尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「9条にノーベル賞」問題①-ノーベル賞④

2014年10月16日 21時40分02秒 | 社会(世の中の出来事)
 「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を」という運動の話を初めて聞いた時、これは「無理筋だな」と思い、ここでも何も書かなかった。やってる人は善意でやってるんだろうから、わざわざ批判するつもりもなくて、「どうせ受賞できないんだから、スルーすればいい」と思っていたんだけど、最後の最後の頃に「有力候補にあがっている」かのような報道がなされたので、「もしかしたら受賞するかも」「来年以降に期待したい」などと言う声を見聞きするようになった。そこでやっぱり、この機会に自分の考えを書いておきたいと思うようになったのである。

 最初に「どうして受賞できないと考えたか」を書き、次回に「憲法9条そのものの評価」を書きたいと思う。ノーベル賞というものは、あるいは一般に賞というものは、個人に贈られる。ノーベル平和賞に限っては、「団体」も対象になるが、それは当然のことだろう。どちらにせよ、目的をもって自発的に行われた活動(研究、創作等)に贈られる。最初にこの話を言い出した人は、「憲法9条にノーベル賞を」という発想だった。しかし、これはノーベル賞の規約上、無理である。だから「9条を保持する日本国民」を対象に推薦したわけである。しかし、常識で考えれば、それでも無理だろうとしか僕には思えない。憲法9条の評価以前の問題として、平和賞の選考対象にならないだろう。もしかしたら、対象になるかならないか検討されたのかもしれないが、難しいということになったと僕は思う。

 そう思う理由は、「国民を認めてしまえば、対象が広がりすぎる」「国民という存在は、自発的に形成されているものではない」ということである。僕も日本国民であるが、日本国民であることを選択したわけではない。ごく少数、例えばドナルド・キーンさんのように、日本国民であることを自ら選択した人もいる。しかし、多くの人は「たまたま日本国民の父母の間に生まれた」ために、自我に目覚めた時には自動的に日本国民だったはずである。そのような僕が憲法9条にどういう考えをもっているかに関係なく、受賞者の一員に自動的になってしまうのはおかしいではないか。ジャン・ポール・サルトルがノーベル文学賞を辞退したように、「憲法9条は改正すべきだ」と考えている日本国民ならば、ノーベル平和賞を辞退できるのだろうか。

 この受賞を認めてしまえば、対象はものすごく広がる。「ナチスに迫害されたユダヤ人」「イスラエルに追われたパレスティナ難民」「アパルトヘイトを廃止した南アフリ国民」…といった具合である。今ならば「民主的な選挙制度を求める香港市民」こそ最有力な候補ではないのか。しかし、これは不適当であろう。「中国を刺激する」からではなく、報道によれば香港市民の中にも(経済的打撃を避けるため)民主運動に賛成でない市民がそれなりにいることを知っているからである。同じように、日本国民の中にも憲法9条を変えるべきだという意見の人も相当数いる。その意見を支持するかどうかは別にして、「国民」という一括りにして「授賞対象」に認めるのは無理と言うもんだと僕は思う。

 ではどうすればいいのだろうか。アパルトヘイト制度を廃止したという場合なら、それを先導した指導者がいるはずである。その指導者に授賞するわけである。ということで、アパルトヘイト問題ならばネルソン・マンデラとデクラーク元大統領にノーベル平和賞が贈られた。今までの受賞者を見れば判るように、具体的な個人・団体の選定には問題を感じることもある。例えば佐藤栄作元首相が選ばれているように。その場合も、「非核三原則」ではなく、日本の首相を務めていた佐藤を選んだのである。そのような「今までの例」「国際的常識」をもってすれば、日本が憲法9条を有していることがノーベル賞に値するのだとするならば、積極的に憲法9条を保持しようと努力してきた政治家がいるはずであるから、その人に授与すればいいのである。えっ、そんな政治家はいないではないかって? そうだとするならば、誰も思い浮かばないとするならば、そもそも「日本国民が憲法9条を保持してきた」という賞推薦の前提が怪しいのではないか。

 実際のところ、日本においては占領終了後の大部分の時期は、「憲法改正」(9条を変えること)を「党是」とする政党が政権を担ってきた。選挙制度の問題はあるにせよ、不正投票や不正開票が横行したわけではあるまい。日本の有権者は「憲法改正を主張する政党に過半数を与えてきた」(時期がほとんど)のであるが、同時に「憲法改正を主張する政党に国会の3分の2の議席は与えなかった」わけである。そのために憲法改正は一回も発議されなかった。だから「保持」されてきたわけであるが、この経緯は「国民がノーベル平和賞を受けるに値する」ほどのものだろうか。これでは、憲法9条ではなく、憲法96条にノーベル賞を与えるようなものではないかと僕には思える。

 では、憲法9条には全く意味はなかったのか。そうは思わないし、「憲法9条を血肉化しようと努めてきた人々」はたくさんいて、その努力の上に戦後日本はある。だから、もっとストレートに、「日本の護憲運動にノーベル賞を」と言えばいいではないか。例えば、「九条の会」(がふさわしいかどうかの問題はさておき)を推薦するというなら、それはそれでリクツが通るというものである。さらに言えば、世界の中で最も軍事基地が集中している地域の一つである沖縄の地で、粘り強く反基地、平和運動を継続してきた人々にノーベル賞をというのもいいのではないか。具体的な人名をあげにくいが、大田昌秀元知事とか、糸数慶子参議院議員など。あるいは、第二次大戦後70年を迎える2015年という年を考えると、戦後50年に際しての談話を発表した村山富市元首相を推薦することも考えられる。こういう話になると、党派性の問題が出てくるし、政治家には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきもである。僕だって村山首相時代の政治を全部支持するわけではない。しかし、「村山談話」20年という象徴的意味を込めて考えるなら、「それもあり」ではないか。(もっと地道に様々な活動を行ってきた運動団体や市民運動家がいっぱいいると判っているけれど、もっとまとまりがつかなくなるから、「一応の知名度と象徴性のある人」として上記の人々の名を書いた。僕が推薦運動をする気はないので、念のため。)

 ところで、「もし本当に受賞したら、誰が受け取るんだろうか」などという声があった。そんなことも決まってないのに推薦していたわけである。だから初めから「九条の会」とかにしておけばいいのである。「日本国民」が受けるということなら、それは「内閣総理大臣」が受け取るしかないだろうと僕は思う。これに反対できる人はいないはずである。自民党の憲法改正案が通ってない以上、天皇が国家元首とは言えないだろう。天皇は「国事行為」として「栄典を授与すること」を行うと定められている。だから、国内で勲章を授与する方ではあるが、国民を代表して賞を受け取ることはできない。(と理解するのが自然な憲法解釈だと思うが、拡大解釈したい人もいるだろうと思う。)

 
 憲法前文にあるように、わが国は「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するので、ノーベル賞を受け取るという行政行為は、国会で指名された内閣総理大臣が行うのが自然な解釈だろう。または、国権の最高機関である国会の議長が代表するとも考えられるが、衆参二人いるし、なによりノーベル賞授与式に参列するというのは、立法や司法ではなく、行政の担当であると考えられるから、内閣総理大臣が出席するべきだろう。もともとが護憲運動なんだから、憲法に則って首相に受け取ってもらうしかないのである。そんなバカな。何で改憲派の首魁である安倍晋三が、ノーベル平和賞を受け取るんだと思う人が多いだろう。というか、僕もそう思うけど、「護憲」を掲げる以上、誰も他の出席者を示せないはずだと思う。では、安倍首相はどうするか。自分の政見と違うから辞退すると言うか。言わないだろう。そんなことをするより、ノルウェイまで行って、「憲法9条は集団的自衛権を限定的に認めている、これからも積極的平和主義の日本外交を進めていく、では、ありがとう」と言うに決まってると僕は思う。これでは集団的自衛権反対運動はすべてパーではないか。今年受賞しなくて良かったなあと僕は思うわけである。
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