内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

一時帰国最終日

2023-08-31 14:18:25 | 雑感

 本日深夜、正確には、9月1日午前零時5分発のエール・フランス便でフランスへの帰国の途に就く。7月14日から49日間の滞在であった。夏に一時帰国するようになった2009年以降最長の滞在期間だった。
 ところが、記録的な酷暑のせいで、外出機会はもっとも少なかった。もともと東京都外に出かける予定はなかったが、集中講義の五日間を除けば、都内でさえ外出は人と会うためや外食のために十回ほどしたに過ぎなかった。
 来年は2月1日から8月31日までの研究休暇期間中に夏以前の季節に帰国したいと思っている。まだ具体的な計画があるわけではないが、いつにするか考えるだけでも楽しい。その七ヶ月の間に自分の研究をまとめて一書にしたいとも願っている。
 明日9月1日午後にはストラスブールに帰りつける。9月4日から新学年開始。年末までの四ヶ月間は、論文執筆、事典項目執筆、講演、研究発表など、大学の仕事以外で結構忙しい。
 毎日のジョギングを無理のない範囲で継続し、体調をしっかり管理し、焦らず怠らず、日々の仕事を果たしていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』の憂鬱になるほどのアクチュアリティ(下)―「組織学習」「学習棄却」「自己革新組織」

2023-08-30 13:24:12 | 読游摘録

 『失敗の本質』第三章「失敗の教訓―日本軍の失敗の本質と今日的課題」を私は今後反復熟読することになるだろう。そして、授業でも取り上げることになるだろう。
 「組織学習」「学習棄却」「自己革新組織」という三つの基礎概念に関わる箇所を第三章から摘録しておく。

パフォーマンス・ギャップがある場合には、それは戦略とその実行が環境変化への対応を誤ったかあるいは遅れたかを意味するので、新しい知識や行動様式が探索され、既存の知識や行動様式の変更ないし革新がもたらされるのである。とりわけ、既存の知識や行動様式を捨てることを、学習(learning)に対して、学習棄却(unlearning)という。このようなプロセスが組織学習なのである。軍事組織は、このようなサイクルを繰り返しながら、環境に適応していく。(347頁)

組織は学習しながら進化していく。つまり、組織はその成果を通じて既存の知識の強化、修正あるいは棄却と新知識の獲得を行っていく。組織学習(organizational learning)とは、組織の行為とその結果との間の因果関係についての知識を、強化あるいは変化させる組織内部のプロセスである、と定義される。しかしながら、組織は、個人の頭脳に匹敵する頭脳を持たないし、またそれ自体で学習行動を起こすこともできない。学習するのは、あくまで一人一人の組織の成員である。したがって組織学習は、組織の成員一人一人によって行われる学習が互いに共有され、評価され、統合されるプロセスを経て初めて起こるのである。そのような学習が起こるためには、組織は、個々の成員に影響を与え、その学習の成果を蓄積し、伝達するという学習システムになっていなければならない。組織は、ちょうど一人一人の俳優によってドラマのレパートリーが演じられる舞台にたとえることができるのである。(367頁)

組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。(369頁)

 この組織学習と学習棄却との規定は、「軍事」という言葉を削除してもまったく差し支えがないほど普遍的な組織論の基本原則だし、今まさに私たちの社会が直面している問題そのものではないだろうか。

組織の環境適応は、かりに組織の戦略・資源・組織の一部あるいは全部が環境不適合であっても、それらを環境適合的に変革できる力があるかどうかがポイントであるということになる。つまり、一つの組織が、環境に継続的に適応していくためには、組織は環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなければならない。こうした能力を持つ組織を、「自己変革組織」という。日本軍という一つの巨大組織が失敗したのは、このような自己革新に失敗したからなのである。(348頁)

組織がたえず内部でゆらぎ続け、ゆらぎが内部で増幅され一定のクティカル・ポイントを超えれば、システムは不安定域を超えて新しい構造へ飛躍する。そのためには漸進的変化だけでは十分ではなく、ときには突然変異のようは突発的な変化が必要である。したがって、進化は、創造的破壊を伴う「自己超越」現象でもある。つまり自己革新組織は、たえずシステム自体の限界を超えたところに到達しようと自己否定を行うのである。進化は創造的なものであって、単なる適応的なものではないのである。自己革新組織は、不断に現状の創造的破壊を行ない、本質的にシステムをその物理的・精神的境界を超えたところに到達させる原理をうちに含んでいるのである。(382頁)

 「あなたが現在属している組織はこのような自己変革組織たり得ているでしょうか?」 今、この問いについて世論調査を日本全国規模で行えば、ほぼ間違いなく、「たり得ている」という回答は過半数に届かないであろう。それどころか、その他の回答「たり得ているかどうかわからない」「たり得ていないかもしれない」「ある場合、たり得ていない」「多くの場合、たり得ていない」「まったくたり得ていない」を全部合計すると優に過半数に達するだろうと予想される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』の憂鬱になるほどのアクチュアリティ(上)

2023-08-29 23:59:59 | 読游摘録

 この夏の一時帰国中は、ずっと酷暑に見舞われ続けたので、毎朝のジョギング以外、日中外を出歩くこともほとんどなく、冷房の効いた室内で読書して過ごす時間が多かった。おかげで普段あまり手に取ることもないような本にも出会うことができた。
 一昨日の記事で言及した『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一/寺本義也/鎌田伸一/杉之尾孝生/村井友秀/野中郁次郎、ダイヤモンド社、1984年。中公文庫、1991年)もそのような一冊である。1984年に刊行されて以来、今日まで読みつがれている名著だが、今回はじめて読んでみて、まことに遅まきながら、大げさでなく、衝撃を受けた。
 大東亜戦争史上の六つの失敗例の組織論的観点からの精密な分析の見事さだけでも圧倒される思いだったが、私がなによりも驚嘆すると同時に憂鬱にもなったのは、それらの分析から引き出される日本軍の組織的特異性及び弱点の指摘が現代日本社会のさまざまな組織にもそのまま当てはまることであった。極論すれば、「日本って、戦前・戦中から何も変わってないじゃん」と呟きたくなったほどである。
 そんな思いを私に懐かせた箇所をいくつかここに書き記しておきたい。

いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。それは軍隊という大規模組織を明確な方向性を欠いたまま指揮し、行動させることになるからである。本来、明確な統一的目的なくして作戦はないはずである。ところが、日本軍では、こうしたありうべからざることがしばしば起こった。(中公文庫版、268頁)

 こうしたありうべからざることが現政府内で起こっているように見えるのは私の無知のせいであろうか。

およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。(325頁)

 「日本軍」のところを空欄にして、適語で埋めよという問題を出したら、いろいろな組織の名前が全部正解になってしまうのが日本の現状ではないでしょうか。ちなみに、この一文は「学習を軽視した組織」と題された節の冒頭です。

組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如していた。日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で知識や経験が伝達され、共有されることが少なかった。(327頁)

 「日本軍」の代わりに「自分の職場」と入れたい衝動に駆られた方も少なくないのではないかと拝察申し上げます。

ここには対人関係、人的ネットワーク関係に対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学びとろうとする姿勢の欠如が見られる。(330頁)

 今、「「ここ」ってうちの組織のこと?」と思わず呟かれました?

日本軍の例で見ると、目的の不明確さは、短期決戦志向と関係があるし、また戦略策定における帰納的な方法とも関連性を持っている。明確なグランド・デザインがない場合には、戦略オプションも限定された範囲のなかでしかうまれてこない。短期決戦志向や全体としての戦略目的が明確でないとすれば、バランスのとれた兵器体系は生まれにくいであろう。(339頁)

 この指摘が今日の日本の企業の戦略策定にも適用可能であるとすれば、日本は大東亜戦争からいったい何を学んだと言えるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フランスへの帰国が迫り、持ち帰る本の選択に悩む

2023-08-28 17:23:31 | 雑感

 フランスへの帰国が迫るといつも悩まされることがある。持ち帰る書籍の選択と量である。以前は、上限23キロのスーツケース二つにぎりぎり一杯本を詰め込んで帰ったものだが、今はもうそんな体力はない。スーツケース一つ、それも20キロ前後がせいぜいで、それ以上の重量はしんどい。だから持って帰る本の量を抑えなくてはならない。なのに、誘惑に負けてついつい買ってしまう。結果、その全部を持って帰ることはできなくなり、選択に数日頭を悩ませる。苦渋の選択を強いられる。それでもスーツケースにはとても全部入らない。仕方なく、EMSで別に送ることになる。その度に思う。なんで本ってこんなに重いのだろうと。
 特に辞書は重い。にもかかわらず、小型国語辞典を三冊買ってしまった。辞書マニアではないが、辞書を読むのは好きだ。今回の一時帰国中に、佐々木健一氏の『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(文春文庫、2016年)とサンキュー・タツオ氏の『国語辞典の遊び方』(角川ソフィア文庫、2016年)を読んだ。そうしたら、どうしても『三省堂国語辞典』(第八版、2021年)と『明鏡国語辞典』(第三版、2020年)とが欲しくなってしまった。井上ひさしが愛用していたという大野晋・田中章夫編『角川必携国語辞典』(1995年)も買ってしまった。幸いなことに、『新明解国語辞典』(第八版、2020年)はすでに持っている。
 今年五月からの岩波文庫の新刊には哲学の分野で重厚な出版が続いた。これはもう買わないわけにはいかない。三木清『構想力の論理 第一』(五月)、同『構想力の論理 第二』(七月)、トマス・アクィナス『精選 神学大全1 徳論』(七月)、パスカル『小品と手紙』(八月)。三木の未完の大著がこうして入手しやすくなったことで、そこからさまざまなインスピレーションを得る読者も増えるだろう。中世哲学の研究者以外には名のみ知られるだけで、ほとんど読まれることのなかったトマス・アクィナスの『神学大全』が文庫という形で入手しやすくなったことは画期的なことだ。パスカルの『小品と手紙』も高価な全集でしか読めなかった作品群がひとまとめにされており、『パンセ』と密接に関連する遺稿群と手紙へのアクセスが格段に容易になったことは誠に慶賀すべきことだ。
 この他にも、かねてより入手したかった本を三十冊ほど購入し、持ち帰る。
 というわけで、なんだかんだいって、ホクホク顔で帰国するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本と世界に関する新たな認識枠組みを創出する契機としての「鎖国」

2023-08-27 23:59:59 | 読游摘録

 カナダの記号学の専門誌から仏語の論文の査読を頼まれ、その論文を読んでいたら、意外なことに、『失敗の研究 日本軍の組織論的研究』(戸部良一/寺本義也/鎌田伸一/杉之尾孝生/村井友秀/野中郁次郎、ダイヤモンド社、1984年。中公文庫、1991年)に言及されていた。論文の本筋からすればさして重要な言及ではないのだが、ちょっと気になって、中公文庫版を購入してパラパラとめくっていたら、「文庫版あとがき」の次の箇所に目が止まった。

 組織が継続的に環境に適応していくためには、組織は主体的にその戦略・組織を革新していかなければならない。このような自己改革組織の本質は、自己と世界に関する新たな認識枠組みを作りだすこと、すなわち概念の創造にある。しかしながら、既成の秩序を自ら解体したり既存の秩序を自ら解体したり既存の枠組みを組み換えたりして、新たな概念を創り出すことは、われわれの最も苦手とするところであった。日本軍のエリートには、狭義の現場主義を超えた形而上学的思考が脆弱で、普遍的な概念の創造とその操作化ができる者は殆どいなかったといわれる所以である。(410頁)

 十九世紀の初頭、志筑による造語である「鎖国」は、ケンペルの『日本誌』にその発想は依拠しているとはいえ、日本語としての一つの概念の創出であった。しかし、それ自体で自己と世界に関する新たな認識枠組みを作りだすものではなかった。
 「鎖国」という概念が広く知られるようになるのは幕末以降であり、「開国」の対立概念としてであった。明治期に鎖国の功罪を論じる鎖国得失論が盛んに行われたとはいえ、近代化=開国という等式が揺らぐことはなかった。
 しかし、「開国/鎖国」という二項対立的な図式のなかで開国が日本の進むべき道として選択されたのであるから、日本と世界に関する新たな認識枠組みを創り出すことに「鎖国」もまたその一つの契機として貢献したとは言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学思想史家としての志筑忠雄(最終回)― 無限宇宙論に到達した科学思想家による憂国の鎖国擁護論

2023-08-26 07:26:59 | 読游摘録

 志筑は、ケンペルの鎖国政策擁護論を手放しで礼賛しているわけではないが、その諸論点に関して概ね賛成である。一方、ロシアの南下政策による北方の脅威を認識してはいるが、武備が堅固な日本に攻め込んでくることはなかろうと至極楽観的である。外患に対して用心するに越したことはないと断ってはいるが。
 『鎖国論』に込められた志筑の意図を推察するには、「訳者あとがき」に相当する部分の最後の書き込みに注意する必要がある。その書き込みの内容は以下の通りである。

さらにまた異国異風の恐るべき邪説や暴論を憎んで、広く天下に求めてもさらに尊敬すべき人はおらず、仰ぐべき教えもないことを自覚して、国外からの侵入を防ぎ、国内は和合を強めることが最も必要なことで、その決心を固める上において本書は少しは役立つであろう。

 この「書き込み」は、後世、志筑以外の誰かによって書き加えられたという説もあるようだが、この連載は「書き込み」は志筑自身の手になるという前提に立つ。そのとき、ケンペルの『日本誌』の一部を訳し、それに自註を加えたこの『鎖国論』という一書は、次のような志筑の願望を動機として生まれたのではないかという推論が可能になる。
 それは、当時の日本の知識人たちが日本固有の地理的・政治的・経済的諸条件及び地政学的現況を冷静によく認識し、鎖国政策の積極的意義を理解した上で、安易な楽観主義の上に胡座をかいて惰眠を貪ることなく、これから日本が国内的・対外的に取るべき姿勢を主体的に選び取り、日本の将来への展望を構築していくための一助にしてほしい、という切なる願いである。
 このような切願から志筑は『鎖国論』を訳した。これがこの連載の第一回目と昨日の回で提起した第一の問いに対する私なりの解答である。
 第二の問いは、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて順次翻訳が進められていた『暦象新書』とその合間に翻訳された『鎖国論』との関係である。
 志筑は、ケールの著作に導かれてのこととはいえ、無数の恒星とそれに付属する惑星がそれぞれ系を成しつつ存在するという無限宇宙像に到達していた。この宇宙論的視座が志筑の世界認識にも反映されていると見ることはできないであろうか。つまり、宇宙と同じように、地球上においても、それぞれに独立した複数の系が共存しうると考えることは、少なくとも非合理的ではないと志筑は考えたのではないだろうか。とすれば、志筑が鎖国政策について以下のような擁護論を構想していたとしても驚くにはあたらない。
 一つの独立した系として自律的に機能し得ている国家を他の系へと開いて相互的に交流させることは、そのことに合理的必然性あるいは絶対的必要性がないかぎり、内的には制御不可能な外的圧力に国家の運営が左右されるという危険を招き、一つの系としての自律的存在を脅かしかねない。したがって、ケンペルが列挙した日本固有の地理的・政治的・経済的・法制的・産業的・文化的諸条件が維持されうるかぎり、「鎖国」を堅持することが日本国家にとって最良の政策である。
 このような「時代錯誤的」な鎖国擁護論を、当時の世界情勢についての無知と根拠を欠いた楽観主義とに因る謬説であると批判することは易しい。しかし、未知の先進的な西洋の学知を集約した蘭語の書籍の翻訳という困難な作業を積み重ねながら、外来の知識と外的な観点とを内在化させ、自立した判断の主体であろうした志筑忠雄の三十年に及ぶ学問的研鑽から私たちが学ぶべきことは今もなおあると私は考える。
 以上の結論をもって、今回の連載を終了する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学思想史家としての志筑忠雄(14)― 『鎖国論』の結論

2023-08-25 07:26:21 | 読游摘録

 徳川幕府が良策として鎖国を選択することができた諸条件を列挙した後、ケンペルは、鎖国に至る歴史的経緯を叙述する。
 幕府がキリスト教を全面的に禁止したのは、日本の伝統的な宗教意識と調和し得ないと判断したためだというのがケンペルの理解である。幕府のキリスト教への恐れも指摘する。
 幕府が鎖国に至ったのは、外国からの悪影響を遮断するためだったとケンペルは考える。
 総じて、鎖国に至った経緯について、必然的な方策であったとケンペルは理解を示している。
 鎖国が完成した日本についてのケンペルの見解は以下の通り。

日本が国を鎖すに至った今、将軍が考え計画したことに対して反対し妨害する者は誰もいなくなった。領主たちは皆帰順し、家来たちの謀反はなくなり、万民こぞってよく将軍に従ったため、勝手気儘な行動を心配する必要もなくなったのである。

 その結果として、

国中に反乱の恐れもなくなり、国境問題はなく、無敵の状態となって、他国の繁栄を見て羨み妬むというような賤しい気持ちを超越するようになった。実際、日本国には恐れるべき難事がなく幸福であり、外国からの来襲を心配する必要がなく、琉球・蝦夷・高麗及び周辺の対馬や佐渡や八丈島などの島々は、すべて日本帝国に服属した。

 鎖国下での日本国民は、閉じられた社会における幸福を満喫しており、自分が日本を訪れた頃は、まさにこのような政治・社会状況であったとケンペルは見ているのである。人民も平和で安寧で豊かな生活を満喫し、過去にも実現できなかった満足した自給自足の状態が日本には実現されている。ケンペルは、このような好ましい状況はもっぱら鎖国によってもたらされたと見ている。ここから次のような結論が引き出される。

統治者である尊敬すべき将軍によって、海外の全世界との交通を一切遮断し、完全な閉鎖状態にある現在ほど、国民の幸福がよりよく実現している時代を見出すことはできないのではないか。

 ここでは当時の江戸時代の現実がケンペルの見たとおりであったかどうかは問題ではない。言うまでもなく、ケンペルの知見は、限られた観察と見聞と資料に基づいており、見落とされている問題も多く、誤った認識もある。志筑ももちろんそのことに気づいている。仮にケンペルの記述が当時の日本の政治と経済と社会のある面をかなり正確に反映していたとしても、それが十八世紀末の日本の現実と大きく異なっていることも志筑には自明のことだったはずである。
 ここで私たちは再びこの連載の第一回目に提起された二つの問いに立ち戻らざるを得ない。
 ケンペルの『日本誌』の記述は志筑の時代から百年以上前の元禄期の日本についてであり、志筑は当時の政治・経済・社会・国際情勢と彼の時代のそれらとの間の大きな違いを当然認識していたはずである。だとすれば、十九世紀の初頭にどのような理由で『鎖国論』を訳したのか。これが第一の問いである。そして、志筑が心血を注いだオランダ語の科学文献の翻訳と『鎖国論』とはどのような関係にあるのか。これが第二の問いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学思想史家としての志筑忠雄(13)―『鎖国論』の議論の構成

2023-08-24 06:25:38 | 読游摘録

 『鎖国論』の論旨を池内氏の紹介に沿って見ていく。ところどころに私見を挿入する。
 ケンペルは、『鎖国論』の冒頭で、全人類共通の故郷である地球において、人々が互いに往来し、結び合い、助け合うことこそが正道であることを強調する。
 その上で、日本の鎖国政策とそれに伴う厳しい処罰を批判する。外国と通商することを禁じ、住民を囚人のように領内に閉じ込め、暴風で外国の浜に漂着し、帰国した住民を獄につなぎ、国を出た者は磔にし、日本に漂着した外国人をも獄に投じるというありさまで、神が配慮する人々の自由で友好的な交流の推進を拒否しており、断罪すべきだという。つまり、『鎖国論』は、「日本の鎖国は許されざる悪行」という原則論の提示から始まっている。
 しかし、この冒頭の原則論は本論でそれを論破するためにこそ提示されている。志筑もこの点について、「(ケンペルは)鎖国には理がないかのように述べている。このような天下が一体となって互いに相交わるべきとの論は、西洋の人々が普通に言っていることであり、ケンペルは実は次の段のことを言いたいがために特に持ち出したもので、自分で問題を投げかけて自分で反論しようとしているのだ」と註を付している。
 この註からわかることは、志筑は、西洋に行われている普遍主義的思考の存在を認めた上で、それが必ずしも例外なく適用されうるものではないとする点においてケンペルの立場を支持しているということである。
 事実、ケンペルは、原則論を提示した直後に、次のように述べている。

地球上では各地で風土が異なり、複数の民族がそれぞれ独自の生活を営んでいる。そのとき、どの民族も皆それぞれの領地内で満足して生きており、自然の恵みによって自給自足できていて交易を必要とせず、文化も十分発展しているのなら国境を開く必要はない。わざわざ国を開いて、異国の悪徳や暴力の悪影響を受ける理由はないからだ。

 そして、この撰択が正当化されうる論拠を日本の場合に即して提示していく。ケンペルの議論の構成は以下のようになっている。

 (1)一般論・理想論として人類は助け合って共存すべきとする原則論から、それに反する鎖国を否定する。
 (2)この原則論に対して、条件次第では鎖国するほうが良い撰択である場合があるという反論を提示する。
 (3)日本はその条件を満たしている稀な国であることを論証する。

 このような議論の構成によって、鎖国政策を擁護すべく、日本の地理的条件、産業・商業活動の隆盛、法規制の厳格な適用等について、日本が自足・自律した国家たり得ていることをケンペルは順次論証していく。
 ただ、ケンペルが日本人の欠点として挙げている点も無視することはできない。その欠点とは、「知者をもって不足なりとせん」、つまり精神的素養(哲学研究)が欠けていることである。具体的には、「神の哲理や音楽や数学を知らないままである」とケンペルは指摘している。
 この欠点の指摘は必ずしも正鵠を射ているとは言えないが、日本思想史における形而上学的思考の貧困は認めざるを得ないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学思想史家としての志筑忠雄(12)―『鎖国論』とその時代の日本を取り巻く国際情勢

2023-08-23 00:00:00 | 読游摘録

 池内氏は『鎖国論』に対して、志筑は「なぜそんな古い本を翻訳したのか」という疑問を提起する。ケンペルが滞在した当時(元禄時代)と比べれば、一一〇年後の志筑の時代には、日本を取り巻く状況は大きく変化していた。その変化を志筑はよく知りうる立場にあった。とすれば、なぜわざわざそんな古いケンペルの見聞録を翻訳したのだろうか。
 池内氏は、「志筑が政治向きの問題に強い関心を寄せ、何がしかの意見表明をしようと意図して」翻訳したのではないかと推測している。では、その「何がしかの意見表明」とはどのような内容なのだろうか。
 志筑はおそらく『日本誌』全体に目を通しただろう。その中から「鎖国論」のみを訳したのには、単に時間的あるいは体力的な制約という以上の何らかの理由があったはずである。『日本誌』の多くの記述は志筑の時代にはもう古くなっていたことを志筑がよく自覚していたことは、ある註に「ケンペル以来、既に百余年も経っているのだから、我が国の風俗はその頃と今とでは変わっていることもある」と記していることからも明らかである。
 当時の日本を取り巻く状況を池内氏の叙述に沿っておさらいしておこう。
 一八〇〇年前後、ロシアから日本への圧力が強まりつつあった。工藤平助(1734‐1800)が『赤蝦夷風説考』を完成させたのが一七八三年で、同書はロシアの南下を警戒しつつ蝦夷地開拓を積極的に行うことを勧めた著作である。続いて、林子平(1738‐1793)が隣接する朝鮮・琉球・蝦夷の三国と小笠原諸島の地理や風俗などを詳しく書いた『三国通覧図説』(1785年)を、さらに一七九一年には『海国兵談』を刊行し、そのなかに「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」と書き、世界が海を通じて結びついており、やがて外国から圧力がかかって国を開かねばならなくなるということを暗示していた。
 一七九二年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、それに同行した漂流民の大黒屋光太夫以下の三名が帰国を果たしたが、その聞き書きを桂川甫周が『北槎聞略』としてまとめ、ロシア国内の政治の内情やロシアにおける日本語教育の状況などを記している。志筑自身、一七九五年にロシアのシベリア開拓や清との交渉の由来を記した『露西亜来歴』を刊行しており、ロシアの進出に刺激を受けて翻訳したと思われる。
 このような社会情勢が背景にあって『鎖国論』の翻訳はなされた。明日の記事から、『鎖国論』におけるケンペルの所説とそれに対する志筑の注解を見ていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学思想史家としての志筑忠雄(11)― 十九世紀初頭に「鎖国」という語は生まれた

2023-08-22 06:41:04 | 読游摘録

 ようやく今回の連載の最終的なテーマである志筑忠雄の『鎖国論』にたどり着いた。池内了氏が『江戸の宇宙論』の中で『鎖国論』を正面から取り上げている補論―1「志筑忠雄の『鎖国論』をめぐって」を読んでいく。
 『鎖国論』は、長崎出島のオランダ商館付き医師のポストを1690年から1692年までの二年間努めたドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペル(1651‐1716)がドイツ帰国後に書いた浩瀚な『日本誌』に収録された補論の一つ「探究―現在の如く日本が国を閉ざして人民が外国と交易を営むことを許さぬことが、日本を幸福にする助けとなるや否や」の訳及び志筑による補注、後書きからなっている。
 この長たらしいタイトルを志筑が「鎖国論」と縮約し、訳本文でも「国を鎖す」の意で「鎖国」という語を用いたのがこの語のはじまりである。荒野泰典氏は『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫、2019年)のなかで「鎖国」という概念を「ケンペルと志筑の合作」としているが、日本語としての「鎖国」は志筑の造語である。
 ドイツ語で書かれた『日本誌』は、その出版の経緯がいささか複雑なのだが、その点には触れない。英訳が1727年、仏訳とオランダ語訳が1729年に出版された。1747~1749年にようやくドイツ語版が出版されるが、これは英語からの重訳であった。ことに英訳と仏訳はヨーロッパで広く読まれ、当時のヨーロッパ人たちが日本の鎖国政策について肯定的なイメージを形成するのに与って力があった。そのイメージは、しかし、ケンペル直筆原稿に基づいたドイツ語版が1777~1779年に出版されると転倒させられる。
 というのは、その校訂者であるクリスチャン・ヴィルヘルム・ドームが鎖国批判論を第二版に付したからである。十八世紀後半のヨーロッパの経済発展と国際情勢の変化とも密接に関係するこの日本に対するイメージの逆転という問題は、日本の近代化を世界史的視野のなかで見るために重要なポイントの一つではあるが、今回の連載の本筋から外れるのでこれ以上は言及しない。
 日本における『日本誌』への最初の言及は三浦梅園の『帰山録上巻』(1778年)に見られる。本多利明(1743‐1820)の『西域物語』(1798年)でも言及されている。志筑の翻訳の原本となったのは、平戸の藩主松浦静山(1760‐1841)が大金を積んで購入した版である。志筑はこの版を平戸に滞在して閲覧し、翻訳したらしい。