内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ポスト・コロナの哲学 ― 明るく澄みきった外気を歪ませる恐れの中で

2020-03-31 17:18:45 | 哲学

 まだいつ抜け出せるかわからない暗いトンネルの中にあって、トンネルの向こう側の世界を想像することは難しい。いや、この比喩は現在の状況を叙述するのにあまり適切ではない。私たちは暗闇の中を歩いているのではないし、トンネルのように道に迷う心配のない一本道を出口に向かって歩いている保証はないのだから。
 むしろこの晴れた空の下の澄んだ空気の中にあって、私たちは見えない敵を恐れている。その見えない敵は、しかし、見たところなんの危険もないはずの人間がその「運び屋」になってしまっているかもしれない。その人を介して敵は私に襲い掛かってくるかもしれない。
 いや、そんなことはめったにあることではない。わが身を守るために十分な対策を怠らなければ大丈夫なはずだ。しかし、一抹の不安は拭えない。そんな不安がただすれ違うだけの人に対してさえ、何気ないそぶりを装いながらも、警戒心を抱かせる。その人が咳一つでもしようものなら、十分な距離をとっていたとしても、疑惑の目を向けてしまう。そして、それは相手も同じだ。そんな相互的な疑心暗鬼が澄んでいるはずの外気を「汚染」している。
 仮に数週間後に外出禁止令が解除されても、私たちはまるで何事もなかったように、もとのようにふるまうことは当分できないだろう。いや、もう元には戻れないかもしれない。ウイルスが完全に撲滅されないかぎりは。しかし、現在猛威を振るっているウイルスが仮に撲滅されても、また新たな、そしてより強力なウイルスが出現しないと誰が保証できるだろうか。
 「対ウイルス戦争」という一見わかりやすい比喩はたぶん私たちをよりよい世界には導かないだろう。「敵味方」、「勝ち負け」、あるいは「犯人捜し」といった比喩も私たちの心を歪めるだけだろう。
 ポスト・フクシマの哲学が必要だとすれば、ポスト・コロナの哲学もまた私たちは必要とするだろう。そして、勝利を収めた後の「戦後」にそれについて考え始めればよいのではなく、今、始めなくてはならない。幸いにも、そのための時間を私たちは与えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「歩行的」思考によって心身を活性化する

2020-03-30 22:51:09 | 雑感

 三月一日にいつものプールに泳ぎに行ったのを最後に、運動らしい運動をずっとしていなかった。そのプールが年に二度の定期点検期間に翌日二日から入り、十六日に再開される予定だったのだが、新型コロナウイルスのせいですべての公共施設がその日に閉鎖になり、さらに外出禁止令がその翌日発効してしまい、十年以上続けてきた水泳を日常的に継続することが不可能になってしまった。
 しばらくは外出する気にもなれず、十日ほど買い物以外はずっと家に閉じこもっていた。一週間もすると、体が鈍ってきたのがわかる。さすがにこのままではいけないと思い、先週水曜日からウォーキングを始めた。規則を律義に守り、特例外出証明書を印刷し、それに署名をして携帯し、きっちり一時間歩いた。いい天気だったこともあるが、やはり外を歩くのは気持ちがよい。土曜日まで四日間、毎日コースを変えて歩いた。昨日日曜日は終日曇天の寒い一日だったので休んだ。今日はまた昼に一時間十分ほど歩いた。
 こんなことになる前は、大学までの行き帰り・買い物等、外出時は自転車での移動が圧倒的に多かった。とはいえ、自転車を趣味としているわけではないので、所要以外で自転車に乗ることはほとんどなかった。だから、用があって行くところ以外は近所であっても通ったことさえなかった。ウォーキングを始めて、行く用のないところを歩いていると、いろいろと発見がある。それに、自転車だったら気づかないまま通り過ぎてしまうような細部にも気づく。
 自転車に乗りながら考えごとはしにくいし、できてもしたら危険だ。近所を流れる川に沿った遊歩道や運河沿いの歩行者専用道路を歩いているかぎり、身の危険はない。速歩で歩きながら、考える。机に向かっての「静止的」思考とは明らかに脳の働き方が違う。「歩行的」思考は心身を活性化し、思考を前向きにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


簡潔に問題の核心を突く見事な日本語が書ける学部三年生

2020-03-29 08:31:28 | 講義の余白から

 「わかる」と「理解する」との違いはどこにありますか。これが宿題として出した課題でした。昨日が締切り。提出者は27名。
 その中で、私が録音講義で説明したことをもっとも正確に把握していたのは、いつも真っ先に宿題を提出してくれる学生でした。その文章は実に立派なもので、全文掲載に値するのですが、かなり長い文章なので、ここにそれに対する称賛の言葉を残すことで掲載に代えさせていただきます。というは、その一部だけ引用してもその文章のよさをうまく伝えることができないからです。つまり、論述の展開の仕方が見事なのです。
 その他、文章そのものは掲載しませんが、面白い観点を提出している例をいくつか挙げておきましょう。村上春樹の英訳者の「People don’t わかる things, things do わかる : they are understandable」」という見解を引用して論を展開しているもの、人類学的な観点から第三の比較項として「共感」を導入したもの、免疫システムを「わかる」に比定したもの、「サッカーの一流選手はボールの扱い方がよくわかっているとは言えても、その人が球体の力学を理解しているとは言えない」という文を考察の軸に据えたもの、子供のころからずっと話しているアルザス語が「わかっている」状態から、それを人に教える経験を通じて「理解する」過程に移行し、その経験がより深く「わかる」ことをもたらしたという自分自身の経験を語ったもの、「わかる」と「理解する」の違いが日本社会の「内」と「外」との違いに対応していることを指摘したものなどがありました。
 さて、本人から掲載許可が得られた文章の半分ほどを掲載しましょう。カットの理由は二つあります。一つは、その部分には、残念ながら、ちょっと文に乱れがあり、それをそのまま掲載するのはご本人に失礼だし、私が添削したものを掲載してもあまり意味がないということです。もう一つは、その部分には、先週の宿題「日記と自伝の違いは何か」の解答を前提として書かれているところがあるので、それを読んでいないとわかりにくいところがあるということです。
 まずタイトルが他の学生と違います。他のほとんどすべての学生は、宿題の課題そのままかほぼそのままをタイトルとしていたのですが、この学生はタイトルを「心と頭」としたのです。これだけで、この文章は問題の核心を突いているだろうと期待できます。では、読んでみましょう。

 一言でいうと、「わかる」とは物事とその具体性を直観的に認識することです。それに対して、「理解する」とは物事のメカニズム、あるいはその抽象性を論理的に認識することです。したがって「わかる」と「理解する」の二つの深い意味は、一見したところで近いようでも、実際にむしろ逆の意味合いを含みます。つまり生得と習得、無意識と意識、感覚と実証などという概念に繋がっています。
 また「理解する」の場合には、「が」という助詞の代わりに「を」という助詞を使用するのが、ある物事を制御できるように、その物事の構造を認識する必要性を示しています。一方、精神的な観点から見れば、「わかると理解する」は「心と頭」というアナロジーも呼び起こすでしょう。

 ここまででわずか310字です。長さの制約として400から600字としてあり、その制約の中でこれだけ簡潔かつ的確に問題の核心を突いているのが素晴らしい。一字の直しも入っていません。そして、カットした部分のあと、最後の一文はこうなっています。

サルトルが発言したように、「実存(わかる)は本質(理解する)に先立つ」かもしれません。

 これ、念のために申し上げますが、日本人が書いたのではありませんよ。日本学科学部三年生が書いたのです。このテーゼが正しいかどうか、ここでサルトルを引用するのは妥当かどうかがここでの問題ではありません。これだけ簡潔に(おそらく何度も推敲したのでしょう)人に考えさせる力をもった文が書けるというところを私は特に高く評価しているのです。
 この記事を読んでくれている方たちの中には、私の明日の日本語の講義を受講している学生たちもいるから、君たちに予告しておきます。
 明日の課題はもっと難しいから覚悟しておきなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この難問に正確に答えることができれば世界の見え方が変わるであろう

2020-03-28 20:13:55 | 講義の余白から

 さて、昨日の課題の話の続きです。
 月曜日の学部三年生の日本語だけで行う授業で、思い切って哲学的な問題を出したのです。この問題は私の「十八番」の一つで、過去に二回日本語で講演していますし(その要旨は2015年1月6日の記事が初回で計八回の連載「自己認識の方法としての異文化理解」を参照してください)、この二月の日仏合同ゼミでも話題にしたところ、日本人学生たちに大変受けがよかった話です。
 その講演のために準備した日本語のパワーポイントを使いながら、日本語として彼らにとってかなり難度が高かったばかりでなく、哲学的にも相当に高度な説明をした上で、「「わかる」と「理解する」との違いはどこにあるでしょうか」という問いを宿題として課したのです。この難問に日本語で答えろという恐るべき課題です。
 単に自分の言語感覚に基づいて説明しろということではありませんし、辞書を調べても答えは見つかりません。というか、辞書の語釈からだけではこの両者の違いは見えてこないのです。両者の違いを論理的に説明することが求められているのです。
 どうしてこんな難問を出したかというと、この問いに明確に答えられるほどに両者の違いがしっかりと把握できるようになると、これは確信をもって言えますが、それ以前と世界の見え方が変わってくるからです。すくなくとも、今まで漠然と同じように見えていたものの間の違いがより明確に見えるようになるからです。
 課題を与えた後に、さすがにやりすぎたかなあ、「難しすぎます」って文句を言ってくる学生がいるかなあと案じていたのも事実です。しかし、その懸念はいい意味で裏切られました。すべての学生とは残念ながら言えませんが、多くの学生が、こんな危機的な状況にありながら、この問いと正面から向き合って、いい解答を書いてくれたのです。その中でも、日本人の学部学生だってここまでよく考え、正確かつ簡潔な日本語で表現できますかって言いたいくらい傑出した解答が先ほど届きました。
 すぐにもそのまま掲載したいところなのですが、いくら匿名にするとしても本人の許可を得てからにしたいので、もし許可が下りたら、明日掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今必要なのは偽善的な「教育の継続性」ではなく、世界の新しい見方である ― K先生の『虚空咆哮録』(発禁)より

2020-03-27 19:42:59 | 講義の余白から

 昨日は私個人としては反省の一日でした。が、そんなことはどうでもよろしい。新型コロナウイルス感染爆発による危機的状況はさらに悪化し続けています。フランスでは火曜日に16歳の少女が亡くなりました。若い子たちは重症化しないから大丈夫などと能天気なことはもう言えなくなりました。
 そんな状況ですから、あまりおめでたい話はできません。というか、ありません、そんな話。
 でも、私は、こんな状況だからこそ、「守り」に入るのではなく、「攻め」に出るべきだと考えました。と言うといくらなんでも大げさですが(いつものことです、私の場合、どうかお許しを)、大学教員として自分が直接関わっている学生たちのためにいくらかでも心の支えになるにはどうしたらいいだろうかと考えました。
 正直、こんなときに「教育の継続性 continuité pédagogique」とか嘯いている場合かよ、と思います。学生たちに対して「大丈夫ですよ。授業および教育的サポートは何があっても継続されます」とか大学当局は繰り返していますが、それは嘘ではないにしても、はっきり言って、そんな言説が今ほんとうに大事なのかよと疑問に思います。言うまでもないと思いますが、個々の教員たちの献身的な努力にケチをつけるためにこんなことを言っているのではありません。まったく逆です。
 ただ、今の彼らに必要なのは、「継続性」ではなく、「新しい世界の見方」だと私は考えます。いまだかつて経験したことがないような現在の状況だからこそ、「大丈夫、これまで通り世界は続くよ」ではなく、今までの見方を本気で変えなくてはいけないのではないのだろうか、と学生たちに問いかけるべきだと私は考えています。なぜなら世界の未来を担うのは彼らなのですから。
 私は授業を通じてそういう課題を出すことにしました。そうしたら、これは本当に嬉しいことなのですが、彼らが「乗ってきた」のです。どう彼らが乗って来たかって? それは明日のお楽しみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


反省の一日 ― 「急いては事を仕損じる」の巻

2020-03-26 21:42:23 | 講義の余白から

 今日は近現代文学の講義の録音をして正午過ぎにサイトにアップした。ほんとうに時間ぎりぎりだった。もう時間割を守る必要はないから、少しぐらい遅れたってどうってことはないのだが、こちらが時間にいい加減になれば、当然学生たちの方でもそうなってしまう。それは好ましくないと思って、時間割上の開始時間にはアップしようとスライドを準備していたが、準備に思った以上に時間がかかってしまった。
 駄目ですね、慌てると。言い間違いは多くなるし、言葉に詰まってしまうし。ひどい出来だった。ほんとうにゴメンナサイ。
 プロレタリア文学と新感覚派が今日のテーマだった。二部に分けて、前半は教科書に則った説明。こっちはまあ一応大過なくとは言えるかもしれないけれど、全然気が入らなかった。正直、今こんなことしゃべっている場合かよっていう思いが頭をよぎりながらだったから、明らかに集中力に欠けていした。
 話しながら、準備したパワーポイントのミスにも気づいた。教室だったら、「あっ、ここ間違っています。訂正してください」って言えば、一応その場で片が付くが、事前録音の授業だとそのお粗末さが記録に残ってしまう。
 後半も駄目だった。小林多喜二『蟹工船』、横光利一『日輪』『蠅』『機械』『旅愁』、川端康成『伊豆の踊子』『雪国』からの抜粋を朗読したのだけれど、噛んでばかり。本文のタイプミスも少なからずあった。作家にも作品にも申し訳ないし、学生たちにも申し訳ない。
 そんなこんなで反省の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 


私のキキ・カンリ ― 私は君たちのそばにいる

2020-03-25 18:32:01 | 雑感

 あらかじめ申し上げておきますが、今日の記事の内容はかなり乱暴かつ不適切な文言を含んでおり、一部の方々にはご不快な思いをさせるかも知れません。しかし、ますます厳しくなった外出禁止令のせいで頭がおかしくなったから、以下のような暴言を吐くのではけっしてありません。
 外出禁止令が発令される前からのことですが、私は、夜は早く寝て、午前三時頃起きて仕事を始めるのを習慣としておりました。仕事が溜まっているときは一時間起床を早めます。さすがに深夜にメールを送ってくる人は少なく、それだけ仕事に集中しやすいからです。もちろん時差がある日本からはその時間帯にもメールが届くことはありますが、それはほとんど急を要するメールではありません。
 ところが、ますます危機的な現況においては、いつ緊急メールが入るかわかりません。実際、昨晩、十時頃、一通のメールが学部三年生から届いていたのです。それは本人がかなりパニック状態にあることを示している内容で、すぐにも対応すべきでした。ところが、私はすでに就寝していて、そのメールを見たのは午前三時過ぎでした。「しまった」と思いました。
 過去の経験からも言えることなのですが、こういうときに大切なのは初期対応の迅速さなのです。本人を少しでも安心させるためには速さが重要です。それを逃してしまいました。起床してすぐに本人にメールを書き、すぐに問題に対処する旨伝えました。直ちに関係する教員たちに状況説明のメールを送り、ある回答を求めました。
 ここからは残念ながら私の意志ではどうにもならないところがあります。直ちに応答してくれる教員もいますが、再度請求しなければけっして答えないのもいる。再三の要求にやっと答えてくれた、やれやれとメールを開ければ、言い訳から始まっている。「そんなものいらねえんだよ! そんな暇があるなら、直ちに答えろ!」 怒りを鎮めるのは容易ではありません。
 教員も学生も人間です。みなそれぞれに個人的事情があり、家庭があり、家族があります。それはその通りです。でも、教員であるかぎり、プロとして最低限の義務、いやそんなことはどうでもよい、もっと端的に、人間的義務があるのではないですか。
 とりわけ今のように過去に例のない危機的な状況では、若い学生たちのほうがはるかに精神的に弱いのです。彼らを守ってあげることはできません。そんな力は残念ながら私たちにはありません。でも、教科を教えていればそれで事足れりと思っているなら、それは大間違いだと私は思います。今必要なのは、教科内容の継続性などではない。彼らの心をサポートすることです。
 もちろん、私たちは教員であって、カウンセラーではありません。本当に深刻なケースは専門家に任せるしかありません。しかし、今の状況は一部の特定の学生たちにのみ関することではなく、その全体に関することであり、彼らはすべて多かれ少なかれ精神的に不安定な状態に置かれています。そんなときに宿題がどうの、課題がどうのなんて、はっきりいって、どうでもいい。
 私が間違っていると思うならそれでいい。この危機を乗り切ったら、さっさと辞めてやるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


毎朝焼きたてのパンを届けるように「心の糧」を届けることができるなら

2020-03-24 17:54:25 | 講義の余白から

 日曜日、私の授業に登録している三年生たちに以下のようなメッセージを送った。

Dans la situation actuelle où l’on aurait le droit de pouvoir se décourager face à la crise sanitaire sans précédent, en souhaitant vous offrir un texte de lecture en japonais fraîchement rédigé chaque jour, je voudrais vous inviter à visiter mon blog (cliquez ici pour y accéder) où je mets un article tous les jours depuis sept ans. En gardant strictement l’anonymat, j’y parle de temps en temps de mes cours que vous suivez. Mes textes peuvent être trop difficiles pour vous, mais je tiens à vous dire qu’ils sont rédigés très soigneusement et peuvent fonctionner comme modèle pour vous.

 私にできることなど高が知れている。でも何かできないか。それで上掲のメッセージにあるように、私のブログを見てほしいとメッセージを送った。何人かの学生からはすぐにリアクションがあった。「少し元気が出た。ありがとう」「とても興味深い」「でも、難しい……」(スイマセン)。
 毎朝焼き立てのパンを届けるつもりで(といっても記事のアップは原則夕方以降だけれど)、私は彼らにこのブログを通じてメッセージを送り続けたい。
 誰もかつて経験したことのない現在のような困難な状況下に置かれれば、誰だって多かれ少なかれ精神に変調をきたしたっておかしくない。年齢を重ね、あれこれ人生経験を経、いつ死んだって驚くに値しない私のような黄昏人間より、ウイルスに対しての抵抗力はあるが人生経験が浅い若い彼らのほうが、いつまで続くとも知れない不確実性の中で孤立すれば、実は精神的には壊れやすいのだ。こんな状況に対しての免疫が彼らにはない。特に、家族から遠く離れて大学宿舎やアパートに独り閉じ込められていれば、気が変になったっておかしくない。
 実際、昨日、同僚から「どう対処したらいい」とメールが届いた。その同僚がいわば担任しているグループの学生の一人から「死にたい」とメールが届いたのだ。すぐに私はその学生に「どんな様子か聞かせてほしい」とメールを送った。こんなときメールじゃだめだとわかっていた。だが、さしあたり、他に手段がなかった。その間、もう一人の同僚が知り合いのカウンセラーなどに問い合わせてくれた。
 幸い当該の学生から今日午前中に返事があった。今のような危機的状況になる以前にすでに本人が個人的に追い詰められていたことが文面からわかる。「私たちは君を助ける準備はできているから、電話をしてほしい」と返事をすぐに送った。その後、返事がない。今どんな様子なのかわからない。心配だ。
 学生たちがこんな困難な状況の中でも意気阻喪せずに勉強を継続する意志を保ち続けるためにできるだけのことをしてあげたい。こんなときに必要なのは、ほんとうに「心の糧」なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初めての録音講義 ― あるいは嫌いな自分に堪えるということ

2020-03-23 17:56:52 | 講義の余白から

 午前3時起床。時間割上は今日月曜日の正午から午後2時に組まれている「日本の文明・文化」の講義の準備とその録音に取り組む。昨日まではパワーポイントの録音機能を使おうと思っていた。ところが、それだと各ページ上のアニメーションやページの移動と録音をシンクロさせるにはどうしたらいいのかわからないことに間際になって気づいた。その点、ZOOM なら簡単だ。オンライン講義の場合と同じように共有画面を録画すればよい。欠点は、動画データとしてはとても重たくなり、大学のイントラネット上の講義用のページにはアップできないことだ。幸いなことに、Unistra.pod という動画データ用のサイトが大学のイントラネット内にある。そちらにはなんの問題もなくアップできた。だれがアクセスしたかはチェックできないが、アクセス数はリアルタイムでわかる。大学の学生・教員・職員ならば誰でもアクセスできる。もちろんパスワードを設定してアクセスを制限することもできる。
 初回にしては大過なく録画できた。録画といっても私の顔はいっさい映らない。そんなもの、いらない。画面に映るのは、パワーポイントで作成したスライドだ。それを操作しながら講義と同じようにしゃべるのを録音していった。2時間通しの録音は、話す方も疲れるし、聴く方も疲れる。だから前後半の二部にわけた。前半は一発で成功した。後半はよし終わったと思って確認したら、画面共有設定にするのを忘れていて音声しか記録されていなかった。やれやれ。しかたなしにやり直す。一時間損した。
 自分の声を聴くのは好きではない。いやというほど発声上の欠点があからさまになるからだ。嫌いな自分がもっと嫌いになる。まあこれも修練だ。相手にとってより聞き取りやすいしゃべり方を、今さらながらだが、身につける機会と捉えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


引きこもる強さをもつための哲学

2020-03-22 16:39:26 | 哲学

 昨日は終日、曇天から氷雨そぼ降る一日だった。一歩も外出しなかった。今日は一転して一昨日以上によく晴れた一日だった。ただ、気温は低め。一昨日より十度低い。風もある。書斎の窓前の樹々が小刻みに震えている。その背後の青空が痛いほど目に染みる。
 プールに毎日通うことをここ十年の規則としていた私としては、それができなくなったことは辛い。でも、それは皆同じことなのだから不平を誰かに言うことでもない。水泳と買い物は別として、大学関係の職業的義務を除けば、ほとんど引きこもりのような日々を送っている私は、今回の外出禁止令のインパクトは限定的だ。
 とはいえ、外出禁止令が何週間も続くとなれば話は別だ。それなりのストラテジーが必要になってくる。水泳でここ十年間鍛えてきた体がこの禁止令によって鈍ってしまうのは面白くない。かといって、室内でのストレッチなどで置き換えるのは本意ではない。呼吸法と日常の所作に意識的に負荷を加えることで、さしあたりの数週間は乗り切ろうと思う。
 悪いことばかりではない。先週月曜日からの大学閉鎖とその翌日からの外出制限令とのおかげで物を考える時間がより増えた。それを利して思索を深めておきたいテーマがいくつかある。
 先の見えない重苦しい身体的・物理的制約は精神に悪影響を及ぼすこともできる。しかし、それはいつでも起こりうることだ。だから、それらに乱されないようにする魂への恒常的な配慮が必要だ。それこそが哲学だと私は考える。