内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

読点なき美しく明快な日本語を目指して ― K先生の日本語論集『君を愛さずにはいられない』(未来の遺稿)より

2020-03-01 10:39:50 | 日本語について

 以前から拙ブログをお読みくださっている方々の中にはすでにお気づきの方もいらっしゃるかと拝察申し上げますが、ここ十日間ほど私はこのブロクでの文体を意図的に変えています。極力読点を減らしかつ一文が長くなってもそのまま読み下せば論理的に明快な文を構成するように心掛けているのです。読者の方々から反応を頂戴しているわけではないので可否については判断しかねるところもありますが自分としてはとてもいい勉強になっております。
 これまで私はどちらかというと読点を多用するほうでした。そのほうが読み手にとって文の構造が視覚的により明確になるだろうというのがその理由でした。学生たちの作文を添削するときも同じ方針にしたがって添削してきました。ただ一言正直に申し上げておきますと、添削された学生から「なんでここに読点が必要なのですか」と詰め寄られて答えに窮したこともあります。
 その一方で読点が少なくても読みやすくかつ論理的に曖昧さのない文章が書けないものかと予てより思案してまいりました。若い頃、内田百閒に心酔していて彼の文体を真似てみたことがあります。吉田健一の文体を真似してみたこともあります。両者に共通するのは読点が少ないことです。それでもそのまま語順にしたがって読んでいけば文意がとれるように書かれています。それに憧れたのです。その真似事を通じて気づかされたことは、それが可能なのは内容や分野にも拠るということでした。
 日本語にはもともと「、」も「。」もなかったし、現在でも読点について厳密な規則があるわけではありません。実際人さまの文章を読んでもその使い方にはかなりの違いがあります。そのどれが正しいかということは一律的には決めがたく、曖昧さあるいは誤解を発生させないかぎりは書き手の自由選択に任せるという消極的な原則を方針とするしかなさそうです。
 一般的には、一文の論理的な分節を明示するにはやはりある程度は読点を打つ必要があるとは言えそうです。そうしないと読み手はその文が単語の数珠繋ぎにしか見えない恐れがあるからです。それにもかかわらずあえて極力読点を減らしつつどこまで論理的な曖昧さを回避しかつ読みやすさを確保することができるか。それをいま拙ブログの記事で実験中なのです。
 これまで拙ブログのご笑覧を賜っております忍耐強い読者の皆様にあられましては今しばらくこの実験におつき合いいただければ幸甚に存じます。