内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「浜辺の歌」― 生まれたときから故郷を喪失している者の涙の理由

2020-08-31 00:48:45 | 私の好きな曲

 日頃からテレワーク中、ストリーミングで音楽を流しっぱなしにしていることが多いのですが、さあこの曲を聴こうと思って聴くときと違って、こちらがまったく予期していないような曲や歌声が流れてくることがしばしばあり、その初めて聞く曲、あるいは、よく知っている曲でも今まで聴いたことのない歌声や演奏に不意打ちをくらって、自分でもどうしたことかと驚くほどに、涙が止まらなくなることがあります。
 どうして、ある曲・歌詞・歌声を聴くと、こんなにも心が震えてしまうのでしょうか。なんのことはない、年を取って涙腺が緩くなってしまっただけのことなのかもしれません。あるいは、ここ数ヶ月のコロナ禍でメンタルの疲弊が知らぬ間に蓄積していて、ちょっとしたことで感情的になりやすくなっているということなのかもしれません。
 涙の理由について、あえて平静を装って理屈を捏ねるとすれば(別に無理しなくていいじゃん)、決定的な故郷喪失感ということになるのかなと思います。どれだけ自分が「わが美しき故郷」から遠く離れて生きており、もう二度とそこへ帰れないということがひしひしと感じられ、感情を制御できなくなってしまうということなのでしょうか。
 もっとも、東京に生まれ育った私には、こここそが自分の故郷だという場所が実は存在せず、私の〈故郷〉は理想化されたユートピアにすぎません。子供の時から、夏休みに「田舎」に帰れる友だちがうらやましくてしかたありませんでした。
 昨日、夏の終りにしては冷た過ぎる雨が朝から降り続ける日曜日の午後、畠山美由紀が歌う「浜辺の歌」に心を突かれてしまいました。
 帰りたいけれどもう二度と帰ることができない「故郷」を想起させる曲は、どの言語であれ、どうしても心を震わせるものがあるのでしょうね。


メディア的存在としての人間 ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

2020-08-30 15:24:13 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの授業の四回目は、序説としての哲学的講義の最終回である。人間存在の本来的なメディア性がそこでのテーマである。そこから、なぜ現代社会においてメディア・リテラシーがとりわけ重要なのかという問いに対する答えを結論として引き出す。
 メディアという言葉をその原義に沿ってもっとも広義に取れば、「ある事象がそこで発生する場所」ということであり、「情報伝達の媒体」という今日一般的に通用している狭義のメディアも、この広義の中に位置づけて考えてみることで、その機能をより批判的に考察することができるようになる。
 広義のメディアなしに私たちはほとんど何も知ることができない。ある事象が発生する何らかの〈場所〉であるメディアを介してしか、私たちは何かを知ることができない。私たちの知はつねに〈場所〉に媒介されているのであり、無媒介な知はそもそもありえない。そして、その〈場所〉が安定化し、自明化すると、私たちはその〈場所〉を忘れてしまいがちだ。
 普通に日常生活を送るだけなら、それで何の不自由もない。いや、いちいち〈場所〉を疑っていたら、円滑な情報の授受に支障を来すから、〈場所〉を忘れていたほうがむしろ好都合なくらいだ。
 広義のメディアの意味において、私たち人間は「メディア的存在」であると定義できる。しかし、それは、人間はメディアに依存しなければ何も知り得ないという消極的な意味においてだけではない。私たちは与えられたメディアを利用することもでき、さらには新しいメディアを創出することもでき、それらメディアを使って情報を発信することもできる。この二重の意味において私たちは、メディア的存在なのだ。
 私たちはいつも何かに媒介されているからこそ、ある〈場所〉においてある媒介的存在だからこそ、何かを知ることができる。情報を発信、受信、媒介、転送することができる。広義のメディアなしに、私たちは何かを知ることも、他者とコミュニケーションすることもできない。
 だからこそ、今日の社会で自明化している種々のメディアを、そのそれぞれの特性・信頼性に応じて読み分けることができなければ、私たちは自分自身を知ることさえできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


無媒介な直接知はそもそもありえない ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

2020-08-29 14:25:39 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの授業の第三回目のテーマは、この科目の直接的な学習対象である日本のメディアからますます遠ざかる。そのテーマとは、「いっさいの媒介を経ない直接知はありうるか」という問いである。「そんなテツガク的な小難しい話、この授業のテーマと何の関係もないじゃん」と呆れるか、匙を投げる学生もいるであろう。
 しかし、私は抽象的な話で彼らの頭脳をいたずらに苦しめるつもりは毛頭ないし、学説やら哲学者や哲学書の名前を列挙することはいっさいしない。ただ、日本のメディアのリテラシーのためには、メディア原論から始めざるを得ず、そのメディア原論は、いかなるメディアも介さない直接的で確実な知はありうるのか、という問いまで遡らざるをえないということを理解してほしいだけである。
 さて、今日の本題に入ろう。
 昨日の記事では、知覚は何も媒介としない直接知であるという立場を一応担保した。しかし、ほんとうにそうであろうか。
 以下、それぞれの論点について、議論の過程は省略し、結論のみ摘記する。
 知覚は身体の形態・構造・機能・生理を前提としており、それらと独立に知覚作用は成り立ち得ない。知覚によって私たちが何か経験的に知ることができるとすれば、それは身体を媒介としているのであって、けっして無媒介な直接知ではない。知覚による前言語的な世界了解の次元を認めるとしても、それがすでに知覚主体としての身体を媒介とした関係性における知である。
 その知覚経験の記述が言語によって媒介されていることは言うまでもない。私たちは自分の知覚経験を記述するのにいずれかの自然言語を使用せざるを得ないが、その記述は経験そのものではない。知覚経験は、言語による記述を媒介としてしか、それを経験していない者に対して伝達可能にならない。いっさい伝達不可能なものは知ではあり得ない。
 知覚に依存しない知についてはどうであろうか。例えば、数学的言語はどうであろう。その場合も、論証には一定の規則に従って運用されるべき記号体系を必要とするから、やはり無媒介な知ということはできない。
 すべての自然言語から独立していて、自律的に機能する普遍言語を想像することはできても、それを想像する言語は普遍言語ではない。自然言語のいずれか、あるいはそれとは区別される記号の体系を媒介としてしか、普遍言語の構想を語ることはできない。
 ここまで考えてくると、知ることは、つねに何かを媒介として成立していると考えたほうがよさそうなことがわかる。無媒介な直接知がありうるかのように思えるのは、その知の成立を可能にしている媒介が自明性の地平を構成しているか、あるいは自明性の地平の下に隠れてしまい、かつ私たちがそこのことを忘却しているからに過ぎないことにここで気づかざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情報は情報であるかぎり、真理ではありえない ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

2020-08-28 07:03:53 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの第二回目の授業は、昨日の記事で示したメディアの定義に従って、メディアを介さない「直接的な」情報は存在し得ないという前提から議論を展開していく。いかなる情報もメディアにおいて、メディアによって発生するのであれば、それらの情報をいっさい排除したとき、つまり、いかなるメディアも介さずに私たちが直接的に確実に知りうることは何であろうか、という問いが出て来る。
 例えば、今、私がこの記事を書いているとき、窓外の天気をこの肉眼で確認することができる。爽やかな風が吹く、とても気持ちのいい夏の終りの晴天である。私は、視界を覆う樹々の緑とその彼方の青空をこの眼で今直接見、風に揺れる樹々のざわめきを聞き、室内を吹き抜ける涼風を肌に感じている。そこに誤りが入り込む余地はまずない。これを仮に知覚による直接知と呼ぶことにしよう。
 もちろん、これは日常生活の中でのごくありふれた経験として言っているのであって、哲学的に徹底した懐疑や知の確実性についてはここでは問題にしない。
 今この場所に他の人がいるとしよう。その人も私と一緒に窓外の天気を眺めている。私たちは同じ状況を同じ場所で共有している。このとき、情報を発信することも受信することもまったく必要がない。つまり、このような条件下では、つまり、知覚が共有されているとき、情報は発生しない。
 そのとき、日本の友人からメールが届いたとしよう。その中に「今、そっちはどんな天気?」と書いてある。私はそれに「今、とっても気持ちのいい天気だよ」と答えたとする。ここではじめて情報が発生する。私の日本の友人には、私が言っていることが本当かどうか確かめる術がない。もちろん、普通、私の側に嘘をつかなければならない理由もなく、友人の側にも私を疑う理由もない。という前提の上でのみ、その情報は「正しいもの」として伝達される。
 情報の伝達は、それを知っているものから知らないものへという非対称的な関係において、情報の受信者側にはその真偽を直接的には確認も確証もできないときに発生する。初期情報についてその真偽を確認・確証できる手段を入手できた時点で、その初期情報は、より確度の高い新情報に取って代わられ、情報としての価値を失う。情報は情報であるかぎり、相対的であり、期間限定的である。いつかは上書きされ、更新されるのが情報の情報たるゆえんだ。
 情報はメディアにおいてのみ発生する。メディアにおいてのみ発生するものは真理ではありえない。ゆえに、情報は情報であるかぎり、真理ではありえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情報生成の場所としてのメディア ― K先生の『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』(企画段階)より

2020-08-27 14:36:54 | 講義の余白から

 新年度から新たな任地へと移る同僚が担当していた学部三年生必修の Compréhension des médias という週一時間の授業を九月から私が代わりに担当する。自分が適任だとはとても思えないのだが、その同僚が新しいポストに決まったのが時期的にかなり遅く、その時点から適任を探す時間がなく、今年度は、不肖の身と知りつつ、私が引き受けることにした。
 日本学科の授業の一つだから、当然日本のメディアが対象になるわけだし、科目名からも察しがつくように、メディアが供給する情報をいかに読み解くかということが課題の授業であり、現在さまざまなメディア(情報供給媒体)を通じて日本人が日々受け取っている情報のリテラシー(なんかいけ好かない言葉であまり使いたくないのだか)を身につけるとかなんとか、シラバスには書かれるような内容の授業になるのが普通であろう。
 しかし、天の邪鬼な私は普通が嫌いである。奇を衒うのも好きではない。極端に走るもの柄ではない。ただ、できるだけ本格的かつ長期的に応用の効く知見と方法を学生たちに身に付けさせたいとは、どの授業においても切に願いつつ、授業内容を練り練りするのを常としている。
 で、どうするか。メディアとは何か、という話から始める。とは言いながら、この問いは、1964年に刊行され、センセーションを巻き起こしたマクルーハンの『メディア論』を出発点とするものではない。
 今日マス・メディアの意味で使われる「メディア Media」はラテン語の medium の複数形から来ている。この語は、中世において、論理学の用語として三段論法の小前提を意味したが、英国では、「そこにおいて現象が生じる場所 milieu」という意味でも使われた。
 この意味で、メディアとは、ある現象が発生する条件を備えた環境のことであって、いわゆる情報そのものでもないし、それを「客観的に」伝達する媒体でもない。メディアとは、情報を発生させる可能性の条件であって、メディアがなければ、そもそも情報は存在し得ない。
 とまあ、ざっと言えば、こんな挑発的な原理論から授業を始めるつもりである。
 それに対する学生たちの反応はすでにおおよそ見当がついている。「あ~ぁ。K先生、またしてもテツガクの授業始めちゃったよ。私たち日本学科の学生なんですけど。どうしてこういう拷問みたいな話なるんでしょうか。これって、アカハラじゃネ?」とかなんとか、ぼそぼそ呟く連中が少なくないであろう。ご愁傷様である。
 何、心配することはない。常日頃言っているように、不平不満がある場合は、学科長に直接相談すればいい。彼がなんとかしてくれるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「正しく恐れる」ことの難しさ ― 常軌を逸した恐れ慄き、投げやりな悲観主義、根拠のない楽天主義、それらのいずれにも傾かずに中庸の途を協働しつつ探し続けることの難しさ

2020-08-26 23:59:59 | 雑感

 コロナ禍が世界中を襲い始めてから、日本のメディアを通じて、何人かの科学者の方たちが一般市民に向けて、「正しく恐れる」ことの大切さを強調されていました。その心は、「正しい知識に基づいて、適切な対策を取り、過度な恐れと不安を抱かず、良識ある行動をする」ということだと理解しました。
 その限り、実にもっともなお話だと思いました。しかし、現実には、正しく恐れることはとてもむずかしい。
 なぜなら、何が正しい知識なのか、素人にはよくわからないからです。専門家の方たちの仰ることも必ずしも一致していないし、ちょっと専門的な話になると、私のようなド素人にはついていけない。先生方もそのへんを配慮して、できるだけわかりやすく話そうとしてくださっているとは思いますが、わかりやすさはしばしば正確さを裏切ることによってしか得られません。
 それに、これは2011年の福島原発事故のときにも痛感したことですが、専門家の先生方の説明が正しいかどうかを科学的に正しく判断する知識が一般人にはないということです。専門家の先生方の仰っていることは正しいに違いないと一般市民は信じたいわけですが、その信じる根拠はまったく科学的ではありません。権威ある研究機関の長であるとか、有名だとか、なんか誠実そうな人だとか、およそ科学的内容とは関係のない理由で私たち一般人は専門家たちを信じるしかない。
 ところが、残念なことに、そういう立派な先生方の仰ることも、必ずしもいつも正しくはないことを私たちは知っています。その理由はさまざまで、例えば、今回の新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことも多いわけですから、かつて先生方の仰っていたことが後に誤りだとわかっても、先生方を責めるわけにはいきません。科学者として、確実なことしか言わないようにすることが、現実の対策の実行を遅らせることだってありえます。
 つまり、「正しく恐れる」ために必要な確実な根拠を私たちは持つことができないままでいるというのが現状なのではないでしょうか。
 常軌を逸した恐れ慄き、投げやりな悲観主義、根拠のない楽天主義、それらいずれにも傾かずに、ある程度のリスクは覚悟して、置かれた状況の変化への絶えざる注意とその都度与えられる情報の信頼性の吟味とを通じて、必要な軌道修正を適宜行いながら、「中庸」の途を、みんなで議論しながら探っていくほかはない、それが良識ある市民の取るべき態度であると私は考えていますが、それがどれだけ難しいことなのかを現実は私たちに示しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


偏差値75以上の学生と40前後の学生がいる教室で、あなたはどのような授業をしますか

2020-08-25 23:59:59 | 雑感

 昨日月曜日から大学の事務が再開した。それに合わせて、朝方に九月からの新入生宛に歓迎の辞を学科長として一斉メールで送信した。予想はしていたことだが、それに応えるかたちで新入生から様々な質問が届いた。その文面と内容からわかることは、というか、今年もまた再確認したことは、学生間の目眩がするほどの学力格差である。
 フランスの大学は、日本の大学制度と違って、原則として入試による選抜ができないから、バカロレアを取得していれば、誰でも入学できてしまう。とは言っても、人気学部は、すぐに定員一杯になってしまうから、そういう学部では事実上選抜が実施されていると言ってよい。教育の機会均等を金科玉条とするおフランスでは、「選抜」という禁句を使わないだけの話である。偽善であり、欺瞞である。
 日本学科は、志願者数だけを見れば、ストラスブール大学言語学部で一二を争う人気学部のように見える。が、実情はそうではない。ざっとした数字を挙げて説明しよう。
 定員125名に対して、志願者総数560名。数字上は、競争率4.48倍である。その560名を書類審査で1位から最下位まで順位付けする。そして、それにいくつかのファクターを加えて、上位から順番に合格通知を送信する。もし、本当の人気学部であれば、あっという間に上位から席が埋まり、下位には通知は行かないはずである。ところが、実際は、最下位の学生にまで合格通知が行き、それでも定員に満たず、追加募集をして、ようやくほぼ定員が満たされたのは昨日のことである。
 どうして、こういうことになるのか。今の制度では、大学入学希望者たちは最大10学部・学科に願書を提出できる。彼らはもちろん志望大学・学部・学科に志望順位があるが、それはこちらにはわからない。志望順位のより高い学部から合格通知が来れば、当然彼らはそちらを選ぶ。
 我が日本学科は、彼らのうちの多くにとって、志望順位の高い学科ではない。何位かは人によるが、第一志望としている志願者はごく少数である。だから、いくらこちらから合格通知を送っても、すでに志望順位がより上位の大学から合格通知が来ていれば、当然彼らはすぐに拒否する。あるいは、志望順位のより高い他の大学からの合格通知をぎりぎりまで待つ。
 今年の結果は、過去二年にも増して、コントラストが激しい。一位と最下位がどちらも入学するのである。この事実が意味するところを、日本式にわかりやすく言うと、一流大学にらくらく合格できる偏差値75以上の実力の持ち主と偏差値40レベルのフランス語も満足に書けない学生が同じ教室にいるということである。しかも、一年生は全部で120名くらいいるのである。人数を縦軸、偏差値を横軸とした学力分布図を作成すれば、偏差値60前後にピークが来るフジヤマ型になるだろう。オー、ビューティフル!
 この歴然たる学力差がメール一通の文面に如実に現われる。この厳しい現実を、昨日から今日にかけて新入生から届いた二十通ほどのメールに答えながら、ほろ苦い思いとともに今年もまた噛みしめている学科長四年目の一日なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学は、隠されたものを顕にすることではなく、見えるものを見えるようにすることである ― ウィトゲンシュタインとフーコー

2020-08-24 03:34:35 | 哲学

 フランスを代表するウィトゲンシュタインのスペシャリストの一人であるクリスチアンヌ・ショヴィレ Christiane Chauviré の Voir le visible. La seconde philosophie de Wittgenstein, PUF, coll. « Philosophies », 2003 のキンドル版の宣伝メールがアマゾンから数日前に届き、そういう誘惑にことのほか弱い私は、危うく直ちにポチッと購入してしまいそうになった。が、あと一歩のところで、確かこの本は紙版を持っていたはずだよなと思い出し、書棚を探してみるとやはりあった。くわばらくわばら。
 普段あまり読まない本を並べてある最上段の書棚からその本を引っ張り出して頁をめくると、序説のエピグラフは、意外にも、ミッシェル・フーコーの日本での講演の一部だった。かつて読んだはずなのに、すっかり忘れている。
 その講演は、一九七八年四月に来日したとき、朝日新聞本社内の朝日講堂で四月二七日に「現代の権力を問う」という演題で行われたもので、同年六月二日発行の『朝日ジャーナル』に講演原稿の邦訳が掲載された。仏語の講演元原稿は、« La philosophie analytique de la politique » というタイトルで、Dits et écrits. 1954-1988, tome III : 1976-1979, Gallimard, 1994, p. 534-551 に収録されている。引用部分は以下の通り(Dits et écrits, t. III, p. 540)。

Il y a longtemps qu’on sait que le rôle de la philosophie n’est pas de découvrir ce qui est caché, mais de rendre visible ce qui est précisément visible, c’est-à-dire de faire apparaître ce qui est si proche, ce qui est si immédiat, ce qui est si intimement lié à nous-mêmes qu’à cause de cela nous ne le percevons pas. Alors que le rôle de la science est de faire connaître ce que nous ne voyons pas, le rôle de la philosophie est de faire voir ce que nous voyons.

Christiane Chauviré, Voir le visible. La seconde philosophie de Wittgenstein, op. cit., p. 9.

 哲学の役割は、かねてより、隠されたものを顕にすることではなく、まさに見えるものを見えるようにすることである。つまり、あまりにも身近で、あまりにも直接的で、あまりにも私たち自身に結びついていて、まさにそれゆえに私たちが知覚できなくなっているものをそれとして立ち現れさせることである。科学の役割が私たちに見えないものを認識させることであるのに対して、哲学の役割は、私たちが見ているものをそのとおり見させることにある。
 私たちの生活は、見えているのに見えなくなっているものに満ちているとさえ言える。それは、日常生活のレベルにおいてばかりでなく、人間関係においても、社会生活の諸相においても言えることだ。
 ところが、いや、だからこそ、と言うべきだろうか、見えているのに見えなくなっている状態にあることに気づくことなく、「あなたに見えているものの背後に実は見えない仕掛けがあり、それが見える世界を操っているのですよ」という類の言説に私たちは騙されやすい。
 見えるものをそのとおり見えるものとして見ることはそれほど難しい。どんなに科学が進歩しようとも、哲学の存在理由があるとすれば、そこにある、と私は言いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生きている形は見ることによって捉えられるのであって、分割することによってではない ― カンギレム『生命の認識』より

2020-08-23 15:03:03 | 哲学

 ビュルガの本の序論で、ゲーテの形態学について言及されている同じ段落で言及されているのがカンギレムの『生命の認識』(La connaissance de la vie, Vrin, 2e édition revue et augmentée, 2009 ; 1re 1965. 邦訳『生命の認識』法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 2002年)の序説である。そこに示された生命観は、ゲーテのそれと重なり合う。
 生命とはさまざまな形が成ることであり、認識とは形を与えられた物質の分析である。だから、いくら分析を重ねても、形を成すことそのことを説明しつくすことはできない。それどころか、さまざまな形において、その形の構成要素から成っている結果しか見ないとき、それらの形がどこから来ているのか見失ってしまう。あらゆる生ける形は、それぞれが一つの全体なのであり、その意味は、それらの形が置かれた環境に対して形成されていく傾向そのものの中にある。だから、それらの形はそれとして見られることによってはじめて捉えられるのであって、分割することによってではない。形は、それとして一つの全体を成しているのだから、本来分割しようのないものであり、何かそこから中身を抜き取れるようなものでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たち自身が形成を心がける動きに満ちた状態に身を置くこと ― ゲーテの形態学の要諦

2020-08-22 23:59:59 | 哲学

 冨山房百科文庫の一冊として刊行されているゲーテの『自然と象徴 ― 自然科学論集 ―』(一九八二年)は、折に触れて本棚から取り出して数頁読むということを二十年以上続けている本の中の一冊で、それだけ愛着がある(このことについては、今年の一月三十一日の記事で話題にした)。
 植物の現象学について考え始めたとき、ゲーテの形態学のことを当然真っ先に思い起こした。『形態学論考』誌 序 ― 有機的自然の形成と変形 ― の中の「研究の意図」の一部がビュルガの本に引用されていたので、その前後の段落もあわせて読んでみた。ちくま学芸文庫から木村直司訳『ゲーテ形態学論集・植物篇』(二〇〇九年)も刊行されているが、私は冨山房百科文庫の高橋義人訳を好む。

 ドイツ人は現実に存在するものの複雑なあり方に対して形態(ゲシュタルト Gestalt)という言葉を用いている。生きて動いているものは、こう表現されることによって抽象化される。言いかえれば、相互に依存しながら一つの全体を形成しているものも、固定され、他との繋がりを失い、一定の性格しかもたなくなってしまうのである。
 しかしありとあらゆる形態、特に有機体の形態を観察してみると、変化しないもの、静止したもの、他との繋がりをもたないものはどこにも見出せず、すべては絶え間なく動いて已むことを知らないことがわかる。だからわれわれのドイツ語が、生み出されものや生み出されつつあるものに対して形成(ビルドング Bildung)という言葉を普通用いているのは、充分に根拠のあることなのである。
 それだけに形態学(Morphologie)の序文を書こうとすれば、形態について語ることは許されない。やむなくこの言葉を使ったとしても、それは理念や概念を、つまり経験のなかで束の間固定されたものを指しているにすぎない。
 ひとたび形成されたものもたちどころに変形される。だから自然の生きた直観に到達しようとするならば、われわれ自身が自然が示してくれる実例に倣って、形成を心がける動きに満ちた状態に身を置いていなければならない。(三八-三九頁)

 特に最後の段落で言われている自然に対する態度を私たちは忘れがちなのではないかと、この箇所を読み直しながらあらためて思った。