3年)の「3月19日乙巳」に、こうある。
 「今年世上飢饉。百姓多く以て餓死せんと欲す。仍って武州伊豆・駿河両国の間、出挙米を施しその飢えを救うべきの由、倉庫を有する輩に仰せ聞かさる。豊前中務の丞これを奉行す。件の奉書御判を載せらるると。
 「今年世間飢饉の間、人民餓死の由風聞す。尤も以て不便なり。爰に伊豆・駿河の両国出挙せしむの輩、始め施さざるに依って、いよいよ計略を失うと。早く出挙を施行せしむべきの由仰せ下さるる所なり。兼ねてまた後日もし対捍有らば、注し申すに随い御沙汰有るべきの由候なり。仍って執達件の如し。
寛喜三年三月十九日 中務の丞實景(奉る)
矢田六郎兵衛の尉殿」」
 それからこのことと関連して、幕府は、『吾妻鏡』の「延応元年四月十七日条」、つまり1239年の「追加法112条」において、飢饉のために人身売買禁止令の効力を一旦停止させたことになっている。とはいえ、この奴隷売買容認の特例が、実際どのように発令されたのかは明確でない。
 「寛喜三年餓死之比、為餓人於出来之輩者、就養育之功労、可為主人計之由、被定置畢。凡人倫売買事、禁制殊重。然而飢饉之年計者、被免許歟。而就其時減直之法、可被糺返之旨、沙汰出来之条、甚無其謂歟。但両方令和与、以当時之直法、至糺返者、非沙汰之限歟。
 延応元年四月十七日平判、散位判、前甲斐守判、前山城守判、前大和守判、沙弥判」
 読み下し文は、以下のとおりとされる。
 「寛喜三年餓死のころ、飢人として出来の輩は、養育の功労につきて、主人御計らいたるべきの由、定め置かれおわんぬ。およそ人倫売買の事、禁制ことに重し。しかれども飢饉の年ばかりは、免許せらるるか。しかるにその時減直の法につきて、糺し返さるべきの旨、沙汰出来の条、はなはだその謂れなきか。ただし両方和与せしめ、当時の直法を以て糺し返すに至っては、沙汰の限りにあらざるか。
 延応元年四月十七日平、散位(太田康連)、前甲斐守(大江康秀)、前山城守、前大和守(宇佐美祐時)、沙弥(二階堂行盛)」
 ここではまず、1231年(寛喜3年)の大飢饉の時に、飢餓を逃れるために人身売買の合法性を容認している。飢饉の時だけは非常措置としてこの禁を緩め、これに関わる万事を平穏裡に仕向けるしかないと考えたのだろうか。その際、「以当時之直法」云々という下りは、売主が飢饉時の安い価格で買い戻しを請求するの原則認めない。背景としては、飢饉では売る側も困っているし、奴隷として売られる側も生活困窮で増加することから、奴隷の供給過剰となって、奴隷価格が下落する。その一方、飢饉が終って価格の下落に歯止めがかかるか、その価格が上昇に転じてから、以前の安い価格で元の売主が奴隷を買い戻そうという訴訟が増加していたのが、この発令の背景となっている。締めくくりに、このような売買を容認するに当たっての但し書きとして、双方合意の上で「当時の直法」つまり立法時点の価格つまり現時点での相場で奴隷を買い戻すのは差し支えないのだという。
 続く『吾妻鏡』の「延応元年五月一日条」、つまり1239年に出された追加法(114条)では、先に出されていた「追加法112条」により、飢饉のために人身売買禁止令が一旦効力を停止されていたのを、再び元通りに発令した。それには、こうある。
 「人倫売買事、禁制重之。而飢饉之比、或沽却妻子眷族、助身命、或容置身於富徳之家、渡世路之間、就寛宥之儀、自然無沙汰之処、近年甲乙人等面々訴訟、有煩于成敗、所詮於寛喜以後、延応元年四月以前事者、訴論人共以京都之輩者、不能武士口入、至関東御家人与京都族相論事者、任被定置当家之旨、可被下知、凡自今以後、一向可被停止売買之状、依仰執達如件
  延応元年五月一日前武蔵守判、修理権大夫判、相模守殿、越後守殿
 読み下し文は、以下のとおりとされる。
 「人倫売買の事、禁制これ重し。しかるに飢饉のころ、或いは妻子眷族を沽却して身命を助け、或いは身を富徳の家に容れ置きて世路を渡るの間、寛宥の儀につきて、自然無沙汰の処、近年甲乙人等面々の訴訟、成敗に煩いあり。所詮寛喜以後、延応元年四月以前の事に於ては訴論人ともに以て京都の輩たらば、武士の口入に能わず。関東御家人と京都の族と相論の事に至っては、当家定め置かるるの旨に任せて、下知せらるべし。凡そ自今以後、一向に売買を停止せらるべきの状、仰せによって執達件の如し。
 延応元年前武蔵守(北条泰時)、修理権大夫(北条時房)、相模守殿(北条重時)、越後守殿(北条時盛)」
 ここでは、原告・被告ともに「京都の輩」つまり「関東御分」に属する者以外の者については、幕府は介入できないながらも、どちらかが鎌倉幕府の御家人であった場合は、
「当家定め置かるるの旨に任せて」というのであるから、祖法のとおり、「延応元年五月一日を以て」人身売買を「一向」に停止せよ、と命じている。ここでは、先に「追加法112条」を出して祖法を一時的に緩めたことにより、売買された人を買い戻す際の訴訟やもめ事が頻発して、幕府としても対応に困っていたいたことが覗われる。
 1264年(文永元年年)になると、幕府は田畑課税禁止令(追加法420条)を発布する。これは、稲を刈り終わった後の田は無主の地、つまり荘園主や地頭の誰もこれに課税徴収できないとするもので、飢饉に備えた最期の「たのみ」である「水田裏作」の形での、麦などの栽培を助ける役割を果たすものである。水田に米(稲)の二期作を行える地域でなくとも、水田二毛作ということでなんとかやっていけるなら、農民は地所を離脱したりすることなく、コメ不作の年でも何とか餓えを凌いでいける。そのことが施政者にとっても認めねば成らぬことになったのである。秋まきの麦を翌年の初夏、当年の早稲以外の稲の田植え時と若干重なる部分があるものの、家族や村総出で収穫する。その田植えをするためには水利の確保が重要であり、灌漑を整えることが村々の至上課題となっていく。水分を保つのに難しい土地柄では、溜池なども必要となる。やがて気候がより温暖な室町期に近い鎌倉晩期になるうち、水田二毛作は、全国に加速的に広まっていく。

(続く)

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