除幕式

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ヨハネ福音書の書き出し。

 他の三つの福音書(共観福音書)、またその他新旧約聖書のどれとも異なって、ヨハネ福音書が突出している点がある。
 それは、書物のほとんどがイエスのおことばで占められているということだ。
(マタイ福音書も、山上の説教(5-7章)等、ところどころイエスのおことばが固まって編んである。)

 イエスのお言葉は、すなわちいのちだ。
 だから、ヨハネ福音書は、取り分けて「いのちの書物」といえよう。

 ことば。
 これを私たちは専ら、意思疎通等のコミュニケーションのために、取り扱っている。
 いったい誰が「ことばは神」だなどと、思うだろうか。

 ところが、聖書のみ言葉には、「ことばは神」としかいいようのない程の大きな「力」?がその人に働く瞬間が、ある。
 私にとってのそれは「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:48)だった。
 アウグスティヌスはローマ13:14、ルターは確かローマ3:28だ。
 そして、そういうことを公言しない数多くの名も無き人々が、2000年来世界中に存在したことだろう。

 「ことばは神」、ここに理屈が入り込む余地はない。事実だ。
 それゆえに「ことばは神とともにあ」るのであり、その神がすべてのはじまりであったのだから、「初めに、ことばがあった」のだろう。
 私はこの1:1での「ことば」を「キリスト」と、狭義には取らない。
 キリストをも含めた神、その「内在」だ。

 そのほとんどをイエスのことばで編んだヨハネ福音書を、私はほんとうにありがたいと思っている。
(1年前は、ちっともそう思っていなかった。)
 その冒頭で「ことば」について書かれているのは、いわば「予告編」、それもヨハネ福音書のみならず「聖書全体の世界」の「除幕式」のような印象を持つ。
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