リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その5;常態としての死)

2018-06-09 20:43:38 | オカルト(途中から)
 こんばんは。本日の季節のご挨拶ではアオズムカデ。ベランダに出した植木鉢経由かで部屋ん中を駆けずり回り、なかなか大変。刺しますから(噛みますから)お気をつけて。ハチ毒とのこと、刺されたら、お医者さんにね。
 で、今回の役に立つブログ。ムカデは上質コーティングに弱い。大手スーパーのチラシの上に乗っかると、百本の足も滑って動けません。そこで、外に放り投げる。一件落着。

 で、役に立たない世間話。靴下、タイ製靴下最悪だぜ。靴下は中国だね。シャツも中国。値段相応。
 値段が高きゃあいいってもんでもなく、グンゼがひどくて結局戻ったBVD、盛大にほつれてるぜ、あんた。まあ、しょうがないね、あきらめてるぜ、BVD。昔はよかった。
 
 というわけで、申し訳ありませんがとても忙しい。50歳代ですと平行して1.8は処理できたことももう1.2しかだめですので2倍忙しく、まあ退職後ちんたら暮らしてたむくいといいましょうか。(もちろん30代なら課題3つ、余裕だったぜ。それっていつ? って話ですが)

 さて、とりいそぎ本日の話題はオカルト。お気づきの方はゼロでしょうが、当ブログ、オカルト話題も最近は「ごみため(断片)」ではなく「その他カテゴリー」で、一人前となりました。それなりの自信もございますぜ。
 で、本日。
 本来、生物にとって、常態ならざるときが苦痛の時である。常態、すなわち食うものを食って、その身体構造に適正な気候の時に生きていくこと。生物にとって、その時期は楽天である。まあ蝶々や蝉の普通の姿ですな。
 それは、人間が自由を目指すのと同様である。人間は生態的に他人に指図されるいわれはない。そこがイヌとの違いですね。 
 さてそこで、真正の自由主義者の思いと同様に、生物とは、その常態が目指すべき事態である。普通に生きているのが一番いい。「動物なんか天敵に捕って食われるのが普通じゃないか」などと知った風なことをぬかす(客観主義的)プチブルやマックス・ウェーバーのことは無視したいと思います。お前らいいから炭坑で3年働いてからしゃべれよ。生きてれば、だが。
 さてしかして、人間はあれこれと忙しいけれども、「今現在」でなければその先に、死後ないし、生の究極である、そこにおいて本来、生が目指す究極の地点が想定される。それはエネルギーの均衡地点である一方、生命にとっても究極の安住の地である。だってそれが普通なんだもん。「普通な事態」はいつかある。ところでそれはたとえば「人間」にとって「常態」であり、それこそが人間が求める安定状態である。それがいつかは別として、生命もいつかは常態を入手する。
 どうですか、正しいアナロジーでしょう?
 わかんない? 「死ぬのもいいことじゃないのかしら」と言っています。(=それが常態なのだから、人間、それが最適であるようにできている)
 自分で言うのも素晴らしい。私も預言者になればよかった。
 もちろん今からでもなれるのだけれども、幸いなことに、もっと同志のほうが大切、というわけです。


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本年のオカルト他1件(人間に向かっての祈り)

2018-01-06 15:57:31 | オカルト(途中から)
 こんにちは。お正月休みはいかが? 今年は11連休の会社もあるんだって、すごいねえ。そんなにどうすんだろ、もう会社に戻れないんじゃ。私は6連休くらいでいいや。それ以上休んだことないし。今かんけいないけど。
 
 初詣でとか行きました? 私は近くの神社系へ。最近は知ったかぶりのマニュアル世代が多くて、賽銭箱の隣に手の叩き方とか書いてあって不愉快。おめえは神様か(ただの兼業会社員だろう)、って気がするのは中高年だけか。教えてあげよう。お祈りっていうのは心でするもんだよ。
 ところで正月なので、例によってオカルト。
 ふと思えば、苦しみも苦しみからの脱却の祈りも、みんな人間たちがこさえた仕業ですよね。もちろん、戦争やその類の苦しみも、飢饉の苦しみも同様。神様も仏様も誰も戦争なんてしろとは言わない。人間が勝手にしている。飢饉ったって、そりゃ自然の結果じゃあない。人間のこさえたものだ。ウソ? じゃあなんで飢饉で死なないやつがザラにいるんだ。100年前、松方デフレで飢え死にした人をよそ目に見て、今だってわれわれ子孫は生きているんだから。
 あるいは、なんで祈る? 自分の親や、あるいは時には上の上の支配者の人間が助けてくれた経験があるからです。親も人間、支配者も人間。みんな人間の世界をぐるぐる回っているだけ。
 神様が人間並みであれば、「知らねえよ、そんなもん」と発言して当然です。「なにやってんの、手を合わせて。おりゃ領主でもアベでもないよ。お願いする相手を間違えてるよ。かわいそうなやつは究極的に助けてやるんだからだいじょぶだよ。苦しい? そんなこと、お前らで何とかしろよ。お前らの世界だぞ」
 私など心が狭いので、このくらいの応対とかしか思い浮かびませんね。
 神様に直談判したら、「俺ら、お前ら人間のおかげで、豚や牛や鶏からの陳情がひっきりなしだよ。子供が生まれるはしからいなくなっちまう、あれは人間に殺されたんでしょうか? って。お前らのことなんか知らねえよ。頭良いんだから自分たちでなんとかしろよ。じゃあね。バイバイ」とかいわれて当然。そう思いませんか、宗教家の方々。
 だからなんだって、って、現世利益のお願いは間違いだって。宗教自体はいいよ、信じようが信じまいがどっちだって。でも宗教家も現世のことは自分たちでなんとかするしかない。神様はそういってますよ、とわたしゃ思うね。自分たちのことは自分たちのこと。
 それとは別に、お祈りは心でするんだよ。2度手を叩いて頭を2度下げるだあ? 幼稚園児かね。お祈りは自分の存在について、他者の存在について、感謝したり、お任せしたりするんだよ。それは神の領域だからね。ほら、おいら、すごいだろ? プロテスタント以上。本質的だね。だってそれしかないじゃん。
 というわけで、分かったら宗教家、キミ。吾が隊列に加わって呉れ給え。

 でさ、これだけではいかにもテーマが特殊。わたしは基本ふつうの人間なので、つけたり。
 次回論究の世界資本主義(いつも題が変化してるよね。テーマがでかいのさ)。で共産主義社会論をするので(ほんとでかくて)、疎外論を(図書館が正月休みで)ネットで見たら、神奈川大学旧教授の沢田幸治氏が『類的存在と人間的解放の「完成」』ていって、類的存在=社会的存在論の論陣を張っていました。類的存在論っていうのは文章上は、唯物論的な認識=存在理論 にすぎないんだけれども、昔はよく「人間の望ましい共生社会的あり方」って意味で使ってたものです。で、沢田先生は、「実際そういう理解が正しい」というわけ。ま、マルクスがどう言おうといいんだけど、そしたら、神奈川大学の後輩教授のはずの山口拓美という人が、これを全面否定してるのがおかしかった。沢田先生が福島大学から引っこ抜いてきた人っぽいのにねえ。
 別な話、ネット情報の見てお得度は、神奈川、専修、立命館、福島の各大学が四天王だね。
 元に戻って、人間の共生社会的本質というのは、実はすでに隈理論が明らかにしております。共生のないアナキズムなんて自家撞着(じかどうちゃく)だかんね。
 「人は自分のことしか考えない」なんて、中学生までだとよくいうじゃん。
 ほんと子供だよね。
 実は「人は自分のことなんか考えない」。ご飯食べさせてもらっている子供にはわかんないんだよね。
 人は他人のことしか考えない。もちろん生きている人間は食べ物が優先だけれど、さて生きていけると思ったときには考えるのは他人だけなのです。自分のことなんか考える必要はない。もう生きてるんだから、「生きてるけどじゃあ何を行動しようか」、っていったら人間は他人のことを考えるしかない、これが人類の逃れようもない存在形式です。
 逃れようもないことを、存在形式として「取り返す」んだみたいな論陣を張っちゃあいかん。といって、その本質的形式を「そんなものは疎外とは関係ない」、と論じてもいかん。この形式は本質なんだからね。
 疎外の論議が存在するというのであれば、それはこの形式の内実にある。ま、理屈だよね。
 なお、そっから先の展開はあっちこっちで書きました、わかりにくいけどね。
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時空とは(オカルト)

2017-07-29 13:55:49 | オカルト(途中から)
 こんにちは。たいへん。台風5号が居座って、関東の海は、静穏の見通し立たず。この梅雨明けの晴天続き、海水浴日和のはずの見込みが。涼しいことだけなら子供は感じないし大人は上着羽織ってりゃいいんだからいいけどねえ。大波で沖に持ってかれたらおしまいなのでお止めなさい。
 といってプールも最近行かないからご案内もできないし。大学の屋外プール開放があれば、空いてるはずで、一番いいんだけどねえ。昔は明大とか法大とかでやってて。今は大学も高機能屋内プールでつまんなそう。まあお盆休みに田舎に虫取りにでも行かれてくださいませ。東京旧盆中は深川不動が本祭。ただしここに来るような方は、もっと小さい祭りのほうが居所があってよいと思われます。お一人の方はご友人お誘いの上、ヨーヨーすくいなど。
 わたし的には涼しくなるとそこそこ勉強もでき、「ああそんなに怠け者でもないし、さほどボケてもない」と思えてうれしいです。
 
 さて、ニュース。森永乳業ダブルソーダが販売終了だって。知らない。そんなの。
 それより、ソーダアイスがすでにないんだって、知らんかった。あの青いカチンカチンのやつ。チープだもんねえ、よく食べたけど。
 で、うれしいことに名糖ホームランバーはまだ売ってんだって。おいしいよね。知らん? 最近はハーゲンダッツとかわけのわからん高級品が増えてるけど、あのさっぱりした棒アイスが夏の味だよね。脂っこい高級品は寒いクリスマスにでも食べればいい。もっともホームランバーは自販機で売ってないので買うチャンスがないけど。コンビニ行かないし。
 
 ついで、また日本人、寿命が延びたとか。そんなに生きてどうするんだ。年よりは、役人がいらない空き家をつぶして空き地にして、そこに畑を作って安全野菜でも育てて子供らに食わせるのが一番いいと思う。自分らで食うなよ。年よりは中国産やアメリカ産でじゅうぶん。
 
 なに世間話してんだ、って、別に話題ないし。稲田が辞めたって、ICBMが飛んだって、特殊な利害関係者を除けば、日本人の考えることは一つじゃないかねえ。「当然」。「どうしようもねえやつ(金)」、こっちは「だからミサイル軍備を」とか「早く暗殺を」とか分かれるかもしれないが、誰でも言うこと。わざわざ話題にするほどでも。
 
 なので、今日は恒例のオカルトですよ。もうすぐお盆だし。だんだん文も増えてきちゃって、カテゴリー作るかなあ。

 先週、朝日新聞に元素周期表が付録されてて。こんなもん学校じゃ見なかったんでしげしげと見てしまった。なかなか面白い。化学は通信簿3。

【物質とはエネルギーの状態】

 で、元素周期表を見れば、この表にはエネルギーの正と負がバランスを保つ有様が表わされていることがわかる。
 この世は、
 1 まず、正と負がある。一般に電気のプラスとマイナスに現象している。
 2 正と負のバランスは負をめぐって存在する。正でも負でもよいのであるが、この分割は単純な2分割ではなく、引き裂かれた2分裂、ムリのある2分裂、であるように人間には映ずる。
 その証拠に負は、必ずバランスを保つ方向に動く。一般に「プラスとペアとなる」といわれる。ここで、負が電気的にプラスだろうがマイナスだろうか、それはどうでもよい、分裂者が陽子でもよいのである。そんなものは名前だけの話だし。
 3 さて、この元素のエネルギー状況は、バランスが形作る層と、そのバランスからはみ出すエネルギー状態からできている。
 「各層」は電子として間隔をおかなければいけないので存在するように見える。各層の状態は波動形式で計算され、その実体は、力の大きさの浮動のことである。心臓の鼓動が心電図になるようなものだ。 
 というわけで、なんのことはない、自然の全て、たとえば人間の身体は、この元素の存在形式、エネルギーのミニマムな状況の混濁状態であり、この混濁状態が、しかし、自立的に諸物象に現象するわけである。つまり、エネルギーがいろんな形をとるんでいろんな元素ができて、その元素がいろんな化合物、すなわち、全ての物質を作る。
 さて、これからが問題。

【物質と生命が存在する理由】

 さて、ではなぜそんな事態の混濁がおきるか。鉄は鉄、水素は水素で固定してればいい。あるいは全て全部が炭素であってもいいではないか。
 ここには、変容の原動力が内在している、と思うのが普通。
 ここで元素的変容は、エネルギーが元の無に戻らんとする悲鳴であろう。
 他方、人間等生物においては、形態的変遷がない。ということは、エネルギー状態の元の無に戻るのではなく、自立的変容を遂げようとしているエネルギー状態かもしれない。
 そもそもの始元的エネルギー分裂さえ、この自立的変容、他人を食べながら動くという契機かも来ているかもしれない。いわく、「生命」である。
 生命がどこから生まれたとしても、生命現象は、始元的なエネルギーの分裂後のエネルギー現象である「物質」じゃない、という確認ですね。
 やはり、始元のエネルギーの分裂こそが生命現象の発生の影響なんじゃないかねえ。他にエネルギー本体には要素がないし。自分の居場所がなくて圧倒的に困っているように見える諸物質が存在してるだけ。もちろんこれらを「物質」と受け取るのは、地球では生物だけです。そんなもん、ただのエネルギーの諸段階に過ぎないのに生物はこれと不可分の存在である。 
 
【神の現象】

 そう思ってみると、物質世界など埃にもならないほど微小なキズである。宇宙を見上げて見れば分かる、いったいどれだけのエネルギーが物質化しているのか。物質のブの字も見えやしないではないか。といってもこの空間こそ、その微小なキズとのバランスを支えるエネルギー状態の対応物ではある。
 ともかく。後に残った契機が生命だけであれば、その答えは生命にあり、生命エネルギーが力で圧迫しているのを物質エネルギーが押し返している、あるいは生命エネルギーの構造に入り込みつつ存在している、というところである。
 さて、こっから先はオカルトである。
 違うか、どっからオカルトに入ってるかな?
 この微細なキズは、宇宙のある1点が、エネルギーを自分のために使いたがったゆえに生じたものだ。
 宇宙のある1点に生じたエネルギーを使いあう存在、すなわち、生命の発生である。これが「神」である。毘盧遮那仏あるいは大日如来である。
 ここで、宇宙の1点とは宇宙の遥か彼方のことではない。われわれの手の届く先の空間のことである。頭の良い宗教家がいうように「神はすぐそこにいる」のである。空間とは単に物質エネルギーの存在そのものしか指さない。物質から離れたところに、空間は「ない」のである。
 さらにそれが起こったのも実は「何百億年も前」ではないのだ。「つい一瞬前」なのである。時間の経過などというものは、物質形態の都合、素粒子という、移動に「時間がかかる」物理的存在の都合なのであり、あるいはそれを測定する人間という物理的存在の都合なのであって、エネルギーの都合ではない。エネルギーはエネルギーとして、常に永遠の今に、存在し続ける。エネルギーに時間などないのだ。
(書いてると、「そんなの前いったよねえ」 みたいな気になっちゃって。物質世界では全ての事象は光速度を基準に移動するのですよ。それが現世的エネルギー速度。といっても光速度にならない場合がある。それが物質的観測者の影響速度。)
(全部が光速度で同じ方向に動いてたら、時間はゼロ。だけど、物資はその内部でランダムに光速度なのです。人間の構成物質も同じ。)
 アナロジーを挙げると、幕府用人たるAが、各藩の探索で10人の人間を派遣した、10人は1年経って1年×10人の仕事をして帰って報告に来たが、幕府用人のAにとっては、他の用事に忙しく、1年前から10分経っただけなのである。要は、計算根拠が違う。この場合用人は、同じ人間の衣をまとっているので、肉体的に探索者と同じ時間を経てはいるが、脳内過程では1瞬間しか過ぎていないのだ。

 なお、先日言ったように、生命と霊は違います。おそらく霊の時間は、肉体物質に引きずられない観念作用の速力、すなわち物質時間の233倍の、700年で3年に当たるのでは? 浦島太郎がそういっております。
 
 と続くわけですが、まあねえ、、、革命的過ぎてわかりにくいだろうねえ、とくに物質世界に時間があってもエネルギー世界に時間がないことなんてわかんねえだろうなあ、相対性理論など足元にも及ばぬ革命性。こんな革命性を人間が考えつくのも変じゃないかい? じつはわたしはにんげんではないのだ、、、が、まあいいや。
 ともかくも、そうした場合、宇宙的にも、地球的にも、体から10センチのこの空間にもその構造の切磋があるわけです。地球上某所に住む私と目の前のパソコンの画面上の液晶とは、宇宙的な関係にある。6000キロ離れていようと人間みな兄弟、あるいはプ~~ンと飛ぶ蚊も、みな親子。死ぬも生きるも岩石の変容と一緒、同じ構造内部の入り繰り。
 いや、そんな議論は前からしてますが、これに物質構造まで組み込むという進歩を得た、というわけで。
 
 暑くて序文が進まない。夜、冷房をつけて寝ると構成が浮かぶのですが、寝てるので消える、という。メモでもつけろ、といわれても、実は構成も何も序文で書くことは決まってまして、決まってることはばかばかしくてわざわざやってられない、誰か代わりにやって、というのが理由です。
 それよりか、(方言? 遠州弁とのこと。家の東京弁にはありませんでしたが、静岡言葉は小学校に案外流れてきました)、新しい、隈にしかできない演題を見つけてしまった。「社会主義経済学批判」。批判といっても「それがテーマ」の批判。「経済学批判」(マルクス)の批判ね。オカルトとはえらい違いだ。
 しかし、今回(=次回)が配本の最後という予定は消えず、2、3百枚でどっかへの投稿論文にするかな。
 
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オカルトの続き(脳と心)

2017-02-04 13:03:17 | オカルト(途中から)
 こんにちは。冬とはいえ道を選べば梅の香りさえ漂う今日この頃、昨夜は家にいたら突然の奇声が響き渡り。すわ、階下の住居に強盗か、と思いましたら引き続き幼児が喜んでキャッキャ言う声が。豆まきか。節分でした。いいですね、子ども家族。階下だし。
 
 さて、本日のニュース感想。
 悪人というものは、その人生で同様のことをやっておりますので、今さらながら何を言おうが言われようが平気の平左であります。
 トランプのことではありますが。
 トランプが悪いのは、バカなことだけです。これまでの実証社会学の通説のように、本来はトランプの資本家稼業が悪い。
 実証社会学は実は偉い。
 
 他方、一般人は、社会に指摘されれば襟を正すものであります。
 一昨日の朝日新聞には、「受験合格者の家庭に対し、一家全員分のプレゼントが届いた、なぜならば一家全員で応援してたからだ」 という話が投稿として誇らしげに載っておりました。
 「情けねえ、誰の受験だ。何が一家だ、くそでもくらえ。」 と思うのは爺いだけでしょう。
 同様に、家人の知らせるところでは、「昨日のニュースでは、中学受験のガキは、インフルエンザがいやなので受験前は学校をずっと休み学校もそれを許す」 んだそうであります。
 日本はどうしようもないクズばかりですが、それでも悪人ではないでしょう。
 早く社会的に、人間の人生はそんなものではない、という風潮が出てくることを祈りたいものですが、とりあえずそんな平和さは、軍国主義への、薄っぺらではありますが盾ともいえます。
  
 ま、どうでもいいや。さて、本日は続きもの2題。本題1、オカルト。
 
 前野隆司という人が『脳はなぜ「心」を作ったか』、という本を書いてます。今の手近にある図書館は、たいした本はないのですが、分かりやすいほ本はある。
 その趣旨を翻訳すれば、心は脳内の諸細胞の働きの結果としての統一物(ブツじゃないか、性だね)だ、というわけです。そんな言い方は前野氏はどこでもしてはいないけれど、先週も言ったように、人間は、言い方をまねするようでは何も理解していない、ということです。
 前野氏にいわせると、だからして「私」なるものは錯覚、諸細胞の反応の受動的な結果物だ、そうで。「私」とは脳内等での反応の仮の姿に過ぎず、諸細胞の活動停止とともに消える。
 ははん、なかなかクリアな物言いで感心いたしました。
 唯物的というか、即物的にはその通りに聞こえます。今まで初めて聞いたクリアさですね。
 
 ではありますが、この人は自閉症克服者のように思われます。
 多くの人間は、少なくとも私は、もっと他開的です。わざわざ「意図的に」身体や脳を活動させ、「意思」を実現させる。「『私』なんて受動的だよ。肉体や脳が勝手に動いてるのさ」 なんて前野氏の話を信じたら、普通、その場で座り込んで立ち上がらないでしょうね。意思なんて体内から湧き出るはずなんだから。でも、普通そのまま死んじまうわけですな、誰も抱き起こしてくれませんし。
 そうじゃないな。私なんかは毎日一生懸命主体的に生きてますよ。別に食事なんかしなくたっていいの。メシそんなに好きじゃないしね。でもそんなことは言ってられない。ほんと毎日一生懸命主体的に昼食を選びそして食べる。それが私です。
 普通、「私」とは、他の反応物と関連して「私」として行為できるのです。他の反応物の典型が人間。友だちや恋人や家族や敵のこと。もっとも庭の園芸植物、ということもありますが。「私」の死とは、普通、そこからの別離です。
 まあ、いまいちですね。
 
 で、上記はただの論の評価で、まとめ方が悪いだけともいえます。
 唯物的には確かに脳や肉体しか存在しないのだから。
 でもまとめ方を変えると、今までどおりの唯物論になってしまう。しかしていまいち。
 
 で、今までどおり、ということは、なるほどそれは50%正しそうだけれども、人間の疑問には答えていない、ということで。ここからがオカルト。
 
 人間の疑問とは、そんな統一性を醸出する脳内諸生物たちが、なんでころっと死んじゃうんだね、という問いです。人間にとって、あるいはその「統一物」たる心にとって、問題は死です。
 そりゃあ人間の本音は意識の死=心の死が問題なのかもしれないけれど、理屈上に問題なのは諸細胞の死です。なんでこの身体は死んでゆくのか。「死んだっていいが」それはなぜか。
 生物学上の答えは、「生命の連続のため」です。じゃあなんで生命の連続が必要なのか。
 人間にとって永遠の生命と、死んじまう心とは、不可分の問いなのです。
 ここ。ポイントは不可分、というところね。
 片方だけに答えても、答えにはなっていない。
 「そんな問いこそ、ないんだよ」というのは簡単だが、それは逃げだ。
 昔から、もっと粗野な形ではあるが、「私」という存在は肉体に付属するものとして捉えられてきた。「心の宿る身体」が「心が生まれる脳細胞」に変わったところで、これでは答えになっていないのだ。死んだら脳細胞から飛び立ってもよいのだ。
 ま、これが人間の疑問。
 まだオカルトじゃないよ、ここからね。
 
 第2に、まだ一部人間の疑問は続く。
 それではテレパシーや、庭の植物との会話ができる理由がつかない。
 どうでしょうか、この疑問はなかなかでしょう。
 これは昔習ったユーフォロジーの基本ね。 今はもっとモダンになってるかもしれませんが。
 「結果物を生産するスタンドアローンの肉体や脳」という存在ではなく、宇宙の波動の中で波動を共有する身体」という把握が、一番シンプルにテレパシーやその他の反応物との会話を説明できるのであります。
 こういうのを、武谷三段階論の「実体的段階」といいます。現象をつかんだら、これを説明する操作可能なモノを措定してみる。「操作可能な」という点がポイント。科学というものはそこから始まります。
 
 「現象、ってそもそもそんなもんあんのかよ」 って、そりゃ知りませんがな。
 ただ、何万人もの人があるっていうんだから、説明も用意しとかなきゃね。
 
 次、項を変えます。
 
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1年ぶりのオカルト(霊と生命)

2017-01-21 13:44:43 | オカルト(途中から)
 こんにちは。東京地方、通勤道の公園では相当多くの紅梅の蕾が開き出しました。今年は昨日が大寒だそうで、ありがたいことにもうこれからは暖かくなるわけです。といいながらひどい風。これで中身が雪ではたまりませんね。
 
 さて、本日のテーマはトランプということになるんでしょう。トランプの最良の日。上りつめたら後は下るしかないと。下るしかないと、何割の人が気づいているでしょうか。
 くだらなくて皆様と同じく内容のない悪口しか言いようのないところですが、まずは、今日以降、トランプ投票者の8割は苦虫を噛んだ顔になるでしょうね。わかっていながらも、今日見せ付けましたように、これからは大統領様ですから。下々の投票者たちとは身分が違う。本人や報道官の資本家づらが毎日テレビに出て、あれを見るたびに投票しなきゃよかった、と後悔するんでしょうね。
 で、半年ぐらいは思い通りにやるでしょうが、半年もたてば政策の影響も出るというもの。
 物価上昇、販売不振、自分の馘首。「そら見たことか」と反対派に言われてさらに苦虫が噛み潰され、ストレスで身体を壊して病院にいきたいがオバマケアがなくなって医療保険もやめてしまってた、という流れ。
 資本家はウハウハで株価は上がるが、1年もすりゃ誰でも先行きのないことに気づき大暴落。トランプ投票者はやっと就いた臨時の仕事も倒産により失業。踏んだり蹴ったり殴られたり。
 トランプも思い通りにならなくてめんどいから自主的に辞めちまうことでしょう。もう70だし後期高齢者もすぐ。

 というわけで、いちおう基本は抑えようと、このかん何冊も借りて読んだのがアメリカ政治関係本。全部むだ。事態をまじめに捉えようとなさるみなさまは間違って買わないように(借用は他館の予約取り寄せなので中身が見れない)。そこらで入手できるこの20年間の政治関係本は、全部評論かエッセイ。政治学者というのは、科学的・実証的根拠とか、って習ったことないんだろうね。「こんな制度だからこう推測される」「人と話したらこうだといってましたよ」 本。いつも思うのですが、本が売れないんじゃなくて、買わんでいい本しか売ってないんだよね、現状。
 そんな中では(題名に即さず)「現代アメリカ経済論」ミネルヴァが、まともでした。政治学じゃないからまともなんだ、とシンプルに思います。
 まあ、同情的に言えば、物事が州単位なんで実証するのも難しい、ということもあるかも。他はダメですがアメリカ論だけは、アメリカ人の研究の訳書のほうが、実証のあるのもありそうで、よいようです。
 
 さらに政治学の実りのなさにあせって借り込んだのが哲学本。これも30年間のは全部むだ。ほんとに哲学者って頭悪い。しかもどんどん悪化してるのでは?
 正しく言うと、哲学で食ってるために、哲学史が生んだ既に腐り切った論題をさらに食い散らかすんで腐敗物質が頭に回ってるんだね。設問が悪ければ答えなんぞ望むべくもない。こんな本にカネを使わされる人間が、いい面の皮だ。昔はまともな設問もありえた、ということですが。
 
 ま、そんなこんなで新知識の披露もできず、なんか役に立つことはないか、と本日はオカルト。
 1年ぶりの隈霊学。
 去年、16,1,1付けで、生命はエネルギー=物質とバーターで生まれた旨お話しましたが、ここで、注意。(って、はじめから眉唾な話ですから全編注意ですが)
 生命と霊は違う、あるいは違わなくてはならない。
 生命細胞の多様的構成物が人間なのでありますから、生命≒霊であれば、霊は多様な細胞によりひっちゃかめっちゃかになってしまいます。しかし、それでは古今の宗教のかけらも成り立たない。人間に関係のある霊的世界というのは、個別、人間個人として確固とした世界であります。単にエネルギー不滅の法則のように生命不滅の法則を唱えてもしょうがないのです。唱えた結果それが正しかろうが、そんな正しさは人間には役に立たない。それはミトコンドリアの世界であり、ミトコンドリアの霊の世界でしかないからです。
 人間の意味ある霊とはそうではない。問題は人間の意識がどうなっていくかであり、そのことだけのために幾百万の宗教家や呪術師が生きてきたわけです。
 そうした先達の教えの霊とは、人間を代表とする細胞多様体に理想的に固有なある種の構成物でなければならない。(そこらの木も多細胞の構成体ですわな。枯れて落ちる葉っぱは、ただの「部分」)
 かくて、霊は、生命が元の平準的宇宙の構成に戻ったとしても、その後に残り、しかし、時とともに消えてゆく、そうした好ましい存在だ、ということが理論上措定されるわけであります。なんとなれば、
 第1に、生命は全体であり不滅である。そこには時間の概念もない。ただ存在するのみ。
 第2に、しかしその一方、霊は個別の構成物であり、不滅であるはずがない、というわけです。不滅でない、「時」を持ったものが霊であります。
 ま、第3に、霊なんてない。という答えを否定しているわけではありませんが。
 しかし、この辺が心霊現象理解上、妥当な結論、全てを説明できる議論なんじゃないか、と思うものであります。
 こういう妥当本位な議論を、正統プラグマティズムといいます。知らんけど。
 
 春とは名のみ、寒い冬がもたらす思考は、ともかく暗いですね。
 
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樹木葬

2012-10-07 21:01:00 | オカルト(途中から)
 こんばんは。本日はこの前書いた樹木葬の日で(ほんと、リンクつけんのどうすんの?)休みをとっていってきました。
 千葉県、大原は天徳寺。 東京地方西部人間にはえらい遠いところですが。

 駅から遠い丘のような山の上の寺の裏が樹木葬地帯になっておりまして、一人分(2じゃない)1坪くらいで「お墓」になるようです。穴を掘って骨を埋めて、木を植えて、ご希望なら夫婦は同じ木になるそうで。
 友だちの木は蝋梅。隣り合わせにはならないように選択指定されるようです。

 周りは自然いっぱい。なかなかよいものです。さすがの友達と奥さんだと感心します。
 ただ、私には千葉は遠い、というかぜんぜん親しみがないからいまいちですが。わたし的には、やはり今のところ、菅平、四阿山に無断散布が一番。
 あ、なお、樹木葬は法的に「土葬」なのでお上の許しをえられるそうな。

 しかし、今日は納骨式の儀式もないので冷静に見れば、ただ、体の燃えカスをばらまいただけとも見え。 いやこれは失礼ですが。まあこうゆうのはお互い礼儀知らずの友達同士の話。
 燃えカスなんざどこに捨てようがどうでもいいとはいえます。 生きた人間て、肉や脳神経があってなんぼですよね。ホネなんぞあろうがなかろうが、といえば、骨の病気の人に怒られますが。骨でさえ残ってるのはその1部分だし。
 まあ、何百万かけて墓つくるというアホなことをしないという、さらには子孫に負担をかけないという(30年でまた山にするそうです)、そんな意味は大きい。どちらにしても儀式をするなら、このほうが何十倍も良い。(でも奥さんに見られると怒られそうな言い方だね)。

 さて本日は、オカルト。
 人間て、死ぬと
 1 坊主がいうように魂になる。
 2 唯物論者がいうように何も残らない。
 というのがありますが、わたしのような理系人間にはどっちもどっちだなあ、と思われます。
 
 1は根拠がない、というのはそのまんまですが、じゃあ2.
 やっぱ、世の中「気」というものが存在するでしょ。武道の話ですが。
 仮にそうだとすれば、理系的にはそれは肉体物質が作るものですよね。
 ところで肉体物質間の伝播、人と人との間の伝達は、魂がないとすると、これに介在する物質、たとえば空気を経ざるを得ない。
 そうなるといかようにも人間の「気は」は空気に残りますね。 見た目の「肉体物質」が消えても。 理系的には肌と外界は実は繋がっているんですよ。そうは見えませんが。
 女性は肌にクリームをつけますから分子レベルではつながっているのはわかるでしょうが、それ以上に、肌の最端の原子は、隣の「空気の」原子といつも友達ですよ。
 「気」がそうであれば「気持ち」もそうでない理由がない。であれば、「心」もそうでないはずがない。
 てなわけで、人間の気持ちは、ある程度「この世」に残る場合があると考えるのは理にかなってる気がしますね。あらたな思考はできそうもないですが。
 
 ま、だからどうというわけではなく。 「気」は空中や愛着物に残っても、体が燃えた後の燃えカスは、やっぱ燃えカスで。
 というわけで、どの説をとっても、「おこつ」に当人的意味はないですね。
 
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物質=エネルギー論の2つの帰結

2010-10-16 21:39:16 | オカルト(途中から)
 こんばんは。今日はカウンターラーメン屋の有線放送で太田裕美が流れ。
 『木綿のハンカチーフ』。味噌ラーメンに涙がこぼれ落ちそうでしたよ。おじさんだねえ。
 若いときは当事者だから『雨だれ』なんかなら涙流しそうに歌ったものですが。
   木綿の、、、なんて女の歌は他人事なんですけどねえ、、、おじさんてなんでも分かるのよね。

 今日はコーヒーブレイク。

 私とこのアドレスにBK1の宣伝メール
 「ホーキング、宇宙と人間を語る 」はいかが、って。
 そんな夢物語なら私のほうがうまくできるぞ。

 さて、宇宙ってでかいですよね。本日のyahoo検索の一番上の意見ですと、宇宙の星は2000億個の1000億倍もあるそうな。
 どんなもんじゃい。
 広さだと150億光年だとか。
 知らんわい。

 そんな話はヨタ話と聞いておけばよくて、本当は宇宙とはこんだけしかありません。
 これ、ほれ、それ、そんだけ。
    なに、宇宙とは私が今、目の前に出したこの指の、前方5センチの先の5ミリ径の空間のこと。

 さて解説で。

 E=mc2
 有名なエネルギー波動論の法則ですね。、、、違うか。特殊相対性理論。
 まあ、特殊な話はどうでもよくて、要するに地球的位置から重力法則を眺めると、こういう式が表す発想にならざるを得ない、あるいは積極的に、「そのことが理解される」ということで。

 別途、「EPR実験」でも明らかにされているように、(って昔からそんな名前だっけか? 忘れてネット検索したんだけど)人間の認識においてはエネルギー状態は、4次元以上の広がりを持つ波動状態を基本とします。今後量子力学や原子核物理でどのような計算結果が積み重なっていこうと、それは波動性の現象形態を数式化(厳密化)していくに過ぎません。原子を構成する粒子を構成する粒子のそのまた粒子はなんだ、ってむだむだ。まあ、600年もあればそれも分かるでしょう。ほんと、物理学なんて夢のないものをやらなくてよかった。

 (まあ、私にとっては、エネルギー界は波動でなくて濃淡でもよろしいのですが、それじゃ余計計算ができそうもなさそうな。)

 ともかく、宇宙とはそうした一律なもの、壊れたアナログテレビの画面(の波)が遥かまで広がっているもの。。

 とイメージできれば、しかして、宇宙とはこの指の先の5ミリ径の空間のこと、といってもわかりそうな。この5ミリ径の空間が(次元が違うために)逆に地球を呑みこんでいる関係、であれば「無限」が生じないのでイメージできるのでは??
 無限なんてありゃあしない。上に行き下に行き取って返して斜め上へ。広いようでも実はこの5ミリの空間相当、といって反論できる誰もいやしない。

 なんて考えるには、まあ、慣れもいるかしら。
 何しろ次元がいくらあってもよいのだから簡単なものです。

 さて、この帰結はもう一つあって、この関係のアナロジーは生命にも適用できる、というわけで。
 こちらは基礎データがなさ過ぎで、既にトンデモ学の領域ですが。ま、ここはコーヒーブレイク。学ではありません。
 生命というのは、物質界で「1」に区切られてゆく物質範囲の個体的反応世界の体系のことで、いまだ人力では作れない。まあ、学問するなら物理学よりこちらのほうが夢があります。
 で、大宇宙の砂粒以下の地球での生命、と思うとそんな存在は例外事態で宇宙的話題にすることさえ変かもと思われますが、先の伝ではたかだか指の先5ミリ径の空間構成素なので、これを埋める「生命次元波動」があってもよろしい、これが手塚治虫先生いうところの宇宙生命(火の鳥、、、これも(無駄に)長くて、と思うんですが、『COM』の1968年頃相当の部分が参考に)。

 さらに、この生命次元波動は、一部である理由はなくて、この5ミリ径の空間を覆いこんでいてもよい。そうなると、大日如来の世界ですね。なに、なんの根拠もないのですからなんだっていえる。
 なんだっていえるがキリスト教=イスラム教的にはまとめにくい、っていうか不可能じゃん。
  西洋宗教は小さいやねえ、、、何しろ実は民族宗教だし。
  って、仏教を褒めてると思われるのもいやだね。神道とくっつかなければ規範宗教にもなれなかったのだから、出来が悪いことも悪いんだよね。なんか、どこでもそう(地元アニミズムとくっついて規範部分を担う)みたいだよ。


   ま、というわけで、人間の宇宙信仰から無限を取り除くやり方の講義でした。
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