尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『辻政信の真実』(前田啓介著)、「神か悪魔か」伝説の参謀の生涯

2024年03月18日 22時02分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回書いた『おかしゅうて、やがてかなしき』では、著者の前田啓介氏について触れる余裕がなかった。名前を知らなかったが、よく調べて書いてる。高齢の人かなと思ったら、1981年生まれの読売新聞記者だった。滋賀県出身、上智大大学院卒業後、2008年に入社して、長野支局、松本支局、社会部、文化部、金沢支局を経て、文化部で歴史、論壇を担当と出ている。岡本喜八の本を書く前に、2冊の本を書いていて、最初の本が『辻政信の真実』(小学館新書)だった。(次が講談社現代新書の『昭和の参謀』。)そう言えば、そんな本が出てたなと思い出した。持ってなかったが、辻政信の本を読もうと買ってみた。

 400頁を越える新書にしては厚い本だが、非常に読みやすい。それも当然、これは金沢支局勤務中に地元出身の有名人を調べて、地方版に連載したものなのである。「辻政信」と言われても、今では誰か判らない人が多いだろう。近現代史に詳しい人なら、この人の名を悪魔のように(または神のように)、良くも悪くも強烈な存在感を発揮した人物として知っていると思う。副題が「失踪60年ー伝説の作戦参謀の謎を追う」とある。この本が出たのは2021年で、それは参議院議員だった辻政信が東南アジア視察に出掛けたまま「謎の失踪」をしてから、ちょうど60年目の年だった。
(前田啓介氏)
 辻の前半生はドラマチックだが、この最期もすごい。参議員議員が海外で失踪したまま未だに真相が不明なんだから、好き嫌いはともかく強烈にドラマチックである。僕も陸軍参謀時代のことはおおよそ知っていたが、生い立ちなどは知らなかったので驚くことが多かった。辻政信は1902年(明治35年)に、石川県の東谷奥村(現・加賀市山中温泉)という山奥の小村で、4人兄弟の3男に生まれた。家は貧しく、他の兄弟は皆小学校のみだが、勉強の出来た政信だけが高等小学校に進んだ。そこで終わるのが貧しい「田舎の秀才」の人生だが、彼はその後、陸軍の名古屋幼年学校に合格した。
(辻政信)
 僕は知らなかったのだが、高小卒にも幼年学校の受験資格があったという。もちろんほとんどは中学に進んでから受けるのである。補欠合格と言われることもあるが、それは間違いだと前田氏は証明した。官報に合格者が成績順に掲載されていて、合格50名中の24位だったという。そこから頑張って首席で卒業した。幼年学校は無料ではない。家族は政信に賭けて、支援を惜しまなかったのである。そして、続いて進んだ陸軍士官学校でも首席卒業である。高小卒として異例中の異例だろう。支えた家族もすごいが、政信も勉学にすべてを注ぎ「堅物」と言われてもひるまなかった。その様子はちょっと「異常」かもしれない。

 陸軍で「活躍」した時のことは詳しくは書かない。本書では知らない人にも判るように書かれている。昭和史を彩る様々な戦争の裏に、かならず辻がいた。第一次上海事変、陸軍士官学校事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、マレー作戦、フィリピン戦線、ガダルカナル、ビルマ戦線…。戦場にあっては、勇猛かつ果断、自ら先頭に立ち最前線に赴く。「不死身」と言われたのも無理はない。

 だがノモンハン事件(満州・モンゴルの国境紛争で、日本軍とソ連軍が激突した)を拡大させ、多くの犠牲者を出したのは辻の無謀な作戦だと言われる。英領マレー半島を一気に南下しシンガポールを占領したマレー作戦は稀に見る大勝利と言われるが、占領後のシンガポールで華僑の大虐殺を辻が命じたと言われる。誉める人は神のごとく、貶す人は悪魔のごとく辻政信を語る。辻ほど毀誉褒貶の激しい人物は歴史上にも珍しい。この本を読んで初めて辻政信を知る人は、彼の人生をどう感じるだろう。
(『潜行三千里』)
 敗戦にともない、戦犯に問われると思った辻は「潜行」することにした。初めは僧に扮して脱出しようとしたが、その後中国の蒋介石政権を頼り、さらに帰国して各地を転々と隠れ住んだ。戦犯解除後に当時の様子を『潜行三千里』という本にまとめて大ベストセラーになった。最近復刊されて、新聞にも大きな広告が載っている。他に何冊も本を書き、全国を講演して回った。この本には兼六園での講演会に3万人が集まった写真が載っている。ホントに立錐の余地もなく多数の男性が集まっている。
(故郷に立つ銅像)
 そういう人気を背景にして、1952年衆院選に立候補してトップ当選した。当初は無所属だったが、その後(鳩山一郎系の)「日本民主党」に入党し、保守合同で自由民主党に所属して4回連続当選した。ところが当時の岸信介首相を厳しく批判し、そのため何と自民党を除名されてしまう。そこで衆議院議員を辞任して、1959年の参議院選挙の全国区に出馬して第3位で当選したのである。つまり同時代の日本人には人気があったのだ。そして1961年4月4日(家族は4が続く日は不吉だと止めたと言うが)、戦乱のラオス和平を探るとして東南アジアへ出掛けた。本書ではその後公開された外務省文書を初めて使ってラオス入国まで確認している。

 戦後の政界人生ではほとんど一匹狼だったようで、仲間もなく出世もしなかった。陸軍時代も問題を数多く起こしながら、危機になると使い勝手が良いので呼び戻される。上に立つものが「無責任」なのが日本の組織の特徴で、声が大きい者を排除出来ないのである。それに部下には慕われたようである。全力で取り組み、上官でありながら第一線に立つ。それが「組織人」としてどうなのかと言われても気にしなかった。その意味では真の大物とは言えず、上司のために「過激」なことを言う役目を果たしていた。

 この本の冒頭で半藤一利氏が辻を「絶対悪」と評したと出ている。自分も今までどこかそんな風に思っていた。ノモンハンで、シンガポールで「問題」を起こした辻を、その後もガダルカナルやビルマで重用するなど、日本軍の根本的欠陥を象徴するようなケースだと思う。この本を読んで、辻その人は魅力もあると思ったが、こういう人は困るなあと思った。「本気の人は怖い」のである。軍隊はタテマエ社会なので、全く遊ぶことなき「堅物」が堂々とタテマエを主張すると誰も議論で勝てない。

 こういう人は時々いると思う。以前「指導力不足教員」より、「指導力過剰教員」の方が困ると書いたことがある。辻はまさにそういうタイプの軍人で、マジメで体力抜群、頭脳明晰だから、普通の人はかなわない。神のごとくに崇めて信奉する。教員でもそのような「指導力過剰」な人が時々いて、付いていく生徒がたくさんいて「熱心な良い先生」と言う。だけど、その裏に少数の「付いていけない」生徒を生み出してしまう。辻政信という人もそういうタイプの人間だったんじゃないかなと思った。

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