支配者が与える益

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」(ローマ13:1-5)

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 上の聖書箇所は、ロマ書の中でも最も悩ましい箇所だ。
 だが、ふと思い出してしまった。
 そして聖書を開くと、これは全く覚えていなかったのだが、こうある。
 「彼があなたに益を与えるための、神のしもべだから」。

 ヤコブはいじわるラバンに仕え続けた。
 仕え続けてラケルを得た以上の益を得た。
 富もそうだし、それ以前にその富を生むスキルも身につけた。

 なるほど支配者は、「益」を与える神の僕だ、そう妙に納得してしまった。
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悲しむ者

 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

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 山上の説教は「心の貧しい者は……」から始まった。
(これは随分前に書いた。)
 ほんじつの「悲しむ者は……」は、そのすぐ次にイエスが仰る慰めのお言葉だ。

 悲しむことの全くといっていいほどない人、というのがいる。
(私の亡父がそうだった。)
 強がることで、「悲しみ」という感情を防衛してしまう。

 また、イベントごとに悲しむのだが、通り越すとケロリとしている、そういう人もいる。
(私がそうだ。)
 心の奥底に潜んでいる深い悲しみ、これが時に表面化してしまっても、かさぶたが覆うと、「それ」がなかったかのように振る舞ってしまう。

 「心の奥底に潜んでいる深い悲しみ」。
 あるいは小さい頃に由来する悲しみかも知れない。もっと大きくなってからの、現実問題上の虐げに対する悲しみかも知れない。
 これに直面せざるを得なくなって、ダイレクトに深く悲しまざるを得ない。
 そういう人々がいるし、私もそういう日が来るように思う。

 「その人は慰められるからです」。
 これこそ、ダイレクトに深く悲しんだ者の報いだろう。
 それはこの地上でも、ほんの一端を味わっているように観察される。
(天で、しんから慰められるのだろう。)
 そのような人を、2,3人知った。
 どの人も、聖書とは無縁の人だ。
 聖書は普遍的な書物なので、彼らが聖書に無縁であることと「慰め」から無縁であることとは何の関係もない。

 聖書を読んでいなければ(教会に行っていなければ)「慰め」にあずかれない、そう考える人を私は、パリサイ人だと思う。
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