イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
don't worry
「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:30-31)
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ヒルティも書いているように、イエスの言葉にまさるものは、やはりこの世にはないと思う。
詩篇をぱらぱらめくっていたのだが、福音書を開き直して上の聖句に巡り会った。
「神は良くしてくださる、だから先々のことなんて心配すんなよ」とか、あるいはもっと端的に、「心配なさらずに」、それとか「大船に乗ったつもりでいろよな」、そう仰って下さっているような気がする。
「あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできない」(マタイ5:36)、そういう存在でしかないのだ。
楽天的に、というわけでもないのだが、心配だけしてどうこうなるものでもない。
そう、一番良くないのは「もっぱら心配だけ」ということだ、自分のことであれ、他人事であれ。
これこそ「愛」の対極に位置するものではなかろうか。
(「自愛」は「他を愛する」上で、それ自体が目的化しなければとても大切なことだ。)
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:30-31)
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ヒルティも書いているように、イエスの言葉にまさるものは、やはりこの世にはないと思う。
詩篇をぱらぱらめくっていたのだが、福音書を開き直して上の聖句に巡り会った。
「神は良くしてくださる、だから先々のことなんて心配すんなよ」とか、あるいはもっと端的に、「心配なさらずに」、それとか「大船に乗ったつもりでいろよな」、そう仰って下さっているような気がする。
「あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできない」(マタイ5:36)、そういう存在でしかないのだ。
楽天的に、というわけでもないのだが、心配だけしてどうこうなるものでもない。
そう、一番良くないのは「もっぱら心配だけ」ということだ、自分のことであれ、他人事であれ。
これこそ「愛」の対極に位置するものではなかろうか。
(「自愛」は「他を愛する」上で、それ自体が目的化しなければとても大切なことだ。)
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