イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
何一つ
「そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(ヨハネ12:19)
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この人たちは、「なにもかもうまくいく」と思っていて、実際今まではそうだったのだろうか。
まあ、今まで「なにもかもうまくい」っていた宗教的支配者階級であったからこそ、イエスのことについて「何一つ」うまくいかない、と言うのだろう。
なにもかもうまくいく、ということは、多分、ない。
昔の天皇だか上皇ですら、川の流れと坊主となんとかは思うとおりにならない、とかぼやいていたという。
せいぜい、今日はうまくいった、これが数日続くくらいだろうか。
理想的には、「うまくいく」という感想自体、不要だ。「今日も一日つつがなく終えた」くらいがちょうどよいのではなかろうか。
同様に、何一つうまくいかない、ということも、視野を広くするならば、ない。
広くなった視野、そこに「神」が入ってくる。
その神が、希望の光を放ってくださる。
「いつか、なんとかなる」という希望。
パリサイ人の視野がきわめて狭かったことは、いうまでもない。
安息日は厳しく取り締まって、神を敬うことはしない。
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この人たちは、「なにもかもうまくいく」と思っていて、実際今まではそうだったのだろうか。
まあ、今まで「なにもかもうまくい」っていた宗教的支配者階級であったからこそ、イエスのことについて「何一つ」うまくいかない、と言うのだろう。
なにもかもうまくいく、ということは、多分、ない。
昔の天皇だか上皇ですら、川の流れと坊主となんとかは思うとおりにならない、とかぼやいていたという。
せいぜい、今日はうまくいった、これが数日続くくらいだろうか。
理想的には、「うまくいく」という感想自体、不要だ。「今日も一日つつがなく終えた」くらいがちょうどよいのではなかろうか。
同様に、何一つうまくいかない、ということも、視野を広くするならば、ない。
広くなった視野、そこに「神」が入ってくる。
その神が、希望の光を放ってくださる。
「いつか、なんとかなる」という希望。
パリサイ人の視野がきわめて狭かったことは、いうまでもない。
安息日は厳しく取り締まって、神を敬うことはしない。
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