律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)

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 「自分がしたいと思うこと」とは何かというと、聖なる律法を遵守することである。
 頭ではいつもそう思っている。
 だが、実際にやっていることと言えば「自分が憎むこと」、「自分のしたくないこと」、すなわち律法に反することばかりなのである。
 これは一体、どういうことだろうか。
 律法を遵守したいと頭では願うが、自分の肉が実際にやることは、その律法に照らすと罪にあたってしまう。
 「善をしたいという願い」を持つ私たちの意志にかかわらず、そのことによって私たちの肉は罪を犯すのである。「かえって、したくない悪を行」うことになる。
 こうして、「私には、自分のしていることがわかりません。」という地点に陥る。

 しかし、この「自分のしていることがわかりません」という地点こそ、あの狭き道への入り口なのである。
 律法を行おうとするとかえって罪深くなる、このパラドックスは用意されていたものであり、この狭き道の先には十字架とよみがえりがある。
 そして、律法を何一つ守ることのできないこの肉が、恵みによって赦されるのである。

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[一版]2011年10月 1日
[四版]2024年 3月10日

 イエス様の平安がありますように!

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