内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的思考の型としての日記(七)― 十八世紀末のフランスにおける内省日記の誕生を準備したフェヌロン

2020-03-04 10:10:14 | 哲学

 Pierre Pachet, Les baromètres de l’âme. Naissance du journal intime, Le bruit du temps, 2015 (édition revue et augmentée. 1re édition 1990, 2e édition 2001) はフランスにおける日記(journal intime)の歴史の研究にとって必読文献の一つである。本書の原タイトルを単純に訳せば『魂のバロメーター ― 日記の誕生』となるが、日本語の「日記」という言葉は著者による journal intime の定義を充分に汲んでいない。単に日々の出来事を記録しただけの日録は journal intime ではないからである。
 著者が与えている定義によると、書き手の日々の内面的な感情・感想をそれとして記したものだけが journal intime の名に値する。日々それを書き続けることによって外部世界とは区別される内的感情世界が形成されていくような文章のみがこの定義に当てはまる。この定義を考慮に入れるならば、「内省(的)日記」あるいは日本文学史の術語「自照文学」を拝借して「自照(的)日記」と訳したほうがより適切だろう。この二つの訳を混用するとそれもまた無用な誤解を生じさせかねないので、以下「内省日記」のみを journal intime の訳として使用する。
 前段落に示した内省日記の定義はしかしまだ充分ではない。書き手が日々自己と直接向き合い、自己の感情の揺れ動きを見つめ、それにともなう不安や苦悩なども記したものしか著者は内省日記として認めない。最終目的としての完徳に至るための手段あるいは宗教的教条に照らし合わせての自己検証の手段として書かれた文章も、たとえそれが日録の形式において為されたとしても、そこに精神の揺らぎが不在であるならば、厳密には内省日記の定義には叶っていない。内省は宗教的信や日常世界での確実性が深刻に揺るがされるか決定的に失われたことで不安な自己と直に向き合わざるを得なくなったところに生まれるものだからである。だからこの意味での内省は méditation とも contemplation とも違う。
 内省日記をここまで狭く定義するのはなぜか。それはこの定義に当てはまる内省日記が誕生した時期を明確に特定できるからである。そして、なぜ内省日記が十九世紀のフランスで無数に書かれるようになるのかをよりよく説明できるからである。
 内省日記のフランスにおける誕生はフランス革命後である。もちろん先駆的な例はある。しかし、上掲の定義に完全に当てはまる日記はフランス革命後まで待たなければならない。とはいえ、内省日記の誕生を予告する先行形態として著者が認めている作品あるいは述作もいくつかある。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』がその一つである。しかし、フランスにおける内省日記の誕生を準備した著作家として著者が特に名を挙げているのはフェヌロン(1651-1715)である。