リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

本来の「物質の哲学的概念」

2021-07-17 14:26:09 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方梅雨明けで、例によって連日熱くなるようで。昨日は外歩いたら暑気あたりで気持ちが悪くなりました。華奢な私。
 副作用してるうちに東京地方のお盆は終わってしまいました。ネットの広告費稼ぎのせいでずれたお盆さえ終わり。東京のお盆は太陽暦導入の明治時代から11日から15日までって決まってるんですけどね。

 先週のニュースは世間じゃ、国の税収が過去最高だとか、剰余金が過去最高とかわけのわかんないことを言ってましたが、まあわけがわかんないからしょうがない。このご時世にどこで儲けてやがんのかね。

 さて今週のローカルニュース。
「小田急百貨店、新宿店本館の営業を22年9月に終了 超高層ビルに」(毎日新聞)。
 関係ない? さみしいことをいうね。
 わたしゃ児童期は渋谷、青春期は池袋、それ以後は新宿が拠点だったもので、残念だよ、ってもう何年も行ってないけど。しょうがないね、ブルジョワのもんばかり売るからばちがあたったさ。
 それにしてもあっちもこっちも私の歳以下の建物(店)がつぶれて。あと残ってるのは鎌倉のミルクホールくらいだよ。新しいのが増えないんだからしょうがないけど。

 で、借りた本で印象的なのが、 小杉亮子「東大闘争の語り」、全編インタビュー構成の博士論文。いや、壮大な無茶。
 構築主義的政治学とでもいうのでしょうか。しかしこれは、いくら話をかき集めても誰も経験しなかった東大闘争だと思うぞ。現実ってこういうものではない。まだ予断はあろうとも小熊の「1968」のほうが現実らしい。
 とすると、これはなんなんだろう? 小杉氏の心的現象というものではないのかしら。
疑問符を4つばかり飛ばしたい。構築主義の方は、主義を捨てろとは言わないが、全員で寄ってたかって方法論の精査をするのがいいと思うんだよね。どこまでが論理が正しく反映できる現実の範囲か。人間同士の現実的な相互関係のない場面に当てはめたら、いくら研究対象がその「登場人物」だといってもこれは無茶。


 というわけで本日はお盆期なのでオカルト、、っていうとファンが怒るな。まあ奇ッ怪な理屈が正しいという話。  
 この世には自然史というものがあって、それは天体史に生物史に社会史でできていて、全部に弁証法的論理が貫徹する、という、これも壮大な無茶、梯明秀の本。
 もとはといえば梯を好きなK派が吉田憲夫(経済学)をけなすときに引用してたのを見て、、エー、ホントかよ、と思って読み直したもの。
 マルクスには貸ししかありませんがエンゲルスと梯は好きなので、ほんとのところを確認しようと。

 で、まあ大昔の梯氏をけなしてもしょうがないので、積極的に書きます。
 そもそも自然なるものの「存在」には歴史も変遷もありません。歴史も変遷も人間が作るものです。
 もちろん、人間が自らの手で作り上げられはしないので、この作業を「自然の模写」と称するのです。これがエンゲルス的認識論です。もともとは「自然界」にある諸要素を人間がその並びに従って(理屈です)整序するものが「歴史」なのです。
 それは他者への伝達という外観と、他者への意味の伝達による他者行為の(強制的)勧奨という2つの意味での「イデオロギー」ですから、当該時代の支配の規定性に沿って変化します。
 分かりやすさ優先で単純化して例示しましょう。
 歴史というものは、その時の伝達上の支配権力の規定性に従って
1 支配者の歴史
2 共同性の歴史
3 個々に分断された歴史
 というふうに人間の歴史に姿を変えて現れます。
 すなわち、第1に、神や仏を主体にした歴史であり、第2にこれに対抗する「プロレタリアート」や「民主的人民」という「集合体」の歴史であり、第3に、権力を攻撃することへの意味が薄れた先進資本主義国での「個人」の歴史です。
 これに対応し、「自然」なるものは、第1に神の創造物として捉えられ、第2に支配権力への攻撃を反映した自己神格、すなわち、生命の発生と人間の進展として捉えられ、第3に、おこがましい人間への関心を隠して、生物一般の同質的進展の歴史として捉えられてゆきます。
 ついでに、第1から第2への変換点として、神の創造物から「自然」なるものの措定、続いて全体としての自然把握。
 第2から第3への変換点として、自然一般から「生活している自然生物たち」という自然把握を挙げておくのもいいかもしれません。(今西生態学の関連です)
 なお、ここで未来は歴史ではないのでご注意。形を変えて(書物の中で)繰り返すのはこの現在までの瞬間だけです。 
 さて、このように歴史とは観照です。要は観念内での把握にすぎません。
 しかし、その最後の一瞬に、未来との接点が生まれます。それが人間の意志であり意思であり人間の実践です。そしてこれを構成するものが「疎外された自由」、人間の主体性なのです。この直近で最後の時に、ここに第4に現れるものが「共生」としての歴史なのです。
 
 もっとも本日の主題は、歴史とは人間の創作物である「ように見えるにもかかわらず」自然の模写なのである、ということの強調でした。逆に「自然が独立に歴史を展開する」などという物言いは、一見唯物論的でありながらも、実は観念論なのです。歴史は人間による下手な模写に過ぎず、しかし自然は「存在する」に過ぎないのです。

 梯氏の百万言は、悪いけど、すでに褒めるものではない。
 とはいえ、決して無意味なものではありません。
 彼は問題を立てたのです。
 そして「問題」は、それが出されれば、方法論を持つ者にとってはすでに解けているものなのです。
 ゼロと100の違いは無限ですが、1と100との差は15分(の思考)の差でしかないのです。(文字にするのに時間がかかりますが)
 
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