内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清のパスカル研究の独創性

2023-06-30 14:16:53 | 哲学

 塩川徹也氏の『パスカル考』(岩波書店、2003年)には補遺として「日本におけるパスカル―回顧と展望」と題された論考が収められている。 « Pascal en Extrême-Orient » という題で Chroniques de Port-Royal, n° 49, Bibliothèque Mazarine, 2000 に収録された仏語論文の日本語版である。この仏語論文は、1999年10月2日にパリ・ソルボンヌ大学で開催された研究集会 Port-Royal au miroir du XXe siècle での発表原稿が基になっている。それで著者自身による日本語訳も「です・ます」調になっている。
 この論考の中で、塩川氏は、三木清の略歴とそのパスカル研究について三頁に亘って紹介している(287‐290頁)。塩川氏は、日本におけるパスカル研究の出発点を三木の『パスカルにおける人間の研究』(1926年)としている。これには異論は出ないだろう。当時、「パスカルが日本人哲学者の間でほとんど問題にされていなかった」ことを思えば、三木の慧眼はやはり特筆に値する。
 塩川氏は三木のパスカル研究をこう紹介している。「彼の独創は、人間学を「生の存在論」として取り扱い、それを『パンセ』のうちに見て取るところにあります。つまり人間に関するパスカルの分析は、心理学の次元にではなく、実存と存在論の次元にあるというのです。換言すれば、それは意識や精神の事実に関わるのではなく、世界におけるわれわれの「存在の仕方」、あるいはわれわれと世界との出会いの仕方に他ならない「人間の条件」に関わるのです。三木は、ハイデッガーにならって、科学的説明と純粋な記述の中間に位置するとされる解釈学の方法を採用し、それに依拠して人間の条件の意味を解読しようと努めます。」(288‐289頁)
 そして、『パスカルにおける人間の研究』をこう高く評価している。「ハイデッガーの『存在と時間』に一年先立って公刊された本書は、パスカルに関する真に独創的な実存主義的解釈の試みです。」(289頁)
 フランスでもパスカル研究者として名高い塩川氏による三木のパスカル研究のこの賞賛にもかかわらず、三木のパスカル研究がフランスのパスカル研究者たちの注意を引くことは、この二十年あまりほとんどなかったようである。フランス語圏で日本の哲学者たちに関心をもつ人たちの間でも、ごく一部の例外を除いて、三木のパスカル研究を取り上げた論考は皆無に等しい。
 かねてからそのことを残念に思っていた私は、自ら本書の仏訳を企図したこともあったが、実を結ぶに至らなかった。この冬のパリ・ナンテール大学での発表では、まことに微力ながら、三木のパスカル研究の独創性を『存在と時間』出版以前のハイデガーの講義との関連において示したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ハイデガーの超克(Dépassement de Heidegger)― パリ・ナンテール大学での今冬のシンポジウムのテーマ

2023-06-29 23:59:59 | 哲学

 パリ・ナンテール大学で2018年から日本哲学に関するシンポジウムが開催されるようになり、昨年2022年まで、コロナ禍で延期になった2020年を除いて、四回開催されている。そのすべてに発表者として参加してきた。2018年は「田辺元の種の論理」、2019年は「西谷啓治の空の哲学」、2021年は「主観・主体・主語」、2022年は「自然の創案」(シモンドンと三木清の技術の哲学)がそれぞれ発表テーマだった。
 五回目となる今回のシンポジウム(11月30日・12月1日)のテーマは、今日の記事のタイトルのとおりなのだが、その狙いは、ハイデガーの『存在と時間』を日仏の哲学者たちがどのように読み、批判し、乗り越えようと試みたかについて多角的に検討することにある。シンポジウムの提題には、フランスの哲学者としては、レヴィナスの名前しか挙げられていないが、日本側は、西田、田辺、九鬼、和辻が挙げられている。
 主催者がこの五月の上旬に私に参加の意思を問うてきたときには、和辻について話してくれないかという条件つきだった。それでも引き受けるつもりだったが、返事には、私よりも適任な人がいれば、和辻はその人に譲って、自分としては三木清について話したいと希望を述べた。主催者からはすぐに了承の返事が来た。その返信で、和辻についての適任者を一人推薦しておいた。
 三木の名前を挙げたとき、私の念頭にあったのは『パスカルにおける人間の研究』であった。『近代日本思想選 三木清』(森一郎編、ちくま学芸文庫、2021年)の解説で編者は次のように同書を評価している。

 若きハイデッガーは、アウグスティヌスやキルケゴールと並んでパスカルを愛読し、その生の哲学的なテーマ ―「倦怠」「気晴らし」「不安」「死」など ― をみずからの思索の養分とした。しかし、『存在と時間』に片鱗は窺えるものの、ハイデッガー自身にはまとまったパスカル論は見出せない。当人に代わって、日本人の留学生が日本語でその方面の仕事を仕上げてくれた格好になる。これは驚くべきことではないだろうか。
 三木がハイデッガーから学んだのは『存在と時間』公刊以前である。著作からではなく講義や演習、加えて個人指導から貪欲に摂取した形跡が認められる。たとえば、人間とは何かという問い、つまり「アントロポロギー」に対するこだわりが、『パスカルにおける人間の研究』の全編に横溢している。ところが『存在と時間』では、「人間」という言葉遣いは避けられ、それに代わって、存在とは何かという問いを問う者一人一人が、「現存在」と呼びかけられる。そこで『存在と時間』の忠実な読者は、「人間」という語をみだりに使うこと、ましてや「人間学」という探究テーマを掲げることは、「ハイデッガーの思索にふさわしくない」と決めつけたがる。この基準から外れている三木は、「ハイデッガーを学びそこなった」とする批評さえ出回っている。
 そうではないのだ。ハイデッガー教条主義者と違って、ハイデッガー自身の思考は、ずっと柔軟であった。とりわけ、主著刊行以前の気鋭の哲学者は、「人間」や「生」といった事象を公然と探究テーマに据えていた。まただからこそ、主著において、「世人」「頽落」「良心」といった人間性の襞に分け入る問題設定がありえたのである。その鑑識眼のたしかさは、まさしく「モラリスト」的人間洞察に比肩されてよい。「現実の生活経験」を哲学的実存にまで高めようとした若きハイデッガーの試みは、その近くで学んだ日本人留学生がパリで書き、日本でまとめた卒業制作が示しているように、モンテーニュ、ラ・ブリュイエール、なかんずくパスカルの人間論と親和性を示している。

 この所見を一つの手がかりとして、三木のハイデッガー理解とその哲学的方法の適用としてのパスカル論の検討が発表のテーマになるだろう。
 期せずして、パスカル生誕四百年の年にパスカルについて話すことになる。昨年から今年にかけてのフランスでのパスカル関係の出版物の多さには目を見張るものがある。パスカル研究の第一人者であるヴァンサン・カロー氏も Pascal : de la certitude(PUF)を今年三月に出版された。その他いくつかの最新のパスカル研究も参照しつつ、じっくり時間をかけて発表の準備をするつもりである。


来年度後期研究休暇取得、ひときわ心の軽いこの初夏

2023-06-28 21:38:36 | 雑感

 六月二日、今年一月に申請した来年度後期の研究休暇(congé de recherche)願いが承認された。ストラスブール大学に赴任して今年度末で丸九年になるが、十年目にしてやっと取得できた長期休暇である。
 この休暇が取得できたことで、来年度後期の授業担当を免除されるだけでなく、規則上、年間最低義務時間数192時間の半分までしか授業が担当できなくなる。私の場合、その最低義務時間数をかなり超える時間数をずっと担当してきたし、特に前期に担当している科目が多かったので、前期担当分も減らさなくてはならない。具体的にいうと、来年度担当するのは、前期に、学部の授業2コマ半、修士の演習二つだけになる。
 前期より後期に取得するほうが実質的な休暇期間が長い。一月後半から八月末まで休める。といっても、授業外の責任は実質的に継続して負わなくてはならないから、まったく大学の職務から解放されるわけではない。それでも、来年前半は授業の準備から解放され、研究に集中できる。嬉しくないわけはない。
 当然、私が担当していた授業の一部を誰か他の教員に代わって貰う必要があるわけだが、今日の午後、それにもほぼ目処が立って一安心している。
 夏のヴァカンスが近づくこの時期、毎年心が軽くなるのを覚えるが、好天が続く今年の初夏、心はひときわ軽い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ままならぬブログは己の鏡か

2023-06-27 23:59:59 | ブログ

 今日は、このブログについての実にくだらん短い感想です。
 拙グログの記事を読めばすぐにわかることですが、明らかな手抜き記事も多々あるわけです。他方、結構頑張って書いた記事も少なからずあります。
 でも、こちらの力の入れようとか思い入れと訪問者数・閲覧数はほとんど対応していないことを思い知らされるたびごとに、やっぱり、ちょっと、悲しくなり、ため息をついてしまいます。
 今日はけっこうよく書けたなあと思って投稿しても、読んでくださるかたは情けないほど少ないことがしばしばある(もちろん読んでくださった方々への感謝は忘れていません)一方、二・三十分で書き飛ばした文字どおりの駄文が最高記録を更新したことは一再ならずありました。まあ、どっちにしろ大した数字ではないのですが。
 十年以上続けてきてこの体たらくなのですから、これが己の分とわきまえろということのなのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国際交流のためのお金の使い方について

2023-06-26 23:59:59 | 雑感

 ストラスブール大学は日本の二十数大学と交流提携を結んでいる。毎年それらの提携校にこちらの学生たちを一年間の交換留学プログラムの枠組みの中で多数送り出している。私自身が国際交流担当教員として今年受け持っている日本への留学生は十六名。この八月で一年のプログラムが終了し、多くの留学生は九月から修士課程に進学する。
 日本の提携大学はそれぞれに充実した交換留学プログラムをもっており、留学した学生たちからは概ねきわめて好評である。それだけ各大学の担当者たちが尽力しているということだ。こちらとしては感謝のほかはない。
 他方、国際交流にこれまであまり力を入れてこなかった、あるいは出遅れている日本の大学もある。そんな大学を対象に短期の日本研修企画に対して国がお金を出すプログラムがある。例によって諸方に迷惑がかからないように詳細は省くが、プログラムとしてどこまで意味があるのか疑問であるし、こういうプログラムに援助を申請しなくてはならない大学の国際交流のセクションは概して脆弱で付け焼き刃的であることが多い。
 日本の文化・社会・技術等について外国の大学生たちに今以上に広く深く持続的な関心を持ってもらいたいのなら、そして、それらの若者たちの中から将来日本で長く働きたいと思う人たちが多数出てくるようにしたいのなら、上記プログラムのような金をばらまくだけの安易な施策ではなく、やるべきことはほかにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


もうすぐヴァカンス

2023-06-25 23:59:59 | 雑感

 今日も朝早く、ヴァンセンヌの森までジョギング。朝の爽やかな空気の中を走るのは本当に気持ちがいい。体も軽い。
 昼は人と会う。どうしても昨日のレストランにもう一度行きたかったのでそこで会食。パリのエコール・デ・ボザールの一年目を終えたばかりの彼もとても喜んでくれた。美味を堪能しながら芸術論に花が咲く。今日も満席。これからパリに来るたびにここに来ることになりそう。
 昼食後、少し市内を散歩し、写真を撮ろうと思っていたのだが、あまりの暑さにその気を削がれる。
 東駅に早めに到着。ちょっと時間を持て余したが、暑さで動く気になれない。TGVは満席。定刻通り出発。ストラスブール駅には予定時刻より一分早く到着。自宅最寄りまでの直通バスがちょうど来ていて飛び乗る。午後九時過ぎに帰宅。たった二泊三日のことだが、自宅に帰り着くとほっとする。
 明日から一週間は仕事モード。7月2日(日)の日本語能力試験の試験監督が終われば、実質ヴァカンスだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パリのお薦めラオス・タイ・ベトナム料理レストラン

2023-06-24 23:59:59 | 雑感

 今回のパリ滞在中のホテルはナシオン駅のすぐ近くで、そこからヴァンセンヌの森まで直線距離で一キロ。早朝、ヴァンセンヌの森までジョギングしました。森の中を少し走り、往復で七キロ。連日日中は三〇度を超える暑さが続いていますが、六時前後はまだ二〇度前後で、快適に走れました。
 午後の発表の前に、日本哲学研究会の責任者Sさんと、イナルコから徒歩十分ほどのところにあるラオス・タイ・ベトナム料理レストラン Lao-Viet で昼食。イナルコの教員であるSさんお気に入りの店で、店員とも顔なじみ。観光客にはまったく縁のなく、繁華街から離れた大通りに面したこぢんまりとした店ですが、店員の応対も店内の雰囲気もとてもよく、料理の種類も豊富で、幾皿か異なったタイプの料理を頼んで取り分けて食べるのに適しています。知る人ぞ知るお店なのでしょう、十二時半にはほぼ満席でした。パリでフランス料理に飽きてしまい、もっとさっぱりとした味付けをお探しの方にお薦めです。値段も手頃です。
 発表そのものは、私自身としてはかなり明瞭に説明できたと思うのですが、後期西田哲学の勘所を捉えた瀧澤克己の「一般概念と個物」は参加者にはやはり難しかったようです。
 研究会後、私を含めて六人、イナルコ近くのカフェで歓談。十九時過ぎにお開きとなりました。
 これで今回のパリ滞在の「ミッション」は終了です。明日夜、ストラスブールに戻ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ソルボンヌは生きている

2023-06-23 23:59:59 | 雑感

 今日はソルボンヌでの発表。もともとはパリ第一大学・パンテオン・ソルボンヌの哲学部に属していた教員の一人の招きによる。数年前から彼が世話役になっている修士・博士課程の学生及びポスドクの若手哲学研究者たちの研究グループでの発表。会場はソルボンヌ広場前のソルボンヌ大学図書館内のセミナー室。改装後の図書館に入ったのは初めて。閲覧室の創建当時の絵画や天井の彫刻などはできるだけそのまま残しつつ、すっかりリフォームされていた。会場には十二人、オンラインで七人の参加者。発表はとてもうまくいったし、発表後の質疑応答も活発だった。私も学ぶところが多かった。
 研究会後、図書館の司書長の案内で普段は関係者以外立入禁止の書庫も見学させてもらう。圧倒的な伝統の重みを感じる。
 研究会世話役の彼と会後に残った二人の参加者、一人は一昨日修士号を取得したばかりの男子学生、もう一人はポスドクのイタリア人女性、とソルボンヌ広場に面したカフェのテラスでビールを呑みながら一時間ほど歓談。
 彼らに、ソルボンヌという名称は大学名として今でも使われているのかと、聞いたら、学生間・教員間では今でも普通に使われているという。つまり、かつての第一、第三、第四パリ大学は今もソルボンヌの呼ばれていているという。数年前にすべてのパリ大学を統合化したはずの「パリ・シテ大学」という呼称について聞いたら、驚いたことに、それは別の大学の話で自分たちには関係ないと言う。昨年かつてのパリ第七大学の教授は「パリ七」という通称は「パリ・シテ」に取って代わられたと言っていたのに。かつて第一から第十三まであったパリの諸大学の現在の組織系統がいまだに私にはよくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


とても小さな違和感 ― ドナルド・キーン『続 百代の過客』を読んでいて

2023-06-22 10:16:30 | 読游摘録

 先日、二回、ドナルド・キーンの『百代の過客』『続 百代の過客』(『ドナルド・キーン著作集』第二巻・第三巻、新潮社、2012年)について書いた。
 その後、『続』のほうをあちらこちら読んでいて、自分の言ったことの間違いに気づいた。正岡子規の日記についての節が石川啄木についての節に次いで、同書中二番目に長いと書いたが、これは間違い。両者よりも長い節がその直前にあった。国木田独歩の日記についての節はちょうど三十頁で、これが同書中一番長い。子規や啄木の日記ほど関心を持てなかったので、さっと斜め読みしただけで、長さに気づかなかった。失礼いたしました。お詫びとともにここに訂正いたします。
 さて、この二冊の名著は英語で書かれ、キーン氏の信頼が篤い金関寿夫氏が訳している。英語原文を読んだわけではないから、原文にどこまで忠実なのかはわからないけれど、とても読みやすい訳だと思う。『続』の「訳者あとがき」で金関氏はどのように訳業が進められたか、このように記している。
 「こんども一年間、キーン氏の原稿を訳していって、たいへん楽しかった。キーン氏が次々と、かなりのスピードで書いていったものを、二週間分ぐらいかためて届けてもらい、それを新聞の期日に遅れないように訳していったのだ。私自身初めて読むものを、その日その日訳してゆくのだから、普通の読者同様、毎日次はどうなるのかと興味津々であった。それに当然当該する日記を熟読した上、参考文献などにも目を通すことが多かったから、ずいぶん勉強にもなった。したがってこの仕事でいちばん得をしたのは、おそらく私ではなかっただろうか。」(561頁)
 こんなふうに訳の仕事ができれば、確かに楽しいであろうし、大いに勉強になるであろう。
 金関氏は、キーン氏の英文について、こう記している。
 「キーン氏の英文は、十八世紀のイギリスの名文家の文章をもっと今風にしたような、簡潔、明晰な文章だし、それに不思議と日本語になりやすい。わざわざ私のために書いてくれたのかな、と思ってしまうぐらいなのだ。その点でも、ずいぶん私は得をしている。」(562頁)
 これは嘘偽りのない率直な感想だと思う。
 他方、『百代の過客』の「あとがき」にキーン氏はこう記している。
 「『百代の過客』が朝日新聞に連載れている時から、読者の一部から「何故日本語で書かないのか」という旨の手紙があった。正直言って、このようなご批判をありがたく思う。何故なら、外人は日本語を書けないと思うような人より、日本語で書くべきだと叱って下さる読者のほうが、私の学識を認めてくれているからである。」(431頁)
 確かに、キーン氏には日本語で書いた著作があり、その日本語は見事なものだ(正直に言いうと、若干違和感を覚える表現もあったが、それは瑕瑾に過ぎない)。
 他方、同じ「あとがき」の最後の段落で、英語で書いた理由を次のように説明している。「いつか朝日新聞に、英語で書いた理由について次の三つをあげた。第一は、学問的に深い内容を長期に連載するには、母国語の方が書きやすいこと。第二に、外国人ならではの視点を打ち出す目的があり、日本語で書くとどうしても日本的な表現や言い回しになって、英語で書いたときと微妙に違ってくること。第三は、金関寿夫氏という心強い翻訳者がいたことである。以上の見解は現在でも変わっていない。」(同頁)
 実にもっともな理由で、すっかり納得してしまう。
 ただ、『続』を読んでいて、ときどき、この表現、なんか変じゃないか、キーンさん、本当にこう言いたかったのかな、と腑に落ちないところがあった。そんなふうに感じるのは、一つには、ある語について、前後に用いられている表現とのスピーチレベルのずれを感じるときだった。こんな砕けた表現が実際英語原文でも使われているのか、ちょっと疑問に思える箇所があった。もう一つには、皮肉な意味ででもないかぎり、この文脈でこの言葉は来ないでしょうと思われる箇所があった。
 一例だけ挙げる。樋口一葉の日記についての節で、一葉のますます困窮する生活についてこういう一文がある。

一葉の家の経済状態は着々と悪化し、ついには家の中に一銭の金もなくなる。(319頁)

 「着々と」は、「目的の達成に向けて、順を追って一つ一つ確実にこなしていく様子」(『新明解国語辞典』第八版)について使われる。経済状態の悪化は目的ではないし、そこに向かって順を追って手を打つことではないであろう。それに、ここはアイロニカルな表現を弄するところでもない。「着々と」との代わりに、「ますます」や「避けがたく」などが来るべきところではないだろうか。英語原文ではどんな表現になっているのか、気になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自分の論文を演習の課題テキストにする

2023-06-21 11:07:46 | 講義の余白から

 来年度で十年連続担当することになる修士一年前期(九月から一月)の二つの演習は、一つの共通の最終目的のために組み合わせて行われている。その目的は、二月に行われる日仏合同演習における日仏混合チームによる日本語での最終発表である。この合同演習については、毎年二月上旬それが終わった直後にこのブログで総括的感想を述べてきた。
 この合同演習の準備に約五ヶ月かける。その準備期間には、ZOOMを使った四回の日仏合同遠隔授業、チーム内の学生間のZOOM・LINEを使った話し合い・準備作業も含まれている。この演習方式は、この九年間、いわば手塩にかけて育ててきただけに、思い入れも一入である。
 以前話題にしたことだが、この合同演習のために日仏の学生たちに読ませる共通課題図書は私が毎年選定してきた。来年度の課題図書も三月末に選定し、いくつかの代替案とともに、四月初めに日本側の責任者の先生に選定私案をお送りした。
 ところがちょっと意外な展開となった。先方に迷惑がかからないように詳細を省くが、その先生から課題図書変更依頼がその理由説明とともに届いたのである。それを読むと、ちょっと呆れてしまうような内部事情なのだが、先方の苦衷はよくわかるので、選定し直すことにした。
 選定私案には四つの代替案も添付してあったのだが、実はそれらにはそれぞれ難点があった。高すぎること、難しすぎること、長すぎるすぎることなどである。そこで再考した。
 一日思案の上、思い切った提案をした。私自身の二つの日本語の論考を共通課題テキストとして提案したのである。いずれも『現代思想』に掲載された、「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」(二〇二一年一月号)と「食べられるものたちから世界の見方を学び直す 個体主義的世界観から多元的コスモロジーへ」(二〇二二年六月号)である。この二つの論考は、それぞれ植物哲学と動物哲学の欧米における最新の動向を主題としている。
 もしかしたら、先とは別の理由で拒否されるかも知れないと危惧したのだが、幸い快諾してもらえた。
 フランス人学生に私の日本語の論文を読ませるのはちょっと酷な話なのだが、参照している文献のほとんどはフランス語なので、その点彼らに「地の利」があるし、なにしろ執筆者自身が演習を担当するのであるから、彼らも心置きなく疑問点・不明点を質問できるわけである。これは日本人学生についても同じだ。
 それに植物・動物、菜食・肉食といった誰にとっても身近なテーマであるから、学生たちに関心を持ってもらいやすく、議論も活発化しやすいだろうという予想も、この大胆な提案の理由の一つである。
 ところで、今朝方、日本のある有名な出版社から、上記の論文「他性の沈黙の声を聴く」が今年の現代国語の試験問題として某私立大学で使われ、その入試問題を同社のサイトに掲載したく、その許可をいただきたいとのメールが届いた。断る理由もないので、すぐに承諾書を送信した。二年連続で同じテキストが大学入試に使われたことになる。いずれも関西の大学であるのは単なる偶然であろうか。