内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「あそぶ」―外在的拘束から解放された自律的時空間を楽しむこと

2019-01-31 23:59:59 | 哲学

 「あそぶ」という動詞、「あそび」という名詞、「あそばす」という動詞は上代から広く使われていた。記紀万葉神楽歌にその用例を多数見ることができる。遊びの種類は、奏楽・歌舞・宴会・行楽・舟遊び・遊猟・碁など多岐にわたり、また時代・階層によって異なるが、「あそぶ」という行為の共通点は、「日常の業(仕事・任務)から離れた場に身を置いて、解放された身心を活発に動かして楽しむ」(『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年)というところにある。「あそばす」は、アソブとス(上代の尊敬の助動詞)の連語であったものが一語化して尊敬の他動詞になった。「アソブとは、日常から解放されて好きなことをして楽しむことであり、どのような事柄をいうかは時代や環境などによって異なる。古くは神事の際の楽器の演奏、芸能も含み、上代では花摘みや狩猟、酒宴など、野山で楽しむことを主にアソブといったため、そうした貴人たちの動作に助動詞スを付けて尊敬の意を表した」(同辞典「あそばす」の項)。
 以上から、アソブとは、その行為に参加するものたちがその行為に固有な規則を自ら設定・遵守し、そのアソビに対して外在的な必要性・拘束・強制や目的手段連関から解放され、自律的な時空間を共有し、それを楽しむこと、と定義することができる。外的な拘束から自由であり、何ものにも強制されることなく、他からの命令によらず、己自身の自発性から自律的時空間において実行される行為を敬して表現するとき、それが「あそばす」である。「身分の高い人はただ自発的な楽しみによってのみ行動するほどの崇高さの窮みに生きていると思われているのだ」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社学術文庫、2018年)。












会読 ― 江戸時代の共同読書方法の思想的可能性

2019-01-30 21:12:11 | 読游摘録

 前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー版2018年。初版平凡社選書2012年)は、江戸時代に藩校や私塾で広く行われていた「会読」という共同読書法に焦点を合わせ、そのはじまりから展開を詳細に辿り、藩や身分の枠を飛び越えた横議が活発に行われた幕末を経て、いかに明治の自由民権運動の中で生れた学習結社にその読書方法が受け継がれていったかを明らかにすることによって、日本の近代化過程の政治史・教育史における積極的な一面を鮮やかに描き出し、さらには、会読という共同読書方法の現代における思想的可能性を示唆するところまで説き及んだ快著である。ライブラリー版の「あとがき」によると、初版刊行直後からさまざまなメディアで反響があったとのことだが、私はまるで知らなかった。不明を恥じるばかりである。

本書のもくろみは、江戸時代の会読する読書集団のなかから、いかに明治時代の民権結社のような政治的問題を討論する自発的なアソシエーションが生れていったのか、その過程をたどることによって、ヨーロッパのみならず、東アジアの片隅に位置する島国日本でも、読書会が大きな思想的な役割を果たしたことを示すことにある。(「はじめに」より)

 同時代ライブラリー版に新た付論として巻末に置かれた「江戸期の漢文教育法の思想的可能性―会読と訓読をめぐって」は、全国漢文教育学会での講演がもとになっているが、著者が言う通り、本書のエッセンスを簡潔にまとめていると同時に、「幕末維新において漢文訓読体は、当時の「新しい」文体であって、政治的・思想的に革新的な意味をもっていることを論じたものである」。特に、「敬語を排した漢文訓読体は、参加者の対等性を原理とする会読と密接に関係している問題」であるということが付論として収録した理由である。
 本書の主たる内容が抜群に面白いことについては今更喋々するまでもないが、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』とロジェ・シャルティエの『読書の文化史』を援用しているところに私は特に関心をもった。なぜなら、前者に依拠しつつ、身分差を超えた会読の「遊び」としての性格が広く文化史的な文脈から評価され、後者を参照することによって、会読という共同読書方法が知の共有の一つの生きた実践形式として捉えられているからである。
 江戸期について論じつつ近代的な知の方法を具体的に示すことによって、単なる歴史的な関心を超え、未来への思想的可能性を示すことに本書は成功している。












電子書籍は超便利、でも、愛せない、だけど、これからもよろしく

2019-01-29 20:51:30 | 雑感

 人様に披瀝できるような読書法など私にはありません。ただその場のなりゆきで芋づる式に次から次へと書物を渡り歩いているだけ。だから、何一つまとまった仕事ができない。すべては散発的な思いつきの欠片ばかり。情けない。
 この傾向は、電子書籍を利用するようになってさらにひどくなった。もう病気に近い。
 ある本を読んでいて、というよりもPCやタブレットの画面をスライドさせて必要な情報を得ようとしているとき、別の本からの引用に出くわす。気になる。即ネットで検索。電子書籍版がある。紙の本より安いし、何よりも瞬時に手に入るのが便利。クリック。ダウンロード。即当該箇所へ。「頁をめくる」という表現を使うのが空々しいくらい速く目的の箇所を特定できる。そこにブックマークをするか、重要箇所にマーカーを引いておく。こんなこと、紙の本ではできなかった。度しがたいフェティシズムの一種だと思うが、紙の本は穢したくない、できない。だけど、電子書籍なら心配無用。ちょっとでも気になった箇所にはすぐにマーカー。あっという間にマーカーだらけ。でも、いつでもすぐに消せるから気にならない。
 電子書籍はほんとに便利だ。でも愛せない。物としての質感ゼロだから。匂いも重さも手触りもない。でも、お世話になっています。これからもよろしく。













なんでもあり、好きにやっていいよ ― 与えられた自由を善用する若者たちの真剣さに未来への希望を託す

2019-01-28 23:59:59 | 講義の余白から

 学部最終学年三年生の後期も、前期同様、三科目担当している。「日本文明文化」、「近代日本の歴史と社会」、「古典文学」の三つ。
 「日本文明文化」は、日本語での授業なので、内容的にはとてもやさしい。おおよそ中学校の教科書程度。この授業では、文字資料ではなく、最近の邦画を素材することが多いので、学生たちも楽しそうに視聴している。
 他の二つについては、学部最後の学期だし、卒論もないから、なにか彼らの三年間の勉強の総決算になるような成果を提出してほしいと思った。とはいえ、他の科目の課題も大変なことはこっちもわかっている。そこで、熟慮(した振り?)の末、「自分で好きにテーマを選んで、それについて好きなだけ書いてくれ」という課題にした(これでも課題と言えるのだろうか?)。
 先週学生たちに授業でそう伝えたところ、「はぁ~?」というのが彼らのファースト・リアクションであった。想定内である。とはいえ、さすがに「何でもOK」というわけにはいかない。「近代日本の歴史と社会」については、「日本固有の近代化とは?」という問いに何らかの仕方で答えることという条件を課した。「古典文学」については、日本の古典文学となんらかの明確な「繋がり」があるテーマを選ぶことという「しばり」がある。(これでは「しばり」になっていないという意見もある)。
 毎週の授業で私は様々な話題について話す。その準備は入念にする。それらはあくまで学生たちの課題遂行のための参考資料としてである。授業でやったことを覚えてきて、試験で吐き出すという、彼らがこれまで十分に経験してきた学習とは違った勉強をしてほしいのである。
 課題を提示したその日に、「古典文学」の課題に対するプランと参考文献表を早速送ってきた学生がいた。これにはちょっと驚いた。彼にはすでに温めていたテーマがあったのだ。だから、私の提案は彼にとってまさに願ったり叶ったりだったというわけである。一言で言うと、「文楽の歴史と現在、その伝統と革新」というテーマである。
 しかし、テーマは自由に選んでよいと言われると、迷ってしまってなかなか決められない学生も一人や二人ではない。それでいい。そこがスタートなのだ。メールでテーマについて私の意見を求めてくる学生もいる。それにはもちろん個別に答える。今の段階では、まだテーマが確定している学生は少いが、全体の印象として、自由を与えられて、自ら真剣に考えているようである。
 授業では、ヒントになりそうな参考文献を毎回紹介している。日本語文献を読みこなす力は彼らにはまだないが、仏語の文献は自分で探せるのだから、主に最近の日本語の文献を紹介している。問題設定の緒にでもなればと願ってのことである。仏語の文献を紹介する場合は、彼らの守備範囲には入ってこないであろう分野(西洋中世哲学とか比較神話学とか科学技術史とか)の文献を紹介している。
 学生たちは「なんで?」って顔している。しかし、考えるヒントは思わぬところに見つかるものなのだよ、諸君。












ダンディーと鏡とメランコリー、あるいは「悲しみに沈むたそがれの美しさ」

2019-01-27 11:53:27 | 哲学

 自身の姿を「隈なく」「忠実に」映すことができる鏡を手に入れた近代人は、見かけの自己とそれを見ている自己との乖離に苦しむようになる。この乖離を自覚ししつつ、見かけのエレガンスにすべてを賭けるダンディーの心性はメランコリーであるほかはない。見かけに細心の注意をさり気なく払うことによってダンディーが守ろうとしているのは、目に見えぬ自由なる精神の高貴さであり、この意味において、ダンディーは「貴族階級」に属する。この階級は、「平等」の名の下にすべてを平均化する「民主主義」のなかで滅びざるをえない。

 Puissance et insatisfaction : car celui qui se regarde ne peut jamais se contempler comme un pur spectacle ; il est à la fois sujet et objet, juge et partie, bourreau et victime, tiraillé entre ce qu’il est et ce qu’il sait ; il prend conscience de la distance, tout en continuant d’adhérer à l’image et son malheur vient de ce demi-acquiescement. Le dandy incarne cette forme ultime de la conscience de soi par où, acteur de soi-même, il ne cesse de contempler cette séparation douloureuse de l’être et de l’apparence et de s’identifier au moi spéculaire : le dandy a la « beauté d’un crépuscule endeuillé » ; après lui, survient le temps de la désillusion et de l’ennui, où le sujet se dissout dans le jeu des réflexions ou se décompose dans l’impersonnalité (S. MELCHIOR-BONNET, Histoire du miroir, op. cit., p. 267-268).

 力と不満。なぜなら自分の姿を見る者は、純粋な光景として自分を熟視することは決してできないからである。彼は主体であると同時に対象でもあり、裁く者でありかつ裁かれる者であり、処刑者であるとともに処刑される者でもあり、実際にそうであるところの自分と自分が知っている自分とのあいだで引き裂かれている。彼は映った像に与し続けているにもかかわらず、像との隔たりは自覚しており、この中途半端な同意から彼の不幸が生まれる。ダンディーは自意識のこの最終形態を体現しており、ゆえに自分自身の役者である彼は、実在物と見かけとのつらい分離を熟視し続け、そして鏡に映った自我と一体化し続ける。ダンディーには、「悲しみに沈むたそがれの美しさ」がある。その後には幻滅と倦怠の時が不意に訪れ、そのとき主体は、反射の戯れのなかで解体するか、あるいは没個性のなかで分解される。(『鏡の文化史』前掲書、292頁)

 この引用中の「悲しみに沈むたそがれの美しさ」(« la beauté d’un crépuscule endeuillé »)というそれ自体が美しい表現は、スタロバンスキーの La mélancolie au miroir. Trois lectures de Baudelaire, Julliard, 1989, p. 25 の中の一文 « Le dandysme a la beauté d’un crépuscule endeuillé. » からの引用である。この一文の直後に、スタロバンスキーは、ボードレールの Le Peintre de la vie moderne の中の « Le dandy » から次の一節を引用する。

Le dandysme est un soleil couchant ; comme l’astre qui décline, il est superbe, sans chaleur et plein de mélancolie (Œuvres complètes, II, p. 712).

 この悲しみに沈む黄昏の美しさは、爛熟した文明の末期にその理想を守ろうと洗練された身だしなみで陽気に冷たく振る舞う憂鬱なる精神的貴族たちとともに消えてゆくほかはない。












哲学史と技術史の交叉点としての〈鏡〉

2019-01-26 10:28:25 | 哲学

 Sabine Melchior-Bonnet, Histoire du miroir, Éditions Imago, 1994(サビーヌ・メルシオール=ボネの『鏡の文化史』法政大学出版局、「りぶらりあ選書、2003年)は、西洋の心性史研究の最良の成果の一つであると言って差し支えないと思う。古代から現代まで、科学史・技術史・哲学・宗教・文学・芸術などの諸分野を縦横無尽に博捜するその目も眩むばかりの博識と複雑な問題を鮮やかに解きほぐしてみせる知的にきわめて高度な表現力とには圧倒される。
 「鏡の中のフィロソフィア」というタイトルで二年連続で集中講義を行ったときも、本書を第一の参考文献としながら、その中に取り上げられている哲学的な諸問題を全部カヴァーすることはとてもできなかった。
 今回読み直してみて、いわゆる哲学書の中よりも、文学作品と技術の歴史の中にこそ、今日もなお重要な哲学的問題が内含されいることにあらためて気づかされた。それらの問題は、しかし、当然のことながら、文学作品の中にも技術的製品の中にもあからさまに問題として提起されてはいない。
 本書は、それら言表化されていない認識論的・存在論的問題性に概念的表現を与えることが哲学の一つの仕事であること、そのような哲学的な仕事がもっとも必要とされる技術的対象の一つが鏡であること、技術史と哲学史との交叉点において〈自己〉とは何かという問いが先鋭化された仕方で問われることを、万華鏡のように多彩な例を通じて読む者に知的愉悦を与えながら教えてくれる。












近代の覚醒した自己、あるいは只管「うわべ」に憂き身を窶すダンディーの勝利なき戦い

2019-01-25 21:47:43 | 哲学

 近代フランス文学におけるダンディズムの主役の一人がボードレールであるということに異論はないであろう。そのボードレールにとって、ダンディズムとは何なのか。自己の内面と外面との必然的な乖離、それにもかかわらず両者は不可分であること、それゆえに避けがたい両者の間の葛藤さらには戦い、これらが自己意識の可能性の条件だとすること、これがボードレールのダンディズムである。
 「鏡の前で暮らして眠る」(« vivre et dormir devant un miroir »)こと、これをダンディーたちは美的かつ道徳的理想として掲げる。自分がふたりいるということ、自分が芝居を演じていることを苦痛とともにダンディーたちは自覚し、表層にすべてを賭けながらその二重性を主体として生きようとする。
 ダンディーたちのこの勝利なき英雄的戦いは、すでに失われた社会への郷愁をその裡に秘め、自分たちが社会の主役だと思い込んでいるブルジョワたちのケチ臭い価値観への反抗の姿勢にほかならない。その反抗の姿勢をあからさまに社会運動化することは「野暮」である。だから、ダンディーは「うわべ」に「憂き身を窶す」。
 ダンディーはナルシスの自己陶酔とは無縁だ。「ダンディーは、鏡の前で暮らす。なぜなら、自分の外見に気を配り、自分の独自性を養い、自分自身のうちにのみ自分の基準を探すからである。彼は決して誰のまねもしないし、自我礼賛を、すなわち己の相違の崇拝を、体現する。ナルキッソスとは逆に、ダンディーは自分の影に心を奪われた恋人ではない」(『鏡の文化史』194頁)。













内感に基礎を置く自我論から、〈外見〉へと自己を脱中心化するダンディズムへ

2019-01-24 19:01:10 | 哲学

 昨日の記事の『鏡の文化史』からの引用箇所のカギ括弧内の引用は、バシュラールの『水と夢』の一節である(L’eau et les rêves, Le Livre de Poche, p. 34)。『水と夢』には、ナルシスについてのきわめて興味深い分析が緻密に展開されているので、ナルシシズムを問題にする機会が訪れたときに立ち戻りたい。
 『鏡の文化史』を読み直しながらダンディー論をもう少し展開しておきたいが、その前に、原書の誤植を一箇所指摘しておきたい。

Avec la notion neuve de cénesthésie qui émerge à la fin du siècle, et rencentre l’idée du moi autour d’une structure neurologique capable de coordonner les pulsions du corps, il semblerait que la vue, créatrice d’illusions, perde sa position privilégiée et la cède aux perceptions des « sens intérieurs » régissant le psychisme (p. 177).

 下線を引いた « rencentre » というのは明らかな誤植である。邦訳者は、これを « rencontre » と取り、次のように訳している。

十八世紀の終わりに現れた新概念、体感は、肉体的欲動を調整できる神経構造の周辺で、自我という考えと出会う。(191頁)

 これでも意味が通らないわけではない。しかし、« recentre » の方が前後の文脈からしてより整合性が高いと私には思われる。動詞 « recentrer » は、サッカーでは「センタリング」のことである。より一般的には、「あるものを中心に置き直す」という意である。この動詞と読めば、「身体の諸欲動を調整できる神経構造を中心として自我論を再編成する」〈体感〉という新概念が十八世紀末に出現したことによって、視覚は「内感」にその特権的地位を譲る、という文意になる。つまり、視覚によって捉えられた鏡の中の外なる自己から、内感によって内側から直接把握された内なる自我へと、自我論の中心が移動した、ということである。
 しかし、ダンディズムは、この見えない内的自己への自我論の集中を今一度反転させることによって成立する。












近世日本の「かぶき者」と西洋近代の「ダンディー」との比較論

2019-01-23 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の「古典文学」の授業の前半は、江戸期の歌舞伎について一通り教科書的に説明しました。公教育システムの中で授業を担当する立場にある以上、「どこに行っても通用する」基礎知識、言い換えれば、どの教科書にも書いてあるようなあまり面白くもないことを学生たちに身につけさせることが教員には要求されるわけですから、そこから帰結する当然の義務としてそのような説明をしたまでです。
 ただ、それだけですと、それこそ穏当な参考書を一冊読めばすむことですから、説明しているこちらもあまり気が入らないし、それを聞かされる側も退屈してしまいがちです。そこで、彼らの眠気を覚ますためにどんな「ひねり」を加えるか、ということが毎回の授業の工夫のしどころになります。
 今日の場合、まず、「かぶき」の語源である「かぶく」という動詞の意味(「傾く」=「異様な身なりをして常識はずれの行動をする」)を示し、「芸能としての歌舞伎は、近世初頭のそうした自由奔放な時代精神を背景にして発生したのです」と教科書通りに説明した後、参考文献の次の箇所を読ませました。

Au niveau des premiers spectacles d’Okuni, ce terme renvoie au côté ludique des danses, à l’extravagance des tenues, aux aspects liés à la débauche, mais aussi à la présence dans les rangs du public de ces étranges samouraïs paradant armés de longs sabres, de ces dandys affublés de peaux de tigre et coiffés de plumes de paon fumant des pipes à la portugaise.

TSCHUDIN, Jean-Jacques, Histoire du théâtre classique japonais, Anacharsis, 2011, p. 312.

 出雲の阿国の「かぶき踊り」が人気を博していた頃、その観客の側にも、人の目を引く異様な身なりをした「かぶき者」たちがいたということですが、この説明の中に « dandy » という言葉が使われています。そこで、学生たちに「ダンディーってどういう意味でしょう。ヨーロッパでいつごろ登場したか知っていますか」と問いかけました。言葉としては当然彼らは知っているわけですが、いざこう問われると答えに窮してしまう。まさにそこが「狙い」です。
 そこで、やおら Sabine Melchior-Bonnet, Histoire du miroir, Éditions Imago, 1994 を引用しました(手元にあるのは、Hachette 社の « Pluriel » 叢書版)。この本は、2012年・2013年に二年連続で「鏡の中フィロソフィア」と題して集中講義を日本で行ったときの主要参考文献の一つで、『鏡の文化史』(法政大学出版局、「りぶらりあ選書」、2003年)という優れた邦訳もあります。本書の第三章「自己考察のための自己直視」第三節「鏡の演出」の中に「ダンディー」と題された一節があります。

La récurrence de la figure du dandy, fils des petits-maîtres du XVIIIe siècle, révèle cette exigence du sujet à devenir le spectateur de lui-même et à se dépasser en construisant une image harmonieuse à l’aide de l’artifice. La conscience du moi, la subjectivité se goûtent dans le spectacle du dédoublement et l’opération réflexive du miroir fournit à chacun l’image de sa créativité, en un « narcissisme idéalisant », selon lequel le sujet dit non pas « je m’aime comme je suis », mais « je suis ou je dois être comme je m’aime [...] Je veux paraître donc je dois augmenter ma parure » (op. cit., p.177).

十八世紀のしゃれ者たちの息子たるダンディー像の回帰は、自分自身の見物人になりたい、巧みなごまかしを使って調和のとれた像を築き上げ、それによって自己の限界を乗り越えたいという、主体の欲求を明らかにしている。自我意識や主観性は、二分化を見ることのなかで味わわれ、鏡の反射作用は各人に、「理想化するナルシシズム」のなかで各人の創造性が生み出した映像を提供する。そしてこのナルシシズムに従って、主体は「わたしは今の私が好き」とは言わずに、「わたしは自分がありたいと思うようなわたしである、あるいはそんなわたしでなければならない[……]。わたしは目立ちたい、だからわたしは飾りを増やさなければならない」と語るのである。(邦訳192頁)

 近世日本の「かぶき者」たちの像がこのダンディー像と重なり合う度合いに応じて、近世日本の近代性とその特異性と限界を規定しうるのではないでしょうか。
 ここから話をさらに飛躍させて、ナルシストとダンディーの決定的な違いはどこにあるのか、というところまで考察を広げることができるのですが、さすがに授業中はそこまで行かず、ヨーロッパでの鏡の普及が自己認識を変容させたことに注意を促し、そのような自己認識の転回点を近世日本にも見出すことができるだろうか、と問いかけたところで話を切り上げました。
 『鏡の文化史』の当該箇所については、こちらの記事を参照されたし。












電子書籍衝動買いの効用

2019-01-22 22:04:26 | 雑感

 なにかむしゃくしゃすることがあったり、ストレスが溜まったりするとき、後先考えずに衝動買いをして気分の転換を図るという「暴挙」に出るのは、どちらかといえば、女性に多いのでしょうか。
 私などは、そのような精神状態に置かれても、そもそもパッと衝動買いするだけのお金もありませんし、仮にあったとしても、いざ買おうとする段になって、こんな買い方すればあとで後悔するに決まっていると「理性」が働いてしまい、結局買わずじまいという結果に終わることでしょう。
 とはいえ、金額的には大したことはなくても、少しまとめて買い物をすると、確かにちょっとは気持ちが晴れるということは私にもあります。そんな買い方を私でもすることがあるのは、書籍に限られていますが。一挙に数十冊、前後の見境なく数万円パッと使ったことは過去に何度かあります。そんな買い方でも、ただ、数年後に、やっぱり買っておいてよかったなと思うこともありましたから、単なる無駄遣いとは違うよなと自分で自分を事後的に納得させたりしているところがまたケチくさい根性で、つくづく自分が嫌になりはしますが。
 最近は、保管場所の問題もあり、紙の書籍の購入には慎重になりました。その半面、電子書籍は、大量に購入しても、物質的にはまったく場所を取らないので、ついフラフラと購入ボタンをクリックしてしまうことが多くなりました。でも、目に見える物の形で購入の結果が得られないと、気分転換のためには、それだけ効果も小さいようです。パソコンやタブレットのメモリーがそれだけ喰われているのを確認しては、近い将来もっと容量の大きい機種に買い換えねばならないなあと、すこし暗い気持ちになってため息をつくのが関の山です。
 まあ、それはともかく、参照したい本がいながらにして瞬時に入手できるのは、調べ物をしているときにはとてもありがたい。今朝というか、今日に日附が変ってから徹夜で授業の準備をしていて、必要があるたびに電子書籍を購入しては参照箇所を即確認できたおかげで、短時間のうちにかなり周到な資料作りができただけでなく、私個人の研究のためにも収穫がありました。
 一つだけ例を挙げると、先日も言及した苅部直の『「維新革命」への道』の序章を授業で紹介するために読んでいて、その中にフェルナン・ブローデル『文明の文法』に言及されている箇所があったのですが、本文には、みすず書房の邦訳の箇所しか示されておらず、しかもその邦訳は手元になく、仏語原書 Grammaire des civilisations は手元にあるものの、時間的制約のせいでちょっと調べるのが億劫だなと思い、電子版を即購入し、「文明」の原語 « civilisation » が複数形で使用されている箇所を検索機能を使って調べたんですね。これだけの操作で、苅部氏が言及している箇所がたちどころに特定できただけでなく、ブローデルが文明の複数性を問題にしている箇所も網羅的に把握することができました。ここまで、購入からわずか二、三分のことでした。
 おかげさまで、今日の「近代日本の歴史と社会」の授業は、解説付き参考文献のてんこ盛りで、学生たちの知的胃袋の容量を完全に超えてしまいました。しかし、明日の「古典文学」の授業でも「攻撃」の手を緩めるつもりはいっさいありません。日本の古典文学の話なのに、なぜかシラーやモーリス・ブランショからの引用もありますし、ドイツ・ロマン主義のアンソロジーや現代フランスの中世哲学研究者の著作まで登場します。彼らの知的消化を助ける「胃薬」も持参しましょうかね。