内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カイロスとクロノス(14)― ギュスターヴ・ギヨームの「操作時間」について

2018-09-30 18:38:34 | 哲学

 時間の現実的経験から乖離しない時間の表象は可能であろうか。この問いへの答えの手がかりとしてアガンベンが援用するのは、フランスの言語学者ギュスターヴ・ギヨーム(Gustave Guillaume, 1883-1960)が Temps et verbe (Honoré Champion, 1965 ; 1re édition 1929) の中で用いている « temps opératif » (操作時間)という概念である。
 この言語学者について私はまったく無知だったので、ネット上でちょっと調べてみた。それで、リクールとドゥルーズがギヨームに言及していることを知る。早速手元のリクールの著作に当たってみたところ、Le conflit des interprétations (1969)、Temps et Récit. 2. La configuration dans le récit de fiction (1984)、Soi-même comme un autre (1990) などに言及が見られる(それぞれ、Éditions du Seuil の « Points Essais » 版で、p. 135-137 ; p. 121 ; p. 11)。ドゥルーズの方は、Différecne et répétion (1968) で、言語における差異の論理が問題となるところで言及されている(p. 265)。ネット上で公開されているドゥルーズの講義録でもしばしば言及されている(例えば、こちらこちら)。後者の講義の中で、ドゥルーズは、フランスで最初にギヨームについて語ったのは、自分が知るかぎり、最晩年のメルロ=ポンティだったと言っている。もちろんフランスの哲学者の中でということだろうが、興味深い指摘だ。
 上掲の Temps et verbe については、その古本をネット上で比較的廉価で見つけて、発注したばかり。届くまでには数日かかるだろう。だから、以下のギヨームの操作時間についての記述は、差し当たり、アガンベンの紹介にもっぱら依存する。
 ギヨームによると、人間精神は、時間の経験をもつのであって、その表象ではない。時間を表象しようとすると、どうしても空間的な性質をもった構成になってしまう。この構成を、ギヨームは « image-temps »(イメージ時間)と呼ぶ。しかし、これは時間の表象として不十分だ。なぜなら、「完全すぎる」からだ。空間的表象は、時間をすでに構成されたものとして表象してしまい、時間が思考の中でまさに構成されつつあるところを見えなくしてしまう。
 何かを実際に理解するためには、それを完成された或いは構成された状態で考えるだけでは不十分だとギヨームは言う。それとは逆に、その何ものかを構成するために思考が経過する諸階梯を表象することができなくてはならない。なぜなら、すべての心的操作は、たとえそれがどれほど迅速であったとしても、実現にはいくらかの時間がかかるからだ。その時間は瞬時こともありうるが、だからといって、その持続時間が現実であることにいささかもかわりはない。
 ギヨームは、精神がイメージ時間を実現するために用いる時間を操作時間と呼ぶ。












カイロスとクロノス(13)― 時間の経験と時間の表象との関係について

2018-09-29 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で読んだ箇所についてのこちらの側の釈然としない気持ちにまさに応ずるかのような形で、アガンベンは問題を振り出しに戻すようにこう問い直す。
 これで私たちは時間のメシア的経験をほんとうに理解したと言うことができるのだろうか。ここには、時間の諸表象に関して、それらがすべて空間的であることに由来する一般的な問題がある。しばしば見受けることだが、点・線・切片などの空間的表象は、時間の生きられた経験を思考不可能にする変質を引き起こしてしまう。終末とメシア的時間との間の混乱はまさにその明白な例の一つだ。
 時間を一直線で表わし、その終わりを一点で示せる瞬間のように表象するとき、完全に表象可能な何ものかを私たちは得る。ところが、それは同時にまったく思考不可能な何ものかでもある。反対に、時間の現実の経験について考えるとき、確かに何かを考えてはいるわけだが、それはまたまったく表象不可能な何かでもある。
 メシア的時間を二つの世界の間に位置づけられる切片とする表象はいかにも明瞭なものだが、しかし、この表象は、残る時間の経験、終わり始めた時間の経験について何ごとも語らない。
 どこからこの乖離、つまり表象と思考との乖離、イメージと経験との乖離が来るのか。このような乖離を引き起こさない別の表象を考えることができるのだろうか。
 このように、時間の経験に関する一般的な問題にまで私たちは立ち戻らされてしまう。
 だが、何らかの明瞭な表象を前にして何も考えられないということがあるだろうか。そもそもまったく表象不可能な何かを思考することなどできるのだろうか。経験と表象との区別と関係を捉えることこそが思考の働きではないのだろうか。
 これらの問いは差し当たり保留にして、いましばらくアガンベンの『残りの時』の論旨を追っていこう。












カイロスとクロノス(12)― 世俗的時間と終末論的永遠性との間のメシア的時間把握のための第二の図式

2018-09-28 23:59:59 | 哲学

 中二日のお休みをいただいて(って、勝手に「無断欠勤」しただけですが)、今日から連載「カイロスとクロノス」を再開させていただきます。
 アガンベンが『残りの時』「第四日目」で、水平方向の直線(そしてその最終的一点においての多方向への分散)という図式を使って、世俗的時間、メシア的時間、そして終末論的時間(あるいは時間の終焉後の永遠性)を表象しようと試みているところを途中まで読んだ。その続きを読もう。
 この水平方向の実線・点線そしてその一方の先端点からの線分の多方向への分散という図式化には、世俗的時間・メシア的時間・終末論的永遠性の三者の区別と関係を明瞭化する利点がある一方、メシア的時間の他の二者からの異質性を十分には表象できないという難点があるとアガンベンは言う。
 そこでアガンベンは、水平方向の一直線で表された世俗的時間(実線)と終末論的時間(点線)との間に二本の点線の垂線で区切りを入れ、その二本の垂線で区切られた水平方向の線分を中点で左右に分け、左側の世俗的時間側を実線、右側の終末論的時間側を点線で示し、その中点に実線で短い垂線を入れた図式を示す。
 左側の点線の垂線は、世俗的時間とメシア的時間の区切りを意味し、メシア的時間がクロノスとしての世俗的時間からの超過であることを示している。右側の点線の垂線は、終末論的永遠性とメシア的時間の区切りを意味し、メシア的時間がいまだ到来していない未来の永遠性からの超脱であること示している。世俗的時間の超過部分と終末論的永遠性からの超脱部分の分岐点は短い実線の垂線との交点でもあるが、その交点が「終末 eschaton」に相当する。
 この第二の図式化でメシア的時間が終末論的時間と質的に異なることが第一図式よりは明瞭になったとは言えるかも知れない。メシア的時間とは、世俗的時間でもなく、終末論的永遠性でもない「残りの時」なのだということは、この第二図式によってよりわかりやすくなったことは認めてもよい。しかし、いくらかましになったという相対的な違いの域を出るものではなく、依然釈然としないところが残るのはいかんともしがたい。
 終末点を通過する垂直の実線は何を意味するのか。これがメシア的時間なのか。














豈楽しからずや、講義の準備、あるいは今今物語

2018-09-27 18:34:58 | 講義の余白から

 今は今、仏国の東のはずれに遙か倭国より移り住みし老ひたる大学教師ひとりあり。その師、今宵、語りて曰く。

 夕食後は仕事をする気になれません。というか、その日一日を気持ちよく終えるために、夕食時にはワインを嗜むことを朝の水泳と同じくらい大切な日課(?)といたしておりますので、そのほぼ必然的な帰結として、夕食後は仕事ができないわけであります。午後六時から七時を夕食時間といたしておりますから、それ以降はほろ酔い気分を楽しむのみ、いっさい仕事はいたしません。そんなに忙しくない日は、夕食後に映画鑑賞などしてから、十一時頃就寝いたします。その場合、翌朝の起床は五時です。これは週末も同じです。
 では、ものすごく忙しいときはどうするのでしょうか。午後十時前に就寝し、午前三時頃に起き出して仕事を始めます(パン職人といい勝負かな)。もっと極端なときは、午後九時に就寝(小学生か、お前は)、午前二時に起床します(深夜営業に近いですね)。そして、まず就寝時以降に届いたメールに片っ端から返事を出します。この常軌を逸した仕事時間が「K先生は眠らない」という伝説を前任校在任中に生み出しました。
 昨晩は、夕食後、二〇一四年に放映されたらしい樹木希林のお伊勢参りを中心としたドキュメンタリーを Youtube で見つけ、それを観てからゆっくり風呂に入り、十時前には就寝いたしました。その時点で、今日の午前中の文学史の講義の準備はまったくしてありませんでした。この講義のためにはいくらこれまでの資料の蓄積があるとはいえ、大した度胸です(って、自分で感心していれば世話ないですね)。
 でも、さすがに寝ているうちに心配になってきたのでしょうね、午前三時前に目が覚めました。おお、そうであった、午前十時からの講義の準備をせねば、と、やおらPCに向かい、すでに十分すぎるほど作り込んであるパワーポイントの改定増補作業に入りました。今回のテーマは、ずばり『平家物語』です。一旦始めると、やはり直したいところがところどころ見つかり、改定作業に夢中になり、ふと時計を見たら、午前六時を回っておりました。まだ三時間近く持ち時間があるわいと、これでもかと言わんばかりに資料を追加した次第でございます。
 そして、九時四十分、朝の冷たい空気を頬と耳に感じながら、いつものように自転車でキャンパスへと向かいました。さて、肝心の授業の方はどうだったのでしょうか。
 授業の導入部分でドナルド・キーンの『日本文学史』中世編の序の一部を読ませたのですが、それに対して出た質問に答えたついでに、よせばいいのに調子に乗って内藤湖南の講演「應仁の亂について」の中のかの有名な挑発的な一節 ―「大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります」― を紹介したりしたものですから、それについてまた質問が出てしまい、予定の時間配分が狂い始めました。
 これはいかんと、軍記物語の定義を超スピードでまくしたて、「さあ、いよいよ『平家物語』です」と、ちょっと前のめりな調子で内容説明を始めました。その時点で二時間の授業の残り時間は三十分ほどでした。「まあ、きょうは全般的な紹介にとどめて、本文を読ませるのは来週にするかな」と内心軌道修正を図りつつ、それでもきりのいいところまでと話し続け、最後の五分になったところで、「それでは、琵琶に合わせて朗唱された『平家物語』の冒頭の一節を聴いてみましょう」と、Youtube で見つけた動画を見せたんですね。
 その時になってはたと気がついたのです。毎週受けさせることになっている漢字の小テストのことをすっかり失念していたことを。ちゃんと印刷された問題用紙を持ってきたというのに。幸いなことに、同じ三年生たちとは明日の中世史の授業でも顔を合わせますので、「今日予定されていた漢字テストは、明日の授業の中で行います」とかろうじて失態を免れて、教室を後にいたしました。

 これひとへに師のまめなる行ひのなせる業ゆゑなりとなむ語り伝へるとや。


講義・演習のためのパワポ&資料作成を通じて気づいたことなど

2018-09-26 23:59:59 | 講義の余白から

 今日明日と連載「カイロスとクロノス」はお休みします。理由は、火曜から木曜まで(より正確には金曜日の朝まで)、講義・演習の準備におおわらわで連載記事のための時間が確保できないからです。三年生の文学史の講義以外、全部新しい内容なので、これまでに蓄積された資料のほとんどが使えないことが準備をそれだけ大変にしています。それに、パワーポイント作成はほとんどもう趣味の域に達しているというか、「何もここまで作り込まなくてもいいんだけどなあ」と独りごつほどに入念に準備するので、それでさらに時間がかかってしまうのです。その出来映えは、学生たちにも概ね好評のようですから、その意味では苦労の甲斐があるというものです。
 修士一年の演習では、今はまだラフカディオ・ハーンのテキストを読んでいるところなので、パワポ作りは必要ないのですが、英仏日の各語での資料を逐次的にあるいは同時にプロジェクターを使って映しながら授業を進めるので、それはそれで事前の資料作成に時間がかかります。
 その作業のおかげでわかってきたことの一つは、日本語訳だけを読んでハーンの文学がわかったような気になってはいけないということです。これは当たり前のことなのですが、ハーンの場合には、とりわけ日本に関する作品に関して、それらが一見するとこなれた美文に訳されていることが特に問題になります。はっきり申し上げますが、現在最も広く流通しているであろう廉価な翻訳には、肝心なところに間違いがあって、その中には、単に語学的な問題ではなく、訳者の作品理解の程度を疑わせる体のものもあるのです。
 ちょっと皮肉な言い方になりますが、我が日本学科の学生たちには、まったく日本語訳を介さずに、最初から英語原文を読むことでハーンの作品世界に入り込むことができるという幸運が与えられています。












カイロスとクロノス(11)― 世俗的時間・メシア的時間・時間の終焉の図式的表象

2018-09-25 23:59:59 | 哲学

 今日の記事もアガンベンの論述をただ淡々と摘録するにとどまる。
 メシア的時間を私たちはどのように表象することができるのか。
 一見ことは簡単そうである。まず、世俗的時間がある。この時間を問題にするとき、パウロは一般に chronos(クロノス)という言葉を使う。この時間は、天地創造から救世主到来という出来事(パウロにとって、これはイエスの誕生ではなく、その復活である)までを指す。この出来事の到来とともに、時間は縮約され、終わり始める。この縮約された時間をパウロは ho nun kairos (今の時)という表現によって指し示す。この時は、キリストの再臨、つまり救世主の十全なる現前まで続く。この現前が「怒りの日」(Dies Irae)であり、時間の終焉である。しかし、この終焉は、たとえそれが差し迫っているとしても、まだいつと決まっているわけではない。この終焉が差し迫る中、もう一つの世界つまり永遠性の中で時間は爆発、いやむしろ内破する。
 これを簡単な直線図式として示すと、まず左端に天地創造A点があり、真ん中に救世主到来の出来事B点がある。A点からB点までの世俗的時間は実線によって示される。そして、B点から時間の終焉であるC点、つまり時間が永遠性へと移行する瞬間までは点線で示される。そしてC点から先は、それまでの一直線によって表象されていた時間が複数の方向に分散する。
 この図式の利点は、一方では、点線で示されたB点からC点までの間つまりメシア的時間がC点以後の時の終わり・未来世界の到来とは一致しないこと、他方では、実線で示されたA点からB点までの世俗的時間とも異なること、しかし、世俗的時間に対して外的な非連続の関係にはないことを明瞭に示すことができるところにある。
 ただ、この図式の難点は、点線で示されたメシア的時間がそこで発生している世俗的時間の縮約をそれとして示し得ていないところにある。












カイロスとクロノス(10)― 近代における救済論の可能性

2018-09-24 21:54:59 | 哲学

 アガンベンが『残りの時』で試みていることは、パウロ神学の単なる新解釈ではなく、近代における救済論の可能性を証明することだと言えそうだ。それは、ブルーメンベルグの『近代の正当性』(1966年)とレーヴィットの『世界史と救済史』(1953年)とに対して、両者の立場の違いと対立を認めた上で、両者がそれにもかかわらず共有している前提を批判するところを読むとわかる。
 アガンベンによれば、ブルーメンベルグもレーヴィットも近代性と終末論は両立不可能だという前提に立っている。終末論的救済、つまり最終的な終末へと方向づけられた時間というキリスト教的世界観は、近代にあってはもはや決定的に廃れてしまっており、近代的時間意識とも近代的歴史観とも相容れないと両者とも考えている。
 しかし、そのような前提は、救済論と終末論、つまり終わりの時と時間の終わりとを両者が混同していることに由来するのだとアガンベンは批判する。その結果として、パウロ神学の核心が見逃されてしまう。つまり、メシア的時間が世俗の時間とその終焉後の永遠との截然たる区別そのものの問い直しであることが見逃されてしまう。













カイロスとクロノス(9)― 迫り来る世界の終末と黙示録的永遠性との間に介入する救済のカイロス

2018-09-23 17:00:43 | 哲学

 使徒がそれからはっきりと区別されなくてはならないもう一つの形象としてアガンベンが強調するのは、黙示録的幻視者である。
 両者の区別は、ちょうどメシア的時間と終末論的時間との区別に対応する。両者を混同することほど危険な誤解はない。それは使徒と預言者を混同することよりもさらに危うい罠だ。
 預言が未来に関与するのに対して、黙示録は時間の終焉を観想する。黙示録的言説は最後の日、怒りの日に位置づけられる。それは終末の到来を見、その見るところを記述する。
 それに対して、使徒が見る時間は終末ではない。時の終わりではない。使徒が告げる救済論と黙示録が描き出す終末論との決定的な違いは、救済論が唱えるのは時の終わりではなく、「終わりの時」であるところにある。
 使徒が関心を持つのは、最後の日、時間が終わる瞬間ではなく、縮約され「終わり始めている」時間である。言い換えれば、時間とその終焉との間の時間である。
 古代ユダヤ教における伝統的な考えかたによれば、二つの世界、そしてそれぞれに対応する時間あるいは非時間的永遠性がある。一つは、創造された世界であり、世界の創造からその終わりまで持続する時間である。もう一つは、世界の終わりの後に到来する非時間な永遠なる世界である。
 これらの世界像・時間性はパウロ書簡にも見いだせるが、それらはパウロの主張したいことではない。パウロの関心の焦点は、世界とともに持続する時間にも黙示録的終末にもなく、両者の間にあって「残るもの」、両者の間に介入する時にある。
 もしアガンベンの主張をこのようにまとめてよいのなら、そこから次のような帰結が導かれる。
 この「残りの時」こそ、創造に始まり今や終わろうとしている世界の時間とその後の終末論的永遠性との間に介入してくるメシア的時間、つまり救済のカイロスである。













カイロスとクロノス(8)― 預言者たちから使徒たちへ、あるいは未来から現在へ

2018-09-22 23:59:59 | 哲学

 使徒を意味するギリシア語 apostolos とは、救世主から派遣された使徒であり、救済のメッセージを伝えることがその使命である。ヘブライ語でこのギリシア語に対応するのは šaliah であり、主に法律用語として、ある一定のミッションを実行するために派遣された者という意味で使われていた。古代ユダヤ世界で šaliah は、派遣した者それ自身と同等の資格を有するとされた。この意味での使徒は、派遣された場所で己を派遣した者と同等の資格をもつ執行者である。
 この意味での使徒は、預言者とはどう異なるのか。アガンベンは、パウロ書簡に依拠しながら、パウロが使徒は預言者に取って代わる者であることを主張していることに注目する。預言者とは、ヤハウェの息吹を直接に受け取り、その言葉をヤハウェの言葉として取り次ぐ者である。それに対して、使徒とは、自ら使命を実行する者であり、そのために自分の言葉を持つ。
 預言者たちは、すでに破壊されてしまった過去の理想をいまだ到来していない未来のために語る者たちである。そのメッセージは、メシアの到来を予告する。しかし、その到来がいつかは預言者たちにはわからない。彼らの預言は、そのいつかはわからない未来のための言葉である。
 ところが、使徒たちはメシアの到来から語り始める。その時、預言者たちは黙らなくてはならない。預言は成就されているのであり、もはや預言者たちの出番ではないからである。言葉を発する者は、預言者たちから使徒たちへと交代している。その使徒たちの言葉は、未来には向けられておらず、この現在のこととして発される。パウロがメシアの到来を語るのに ho nun kairos 「今の時」というのはそれゆえのことである。












カイロスとクロノス(7)― カイロスから遠く離れて

2018-09-21 20:06:21 | 哲学

 新学年が始まって毎日慌ただしく過ごしているうちに、気がついたら九月ももう三週間経ってしまっているのですね。ここ一週間の連載記事のタイトルに掛けて言えば、クロノスに押し流されてカイロスを摑みそこねてばかりいるとでもなりましょうか。
 そんな中、今日金曜日は午前中の三時間の授業が終わると少しだけホッとできるんです。こんな気持ちになれるのは一週間で金曜の午後だけという状態が年末まで続くことが予想されるので、このひと時は休息の時間として大切にしたく思います。
 さて、大変迂闊な話で恐縮ですが、「カイロスとクロノス」というテーマの歴史的な奥行と問題領域の広大さに今さらながら恐れ慄いています。別に自分で勝手に書いているブログに過ぎないのですから、無理だぜこれはと思ったらさっさと投げ出せばいいようなものですが、先週購入してすぐ拾い読みした Dictionnaire de l’autobiographie で « Kairos et chronos » という項目にたまたま行き当たり、そこを読んで面白いと思ったのも、自分の中に何かそれに呼応する問題意識があったからにほかなりませんから、それをもう少し追求してみたいとは思っています。
 『残りの時』のアガンベンの問題意識をよく理解できているわけではありませんし、ましてやそれを共有できているわけではありませんが、メシア的時間と終末論的時間とを、後者は前者の後にしかやって来ないものとして、互いに相容れない二つの時間性として対立させる歴史観に反対していることはわかります。メシア的時間の到来は、終末論的時間の縮約であり先取りであるとして、カイロスとしてのメシア的時間の到来がクロノスにおいてつねに可能であり、その到来によってその時クロノスはそこにおいて「今この時に時満ちて」集約されるということなのでしょうか。なんか違うような気がします。
 明日、『残りの時』の仏訳を読み直しながら、もう一度これら二つの時間について考えてみます。