内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「エートス」― Le Grand Robert(ロベール仏語大辞典)の不可解な欠落

2022-01-31 23:59:59 | 雑感

 Le Grand Robert のオンライン版はほぼ毎日利用しているのだが、一つ不可解な欠落がかねてより気になっている。
 Éthos という語を仏語での研究発表要旨に使おうと思って、用法を確認するために Le Grand Robert を引いてみたら、驚いたことに載っていないのである。Le Petit Robert にも載っていない。ところが、『小学館ロベール仏和大辞典』には、éthos がちゃんと項目としてあって、以下のように説明されている。

(1) 【哲学】 【社会学】 習俗を通して形成される気風や性格,特に人間の社会的行動を支えている倫理的規範を指すが,民族学的には各文化に独自な慣習の統合形態をいう.
(2) 【芸術】 作品が単なる審美性を超えて与える道徳的な感銘,気品.
【語源】[ギリシア語 êthos 習慣,性格]

©Shogakukan Inc.

 類義語の mœurs を引いてみると、(→ Éthos)と参照項目として挙げてある。そこをクリックすると、 奇妙なことに、« Ce mot n’est pas présent dans le dictionnaire. » と表示される。いったいどういうことなのだろう。社会学や美学などでは、éthos(あるいは ethos)はよく使われている語である。手元にある本では、例えば、Ruth Amossy の La présentation de soi : ethos et identité verbale, Paris, Presses universitaires de France, coll. « Interrogation philosophique », 2010 を挙げることができる。
 日本語でも「エートス」という言葉を見かけることはそれほど珍しいことではないだろう。『新明解国語辞典』には、「① 同じ行為を何度も繰り返すことによって獲得した、一定の習慣・性格〔広義では、その民族・国家に特有の習俗や精神をも指す〕② 芸術作品の内包する精神的価値」とある。
 ラルースのオンライン版でも、次のようにかなり丁寧に説明されている。

1. Ensemble des caractères communs à un groupe d’individus appartenant à une même société. (Concept de G. Bateson.)
2. Doctrine établissant une relation entre l’art des sons et les mouvements de l’âme et sur laquelle les Grecs fondaient leur conception morale et éducative de la musique.
3. Manière d’être sociale d’un individu (vêtement, comportement) envisagée dans sa relation avec la classe sociale de l’individu et considérée comme indice de l’appartenance à cette classe.

 ところが、TLFi (= Trésor de la Langue Française informatisé) でも、éthos は項目になっていない。わずかに一箇所、mode の項の引用の中に出てくるだけである。
 この不可解な欠落の理由はなんなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(六)解釈の葛藤の超克の可能性をどこ見るか

2022-01-30 10:09:39 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた『マイスター・エックハルト』の第3章の冒頭でヴェルテは次のように「離脱」を規定している。

 「離脱」は、エックハルトの意味では、自己目的ではない。「離脱」は、一本の道、あるいは一つの門のようなものである。「離脱」は、人をある目的へと導く道であり、門である。その目的は、神が今、ここに居たまうことである。したがって、我々は、「離脱」が我々人間を、神が今、ここに居たまうことへと開く、ということをどのように理解したらよいか、ということを問わなければならない。エックハルトの意味では、本来それ以上何も必要でないように見える。それ以上はいかなる媒介についても語られておらず、ただ、「離脱」について語られているだけなのだ。「離脱」はエックハルトの意味では、直接、そして、それ以上の媒介なしに人を神の御顔の前へと導くのである。(43頁)

 引用の最後の分の中の「神の御顔の前」という表現が気になる。ヴェルテはそれをまず神を純粋な真理として考えることして理解することを同章で試みている。この真理は、しかし、ある真なる命題のことではない。すべての真を可能にしている真理である。したがって、それはそれ自体としては言表できない。「御顔の前」という以上、それに対する人間がいることになる。しかし、その御顔が何らかの対象として見えているとすれば、それは実は御顔ではない。
 離脱の徹底化を上田閑照は『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)で次のように説明している。

離脱において、無になって神を受容し(無になった魂に神が神の子を生みこむ)、そこに停まらずに離脱の徹底として、受容した神を捨てる(got lâzen)ことによって無に徹する(これは人間に向いた神を突破して神自身の内奥―神性の無―に徹すること)。神の子であるという仕方を捨てて、神でもない被造物でもない無において「我あり」の自由が開かれる。神の子(エックハルトの場合は、即ち子なる神)として神の生命によって生かされて生きるところから、神の生命にも大死し、神なくして生きる(âne got leben)ところへと徹する。その際「神なくして」に、人間が人間の方から「神」、「神」と言う神ではなく、神における神、即ち「無」なる神が現前する。(252‐253頁)

 上田は、この「無」なる神の現前を、「神の子の誕生」を「神性の無への突破」へと離脱が「せり上げてゆく」こととして捉え、前者から後者への「質的な飛躍」を見ているが、ここはエックハルトの専門家たちの間で大きく解釈が分かれるところである。
 上田のような立場を取れば、ヴェルテやハースが実際試みたように、エックハルトの思想を禅仏教に接近させる途が開かれる。しかし、「魂における神の子の誕生」こそエックハルトの最も根源的な思想であると主張する研究者たちは、そのような比較宗教的立場に真っ向から対立している。
 私見では、思想史的かつ文献学的にアプローチを重視すれば、上田のような解釈は支持されえない。特に、「魂における神の子の誕生」を説く説教101から104がエックハルト自身によって書かれた真正なテキストであることが証明された今日、エックハルトをあくまでキリスト教思想史の中で理解しようとすれば、上田の解釈が受け入れがたいのは当然である。
 しかし、昨日の記事で見たように、ヴェルテがいうところの「思索に向かって思索する試み」を今日私たち自身が企てるのならば、話はおのずと異なってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(五)「思索に向かって思索する試み」― ベルンハルト・ヴェルテ『マイスター・エックハルト』

2022-01-29 23:59:59 | 哲学

 エックハルトにおける「離脱」について考えるときに必読の文献の一つが本日の記事に掲げたベルンハルト・ヴェルテ(1906‐1983)の一書である。原書 Meiter Eckhart. Gedanken zu seinen Gedanken, Verlag Herder Freiburg Breisgau は1992年に初版が刊行された。邦訳は法政大学出版局から大津留直訳が2000年に出版されており、それが手元にある。
 同郷ということもあり親しく接していたハイデガーとその死の四ヶ月前に行った長い対話がこの書を書く機縁になっていることが著者の前書きからわかる。その対話で「我々は他の事柄にもまして、そして、立ち入って、エックハルトの事柄について話した」という。
 ドイツ神秘主義研究の中心的な主導者の一人であるアロイス・M・ハースが「はしがき」を寄せている。その「はしがき」には、上田閑照も『上田閑照集』第七巻『マイスター・エックハルト』(2001年)の「後語 解釈の葛藤の中で」で引用しているように、ヴェルテのマイスター・エックハルトへのアプローチの特徴が的確に言い表されている。
 「ヴェルテにおけるエックハルトとの接し方は、最終的には、歴史学的なものではなく、その思想をアクチュアルに現代に生かそうという意図を持つものであるから、体系的に、エックハルトの思想を内側から解釈しようとするヴェルテの試みは、新しい発見へと導くという価値を維持し続けている」(1‐2頁)。
 だから、本書の副題である「その思索へ向かって思索する試み」という言葉は、本当に真剣に受け取らなければならないとハースは言う。「それは、エックハルトが問題にした事柄へと自ら入り込み、彼の最も重要な諸思想とそれらの思想の諸動機だけではなく、それを解釈するために必要な方法をも発見し、紹介する一人の思想家の思想に関わる問題なのである」(2頁)。
 ヴェルテ自身、本書の序論である第1章のまさに「思索に向かって思索する試み」と題された第7節で自らの思索の仕方を次のように述べている。少し長くなるが、引用して肝に銘じたい。

 私は、思索を、エックハルトが我々に考えるべきこととして示した事柄への献身として理解している。それは、つまり、我々は単にエックハルトの概念や観念と関わろうとしているということではなく、なによりもまず、エックハルトが彼の概念や観念の助けを借りて表現した事柄にこそ関わろうとしているということである。エックハルトは彼がそれらの事柄を初めて見たからこそ、それらの事柄を表現したのだ。我々はエックハルトが見たことを、我々の諸思想の中で見ようと試みるのだ。
 我々は自ら考えることを、自ら見ることを試みることとして理解する。この思索の基本的な骨折りは、したがって、自分自身を示すものを、そのものの隠蔽と誤解とから開放(ママ― 引用者注)し、我々自身がそれを見ることができるようになることを目指すことにある。「その通りなのだ」と我々は言い、最終的には我々が自分で懇ろにそれを自分の言葉で捉えることができるようにならなければならない。
 ということは、しかし、我々は思索を現象学として、すなわち、自分自身を示すものを開示し、守護することとして理解するということである。(20頁)

 日暮れて道遠き老生もまた、たとえ浅学菲才の身ではあっても、かくありたいと念じつつ、多くの卓越した先達たちに導かれながら、エックハルトを読み続けていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メディアが自壊した日本社会の現在 ― ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』にふれて

2022-01-28 23:59:59 | 講義の余白から

 先週始まった後期のメディア・リテラシーの授業で西垣通氏の本を読んでいる。一回の授業で一冊、四回で以下の四冊を出版年順に紹介する ―『こころの情報学』(ちくま新書 1999年)、『ネットとリアルのあいだ ― 生きるための情報学 ―』(ちくまプリマー新書 2009年)、『集合知とは何か ― ネット時代の「知」のゆくえ』(中公新書 2013年)、『ネット社会の「正義」とは何か 集合知と新しい民主主義』(角川選書 2014年)。
 西垣氏の多数の著作の中から特に日本語として読みやすい文章を選んだ。氏の文章はいずれもとても明快で読みやすいが、扱っている問題自体が難しいところはやはりそうすらすらとは読めない。それに、いくら私自身が関心のある問題を扱っている文章でも、メディア・リテラシーからあまり離れてもいけない。その上、せいぜい中級程度の日本語学習者たちに読ませるという条件が加わるから、選択可能な範囲はおのずと狭まる。そのような制約はあるが、できるだけ面白いところを読ませたい。あるいは、面白く読ませたい。
 読むといっても、ほんの一部だけであり、ちょっと難しいところや補足的な説明は私が簡単にまとめて、基本概念の定義、重要な問題提起、それに対する著者の回答、興味深い論点・事例などに読む箇所を限定する。
 今日の授業では『ネットとリアルのあいだ』の第3章「未来のネット」の一部を読んだ。その中にジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』(原題は The origin of consciousness in the breakdown of the bicameral mind)に依拠した箇所がある。ジェインズのいう「右脳から聞こえてくる神々の声」に言及しつつ、西垣氏は「大規模コミュニティの身体」と題された節をこうまとめている。

 声はしかるべき人物の右脳からお告げ(幻聴)として聞こえてくるだろう。霊媒者の右脳は、一種の「身体」からのメッセージをうけとっているのだ。その「身体」とは、人々が共感でつながった大コミュニティの「共同体幻想としての身体」にほかならない。

 引用の中の霊媒者はジェインズの原文では medium である。つまり、霊媒者は一つの共同体においてその成員たちが繋がり、結ばれ、その(幻想の)共同体への帰属意識をもつためのメディアとして機能していたということである。
 そして、次節「近代的個人の出現」をマスメディアについて以下のように述べて結んでいる。

 人々は新聞、ラジオ、テレビなどのマスメディアを通じて、一種の国家的共同性を感じることができた(政治学者ベネディクト・アンダーソンはこれを「想像のコミュニティ」とよんだ)。第二次大戦後の日本では露骨な国家主義は嫌われたが、そのかわりに「会社」が昔の村落のようなコミュニティの役割をはたしてきたのである。
 個人はそれほど分断されたわけではなかったのだ。

 霊媒者(メディア)を失った近現代社会では、その代わりとしてマスメディアが国家への帰属意識の形成する機能を果たしてきた。日本に関して言えば、戦後、高度成長期には、終身雇用を原則とした「会社」が社縁を形成し、社員及びその家族に会社への帰属意識をもたらしていた。
 ところが、現代日本は、メディアにそのような機能は期待できないし、「会社」の社縁形成機能もほぼ失われている。神々が沈黙し、共同体幻想を支えてきた「会社」が消失し、メディアが自壊した現代日本では、多数の人が、繋がりを求めて得られず、群れを成すこともできず、ノマドにもなれず、行き場、いや、生きる場所さえ失っているように見える。罪のない他人を道連れにする凶悪な殺人事件(これを「拡大自殺」と呼ぶことに私は強く反対する)もそのような無縁社会がその発生の温床になっているに違いない。
 「メディアとは何か。自分たち自身の問題として、今一度真剣に考えてみてほしい。」こう授業を締め括った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(四)「女である処女」の魂の限りなき豊穣

2022-01-27 23:59:59 | 哲学

 エックハルトのドイツ語説教二の一部を一昨日の記事で引用した。その文言を今一度受け止め直した上で、先へと読み進めよう。
 私の知性が最高度の知性であり、この世にあらゆる像(あるいはイメージ)、そして神自身の内にあるあらゆる像(イメージ)を知性の内にもつことができるとして、それらすべての像から完全に自由であるときにはじめて、神の意志に従うことができ、その意志を不断に完遂しつづけることができる。一言で言えば、あらゆる像から解放された魂においてはじめて神はその意志を働かせる。
 しかし、離脱の最終目的はそのような魂の解放に終わるものではない。そこから可能になってくる神の賜物の「結実」がさらに善きこととされる。

人が神をみずからのうちに迎えることは善きことである。この受容性において人は処女であることになる。しかし神がその人のうちで豊かに実を結ぶことはさらにいっそう善きことである。賜物が豊かに実を結ぶことこそが唯一、賜物への感謝となるからである。(25頁)

 しかし、この結実は、人間の魂とは独立に、人間の魂の内で、いわばまったく自発的に神によってもたらされることかというと、そうではない。魂は「イエスを父である神の心の内に生みかえす」とエックハルトは言う。この生みかえしは、魂による感謝の表現である。この生みかえしがなければ、受け取られた賜物もいずれすべて無に帰す。
 魂によるこの感謝は、一切の所有物から解放された魂において、魂自身によって為され、成される。このような実り豊かな魂をエックハルトは「女である処女」と呼ぶ。このような発想自体は、エックハルト以前のキリスト教神学者にも見出すことができる。例えば、クレルヴォーのベルナルドゥスは、ある説教の中で、「もし多産な処女であるほどに完全な魂があるとすれば、父なる神はその魂の内に生まれることばかりでなく、その魂から生まれることも受け入れられるだろう」と言っている(Traités et semons, traduction et présentation par Alain de Libera, 1995, p. 419, n. 21)。

彼女たちは毎日毎日、百たびも千たびも数え切れないほど、その実りを最も高貴なる根底より生み、実らせながらもたらすのである。さらに適切にいえば、父がその永遠なる言を生む、実にそれと同じ根底より、彼女たちは実り豊かに父と共に生むものとなるのである。(27頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


武士道、主体性、自然の創意 ― 来月から9月末までの研究教育テーマなどについて

2022-01-26 14:10:08 | 雑感

 今日は離脱論を休む。まだまだ延々と続くだろう。無理をせず断続的に投稿する。
 エックハルト及びライン川流域神秘主義については、渡仏前から四半世紀余りずっと興味を持っており、今手元にある仏語の参考文献だけでも数十冊ある。「離脱」はエックハルトの根本思想であるだけに、それらの文献のほとんどすべてにおいて少なからぬページがその論述・考察に割かれており、それらを参照しつつ、エックハルトの説教集を読んでいくだけでも、数年はかかる。これは私にとっては誇張ではない。研究論文として発表することはない。中高ドイツ語で書かれた一次文献を読めないのであるから、それはありえない。ただ、先を急がず、むしろできるだけゆっくりと、説教の言葉を魂の滋養になるように咀嚼していきたい。この読解作業におそらく終わりはない。
 さて、来月から九月末にかけてのいくつかの研究発表、原稿依頼、研究教育あるいは文化プログラムへの参加予定などについてここで整理しておきたい。
 2月5日・6日(土・日)は、法政大学の哲学科の学部2・3年生とストラスブール大学日本学科修士1年生の合同ゼミ。昨年同様、すべてZOOMを使って行われる。このゼミの枠内で一時間のレクチャーを行う。そのタイトル「比較文化の方法ーVeracity と Loyalty、そして「わかる」と「理解する」の違いをめぐって」を今朝プログラムのオーガナイザーに送った。
 2月18日(金)、イナルコの言語学関係の研究会で発表。Subjectivité について哲学の立場からの一考察を発表する。これもZOOM使用。このテーマは私の「十八番」と言える。
 3月17日(木)から19日(土)、ストラスブール大学で開催される「伝達(transmission)」をテーマとした日本研究シンポジウムに発表者として参加する。このシンポジウムの方式はハイブリッド。フランス在住の発表者は現地参加で、日本在住の発表者はオンライン参加。私の発表タイトルは、「「みち」から「道」へ ―「もののふのみち」から武士道への倫理規範の変容過程の思想史的考察―」 。原稿は2月後半の冬休み中に書き始め、二月末には仕上げる。このブログで継続中の「忠誠論」が原稿の核となるはずである。
 3月29日(火)、ストラスブール国立大学図書館主催の日本月間のプログラムの一つとして高畑勲の『かぐや姫の物語』が上映される。そのときにコメンテーターを務める。形式は未定。
 昨年 Vrin社から出版された九鬼周造研究について Cahiers d'Extrême-Asie (CEA) に掲載される書評の依頼が二週間余り前にあった。字数は一万字前後。締め切りは6月末。執筆は6月中。
 8月1日(月)から5日(金)、東洋大学大学院哲学科修士課程の集中講義。タイトルは「〈主体〉の考古学 -西洋哲学史における〈sujet〉の誕生から現代におけるその死と再生まで-」。最初にこの集中講義担当した2011年で取り上げたテーマに立ち返り、その大幅なヴァージョンアップを図る。準備は7月に行う。
 9月5日(月)から9日(金)までパリで開催される翻訳学の第二回世界大会の中で日本仏教の碩学フレディレック・ジラール先生が責任を持たれているパネルに発表者として参加する。発表テーマは、2月の研究発表のテーマと8月の集中講義のテーマの流れを受けて、sujet 概念の日本語への翻訳とそれがもたらした日本独自の哲学的展開について話す。発表原稿は事前提出とのことだが、まだ詳細についての連絡はない。原稿執筆は後期の授業がすべて終わった後、5月後半から始める。
 2019年に参加した『大地への/からの回帰』というテーマ連続研究会の成果が論文集として出版されることになったから、そのときの発表原稿をさらに拡充・発展させた原稿を寄稿してほしいと主催者のひとりから昨日依頼があった。喜んで引き受ける。九月末が締め切り。原稿の諸条件については未詳。発表後の三年間に考えたことも盛り込んだ原稿にするつもり。
 2019年の発表の際の仏語と日本語の要旨を掲げておく。

Invention de la nature

 La catastrophe nucléaire de Fukushima, les incendies forestiers en Amazonie et d’autres désastres planétaires qu’a connus la Terre depuis la catastrophe nucléaire de Tchernobyl en 1986 montrent incontestablement que la Terre est sérieusement fragilisée par la civilisation humaine. L’équilibre entre les activités humaines et la résilience des écosystèmes terrestres et aquatiques est perdu de façon irréversible. Le développement “sustainable” est devenu difficilement compatible avec la préservation de l’environnement naturel. À la logique de la répartition des richesses a succédé une logique de la répartition des risques.
 Dans ces conditions sous lesquelles nous vivons actuellement et devrons vivre à l’avenir dans la mesure du possible, on ne pourra plus parler du retour à la terre comme celui à une substance qui reste identique à elle-même, infinie et inépuisable. Si la terre originaire et originelle à retourner n’existe nulle part sur la planète Terre, le retour à la terre ne consiste pas à retourner à la place où l’on était. La Terre ou Gaïa ne ressuscite pas spontanément. Il ne s’agit pas non plus d’abandonner la vie urbaine pour rentrer au « pays natal » et y mène une vie rurale. Si la nostalgie de la Terre est une condition nécessaire pour le retour à la terre, elle ne peut pourtant en être la condition suffisante. Le retour à la terre comme mouvement réel et productif consistera à continuer à inventer un espace de vie viable, fini et plastique, en vertu de la technique fondée sur la technicité de la nature.

自然の創意

 福島原発事故、アマゾンの森林火災、1986 年のチェルノブイリ原発事故以来地球上に発生したその他の大災害は、地球が人類の文明によって深刻な仕方で脆弱化されていることを疑いようもなく示している。人間の諸活動と陸上・水中の諸生態系の自己回復力との均衡は取り返しようもなく失われている。「持続可能な」発展は、自然環境の保護との両立がきわめて困難になっている。富の配分の論理にリスクの配分の論理が取って代わっている。
 私たちが現在生きており、これからも可能なかぎりその下で生きていかなければならないこのような状況において、大地への回帰を、自己同一的で無限で汲み尽くしがたい実体への回帰のように語ることはもはやできないだろう。もし回帰すべき原初の本源的な大地がこの地上のどこにも存在しないとしたら、大地への回帰は、もといた場所へと立ち返ることではない。大地あるいはガイアは自ずと再生しはしない。都会生活を捨てて、「故郷」に帰り、そこで農業生活を営めということでもない。大地へのノスタルジーは、大地への回帰の一つの必要条件であっても十分条件ではありえない。現実的で生産的な運動としての大地への回帰は、有限で可塑的ではあるが持続性のある生活空間を、自然の技術性に基づいた技術によって創出し続けることではないだろか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(三)「生まれる以前のわたしのように」

2022-01-25 23:59:59 | 哲学

 エックハルトの「離脱」思想の難所の一つは、それが同時に道(過程)でありかつ目的(至りつくべき場所あるいは成るべき場所)であるということをどう理解するかにある。魂が諸事物と己自身からの離脱を成就すれば、魂は己にとって至高の境地に到達するという継起的な構図を採用することはできない。離脱は常に実行され続けなくてはならないが、それは、ある目的地に至りつくためではなく、離脱の各瞬間に置いてその目的は諸事象・諸形象の只中にあって成就されていなければならないからである。しかし、それは魂が自らの意志によって何事かを成就し続けているということではない。なぜなら、離脱において、魂は、「これでもなく、あれでもなく」なり、すべての〈これ〉と〈あれ〉を超え、「外から来るすべての像にとらわれることのない人、その人がいまだ存在しなかったときのようにとらわれのない人」(説教ニ、岩波文庫『エックハルト説教集』23‐24頁)でなければならないからである。

もしすべての人類がいままでに受けいれてきたあらゆる像が、さらには神自身の内にあるあらゆる像が、私の知性の内に存在するほど私が知性的であったとしても、わたしがそれらの像にとらわれず、自由であり、行為を選択せず、時間的前後にも縛られず、けっしてそれらの像をわがものとすることがなければ、またさらに、現在のこの今において、自由にしてとらわれなく神の意志に従い、不断にその意志を満たすならば、そのときわたしは、生まれる以前のわたしのように、すべての像によってもさまたげられることのない、真に処女であることになるのである。(24頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(二)単純で自由な存在

2022-01-24 23:59:59 | 哲学

 日本語では「離脱」、フランス語では « détachement » と訳されることが多い中高ドイツ語 Abegescheidenheit(現代ドイツ語では Abgeschiedenheit)は、マイスター・エックハルトの説教・論述以前の中高ドイツ語には見られず、またラテン語の神学用語を語源とするわけでもないので、エックハルトによる造語と諸専門家によって考えられている。
 「離脱」をエックハルトの根本思想と考える専門家は多い。しかし、近年、特にフランス語圏でのエックハルト研究では、「魂の内における神の子の誕生」をエックハルトの最終的な根本思想として強調し、あくまでキリスト教世界内で西洋キリスト教史の枠組みの中でエックハルトの思想を理解しようとする傾向が目立ってきている。この傾向は、エックハルトの思想を非キリスト教的な宗教思想(特に禅仏教)と近づけて考えようとするドイツの一部の有力な専門家たちの立場に対する反発の顕れでもある。
 確かに、「離脱」を根本に据えてエックハルト思想を捉えようとすると、キリスト教を脱構築し、さらにはキリスト教圏を超脱していく可能性が出てくる。しかし、その是非を問うことがこの離脱論の目的ではない。それは私ごときが触れるにはあまりにも大きな問題である。
 まずは、専門家たちの導きに従いながら、エックハルトの言葉に耳を傾けよう。そのための最初の案内役は Encyclopédie des mystiques rhénans d’Eckhart à Nicholas de Cues et leur réception, sous la direction de Marie-Anne Vannier et alii, Cerf, 2011 である。
 エックハルトの「離脱」を考えるときに、必ずと言ってよいほど引用されるのは、ドイツ語説教53の冒頭である。「説教の度に私は離脱について語り、自分自身と一切から脱却すべきことを説く」(DWII, p. 528)。この箇所を引用した上で、上掲書の Détachement の項の執筆者 Stephanie Frost(ゲッティンゲン大学)は、「離脱は、必然的に存在の充溢へと導き、この単純ですべて被造物に属することから自由な存在に他ならない」と説明する。
 同項にはさらに、クヴィントの注釈が引かれている。それによると、「離脱」には、否定的と積極的との二面があり、前者は、被造物に対しても、自分自身に対しても、別れ、遠ざかり、一糸まとわぬ姿となることであり、後者は、神へと向かうことであり、離脱は、かくして、神秘的合一を基礎づける条件となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


離脱論(一)メディア・リテラシーの試験答案の採点作業を機縁として、マイスター・エックハルトへと立ち戻る

2022-01-23 21:55:49 | 哲学

 何か確たる根拠あるいは証拠があって言うわけではないのだが、自分に残された時間はかなり限られているのかも知れないと昨年末来思うようになった。体調が悪いわけではなく、検査を受けてその結果が悪かったわけでもなく、体調は絶好調と言ってもいいくらいなのだが、自分自身のより深い感覚として、呑気に構えていてはいけないのかも知れないと思うようになった。いまさら迂闊な話だとも言えるし、コロナ禍のせいでそんな思いに囚われるようになっただけなのかも知れないとも思われる。
 それはともかく、日毎に考えたことはこのブログに書き残しておきたい。それが何になるのか、と問われれば、確たる答えもないが、少なくとも、考えを書き残したという事実は残るだろう。しかし、それが誰にも読まれなければ、書き残したという事実さえ、誰にも知られないのだから、なかったのと同じではないか。仮に読まれたとして、読んだ先から忘れられるだけなのならば、やはり書かなかったのとほとんど変わりはない。
 まあ、よい。どうでもよい、という意味ではない。書くことで、本人は生きていると感じられているのだから、それで充分ではないか、という意味で、「まあ、よい」。
 さて、先々週の金曜日のメディア・リテラシーの試験答案を採点していて、面白いことに気づいた。「デジタル・メディアの再帰性に対して、それに直面する個人として、私たちが現に生きている消費社会の中でいかなる態度を取るべきか」というのが設問であった。その取るべき態度として、学生たちが答案の中で使っていた表現に三つの段階があることが採点しながら自ずと明らかになってきたのである。
 その三段階とは、「自覚する」(prendre conscience)、「距離を取る(置いて見る)」(prendre du recul)、「離れる、脱する、自由になる」(se détacher)である。
 この三段階を一連の態度として、それぞれの差異を明確にしつつ、その方法的階梯性を明確に規定するとどういうことになるか。この問いに対する私なりの答えを一昨日金曜日のメディア・リテラシーの授業のはじめに学生たちに提示した。
 第一階梯は、自分が置かれている状況を自覚するということ(それには問題となっている事柄の本質の理解の努力が含まれる)。第二階梯は、自分が置かれている状況から、一時的に距離を取り、状況をより広い視野の中で俯瞰的に捉え、問題の所在をより明確に把握すること。第三階梯は、状況を理解した上で、その中に立ち戻り、その中で状況に飲み込まれることなく、状況に応じて適切に行動しつつ、個としての自由を保つこと。
 学生たちの答案にここまで各階梯が明確に示されていたわけではない。ただ、彼らの言いたいことを整理し、そこから考えを発展させると、こういうことになるだろうと私が解釈したのである。
 その上で、私が学生たちに問いかけたのは、「離脱」(détachement)はいかにして可能であり、それは具体的にどういう在り方のことなのか、ということである。
 この問いに対する私の答えは、中世の古き学匠マイスター・エックハルトにおける「離脱」(中高ドイツ語 abegescheidenheit, 現代ドイツ語 Abgeschiedenheit)の思想を彼らに示すことであった。
 これは単なるハッタリでも虚仮威してもミスティフィケーションでもない。私としては「本気」なのである。
 明日以降の記事で、マイスター・エックハルトの「離脱」について、現代の私たちにとっての切実な問題として、しばらく考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(十六)武士的な対峙的人倫観をふまえた独立の精神の自覚的克服という近代日本の課題

2022-01-22 11:50:34 | 哲学

 昨日の記事で読んだ相良亨の『武士道』の箇所の続きを読んでおきたい。
 卓爾として独り立つ大丈夫の精神の高揚が松陰の草莽崛起論をもたらしたことを相良は強調する。しかし、この大丈夫の独り立つ精神は、絶対的個の主張ではないという。「社会の中に生きる個人としての、他者におくれをとらぬ者としての自己主張であり、内容的には、その自己及び他者の属する社会の運命を自己一人の双肩に荷って立つという方向をもつものであった。」(194頁)
 松陰において、天朝も幕府も藩も「他者」として捉えられるに至っている。大丈夫にとって、他者は抹殺すべきものではなく、その力をたよりにすべきものでもなかった。武士の独立の精神の高揚は、分の秩序の否定ではなく、それを括弧に入れるものであった。この認識の歴史的意義は大きいと相良は強調する。

武士の個の主張は、他にまけず他の力をかりず、ただ自己のみの力を以て、自他をつつむ社会(それは藩でもありうる)の運命を荷って立つという構造を以てあらわれるものであった。(同頁)

 武士に流れてきた独り立つ精神が幕末に高揚し、それが明治の「独立の精神」にも受け継がれたと相良は見る。そこで問題になるのが、武士の独り立つ精神と明治の独立の精神との連続性と非連続性の問題である。しかし、この問題を十分にとりあげる準備がないので、概略的見通しを述べるにとどめるとして、相良は本書を締め括っている。その最後の二段落を引く。

 武士的な対峙的人倫観をふまえた独立の精神は自覚的に克服されなければならない。自覚的に克服されない限り、近代的な市民社会的な横のつながりは、日本人のものとなってこない。この百年間(『武士道』初版は1968年刊行 ― 引用者注)、われわれ日本人はこの点についてこの後いかに生きてきたであろうか。
 ともかく、われわれは過去とつながる自己自身と対決し、自己自身をその内面からのつくりかえをこころみなければならない。政治思想・社会思想の側面からの自己自身との対決も意味がないわけではないが、内面からのつくりかえが志されなければ、それらもまた砂上の楼閣にちかくなる。われわれの自己の内面との対決は、ただそれが唯一であるというのではないが、まず武士とわれわれは向いあわなくてはならない。その対峙的人倫観とその上につくられる独立の精神にメスを入れなければならない。

 この文章が書かれてから半世紀以上経った今日、私たちはこの問いと要請をどう受け止めるべきであろうか。いまさら武士論など時代錯誤だと一蹴すべきであろうか。私自身は、武士の独立の精神を強調する相良の武士道論に十分納得してはない。しかし、武士道における忠誠論の考察を通じて、上に引用した相良の問いと要請を私なりに引き受けてみようと思う。
 今日で十六回目となる忠誠論はここで一区切りとする。次の考察対象は、いわば今回の忠誠論にとっての「本丸」である丸山眞男の論文「忠誠と反逆」である。現段階では、いつからとはっきりと予告できないが、「忠誠と反逆」を精読した上で、忠誠論を再開する。