こんばんは。本日の季節のご挨拶ではアオズムカデ。ベランダに出した植木鉢経由かで部屋ん中を駆けずり回り、なかなか大変。刺しますから(噛みますから)お気をつけて。ハチ毒とのこと、刺されたら、お医者さんにね。
で、今回の役に立つブログ。ムカデは上質コーティングに弱い。大手スーパーのチラシの上に乗っかると、百本の足も滑って動けません。そこで、外に放り投げる。一件落着。
で、役に立たない世間話。靴下、タイ製靴下最悪だぜ。靴下は中国だね。シャツも中国。値段相応。
値段が高きゃあいいってもんでもなく、グンゼがひどくて結局戻ったBVD、盛大にほつれてるぜ、あんた。まあ、しょうがないね、あきらめてるぜ、BVD。昔はよかった。
というわけで、申し訳ありませんがとても忙しい。50歳代ですと平行して1.8は処理できたことももう1.2しかだめですので2倍忙しく、まあ退職後ちんたら暮らしてたむくいといいましょうか。(もちろん30代なら課題3つ、余裕だったぜ。それっていつ? って話ですが)
さて、とりいそぎ本日の話題はオカルト。お気づきの方はゼロでしょうが、当ブログ、オカルト話題も最近は「ごみため(断片)」ではなく「その他カテゴリー」で、一人前となりました。それなりの自信もございますぜ。
で、本日。
本来、生物にとって、常態ならざるときが苦痛の時である。常態、すなわち食うものを食って、その身体構造に適正な気候の時に生きていくこと。生物にとって、その時期は楽天である。まあ蝶々や蝉の普通の姿ですな。
それは、人間が自由を目指すのと同様である。人間は生態的に他人に指図されるいわれはない。そこがイヌとの違いですね。
さてそこで、真正の自由主義者の思いと同様に、生物とは、その常態が目指すべき事態である。普通に生きているのが一番いい。「動物なんか天敵に捕って食われるのが普通じゃないか」などと知った風なことをぬかす(客観主義的)プチブルやマックス・ウェーバーのことは無視したいと思います。お前らいいから炭坑で3年働いてからしゃべれよ。生きてれば、だが。
さてしかして、人間はあれこれと忙しいけれども、「今現在」でなければその先に、死後ないし、生の究極である、そこにおいて本来、生が目指す究極の地点が想定される。それはエネルギーの均衡地点である一方、生命にとっても究極の安住の地である。だってそれが普通なんだもん。「普通な事態」はいつかある。ところでそれはたとえば「人間」にとって「常態」であり、それこそが人間が求める安定状態である。それがいつかは別として、生命もいつかは常態を入手する。
どうですか、正しいアナロジーでしょう?
わかんない? 「死ぬのもいいことじゃないのかしら」と言っています。(=それが常態なのだから、人間、それが最適であるようにできている)
自分で言うのも素晴らしい。私も預言者になればよかった。
もちろん今からでもなれるのだけれども、幸いなことに、もっと同志のほうが大切、というわけです。
で、今回の役に立つブログ。ムカデは上質コーティングに弱い。大手スーパーのチラシの上に乗っかると、百本の足も滑って動けません。そこで、外に放り投げる。一件落着。
で、役に立たない世間話。靴下、タイ製靴下最悪だぜ。靴下は中国だね。シャツも中国。値段相応。
値段が高きゃあいいってもんでもなく、グンゼがひどくて結局戻ったBVD、盛大にほつれてるぜ、あんた。まあ、しょうがないね、あきらめてるぜ、BVD。昔はよかった。
というわけで、申し訳ありませんがとても忙しい。50歳代ですと平行して1.8は処理できたことももう1.2しかだめですので2倍忙しく、まあ退職後ちんたら暮らしてたむくいといいましょうか。(もちろん30代なら課題3つ、余裕だったぜ。それっていつ? って話ですが)
さて、とりいそぎ本日の話題はオカルト。お気づきの方はゼロでしょうが、当ブログ、オカルト話題も最近は「ごみため(断片)」ではなく「その他カテゴリー」で、一人前となりました。それなりの自信もございますぜ。
で、本日。
本来、生物にとって、常態ならざるときが苦痛の時である。常態、すなわち食うものを食って、その身体構造に適正な気候の時に生きていくこと。生物にとって、その時期は楽天である。まあ蝶々や蝉の普通の姿ですな。
それは、人間が自由を目指すのと同様である。人間は生態的に他人に指図されるいわれはない。そこがイヌとの違いですね。
さてそこで、真正の自由主義者の思いと同様に、生物とは、その常態が目指すべき事態である。普通に生きているのが一番いい。「動物なんか天敵に捕って食われるのが普通じゃないか」などと知った風なことをぬかす(客観主義的)プチブルやマックス・ウェーバーのことは無視したいと思います。お前らいいから炭坑で3年働いてからしゃべれよ。生きてれば、だが。
さてしかして、人間はあれこれと忙しいけれども、「今現在」でなければその先に、死後ないし、生の究極である、そこにおいて本来、生が目指す究極の地点が想定される。それはエネルギーの均衡地点である一方、生命にとっても究極の安住の地である。だってそれが普通なんだもん。「普通な事態」はいつかある。ところでそれはたとえば「人間」にとって「常態」であり、それこそが人間が求める安定状態である。それがいつかは別として、生命もいつかは常態を入手する。
どうですか、正しいアナロジーでしょう?
わかんない? 「死ぬのもいいことじゃないのかしら」と言っています。(=それが常態なのだから、人間、それが最適であるようにできている)
自分で言うのも素晴らしい。私も預言者になればよかった。
もちろん今からでもなれるのだけれども、幸いなことに、もっと同志のほうが大切、というわけです。