内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「クールJAPAN」とか言ってる場合かよ ― 失望の果てに光明は見えるのか

2019-09-30 23:44:54 | 哲学

 なにやら喧嘩腰のタイトルをご覧になって怪訝に思われた方もいらっしゃるかと思う。今日の記事は、諸方に差し障りがないように、当事者以外にはなんのことかわからないような言い方になってしまうことをまずお許しねがいたい。今私がどこでこれを書いているかも言わない。
 今日オブザーバーとして参加した研究発表会の発表内容にはヒドく失望した。研究発表と言える水準に達しているものは一つもなかった。中には、高校生だって、ちょっと気の利いた生徒ならもっとましな発表するぜというレベルの低さであった。それは、二人の日本人の発表者を除いては、日本語での初めての発表だったというハンディを差し引いても、である。一言で言えば、「面洗って出直してこい!」に尽きる。
 それでも、オブザーバーとしての責任は果たしておかねばと(こういうところが律儀なんだよなぁ)、本当にどうしようもない発表以外には、一応コメントを、それもけっこう長く述べた。ディレクターや他のオブザーバーや参加者たちにはそれなりに聴いてもらえるような話をしたつもりだが、肝心の発表者たちには、なんとかに小判、なんとかに真珠でしかなかった。むなしさのため息を出すのももったいない。
 長く書いても愚痴にしかならないから、もうやめる。寝る。
 あっ、主催者・協賛者のために一言。レストランの料理は美味、雰囲気も良く、ほぼ満点でした。アリガトウゴザイマシタ。
 それでは、おやすみなさーい。












明確な方法論に基づいた近世・近代再考、そして共生社会構築のためのヒント

2019-09-29 15:13:10 | 読游摘録

 大橋幸泰の『潜伏キリシタン』の序章には、同書で採用された三つの方法が明確に述べられている。
 第一が、呼称への注目。キリシタンがそれぞれの時代にどのように呼ばれていたかを見ることで、その呼称を使用する人びとが対象に対してどのような意識と評価をもっていたかを探り、キリシタンに対する意識と評価の変遷を辿る。その変遷過程は、当時の社会状況の変化とも相関的である。
 第二は、異端的宗教活動という横断的な枠組みで潜伏キリシタンを捉えること。各宗教について個別的に問題を見るのではなく、世俗秩序を脅かす存在としての“異端”として、横断的にそれらの活動を捉え、その上で、潜伏キリシタンの営みの特異性を明確化する。
 第三は、属性論という認識方法。キリシタンに限らず、どんな宗教活動に関わる者であっても、社会において信者という属性しか持たないということはありえない。社会において、一人の人間が複数の属性を持っているのは当然のことであるが、宗教が問題にされるとき、この点が看過されがちである。しかし、江戸時代を通じてのキリスト教信仰の継続を、信者の強靭な信仰心によってだけ説明することには無理がある。
 これら三つの方法を用いながら、キリシタン禁制という宗教政策の変遷と近世人との関わりについて検討することを通じて、宗教統制から宗教解放の時代への転換とイメージされやすい、近世から近代への秩序の転換の実態とその意味について本書は考えていく。
 今年の一月に書かれた「学術文庫版へのあとがき」からも少し摘録しておく。

信徒はキリシタンという属性だけで生きていたのではない。キリシタンをめぐる問題はもっと複雑である。「強い」「弱い」という、キリスト教教団の側に立った評価で彼らの動向を割り切るのではなく、生業や村民といったキリシタン以外の諸属性を念頭に置いてこそ、ようやくキリシタン信徒の営為の意味を理解できる。

潜伏キリシタンから私たちが学ぶべき点は彼らの復活ストーリーではない。潜伏期における諸属性の共存という事実にこそ、二十一世紀に生きる私たちは注目すべきではないのか。異なる属性の人びとの共存状態が破壊されつつあるいま、諸属性が重層的に存立していた潜伏キリシタンと彼らを取り巻く近世社会に、共生社会構築のためのヒントが隠されているように思う。













現代の息苦しさの原因を見極め、未来を希望あるものとして展望するために ― 大橋幸泰『潜伏キリシタン』

2019-09-28 19:55:36 | 講義の余白から

 教科書的に通り一遍に近代史を駆け足で話すのではなく、一定数の問題に限定し、それらの問題それぞれが開く視座から日本近代史を中世末期から現代まで見通すパースペクティブの中で読み直す。私が今年の講義で試みていることである。そのために参照すべき日本語文献には事欠かない。しかし、学部生の日本語文献読解能力は、比較的平易な現代語の文献であっても、まだ十分とは言えない。そこで、授業では、それらの文献の内容をフランス語で紹介しながら、日本語原典の一部を読ませる。
 大橋幸泰氏の『潜伏キリシタン』(講談社学術文庫、2019年。初版、講談社選書メチエ、2014年)は、そういう私の意図にまさに応えてくれる一書だ。
 著者は、序章「キリシタン」を見る視座」で、現代の息苦しさがどこから来るのかを問うて、近視眼的に直近の現代史の中にその理由の求めるのではなく、もっと長期的な視野をもって、その原因を見極めたいと言う。「そうすれば、“いま”という時代はどのような時代であるのかを理解することができると同時に、この先の未来を希望あるものとして展望するために何が必要か、という見通しも立てることができる。」その具体的な材料として、著者は宗教活動に注目してきた。

科学技術が高度に発達した現代、なお宗教活動はさかんである。過去に宗教を頼りにした人びとは多かったし、いまもたくさんいる。科学が私たちの疑問のすべてに答えてくれるわけではないから、科学が進展することと、人びとが宗教に救いを求めることは決して矛盾しない。宗教は、これまで世界中のどの地域のどの時代にも存在していたし、人類の知では解決できない難問―たとえば、人は生まれる前にどこにいて死んだらどこへ行くのか、人はなぜ生きるのか、など―が存在する限り、今後も消滅することはないだろう。宗教を無視して過去も現在・未来も語れない。宗教やそれに関わって起こる事件にそれぞれの時代固有の特徴が刻印されているとすれば、宗教に注目することは、右に指摘した現代の息苦しさの原因を見極める近道ではないか、というのが筆者が宗教を材料に歴史を見ようとする理由の一つである。

 この箇所は授業では前置きとして説明するに止め、次の箇所を来週までに訳してきなさいと宿題にした。

近代国家の条件として政教分離や信教の自由の保障も必要であるとされたこともあって、政府は神道の優位性を保ちつつ新たな位置づけを模索していき、たどり着いたのが神道非宗教論である。つまり、キリスト教をモデルに religion の訳語として宗教の語が定着するのと、神道非宗教論とは表裏の関係にある。この結果、神道は国家儀礼としての地位が与えられることになり、これがのちに国家神道と呼ばれていくようになる。確かに表面上は政教分離が実現したように見えるが、国家儀礼に位置づけられた国家神道の存在は事実上、すべての宗教の優位に立つことになった。











日本と西洋のファースト・コンタクト ― 「キリシタンの世紀」(下)

2019-09-27 21:08:47 | 講義の余白から

 今日の授業は、前半は順調、後半も永原慶二著『戦国時代』を主軸とした展開までは、読ませたいテキストはほぼ予定通り提示できた。残り四十分となったところで渡辺京二著『バテレンの世紀』に移る。この時点で、大橋幸泰著『潜伏キリシタン』に依拠した展開は、今日は無理、来週以降に送り込もうと判断し、『バテレンの世紀』からの抜粋とそれについてのコメントに残り時間すべてを割くことにした。
 以下は、パワーポイントでスクリーン上に投影した引用箇所そのままを再現する。授業では、それぞれの表現あるいは文章について、留保や疑義も含めたコメントを付しながら進めた。そのやり方は、キーノートだけもらって、後はその場のインスピレーションに応じて即興で展開していく演奏に似ているかも知れない。

ファースト・コンタクト

最初の出遭いのとき、両者の関係は対等であった。

この一世紀の間、日本人と西洋との関係はキリスト教の受容という一面に限られていたわけではない。これは両者の最初の出遭いであり、しかも長期かつ濃密な接触であったから、貿易はいうまでもなく、文化全般にわたる交渉と相互浸透がみられた。

だが、両者の関係を主導した貿易自体、少なくともポルトガル、スペインの場合、キリスト教宣教という強力な動機の支配を免れるものではなかった。

近代世界の幕開け

カトリシズム海外宣教は世界のヨーロッパ化の旗印

広範な世界観的・思想的意味合い

日本人はキリスト教という姿見に映ったおのれを発見した。

西洋人に対して何らの劣等感も先入見も持っていなかった。

この出逢いの特徴は、非対称的なものではなかった。

ポルトガルは、アジア海域という世界経済の中心に、世界の周辺から馳せ参じた新参者にすぎなかった。

「キリシタンの世紀」は、日本が世界有数の銀産出国であった時代と重なる。

 ここまでで時間切れ。続きは来週金曜日に。












日本と西洋のファースト・コンタクト ― 「キリシタンの世紀」(上)

2019-09-26 21:30:08 | 講義の余白から

 明日の授業は、日本がはじめて西洋と出遭った1543年から1639年までのいわゆる「キリスト教の世紀」がテーマである。
 日本とヨーロッパとの「ファースト・コンタクト」というテーマは、それ自体がきわめて重要なテーマであり、私自身それに大変強い関心を持っている。しかし、この講義では、あくまで幕末から明治維新にかけての「セカンド・コンタクト」の特徴を浮き彫りにし、それを相対化し、16世紀から今日までをカヴァーする世界史的視野の中に位置づけるための準備作業として、「一話完結」で取り上げるにとどめる。
 授業の前半では、フランス語で書かれた日本史の本を何冊か参照しながら、16世紀半ばから17世紀前半の歴史について、学生たちにとっては一・二年での既習事項をざっと復習する。
 後半では、日本語で書かれた歴史書三冊を紹介しながら、日本における「キリスト教の世紀」を世界史的視野の中に位置づける。
 その一冊目は、一昨日昨日紹介した永原慶二の『戦国時代』、二冊目は、渡辺京二『バテレンの世紀』(新潮社、2017年)。
 三冊目は、大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社学術文庫、2019年。初版、講談社選書メチエ、2014年)。本書は、「キリスト教の世紀」以後がテーマだが、研究対象へのアプローチの方法論がとても明確に提示されていて、学生たちの参考になると思うので是非取り上げたいと思っている。時間が足りるかどうかちょっと心配だが、時間切れになれば、来週にまわすつもり。
 明日の授業の後半では、永原書の「おわりに―日本歴史上の戦国時代」から摘録した数箇所にまず訳を付け、それにじっくりと解説を加えていく。
 摘録箇所は以下の通り。
 「一六世紀は日本がはじめて東アジア世界にとどまらず、ヨーロッパと現実の結びつきをもつことによって、文字通り世界史の一環に連なった時代だということである。」
 「極東の日本はこのときからヨーロッパとアジアが直結した世界史の中に置かれることになった。」
 「国際化の進展が「日本」というナショナルな意識と新しい国家体制への関心をめざめさせてゆく。「天下人」信長・秀吉はその意味で「世界史の中の日本」をはじめて現実にみずからの政治地図に見いだした人物であった。」
 「真に疾風怒濤とよぶにふさわしい変革的な時代の特徴は、先端的な指導層ばかりでなく、その時代の社会を構成するあらゆる身分・階級・階層・集団などが、みなそれぞれに歴史を動かす主体として動き、個性的な役割を果たしてゆくところにある。」
 最後の摘録箇所は、歴史的事実としてまったくそうであったかどうかは措くとしても、この時代を生きたすべての人々への歴史学者永原慶二の愛情が感じられて、心打たれた。













後からやってくる研究者のチャレンジを静かに待っている偉大な研究者

2019-09-25 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事の続きで、本郷の解説から摘録しておく。
 戦後の歴史研究者のうち、歴史観を語れる中世史家として誰もが認める人として、本郷は以下の五人を挙げる。「幅の広い学問を統合し、一人の武士や庶民から社会像を構築した」石井進、「文字史料の限界に疑問を投げかけ、従来の二倍の社会像を復元してみせた」網野善彦、「天皇と京都の再認識を通じて、いわば京都史観を打ちだした」黒田俊雄、「文化を軸に民衆の側から、古代から近世までの叙述を成し遂げた」五味文彦、そして、「穏やかな唯物史観の立場を取り、中世全体を深く考察した」永原慶二である。

 永原の研究成果は、対峙する人間を選ばない。どんな立場から歴史を研究するにせよ、それが実証的であれば必ず、彼の到達に直面する必要に迫られる性質のものである。研究者は永原の提示した推論に学ぶ。それを学んで、乗り越えるべく努力を重ねていく。ある研究者は、努力の末に、永原論のある部分を乗り越えることに成功するだろう。ある研究者は懸命に挑戦しても、永原論の確かさを追認するだけにとどまるだろう。ともあれ、彼の研究業績は、後からやってくる研究者のチャレンジを静かに待っている。乗り越えられることを待っている。この意味で永原は実にフェアーで、尊敬すべき先達なのだ。中世史の良心というべき偉大な研究者、それが永原である。













中世史学の太い基本軸を作った歴史家

2019-09-24 17:38:24 | 読游摘録

 戦国時代を正面からバランス良く網羅的に扱った名著として知られる永原慶二の『戦国時代』が講談社学術文庫の一冊としてこの七月に刊行された。原本は、一九七五年に小学館から刊行された『日本の歴史1 4 戦国の動乱』を基に、二〇〇〇年に増補改訂のうえ小学館ライブラリーから刊行された『戦国時代 16世紀 日本はどう変わったのか』(上下巻)を原本としている。
 この学術文庫版の本郷和人(昨日の記事で言及した本郷恵子の旦那さん)による「解説―日本中世史学を支え続ける「良心」」が、戦後の日本中世史学の中での永原の質量ともに群を抜いた業績の意義を明快に描き出している。
 その解説の冒頭で、本郷は、偉大な歴史家のタイプを二つに分けている。「後世に残る」仕事をしようとするとき、二つの方法があると言う。「一回性を重んじるやり方」と「連続性を重んじるやり方」である。
 前者、タイプAは、「他の誰もが模倣できないような独自の地平を切りひらく。[中略]歴史学と親和性の高い他の学問、たとえば国文学や民俗学や考古学などの方法論と達成までを視野に入れて、研究者独自の学問空間を創造する。その研究成果は余人の追随を許さぬものとなるために「後世に残る」ことになる。」
 後者、タイプBは、「先人の業績をしっかりと受け止めて吟味し、そこに自分の達成を新たに加えていく。その上で、自己の仕事が他の研究者によって正当に評価され、乗り越えられていくのを待つ。この方法ではたしかに研究者個々の名前はいったん陰に隠れるかもしれないが、でも後によく吟味をすれば、その真摯な取り組みがあったからこそ研究は先に先にと進んでいるのであって、歴史学が成長していく限り、進展に大きく寄与したその人の研究は「後世に残る」ものとなる。
 永原は、「まさにBの代表として、中世史学の太い基本軸を作った歴史家であったと評価することが妥当ではないか」と本郷は言う。
タイプAの代表選手が網野善彦である。本郷によれば、石井進も本質はAタイプである。『日本中世法史論』の著者笠松宏至もタイプA。岩波新書の『一揆』の著者勝俣鎮夫はAとBとを兼ね備えたタイプだという。
 ただ、本郷が実際に勝俣から教室で聴いたという教えが面白い。「史料を解釈するとき、二つの実証的な可能性が存在するときには、話が大きく、面白くなるほうをとりなさい」と説いたという。だから、勝俣も、どちらかというとAタイプだ思うと本郷は言う。
 これらいわゆる「四人組」は、網野が一九二八年生まれ、石井と笠松が一九三一年、勝俣が一九三四年であるのに対して、永原は一九二二年生まれ。Aタイプの四人の後輩の「華々しい活躍をやさしく見守りながら、自身は頑としてBタイプであることを崩さない。それが永原であった。」「Aタイプの傑出した学者による「中世史ブーム」を支えたのは、実は永原だったといえるかもしれない。永原ががっちりと実証的な研究を積み上げ、セーフティーネットを張っていたからこそ、四人組は安心して自己の問題意識を深化させ、研究を進めていくことができた。」
 学問研究の発展・深化の現実のダイナミックな構造的関係がわかって興味深い。











歴史における連続性と非連続性との関係は、現代の観点に応じて変化する

2019-09-23 00:07:53 | 講義の余白から

 昨日の記事で引用した内藤湖南の見解に言及している若手研究者の著書として與那覇潤氏の『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(単行本、文藝春秋社、2011年;増補版、文春文庫、2014年)も挙げることができます。
 與那覇氏が言及しているのは、1921年の講演ではなく、その三年後の1924年に弘文堂書房から刊行された『日本文化史研究』です。そこでも、内藤は、「日本史を一か所で切るなら、応仁の乱の前後で切れる」と、ほぼ同様な主張を繰り返しています。
 與那覇氏は、内藤の見解を、「戦国時代以降の日本近世は「中国的な社会とは180度正反対の、日本独自の近世社会のしくみが定着した時代」として考えろ」という意味だと受け取っています(文春文庫版、90頁)。その戦国時代とは、與那覇氏によると、どんな時代だったのでしょう。

 要するに、ロマンあふれる天下統一のビジョンなんて誰も持ってなくて、毎年が大飢饉状態だったので、餓死寸前の難民どうしが血で血を洗う略奪合戦をやっていたのが、真の戦国時代なのです。[中略]こういう一種の極限状況の中で、今日まで続く日本社会のしくみが作り上げられていきます。(文春文庫版、90‐91頁)

 具体的なそのプロセスについては、與那覇氏の卓抜で刺激的な記述をお読みいただくとして、私もまた、戦国時代の極限状況の中から、今日まで続く日本社会のしくみが作り上げられていくプロセスを、いくつかの場面に限ってではありますが、講義の中で見ていきたいと思っています。
 内藤湖南の同じ講演に言及しながら、異なった見解を提示している本郷恵子氏の『京・鎌倉 二つの王権』(小学館、全集『日本の歴史』第六巻、2008年)の次の一節もここに引用しておきます。

 おそらく応仁の乱以降に、近代につながる前近代が始まる。室町時代は、私たちには理解が難しくみえる時代と、思い描きやすい前近代とをつなぐところに位置するのである。[中略]しかし、内藤が上記のように述べたのは大正一〇年である。近代は、すでに現代と同じではなかろう。「今日の日本を知るためには、応仁の乱以後の歴史を知っておいたらそれでたくさん」という言葉は、現代の日本には、もはやあてはまらないのではないだろうか。[中略]近代日本を知るには、応仁の乱以後の歴史を知っていれば事足りるかもしれない。しかし、現代について考えるためには、応仁の乱以前にさかのぼる力が必要である。

 一年の講義の中では、とてもそこまで遡行する時間はありませんが、歴史における連続性と非連続性との関係は、現代の私たちが取る観点とその現代の変化に応じて変容するものであることは忘れてはならないだろうと思います。












日本の « modernus » を内在的観点から捉え直す試み

2019-09-22 13:46:14 | 講義の余白から

 現代の日本の歴史研究者たちが「近世」と「近代」という時代区分の問題を再考する際にしばしば引用するテキストがあります。それは気鋭の若手研究者たちの場合もそうです。そのテキストとは、東洋史家の内藤湖南が大正十年(1921)行った講演「應仁の亂に就て」の中の次の有名な一節です。

大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります。

 これはきわめて挑発的な言い方に見えますが、今日の歴史研究者たちが、この一節をしばしば引くのは、内藤湖南の歴史観に同意するからではなく、そこに歴史認識についての根本的な問題提起を見ているからです。
 この内藤の見解について、呉座勇一氏は、大ベストセラーとなった『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書、2016年)の中でこう述べています。

なぜ内藤は応仁の乱に他の戦乱とは異なる特別な意義を見出したのか。それは、応仁の乱が旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた、と考えたからである。

 こうした逆説的な応仁の乱評価は、戦後のマルクス主義歴史学にも引き継がれたばかりでなく、その反対陣営にもそのまま受け継がれた経緯を呉座氏は手短に同書で辿り直しています。もっとも最近の研究は、「応仁の乱に対する過剰な意味付けを排する方向に進んでいる。[中略]応仁の乱を境に日本がガラッと変化したといった主張は見当たらなくなった」と言っています。
 現在の日本における歴史学の最先端の研究をフォロー・紹介することが私の講義の目的ではありません。私が試みたいのは、日本の歴史における « moderne » を、ラテン語 « modernus »の原義に忠実に、かつ日本の歴史に内在的な観点から(しかし、それは東アジア史の中に日本の歴史を位置づけることを排除しません)捉え直すことです。












日本近代史への遠き道のり

2019-09-21 23:59:59 | 講義の余白から

 日本の歴史の時代区分として広く行き渡っている名称に「近世」と「近代」があります。前者の定義は、例えば、『日本国語大辞典』によると、「古代、中世のあとにつづき、近代以前の時期、安土桃山時代、江戸時代を指す。[中略]広義には近代をも含むことがあるが、狭義の近代と区別することが多い」となっています。中学・高校の歴史の教科書もこの定義に従っています。
 ところが、これをフランス語に訳すときにちょっと困るのです。一語でということになると、どちらも « moderne » になってしまうので、両者を区別するために、「近世」には « prémoderne » という訳語を与えるのが一般的になっています。しかし、「近世」は、「近代」の定義を前提としていますので、その定義次第で「近世」の定義も変わってしまいます。教科書的には、日本で一般に行われている時代区分を踏襲するために慣習的に採用されている訳し分けわけですが、最近の歴史研究は、その区分自体を問題にしていますので、「近世」= « prémoderne »、「近代」= « moderne » と単純に割り切って教えることも躊躇われます。
 そこで、私の授業は、まず「歴史とは何か」という大きな問題から始まり、そもそも時代区分は何を根拠にしているかと問い直し、つぎに、西洋史における « moderne » の定義がそれほど自明なことではないことを、フランスの幾人かの大歴史家の著書を引用しながら説明しました。この手続きを経て、日本における « moderne » とはどのように規定されうるのかという問題に入る準備が一応整いました。ここまでで二時間の講義二回を費やしました。
 来週からようやく、日本における「近代史」に入るのですが、それは「近世」と「近代」をどう区別するかという問題に向き合うことから始まるので、型通りに明治維新前後からというわけにはいきません。「近代」への道のりは遠いのです。