リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

方法としての弁証法・応用の部(その2)

2018-09-29 13:55:42 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。雨ですね。秋の長雨。この季節の雨は台風とセットになるせいか、きつくて嫌ですね。昔、外回りで自転車に乗ると、レインコートを着ても冷たいわ、メガネの雨粒で目は見えないわで、生きているのがいやになりました。来週は台風が過ぎるとなんとかおさまりそうですが。
 
 さて、ニュースは、普通の感想のものばかり。ニュースへの反応は、わたしは左翼というよりは普通、を心がけており。
 日米貿易交渉「トランプ氏によると、その結果、日本が大量の米国製武器を買うことになったといいます。」(赤旗)、不愉快だねえ、トランプのポチ公。普通の人も不愉快でしょ? 陸上イージスも秋田、萩、って変な場所なのは、ハワイとグアム防衛用だってえ話じゃんか(北朝鮮からのミサイルの通過地点)。その一方、もっと日本にとって有効な海上イージスは、金がなくて使うタマが買えない、ってお笑い種だね。愛国自民党は石飛を支持しろよ。でもこういうのは本質的?に男は好きなんだよね、フィルムを買わなくともカメラを買い増す(ま、昔話)、とか、将棋初段のくせに50万円の将棋盤を買う、とか。持ってるだけでウキウキするんだから反論もしがたい。
 次、「創価学会ブロック長 デニー支持訴え」(赤旗)おう、やるじゃん、創価学会。公明党なんか少し脅かしてやらねば。といってデニーって自民党だけどね。赤旗さえ(例によって選挙のため)節操を捨てる社会もいまいち。
 
 ま、ふつうなので、話題を変えます。
 しゃんしゃんちゃんが久しぶりにテレビに出てました。体が重そう。大事にされると太る。子供って、たくさん食べると親がうれしいんだよね。困ったものだ。
 
 ところで普通でも分からないのが最近目に付く「民主主義は嫌い」論。今日も川口 マーン 惠美とか山崎学日本精神科病院協会会長とかアベのお友達たちが民主主義をけなしている記事があるけど、けなすとなんかよいことがあるのだろうか。ネットウヨの言みたいに、彼ら特有のストレス解消になるのかねえ、「憎っくき朝日」みたいな。そんなとこにケンカの相手はいないと思うが。
 というわけで本日の役に立つブログ、藤田嗣治展が東京、10月8日まで(次は京都)。都美術館 例によって1600円。もう日がないよ。そういえば去年の運慶展いった? なかなかよかったね。藤田嗣治は中学生のころ見に行ったら、とてもよかったぞ。あの白い顔を描けないものかと水彩絵の具でしばらく努力したほど。あとでネタバレで、絵の具じゃなくて石膏を塗った色と聞いて騙された(だまされた)気がしました。まあ絵の好きな人は画集なんかもお勧めですね。
 
 それでは、風邪に気をつけて。ここんとこクシャミが止まらないし微熱もでます。いつものことですが。アレルギーなんだか気温のせいなんだか、、、

(割り込みP.S. 今日はお気に入りのタモリ、ブラタモリの番組の日で。見てたら山形県飛島の取材でした。酒田港の風待ち港で重要だったという、おめでたい話で。理系だねえ、、、
 いまどきは社会学的読者の皆さんも習わないんですかねえ、飛島といえば養子奴隷の島。「南京小僧」という名前で有名になったのね。いまどきのネットだと「つづきの村から」というところに、「南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、みんな貧しく、忙しく働いていたのである。」
 まあ、いまどきの人だから理系だねえ。
 もちろん歴史を度外視すれば養子奴隷など別に飛島に限ったことではなかった。けれども、そういう制度は「僻地」に残る。
 さらにもちろん、定着的生産共同体では同じ生産労働者を「特別にいやしめ」はしなかった。けれども「他の下郎と一緒に充分に」卑しめたのだ。別に今の飛島の方々に悪い思いはないけどね。そんな人間の個別の苦しみも分からず平気の平左でしゃあしゃあとつぶやく理系人間は、大嫌い。理系=いまどきの自称歴史学者だけどね。なんていってると、感情が止まらないので止めます。)

 (という挿入はおいて)
 だが、この先を覗く(のぞく)とまだまだ長い。スマホの人には見えないでしょうが。
 というわけで、本日のオタク題。最近多い以前の続き。年寄ると拙速に意味が認めがたく。だんだんしつこくなる。
 
 で、弁証法ですが、世に言う、「量から質への転化」だの「対立物の相互浸透」だの、そんなものは頭の悪い理系の奴ら向けのスローガン。実際エネルギーなんていろんな形をとり存在物であるかのごとく現象するんだから、、スローガンで元気付けないと現象にとらわれてしまうからね。しかし、社会現象は(すでに)そうではない。少数ながらまともな頭の持ち主ならすでに理論システム化への一歩手前までいける。大多数の頭の悪い学者には、科学を評論で邪魔をすることを止めてもらうだけでよい。

 と言うわけで、今回は、始元からジンテーゼまでの、理論者が取り扱うべき属性について。
 私も哲学は趣味でもありますが、こんなのは見たことないぜ、みんな火事でも見るように遠巻きにわいわいやってるだけ。したがって、今回も哲学史であればヘーゲルの次に位置させるべき一行であろう。
 
 さて、本題。始元から結論までをどう展開するか。
 人間にとって、ある規定性、つまり「お前はこう動かないとひどい目にあうからそうやれよ」という要因。これを見つけたとして、それをどうみんなに知らせるか。という問題です。
 先に言ったように、頭がまともならそれは見つけられる。見つけられない学者は、事実を確定させる仕事だけに専念するように。ただ、それを表現するのはそう簡単ではない、ので簡単にしようということです。
 さて、社会事象について、研究者が「普遍的人間」として見たときに「同じもの」として把握するしかないものが、別の規定性によっては別のもののように見える、あるいは見うるという場合がある。赤いリンゴと青いリンゴは同じはずだが、初めてみる人間にとって、それらは同一ではない。でも研究者にとってリンゴはリンゴだ。同じなんだけど、こう違う。その意味をつかもうとすればそれをトータルに扱いうるというのが弁証法です。と例にしてみると、ほんと理系なんて頭は要らない、単純作業だね。
 
 ま、ともかく、弁証法的叙述といっても、簡単なことは簡単。ある事象とある事象とは違うといってもそれがちょっと考えれば分かるシンプルな差異であれば、単に「次章で照射方向を変えますよ」といえばよい。たとえば、すでに蓄積のある社会・人文科学であれば、照射方向の変更はすぐに理解される。それでよい。
 しかし、取るべき別の選択肢が世間に認められていないときにその叙述を完成させるには、「同じものだ」ということを強調することになる。まあ哲学者のような、自分でやったことのない人にはわかりませんがそういうことです。
 一般に、「巻」や「編」やらと括られる(くくられる)単位はそうです。「正反合」とかいって、3部構成にするもので、研究者個人の趣味を越える。普遍的な分類法はないでしょう。世の中そううまくはいかない。それらは研究者の趣味で、あるいは志向で、どう問題を照射するか、その照射的立場の表現となるしかないでしょう。まあ例外はあるでしょうが。
 例外はよいのです。この大括りの3部門は自由なのです。論者の視点に従って、設定可能な3点なのです。資本論だって、そう偉そうな分類で出来てるわけじゃあありませんぜ。
 もちろん、資本論も3部全てが合わさってようやく一人前になること自体は変わりませんが、今の問題は、「どういう形でも3部「の内容」が表現されていればいい」ということをいっているわけです。
 
 さてしかし、本当の弁証法の優位はそんなところにはない。
 もとに戻りましょう。
 今問題となっているのは、そこではない。その内実たる始元の行方です。
 始元が存在するのは、あくまでダブった要因があるからです。だから分析して異質の「反」を析出し、しかして統合する(=正)。この場合、人間の分類意欲は、「これ、もとのままだったら(私=人間にとって)よいのになあ」という行為的順序において、この「もとのまま」を阻害する要因が異質なため「反」と名づけるわけです。
 ほんと自分で書いててクリアに書けてると思うのですが。
 ダブったものの規定性を、一通りずつ分けて書くことで、いわば3次元を2次元化できる、というわけです。
 剰余価値と資本は同じものではありますが、その規定性は別です。しかして別に分けて書き、あとで現実として合体させる、これは2つに限らず、ひとつのダブりを終えたら次のダブりの解決に向かう。そして、同様にダブりを個別化し、あとで合体させる。
 ところで誤解があると思いますがこのとき、ダブリとは「正」を形作る2要因ではありません。たとえば「商品の2側面性が使用価値と価値だ」と言ったときに、この使用価値には触らないのです。使用価値は保存されて資本までいく。触るのは必ず一方の側面だけなのです。
 まあこういうことは自分で悩んでみないとわからない。分からない人には不要な論議ではあります。私は哲学には興味がないので。
 
 さて次に、もう1通りの優位があり、それがいわば量から質への転換。まあこれはスローガンなので、力から質の転換でも、好きにしたらいい。どう言おうと同じことです。
 つまり、継時性、あるいはいわゆる歴史性を考慮する。
 ある規定性の中には、時間が経つと変化するものがある。この扱いはマルクスにはまるで理解できなかったようです。「規定性は歴史の推移で変わるんだから、規定性の旅は歴史を作る、従って私の資本論の論理は歴史的になるはずだ」と信じていたんでしょう。ヘーゲル主義者ですね。なので、いまでもマルクス主義者はそう思っているはずです、もしもまだ非転向者が生存しているなら。
 ところが残念ながらそうではない。それは継時性の中身は、資本論の場合、「経済」は歴史の全部の要素を持っていない、という、単純な、かつ、もっともな、理由によっています。前提にないものを論理の中には組み込めない。われわれはヘーゲルにもマルクスにも義理立てをする必要はない。単に、別個に、あらためて、扱えばよいのです。
 
 長くなりましたが、あなたが自分の理論を持ちえそうだ、と直感したとき、もう一度お読みくださいませ、このサイトがそのときにまだ存在すれば。
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