内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモンドンはなぜホラティウスの詩句「私のすべてが死ぬわけではない」を好んで引用したのか

2022-10-31 06:42:21 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた論文の筆者は、別の論文の中で、シモンドンが好んで引用するホラティウスの詩の一節を紹介している。柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫、2012年)にその一部が収録されている。

私は記念碑を建てた.青銅よりなお固く,
王たちの建てたピラミッドよりなお高く,
降り注ぐ雨水も,荒れ狂う北風も,
数え切れぬほどの年月も,去り行く時の流れも,
毀ち得ぬ,そういう記念碑を.

ホラティウス『詩集』第三巻より

 シモンドンは、上掲の一節の第一行目の「私は記念碑を建てた.青銅よりなお固く(永遠に続く) Exegi monumentum aere perennius」を ILFI の251頁でラテン語のまま引用している。作品がその作者に永遠性や不死性を感じさせることの例証としてシモンドンはこの詩に言及している。そして、この経験された永遠性や不死性を有限な個体の超個体性への可能性として一般化する。
 また、同書 311頁では、上掲の引用の直後の一言 « Non omnis moriar » を引用している。この一句は「私のすべてが死ぬわけではない」という意味である。原詩は、ホラティウスが自分の三巻の詩集を編み終えたときに発表した誇りにみちた作品である。しかし、それは現世の儚い栄誉に酔ってのことではない。今は亡き無数の人たち、いまだここには到来していないものたち、己をどこまでも超えている聖なるものへと自らの詩が捧げられていることを誇らかに謳い上げているのだ。
 シモンドンは、この一句を、時間空間的に有限な一個の個体としての人間の個体性を超えた第二の個体化、〈今・ここ〉を超えて広がる集合的・精神的個体化の次元の経験として捉えている。詩作という技術(アルス)によって、さらには技術(アルス/テクネ―)一般によって、有限な個体としての人間存在が与りうる participable な超個体性がその文脈での主題である。個体化された個体である人間存在が技術(アルス)によって時を超え、より高次な個体化のレベルにおいて生き続けることにシモンドンは聖性を見ている(この participable という語の用法と技術の聖性については、拙論「自然の創案 自然の技術性と技術の本性」を参照されたい)。
 技術がその本来の聖性を忘却し、その聖性を破壊する方向に転ずることは、技術にとって非本来的な悪用であり、技術の自己破壊であるばかりでなく、有限な時間と空間をつねに超え続ける多元的な個体化過程の破壊であり、超個体性の次元の破壊である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


技術-美学入門 ― シモンドンの個体化の哲学と技術の哲学を出発点として

2022-10-30 19:33:20 | 哲学

 昨日、Ludovic Duhem という美学の研究者であり芸術家でもある人の論文 « Introduction à la techno-esthétique » という論文を読んでいて大変啓発されるところがあった。この論文の筆者は、シモンドンについての博士論文で2008年に博士号を取得しており、その他にもシモンドンについていくつか論文を書いている。
 筆者のいう技術-美学を一言でまとめると、美学の対象と技術の対象とを分離し、前者の固有性を絶対化する本質主義的な「伝統的」美学に反対し、芸術と技術との不可分性、両者の生産的・創造的な関係を強調・重視しつつ、技術が自然と人間に対してもちうる非本来的な攻撃性とその結果としての破壊を批判する、現代社会におけるいわば実践美学である。
 この美学は、技術的対象の美化そのものを目的とした唯美主義とは区別されなくてはならない。というよりも両者は対立する。なぜなら、技術的対象の美化は、技術の本来の目的ではなく、商業的・経済的・政治的あるいは文化主義的な他の要因によって要請されるものであるのに対して、技術-美学が目指すのは、技術の聖性の回復だからである。この聖性は、しかし、ある特定の宗教に結びついたものではなく、技術本来の聖性である。
 この技術の聖性は、個体化された個体である個々の人間存在が己を超えたものと繋がっていることを技術が対象として具体化するところに存する。この繋がりは、それと同時に、個体化された個体である個々の人間存在の裡に前個体化的なものが常に残存していることの証でもある。
 筆者の提唱するこの技術-美学は、シモンドンの個体化の哲学と技術の哲学の確かな理解に支えられている。シモンドンには独自の美学思想を展開した著作があるわけではないが、主著である ILFIMEOT の中にはシモンドンの美学思想が示されている箇所があり、特に後者の第3部 Essence de la technicité の 第2章 Rapports entre la pensée technique et les autres espèces de pensée の I. Pensée technique et pensée esthétique には私もかねてから注目しており、先日、修士の演習でも引用した。
 私個人としては、筆者が技術の聖性の次元を強調するところに特に共感する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


丸山眞男「歴史意識の『古層』」から五十年

2022-10-29 23:59:59 | 読游摘録

 丸山眞男の「歴史意識の『古層』」が『日本の思想六 歴史思想集』(筑摩書房)の解説「日本歴史観の歴史」第一章として発表されてからちょうど五十年になる。発表直後から毀誉褒貶の激しかった論考で、丸山の数ある作品の中でももっともよく知られた文章の一つであろう。宿命論的、実在論的、本質論主義的などと批判的に取り上げられることが多い。確かに、それらの批判は古層論の一面を突いてはいる。しかし、丸山の壮大な試みを批判的に継承しようとする仕事は少ないように思う。
 安丸良夫は、『現代日本思想論』(岩波現代文庫、2012年。原本、岩波書店、2004年)第5章「丸山思想史学と思想様式論」の中で、思想史研究を、人間の経験をその人間にとっての「意味の相互連関」のなかで捉えるところに固有の存在意義を見出すものとした上で、「こうした「意味」の世界のさらに基底部に、「原型」「古層」「執拗低音」のようなものが存在するか否かは、歴史家としては明言できないこと、あるいは明言してはならないことだと思う」と丸山の古層論を批判している。この批判は、歴史家という自己規定から当然導かれる帰結で、それとして妥当である。しかし、古層論の構想はこの批判によって葬り去られるものでもない。
 飯田泰三氏は『丸山眞男集』第十巻の解題で、丸山の古層論について、記紀神話からの「基底範疇」抽出作業に「「ぎこちなさ」様なもの」を感じ、歴史家の専門的な仕事の前で、「どれだけの説得力をもちうるか、一抹の危惧」を感じると留保しつつも、この国の歴史の「構造のトータルな変革のためのトータルな認識を獲得すべく構築された仮説」として古層論を評価している。
 川崎修氏は、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫、1998年。原本、筑摩書房、1992年)の解説で、古層論に数頁を割いて批判的に検証しつつ、その積極面を引き出そうと試みている。「丸山氏の数ある論文の中でも、おそらく最高度の魔力的魅力にあふれる作品の一つである。たしかに、この作品には、日本思想史の隠された秘密を暴き出すかのような迫力がある。けれども、他方、そのことは一種の宿命論的な絶望――丸山氏自身はそうとられることを強く否定しているとは言え――と分かち難く結びついているようにも思われる」とその両価性を指摘している。また、「丸山氏の真骨頂は『反本質主義』だったはずである。そのことは、例えば「忠誠と反逆」論文においてはいかんなく発揮されている。すなわち、そこでは、ナショナルな伝統と見えるものの中に、実は葛藤する多様な思想・観念のダイナミクス(アゴーンの契機!)を見るという視点が貫かれていた。それに対して、『古層』論ははるかに『本質主義』的である」と古層論の特異な性格を突いている。ただ、「実体化」を一つの戦略として正当化できる可能性を示唆している。
 末木文美士氏は、『日本宗教史』(岩波新書、2006年)の冒頭で丸山の古層論に言及し、「今日あまり評判がよくない」とし、「確かに『例外的といえるほどの等質性』が歴史的に保持されてきたという前提は、今日すでに崩れている」と認めつつ、「しかし、では全面的に〈古層〉という発想を否定できるかというと、それはそれでまた逆の極端に走ることになってしまう」と別の可能性を示す。「言説化された思想の奥に潜むもの」を〈古層〉と呼ぶことは可能であると言う。そして、「アプリオリでなく、しかも我々の現在を制約するような〈古層〉は、それ自体が歴史的に形成されてきたと考えるのがもっとも適当ではあるまいか」と独自の古層論を展開しようとする。
 この機会に「歴史意識の『古層』」を私も読み直そうと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


とても「哲学な」今週前半(承前)

2022-10-28 03:23:08 | 哲学

 昨日の記事の続きというか、もう一つ大事なことを書き忘れていた。先週土曜日にパリ・ナンテール大学の哲学教授から、あるセミナーのためにストラスブールに月曜日に来るのだが、月火水のいずれかの日に会えないかとSMSで連絡があった。それで月曜日夕方にカフェで二時間ほど話した。私も発表者として12月1・2日に参加するパリ・ナンテール大学でのシンポジウムのことや大学や授業のことなども話したが、かねてから彼が構想していた日本哲学辞典の話になった。すでにある出版社と交渉を始めているとのことだった。採用語の選定はこれからだが、明治以降に日本に導入された西洋哲学概念の今日までの変遷に焦点を絞った辞典にするという方針はすでに決まっている。私が一昨年に「間」という項目を担当した辞典とは方向性が異なり、明治以降の近代日本および現代日本に時代を限定し、その間の日本における哲学諸概念の受容・解釈・展開を通覧できるような辞典にしたいのだという。私もその方針に賛成で、項目執筆等の協力を約束した。


とても「哲学な」今週前半

2022-10-27 16:51:44 | 哲学

 日曜日を週の始まりとすれば、今週の日曜日のことである。ボルドー大学日本学科修士二年の学生から修士後の博士論文指導の依頼メールが研究計画書と共に届いた。「近代の超克」論の展開を戦中から戦後にかけて辿り、それを東アジアの思想史という広い文脈の中に位置づけることをテーマとしている。まず、近代の超克論の第一期として西谷啓治の近代の超克論を当時の東アジアの思想史という広い文脈の中に位置づけること、そして、戦後の竹内好の近代の超克論を同論の第二期として捉え、さらにその後の中国における近代の超克論の展開を第三期として追うという構想である。その三期に亘る超克論の展開との対比として保田與重郎の思想も視野に入れたいとのことである。
 どうして私に依頼してきたかというと、私の論文がいくつか引用されている研究計画書によれば、それらの論文で使われている比較思想史的方法に関心をもち、自分のテーマにも応用できると考えたからである。
 大変嬉しい依頼だが、残念ながら指導教授にはなることはできない。しかし、共同指導者にならなれる可能性があると返事した。
 共同指導者の規定は大学ごと或いは研究分野ごとに異なる。例えば、カーン大学では同大学内の教員しかなれない。それで私が共同指導者になることを断念せざるを得なかった学生が先月一人いた。ストラスブール大学は分野によって異なるようだが、日本学科に関しては過去に例がないので、できるのかどうかわからない。ただ、当該の学生が日本学科の博士課程に登録すればもちろん問題ない。公式の指導教授は別に立てて、私が実質的な指導教官になることができる。この可能性も伝えておいた。
 その二日後の火曜日、今度はパリ大学の哲学部修士の学生から博士論文の共同指導の依頼が届いた。私がよく知っている若手研究者から私にコンタクトを取ることを勧められたとのことだった。こちらはすでにハイデガーの自己概念についての修士論文で昨年度修士号を取得し、今年度はアグレガシオンの準備に集中し、来年度パリ大学の博士課程に登録し、ハイデガーと田辺における自己概念の比較研究をテーマとしたいとのことだった。パリ大学での指導教授が他大学の教員を共同指導者として認めるならば、喜んで引き受けようと返事をした。
 昨日水曜日午前中、昨年度でストラスブール大学哲学部を定年退官した名誉教授のお宅にお邪魔した。来月二十八日に前段落で言及した若手研究者を講演者としてストラスブール大学に招くのだが、講演後の公開討論の相手になってほしいというこちらの依頼をその名誉教授が引き受けてくださったので、その研究者の九鬼周造のモノグラフィーを手渡すのが訪問の目的だった。
 教授が過去に指導した日本人学生の話や共通の知人のことなど雑談しているうちに私の研究の話になり、特に私の博士論文の内容に興味を示され、再来年度から始まる哲学部の新しいカリキュラムを現在作成中で自分もそれに関与しているのだが、日本の哲学についての講義をやってみる気はないかと尋ねられた。まったく予期していなかったことだが、「もしそれが実現するならこれほどうれしいことはありません」と即答した。実現するかどうかは別として、そのような提案が聞けただけでも私は嬉しかった。
 というわけで、とても「哲学な」今週前半なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度日仏合同ゼミ第二回目遠隔合同授業 ― 遠隔コミュニケーションツールの積極的活用術が話し合いを楽しくする

2022-10-26 00:30:05 | 講義の余白から

 昨日火曜日、午前六時十分から七時五十分まで、前回同様ZOOMを使って日仏合同ゼミが行われた。出席者は、日本側が十六名、ストラスブール側が十名。十月初めに組み合わせた日仏合同三チームによる最初の発表がそれぞれのチームごとに順に行われた。
 チーム結成後、ストラスブール側の学生たちに直ちに日本の学生たちに連絡を取り、最終的な合同発表のテーマを決めるための話し合いを始めなさいと指示した。この指示にどのチームもすぐに反応してくれて、チームができてから三週間足らずにしては、今日の発表はどのチームも予想を上回る出来であった。
 最初はそれぞれが持ち寄った関心事やアイデアなどを紹介するところから始まった話し合いが、ZOOMやSNSを活用して継続され、その過程で少しずつテーマが絞られていく様子をどのチームもそれぞれ具体的に話してくれて面白かった。日仏とも出席学生全員が話してくれたのもとてもよかった。
 少し驚いたのは、初回の九月二十七日から四週間しか経っていないのに、ストラスブールの学生たちが日本語で話すことに慣れ始めていることだった。学生同士の話し合いの中で、相手の言うことが理解でき、自分たちの考えを伝えることができたという小さな成功体験の繰り返しが彼女彼らたちに自信を与え、間違いを恐れることなく、気持ちに余裕をもって話せるようになってきているのだ。予め頭の中で文章を組み立ててから話すのではなく、単純な文型を活用して躊躇なく話せるようになりはじめている。
 それには日本人学生たちの配慮も大きくプラスに働いている。表現を単純化し、ゆっくりと話し、必要があれば同じ言葉を繰り返す。そのおかげで、フランス人学生たちはストレスなく、自然に話せるようになってきている。異口同音に、「話し合うのが楽しい。次の話し合いが楽しみだ」と言っていたのが印象的だった。
 テーマそのものもチームごとに自ずと個性が出ていてよかった。発表テーマとしてはまだまだ大きすぎたり漠然としていたりするのだが、本人たちもそれは自覚している。彼女彼らがこれからどうテーマを自分たちで明確化していくか、それを見守っていくのが楽しみだ。チームごとのテーマについては、十一月二十二日に予定されている第三回遠隔合同授業後に話題にしよう。
 今日のところは、私たち教員は、厳しいことも否定的なことも言わず、あまりヒントを出しすぎないように注意しつつ、どのあたりに難しさがあるか、どんな論点が考えられるか、具体的にどのような問題場面が想定できるか、などを指摘するにとどめ、あとは自分たちで話し合い、時間をかけてテーマを絞り込んでいきなさいと指示した。
 コロナ禍の中で2020年に本格化させた日仏遠隔合同授業は今年で三回目になる。毎年プログラムが改善されている。今年は特に手応えを感じる。これは、コロナ禍でその使用を強いられた遠隔コミュニケーションツールを積極的に活用する術を学生たちがすでに身につけていることを意味してもいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


復刊された山本博文『殉死の構造』(角川新書、2022年)の本郷恵子氏による解説を読んで

2022-10-25 05:29:12 | 読游摘録

 昨年度、新渡戸稲造の『武士道』を修士一年の演習のテキストとして読んだとき、数ある日本語訳の中で山本博文氏の訳がもっとも参考になり、その解説からも多くを学んだ。その訳と併せて同氏の『武士と世間』(中公新書、2003年)も演習で取り上げた。それに特に興味を示した日仏の学生たちは同書に依拠しながら自分たちのチームの発表を行った。
 その時には電子書籍版では入手ができなかった同氏の『殉死の構造』(講談社学術文庫、2008年)が先月角川新書として復刊された。さっそく購入したが、まだ本文は読んでいない。本郷恵子氏による解説は読んだ。その中に、歴史学者としての覚悟と厳しい自己限定が垣間見られる次のような段落がある。

 著者は、一七世紀の武士が心の底から願って殉死する心理を、現代人には理解しがたいものと明言している。過去の人々の意識が、現代の私たちのそれと異質であることを認め、その拠ってきたるところを明確にすることこそが歴史学の使命である。過去から現在へと、変わらぬ何かが連綿と繋がっていると、「伝統」のような曖昧で安易な言葉で説明するのは正しくない。とくに形にあらわれない「心性」については、時代を超えた一貫性があると強調する論者も多いが、厳に慎むべきだろう。

 このような「伝統」論や「心性」論への誘惑には外国人に日本文化なるものを説明するときに負けやすい。私もそのひとりだ。作家、藝術家、評論家、映画監督などがこの手の言説を語るのは、まあ言論の自由だから、どうしようもない。が、例えば、村上春樹や高畑勲などが、いっさいの検証手続きなしに、日本人の変わらぬ心性としての無常観について語っている文章を読むと、そのまま放置はできないと私は思ってしまう。(ニホン的)「霊性」について喋々する連中も私には胡散臭くしか見えない。
 むしろ、このような言説が現代において流通してしまう理由をこそ明らかにすべきだと思う。古代から近世、いや近代も含めて、何か連綿と繋がっているなにか(ムスビとかね)を人は求めたがる。そして、そんな話に納得して安心する。いや、感動しさえする。そして、何も変わらない。変わっているのに気づかない。あるいは、気づいていても、目を背ける。あるいは、気づいていないふりをする。結局、私もそのひとりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


検証不可能な美しい言説に酔っているかぎりは…

2022-10-24 03:34:09 | 読游摘録

 まずは先入見なしに虚心坦懐に次の文章をお読みいただきたい。

それから、これだけは断っておきたいが、ここで書いている「日本人の信仰心」のなかに、私はいちばん無垢な、普遍的な信仰の命を観ようとしているのであって、それが日本人だけのものだとは少しも思っていない。それは現実にあるどの民族、どの宗派の占有物でもない。けれども、その信仰心は、古い日本のなかに、この国が日本と呼ばれるよりもはるかに古いこの土地のなかに、ほんとうに生まれ、それは今でも耳を済ませばこの土地の深く隠れた水脈のように、かすかな音を立てているのである。

 この文章を書いた人を批判することが目的ではないので名前は伏せる。私自身がこの本を最初に読んだときは、かなり期待をもって読んだ。読後もその所説のすべてを否定するつもりはない。それどころか、いろいろと勉強になりました、と言ってもよい。
 それにしても、こういうコバヤシヒデオ的あるいはヤスダヨジュウロウ的断定は何を根拠としているのか、と問わざるを得ない。古来、何があっても変わらずに私たちの生きている土地に今も息づいているものがあるって、どうやってそれを検証するのか。
 検証が誰にもできないとわかっているからこそ、こういう言説は横行しうる。それどころか、検証などという賢しらごと(漢意あるいは西欧近代思想)にこだわっているから、「かすかな音」が聞こえないのだとさえ、この手の論者たちは言うかもしれない。
 こういう検証不可能な断定から構成される言説は、それを肯定し、それに荷担する人たちによってのみ担保されうる。書いた本人はそのつもりがなくても、この手の言説はイデオロギーあるいは教条としてしか機能し得ない。
 「いちばん無垢な、普遍的な信仰の命」、「現実にあるどの民族、どの宗派の占有物でもない」、どちらもいかにも美しい表現だ。
 ひねくれ者で世の中を斜めにしか見られない私は、こういった美辞麗句に接すると、まさにそれが美しいからこそ、虚偽でしかありえないと思ってしまう。
 多分、私が間違っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史学における全体性という方法的概念 ― 安丸良夫『〈方法〉としての思想史』「はしがき」に触れて

2022-10-23 17:14:06 | 読游摘録

 安丸良夫は『〈方法〉としての思想史』(法藏館文庫、2021年)の「はしがき」(というには31頁とあまりにも長く、むしろ「序論」あるいは「序説」とでも名づけたほうがよいのではと思うが)の中で、歴史学における全体性について次のように述べている。

私は、歴史学には全体性という概念が重要だと考えるが、それはいわば史料からは見えにくい次元も含めて歴史の全体性をダイナミックに見るための方法的概念である。私たちが実際に知りうることはむしろ狭く限定されているのだけれども、私たちは無自覚のうちにも個々の知見を全体性の光に照らしてとらえかえしているのであり、問題はそのことを自覚化し方法化することができるか否かにあるのであろう。(31頁)

 私たちが個々ばらばらの事実とされるものをそれとして受け取るときでも、それは私たちが無自覚のうちに前提してしまっている全体性の中でのことであり、その全体性が構成する歴史的遠近法の中で軽重がすでに計量されている諸事実に対して、それらを重視したり軽視・無視したりしている。あるいは、その遠近法の中ではそもそも意識にさえ上ってこない事実さえ無数にある。
 だから、その全体性を自覚化し方法化しないかぎり、私たちは事実を「事実」として受け取るがことできず、事実は事実だというトートロジーの中で思考を停止し、「事実」を「事実」として捉える方法を持たず、結果、事実から疎外される(ここで一言断っておくと、私が区別している事実と「事実」とは、安丸良夫のテキストにおいては「事実」と表象との関係として問題化されている)。
 そもそもヌーメノンとしての歴史的事実は理論的に認識不可能であり、歴史学が対象とすべきなのは史料であり、その分析こそが歴史学者の使命であるとする立場もあり、あるいは、ごくわずかの確実に知りうる事実に至ることのみを歴史研究の目的とする立場もありうるが、安丸の立場はそのいずれでもない。
 その都度時間空間的に具体的に限定された問題領域の中で、事実と「事実」との関係性の総体を全体性として方法的に措定しつつ、諸史料が語る個々の「事実」を検証することによって、措定された全体性を問い直し続ける。それが安丸の方法論なのだと私は思う。
 この作業に終わりはない。「全体をとらえる構想力・理解力に支えられてはじめて史料が生かされうるのである」(32頁)とすれば、全体性を方法的に措定することは、その全体性に史料を従属させることではなく、まったく逆に、措定された全体性の整合性・合理性を史料によってつねに検証し続けることである。
 この終わりなき作業こそがあらゆる教条主義や決定論から距離を取りつつ柔軟に考え続けることを可能にしてくれる。
 方法は、ただ踏襲されればよいものではなく、ましてやその適用の結果得られたものをただ受容すればよいわけはなく、それ自体が検証され続けるときにのみ、つまり、実践しつつそれに囚われないときにのみ、思考の自由を与えくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏訳問題のためのテキスト探し

2022-10-22 09:22:02 | 講義の余白から

 今回の中間試験から日本語の文章の仏訳を試験問題に組み入れることにしたため、問題作成時にちょうどよいレベルの文章を探していて、それが普段自分自身のために読むときとは少しちがった眼で日本語の文章を読む機会となり、「発見」とまで言えば大げさになるが、いろいろと気づかされたことがあって面白かった。
 対象となった文章は、授業で扱ったテーマのいずれかとなんらかの関係がある文章であるから、いわゆる文学的な文章は随筆の類も含めて最初から対象外であった。特定分野の術語が多用される学術的専門書も対象外である。日本の学者先生たちが一般向け或いは日本の大学生向けに書いた文章が主な対象であった。だから、構文としてはあまり複雑でなく、語彙レベルも大学入試レベルを越えるものではない。
 これらの文章は言うまでもなく日本人に読まれることを前提として書かれている。あるいはそう意識することもなく、日本語として比較的平易な文章として書かれている。あとがきなどでよく著者たちが言及するように、担当編集者による読者目線からの指摘が取り入れられていることも多い。だから、日本人の一般読者にとって読みにくい文章は対象とされた文章の中にはなかった。
 それでも、自分がわかっていることを読者もわかってくれていると著者が期待あるいは想定して書いていると思われるところも多々ある。それは当然のことだ。この常識的「暗黙知」の共有は、しかし、外国人読者にとっては自明のことではない。ましてや日本語学習を始めて一二年の学生たちにそれを求めることには無理がある。
 これらのことを勘案しつつ手頃な文章を探していると、なかなかすべての条件をクリアしている文章が見つからない。語彙に関しては、明らかに学生たちのレベルを超えている語にはフリガナを付し、訳語も与えることにした。構文を理解できているかどうかが評価のもっとも重要な基準になる。
 二年生には以下の文章が適切なレベルの指標の一つになる。

注目されるのは、ここでは国土と神々の生誕は説かれるが、人の生成は説かれないということである。確かに皇室はアマテラスの子孫であり、また、大きな豪族については、その祖先神が立てられる。しかし、そうした大きな豪族以外の人々はどのようにして生まれたのかというと、それについてはまったく説かれていない。一般の人々はどうやら国土とともに生まれたらしく、「青人草」「人草」と呼ばれ、いわば国土の付属物のように扱われている。それ故、その神話はあくまで支配者にとって支配の正統性を語るものであり、一般の人々はまったく問題にされていない。
                             末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)、17頁。

 試験問題は同著者の『日本思想史』(岩波新書、2020年)から上掲の文章と内容的に近い箇所を選んだ。
 三年生にとっては、以下の文章がやや難しめということになる。

歴史家の仕事の本領は、具体的な対象と取り組む現場の職人仕事にあり、方法論や歴史哲学について大仰に論ずるのはふさわしくないだろう。それに、こうした歴史家の仕事の一般的性格上、歴史家の方法論には対象の性格に応じてつくりなおされてゆく側面があり、一般化した記述にはなじまないところもあると思う。しかし、私たちが自分の日ごろの勉強の中身をすこし吟味してみるとわかるように、歴史家の仕事にはかなり複雑な認識理論上の諸問題がふくまれており、鋭敏な方法意識をもつように努力することは、私たちの自己訓練として重要なことだと考える。
                      安丸良夫『〈方法〉としての思想史』(法蔵館文庫、2021年)、25‐26頁。

 試験問題は同書の別の箇所から一文一文がもう少し短い文からなる四行ほどの文章を二つ選んだ。
 さて、学生たちはどんな訳を示してくれるだろうか。