リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

連帯が求める唯一の因果連関

2024-04-20 16:03:30 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日もいい天気。明日から良くないけど、温度はきちんとあるって。ただ洗濯は今日のうちが良かったみたい、もう遅いけど。
 わたしは毛糸のカーディガンを洗えばよかったところ、今日は薄いパジャマをamazonで買ったのでそれを水洗い。臭いしなんか薬品ぽいし。で場所取るから。

 日用衣類は隣町のイトーヨーカドーで買ってたんだけど、パジャマ見に行ったら最低4500円(税込)って何の話だろう。信じられない、なんのためのスーパーか。ヨーカドーもつぶれていくわけだね。ここももういらない、買うモノ、ゼロ。下着さえM以上しかない。もうわたしの御用は靴下だけ。靴下なんかドンキがあるし。
 というわけで、宅配便さん、お世話をかけます。

 今年はタケノコ豊作で安いんだって。100g38円だって(練馬区)。でも家の近くのスーパーで家人が65円で買ったやつ、下茹でして皮剥いたらぐずぐずに崩れて、臭いったら。前からそういうスーパーなんだけどね。食品スーパーは複数欲しい。今回はヨーカドーでそこそこ大きいのを750円(税込)で買いました。問題なかった。フキノトウもタラノメも売ってなくて買えなかったので、せめてタケノコくらいアクを感じるやつを食べないと。ヨーカドーはつぶれてもそのあとに食品スーパーは入るから問題ない。
 
 ネットに「サクランボ狩りをする子供たち=山形県東根市で」なんて写真がでてます。まだ早すぎ? たしかに。いや、まだ寄り目の年長さんほどの子どもたちがサクランボ狩りしててね、可愛い。

 食べ物だと、
「新幹線車内で「豚まん」を食べるのはNG?ネットの“マナー違反論争”にJR東海が示した「回答」」(女性自身)なんてのもあるよ。豚まんが臭くて迷惑だって。
 こうゆうのもなんなんだろうねえ、、こんなどうでもいいことを声高に言いたがるって、どこの人間たちなのか、と思って。たとえば、SNSやってる3%の人間か、若人の6割の人間なのか、、、ばっかばかしい。けど、日本のどっかにいるんだよね、これも信じられない。わたしが時代遅れなのかね。
 
 まともなニュースがありました。
「一本指で奏でた第九 脳性まひの少女、夢かなえた「だれでもピアノ」
ショパンのノクターンを弾きたい――。手足に障がいがある少女の願いと、それに共鳴した研究者の情熱、AI(人工知能)も活用したメーカーの技術力が、「夢のピアノ」に結実した。名づけて「だれでもピアノ」。一本指の演奏が、ベートーベンの「第九」の壮大な調べをホールに響かせた。」(朝日新聞)
 指一本で第4楽章を引いたって。技術の、あるいは技術をひっさげた人間の心の、勝利だね。

 も一つ、乗りかかった船で、子供支援金の税金増、後期高齢者分が出ました。
被用者保険で年収200万円で月350円、年収400万円で月650円のところ
「加入者1人あたりの見込み額は、年収250万円で月額550円、300万円で750円。」(朝日新聞デジタル)
 だってさ。可哀そうな年寄り。
 さて、しかし、これは自称平均。
 後期高齢者医療というのは、当然、県によって違う。子供が多けりゃ拠出も多いし、所得が低けりゃ、その県で人数は少ないけど所得が多い少数派に負担がしわ寄せされる。で、dodaのサイトによれば、わが熊本県では平均と比べて子供が1割以上増し、所得が1割減。こうして平均と2割違うことが規定されます。
 年収250万円で月額660円、年額8000円。300万円で900円、年額1万円強。ま、国保と比べて同情するには当たりませんが、世の中の政府発表とは、こういうものです。ほんと、そもそも官僚なんて、生活者のことなど何も知りゃあしねえ。

 さて、本日はひさしぶりの社会(科)学。
 眼も良くなったから図書館借本を再開して、一通りできた原稿諸メモに、新しい知見でも添えていこうか、なんて思って、図書検索で2000年以降出版の社会学本を検索して6冊借りてきました、ら、箸にも棒にも掛からない。呆れかえった惨状。
 こんなのを大学で読まされる若人は、社会学をなんだと思って卒業するんだろう?
 学者は何を考えて研究しているのかねえ、、誰にとって、何の意味があるのか。本を買う若人が可哀そう。
 まあいいけどね、他人のことだし。若人は今の社会学なんて勉強しようと思わないように。大学は卒業証書のためにある。大学に行かなかった人は無駄な人生の時間を費やさずに済んでラッキー。
 でさ、面白くないのが、誰とは言わないが昔はマルクス主義社会学でならした転向学者。いいたいこといってたくせにソ連崩壊で左翼から足を洗った証拠でも示したいのか、(私は山田盛太郎のような)「日本農村に対するイデオロギー的批判の観点をできるだけ排除して、具体的な事実に関する記述を拾い上げ、「日本の農村」の姿を描き出すことにしよう」だとさ。何だよ、イデオロギー的批判の観点て。いい歳した社会学者がそういう存在非拘束性に無知な発言はやめて欲しいものだ。マルキストたちはかえって存在非拘束性って知らないんだよね、知ってたらブルジョア社会学批判なんてできなかっただろうしね。
 
 では、あらためて、
 
 まずは(当該諸本は)「無意味だ」と。
 意味があるってどんなことでしょう? 自分が想定する範囲内の行為主体について、なんか役に立ちそうだ、ということでしょ? 自分の役に立ちそうだ、とか、友だちのA君には役に立ちそうだ、とか。
 だからね、難しく言うと、「意味」は、その情報が、想定される行為主体の未来行為について、適用可能なものだ、ということです。
 だから、原理的に個人的なものなのです。
 それが政治的に役に立とうが、自分の学者の経歴に役に立とうが、その違いを説く資格は誰にもない。同じ価値を持ったものです。これが、誤解を避けて強調すれば、ウェーバーの価値自由の本当の意味です。イデオロギーで結構。逆に言って、事実だけを述べて筆をおけばそれはイデオロギーから逃れている、などという素朴な見解、つまり学問が政府のものであった100年前の時代錯誤の見解は、まさか現代の社会学者の取る見解ではないのです。つまり、第1に、事実だけしか書かない選択をして、保守反動に資する著述行為をあえて行った点について、第2に、その著述行為以前に、政治イデオロギーを退けたその選択について、それは当該筆者のイデオロギー的選択なのです。
 
 と、まあね、こんなことは社会学の常識。こんな低レベルのことをこのブログではわざわざいわない。
 本日のお題は、無意味な本に頭にきた研究者として、「意味があることを綴る意義について」です。
 
 まず、ある論は視点と視座によって因果連関の学となることを既に述べました。去年の3月以降のブログ連載、ね。因果連関などいくらでも、在る。ただし、それは視点と視座によって決まる、と。
 今日は、その視点と視座。それらは、行為主体の想定対象によって決まる、ということを強調します。理論者に十分に想定された行為主体にとっては、彼の行為の目的は決定されている。それはほかの誰のものでもない、唯一、その行為主体に属する目的である。それをイデオロギーだ、偏っている、と「批難」しようと、それはお門違い、というものなのだ。想定対象にとって、それ以外の未来の目的とは無意味である。実はある事象に1000の理由や原因があろうとも、想定対象の目的に集約されないそれは、無意味なのである。
 もちろんそれによって決定された視座による因果連関とは、唯一、それ以外ない当該事象に対する因果連関なのである、論理のつじつまがあってれば、だが。
 
 このくらいきっぱり言えば、いかに転向マルキストでも誤解の余地はないでありましょう。
 では、理論者と批難者の違いは何か。
 想定行為対象との連帯の有無です。
 何がイデオロギーだ。
 イデオロギーを放擲し連帯の立場を放擲し、事実だけを書く、ってじゃあそんな人間が読まそうという相手は誰なんだ??? (ちなみに放擲はほんとうに「ほうてき」で「ほうちゃく」じゃないのかねえ。打擲は「ちょうちゃく」じゃないか)
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 強度近視と(核)白内障手術... | トップ | ばかばなし »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会学の基礎概念」カテゴリの最新記事