内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「大地」という言葉の使用例 ― 斎藤幸平著『大洪水の前に』から

2022-11-30 23:59:59 | 読游摘録

 ちょっと研究上の必要があって、「大地」という言葉の使用例を、今月二十日の記事で話題にした斎藤幸平氏の『大洪水の前に』(角川ソフィア文庫、2022年)から拾い出してみた。

それは、[…]近代の労働者が土地の商品化によって、大地との結合を喪失し、本源的な生産手段から分離されたことによって生じる不自由な状態である。

だからこそ、人間と大地の関係における歴史的転換が、資本主義的生産の特殊性を理解するために決定的なのである。

近代の賃金労働者はあらゆる直接的な大地とのつながりを喪失しており、自然から疎外されている。

資本主義の疎外を人間と大地との本源的統一の解体として把握することではじめて、マルクスが共産主義のプロジェクトをこの統一の意識的な再生として整合的に捉えていたことを認識できるようになる。

アソシエーションはまたそれによって、理性的な仕方で[…]大地に対する人間の和気あいあいとした関係をつくりあげる。

「人間の真なる、人格的な所有物」としての大地との結合によって、万人による「自由な享受」が保証されるようになるのだ。

マルクスは自然を人間の「非有機的身体」として扱っているが、前資本主義社会においては、労働者の「労働の最初の客体的条件は、彼の非有機的身体である自然、大地として現れたのであって、労働する主体そのものが有機的身体であるばかりでなく、彼の労働の最初の客体的条件は、主体としての非有機的自然」であったという。

マルクスの労働過程の叙述は自然の働きを無視してはおらず、むしろ「労働」と「大地」を人間と自然の物質代謝の「原要素」として扱っている。

リービッヒの掠奪農業批判がマルクスにとって重要だったのは、[…]土壌から一方的に養分を取り去るだけの非合理的な資本主義的農業を「人間と大地との物質代謝の撹乱」として批判するための自然科学的基礎づけを提示したからであった。

若きマルクスもまた人間と大地との「疎外」・「分離」に着目して、近代社会の矛盾を説明していた事実がもつ理論的意義は過小評価されてはならないだろう。

ひとたび私たちが自然の構築の法則に通じてしまえば、自然の有機体は操作することが可能な客体へと変容させられる。自然は、人間的なものであれ非人間的なものであれ、そのように脱実体化され、ハイデガーが「大地」と呼ぶところの透過不可能な密度を収奪されてしまうのだ。

 これらの抜書きからだけでも、「大地」がどのような文脈で、どのような意味で、どのような概念との関連で使われているかわかる。実は、この「大地」と「自然」と「技術」の関係が明日のパリ・ナンテール大学での私の発表のテーマなのである。そのための参考メモとしてここに書き出してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログの極私的効用 ― 「ああ、今日も生きている」という思いを噛みしめながら

2022-11-29 23:59:59 | ブログ

 他人を誹謗中傷したり、読む人が不快になるような言辞あるいはイメージ等を掲載したり、小耳に挟んだ噂話にすぎないことを事実めかして叙述したり、人に不利益や混乱を生じさせるために意図的にフェイク・ニュースを流したりする等、要するに悪意ある記事を書かなければ、何を書いてもかまわないのがブログのいいところだと私は思っています。
 読み手側は、ちらっと見てツマランと思えば、読まずに別の場所に移動すれば時間を無駄にすることもありませんから、人様に迷惑をかけることもまずありません。
 他方、途方もなく膨大な量の文章がそれこそ毎日二十四時間一年中ネット上に溢れ、それが何十年と続くわけですから(いや、それどころじゃないかも知れませんが、何十年先のことなど予想もできませんしね)、個人レベルでは、それらとの付き合いにも、遅かれ早かれ疲れてしまうのが自然のなりゆきのように思われます。
 かく言う私もこのブロクで十年近く毎日記事を書いていますから、その量はかなりのもので、自分でさえとても全部は読み直せないし、またそんなつもりもありません。その多くは書きっぱなしのまま放置されています。
 ただ、こうして続けていると、「ああ、そうだ、このことはかつて話題にしたことがあったな」と思い出すこともあり、そんなときはブログ内で検索をかけることで簡単に当該の記事を見つけられるのはやはり便利だなあと思うことはけっこうあります。ときには自分で自分の文章に感心したりすることもないわけではありません(って、これはただのナルシストでキモいですね)。
 というわけで、人様には何も面白くなく、何の役にも立たないことでも、本人が気になることを気軽にメモしておける場所として私自身にはとても重宝しています。
 それだけの話しだったら、自分個人のデータベースを作ればいいじゃないかと思われる方もいらっしゃると思いますし、確かにデータによっては人に知られたくないこともありますから、そこは使い分けということになります。
 私がブログに記事をアップし続ける理由はいくつかあります。前にも何度か書いたことですが、まずは「生存確認」のためです。「なんとか死なずに生きています、ブログの記事を書くだけの元気はあります」と「生存反応」を自ら発信しているわけです。それに、もしかしたら同じようなことに関心を持たれている方の目にとまるかもしれないという期待はあります。さらには、平均的に低空飛行を続けている閲覧数や訪問者数が突然激増する日が偶にあると、なるほど、こういうタイトルや記事内容には関心が寄せられるのかと、ちょっとした発見もあります。それは楽しみでもあります(めったにありませんけれどね)。
 正直ときどきちょっと疲れたなあと思うこともなくはないのですが、それでも飽きもせずに、大目標は立てることなく、「ああ、今日も生きている」という実感を噛みしめながら、続けていこうと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近代日本において哲学者であるということ ― 九鬼周造の哲学についての講演会

2022-11-28 23:59:59 | 哲学

 今日は18時から、日本学科と哲学部の共同開催という形で九鬼周造についての講演会が行われた。Vrin という哲学専門の出版社から昨年出版された九鬼周造の研究書の著者を講演者として、その対話者として哲学部の名誉教授を招き、私が司会進行役を務めるという形で会は進められた。この講演会の事前の準備と会場設営に関しては、日本学科の現学科長がすべて取り仕切ってくれた。
 日本学科と哲学部の学生たちが主な聴衆であった。数えたわけではないが、六十名ほどであったろうか。全体として実質一時間四十五分ほどであった。まず講演が四〇分、ついで対話が三〇分、私からの質問とそれに対する講演者からの応答が十五分ほど、残りの時間は会場の聴衆からの質問とそれに対する講演者から回答という順序で、全体として滞りなく会は進められた。
 講演内容は、哲学に疎遠な日本学科の学生たちにはちょっと難しい話ではあったと思うが、近代日本の一人の哲学者が西洋哲学と対話しつつ独自の哲学を形作っていく過程と、その中で特に重要な役割を果たしている諸概念とについて、よく準備された講演だった。対話者であった名誉教授も九鬼の哲学を西洋哲学に対質させるかたちで九鬼の哲学に孕まれたアポリアを的確に浮き彫りにしてくださった。
 講演会後は、講演者、名誉教授、日本学科長と私の四人で、会場だった大学宮殿近くのレストランで歓談した。それはほんとうに楽しいコンヴィヴィアリテのひと時であった。
 会食後、三人とレストラン前の交差点で別れた。レストランに入る前は降っていた小雨も上がり、さほど寒くもないので、腹ごなしのつもりで、行き交う車のライトや街灯で光る道を、三日後の木曜日にパリ・ナンテール大学でする発表内容を頭の中で点検しながら、歩いて帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新霊性運動、癒しの思想、痛みの共同性 ― 島薗進『新宗教を問う ―近代日本人と救いの信仰』(ちくま新書)より

2022-11-27 22:56:52 | 読游摘録

 現代日本社会で話題となる「霊性」は、鈴木大拙のいう霊性とはほとんど何の関係もないと言っていいのかもしれない。
 例えば、その複数の著作で現代社会における霊性の問題を取り上げている宗教学者の島薗進氏の『新宗教を問う ―近代日本人と救いの信仰』(ちくま新書、二〇二〇年)によると、一九七〇年代から精神世界に対する志向が広まり、「スピリチュアリティ」とか「霊性」といわれるもの、あるいは「癒しの思想」とされるものへと人々の関心が移っていったという。これらは現世肯定的であり、救いを求めるものではないと島薗氏は指摘する。
 こうしたスピリチュアリティは、一九八〇年代以来、グリーフケアや死生学といった分野とも関わって関与者が増してきているという。これらの動きに関して、島薗氏は、「人間の苦悩や現世の限界に向き合い、それを超えた次元との関わりを重んじる文化の新たな形態とみることができる」と述べている。
 同書によると、九〇年代に入ると、日本や東アジアの文化には「宗教」とは異なる「精神世界」的なものや「スピリチュアリティ」と元来親和性があると主張されることも多くなった。これらの傾向を示す運動や文化を、島薗氏は、「新霊性運動」「新霊性文化」として捉えようとしてきたという。
 これらの運動や文化の中には、「新しい痛みのスピリチュアリティ」、スピリチュアルペインに力点がある動きもある。それはまた、痛みの共同性を重んじる動きでもあるという。
 こうした傾向が二〇一一年の東日本大震災と福島原発災害、そして二〇二〇年以降の新型コロナウィルス感染症の流行によってさらに促進されているのは間違いないだろう。島薗氏が指摘するように、これらの災害が、「人間の力の限界を露わにし、現代文明の驕りをあらためて省みる機会となったようにも見える。」
 しかし、それはまた「霊性」という言葉を巡ってのいかがわしい言説や運動、さらには商法が蔓延る機会にもなっているように私には見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「霊性」という亡霊が徘徊している

2022-11-26 17:43:45 | 読游摘録

 「霊性」という言葉を比較的最近になって出版物のタイトルなどにしばしば見かけるようになった。それらの出版物を読んでみたわけではないので、それらに対する批判ではないのだが、私個人としては、この言葉をさかんに振り回す人たちに対してなんか嫌な感じがしてしまうのをどうすることもできない。
 「れいしょう」という読みとともにこの語が仏教において使われている例として、末木文美士氏は鈴木大拙の『日本的霊性』(角川ソフィア文庫、2010年)の解説の中で次のように指摘している。

 仏教においては、「霊性」はいささか議論のある言葉だということである。「霊性」を積極的、肯定的に使ったのは、中国で華厳と禅を融合させようとした宗密(780‐841)である。[…]
 ところが、それに対して厳しい批判をしたのが道元である。道元は『正法眼蔵』の「弁道話」において、「かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり、……かの霊性は、……ながく滅せずして常住なりといふなり」(同)として、「霊知」とか「霊性」と呼ばれる霊魂的なものがこの身の内にあって永遠だという見方を「外道の見」と厳しく糾弾している。仏教ではこのような永遠の霊魂的な実在を認めないのが原則である。

 とすれば、今日「霊性」を蝶々する連中は何を根拠にしているのだろうか。鈴木大拙が1944年に刊行した『日本的霊性』はしばしば大拙の主著として挙げられるが、本書が「霊性」という言葉の普及に預かって力があったことは間違いなかろう。しかし、その大拙自身、同書の緒言で、「霊性という言葉は余り使われない」と断っている。
 前出の『日本的霊性』の末木氏の解説によれば、原本出版当時、つまり太平洋戦争末期、大拙が「霊性」という言葉を持ち出したのには、当局によって喧伝されていた「日本精神」に対する批判という契機があったのであり、大拙において、「「霊性」は時代への迎合に対する強い抵抗の拠点となる」という。もちろん、実際に大拙においてその姿勢がどこまで貫かれているのかは別途の検討を要する。
 しかし、今日における「霊性」という語の使用には何らかの批判契機が含まれているのだろうか。そうだとして、それは何に対してなのか。私にはその辺がはなはだ曖昧に見える。今日のいわゆる「霊性本」には、スピリチュアルなものを求める大衆へ受けのよさをねらった媚びへつらいがないであろうか。
 物質的なものに対して、「霊性」をあたかも目に見えない実体のように取り扱うのは、そもそも根拠不明な怪しげな言説であり、人心を誑かす危険な詭弁でさえあると私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今月の新刊から ― 末木文美士『日本の近代仏教 思想と歴史』(講談社学術文庫)

2022-11-25 23:59:59 | 読游摘録

 日本の近代化の特異性を主題とする学部三年生を対象とする授業をここ五年間続けている。この授業についてはこのブログでも再三再四取り上げてきた。それは、この主題が私自身にとっても重要だからである。
 この間、授業の年間プログラムの基本的骨格には大きな変更を加えることはなかったが、毎年新しい参考文献を追加し、その紹介を授業に盛り込むことで授業内容のアップデートを続けている。
 幸いなことに新しい参考文献には事欠かない。それだけこの主題についての関心が高いということなのだろう。
 例えば、今月の講談社学術文庫の新刊の一冊は、末木文美士氏の『日本の近代仏教』である。原本は2017年に刊行された中公選書版であるが、今回学術文庫に収録するにあたり、専門的で研究史的な三章が省かれている。
 学術文庫版のあとがきをさっそく今日の授業で紹介した。そこには、「今日では、仏教を抜きにして日本の近代を語ることは不可能となっている」と記されている。しかし、それがまだ一般常識になるところまではいっていないというが末木氏の認識である。その間の事情を説明するため、本書の終章「仏教思想と現代」(書き下ろし)は書かれた。だから、この分野にはじめて触れる読者はこの章からよむのがよいだろうと著者自身が言っている。
 本書を読めば、「急速な近代化や戦争など、近代日本の栄光と悲惨が仏教にも大きな影を落としていることが知られるであろう。本書は、仏教を切り口に日本の近代を問い直す試みであり、その射程は今現在の日本のあり方にも及ぶ」と著者は続けて述べている。
 今年度の後期の授業の一回を本書の紹介にあてたいと思い始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「私のことは嫌いでも、哲学のことは嫌いにならないでください」

2022-11-24 23:59:59 | 哲学

 昨日はヴィデオゲームの話をしましたが、世の中には他にも私が全然知らない面白いことやものがそれこそ無数にあるのでしょうね。でも、ゲームに対してと同じで、それらを探そうという気にはなりません。そのための時間もないし、それにつぎ込むお金もありません。
 まったく無関心というわけでもありませんが、それはそれらのことやものそのものへの好奇心からではなく、それらに熱中している人たちの心理を知りたいからでしょうかね。
 別に現実に満足しているわけではありませんが、まあしょうがないか、とあきらめてしまうことが多いですし、今は毎日ジョギングできればそれでいいかな。ああ、だからジョギングシューズだけには少しこだわりがあるかも。昨年七月に本格的にジョギングを始めてから十五足買いましたからね。そのうち十二足が現役で、先月から最近購入した六足を日替わりで履いて走っています。
 ゲームその他の趣味、ジョギングその他のスポーツ、それらは生きていくために絶対に必要なものではありません。運動は健康のために必要だとよく言われますし、ストレスの溜まりやすい生活をしている人たちにはときに気晴らしも必要でしょう。でも、それがないと生きていけないというほどのものではない。ましてや、よりよく生きるために必須だとは言えない。
 では、突然ですが、哲学はどうでしょうか。手前味噌になりますが、哲学を知らずに生きているのは、よりよく生きることを放棄しているに等しい。こう言えば言い過ぎでしょうか。言っている本人はけっこう本気なんですが、他人に向かってこう言い放つことはこれまで一度もありませんでしたし、これからもまずないと思います。
 他方、哲学というとすぐに引いてしまう人たちがいることも事実です。日本学科でもそういう態度を示す人学生たちが少なくありません。確かに授業で哲学の話をするのは場違いかも知れません。ただ、哲学を知らずに生きるなんて、もったいない、とは思います。前田敦子のかの有名な名言をもじらせていただければ、「私のことは嫌いでも、哲学のことは嫌いにならないでください!」とは言ってみたいかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ゲームを必要としないほど、現実がゲームな私のうんざりする日常 ― 引き際を誤らないようにしないと

2022-11-23 23:59:59 | 雑感

 ヴィデオゲームもネットゲームもまったくやったことがないので、それこそ無数にあるそれらのゲームについて、いかなる評価をする資格も私にはありません。
 やってみたいと思ったこともありません。私にとってはもう完全に異次元の世界なのです。それらに熱中している人たち、習熟している人たち、「名人」と呼ばれる人たちに、正直、何の関心もありません。
 それは、しかし、それらの人たちを蔑んでいるからではありません。そもそもゲームそのものを知らないのだから、何とも言いようがないだけのことです。
 授業で学生たちに日本語での自由発表をさせると、毎年必ずそれらのゲームの一つを取り上げる学生が数人います。彼らのお陰で、ゲームについて若干の知識を得ることができています。それでも、自分でやってみたいとはつゆほども思いません。それは、それらの発表がつまらなかったからではありません。彼らが熱をこめて語れば語るほど、私が引いてしまうだけのことです。
 それら無数のゲームの中には私の気に入るものもあるのかも知れません。それでも、試してみようという気になれません。それは私が推理小説には絶対に手を出さない理由とほぼ同じです。「はまったら最後、抜け出せない」という恐怖がブレーキになっているのです。
 「先生、それはほんとうにもったいないことです。日本人の優れた作者たちによって作成されたゲームの世界は、こんなにも豊かで、ファンタジーに富んでいて、展開にワクワクさせられます。これはもう世界遺産と言ってもいいくらいです」、と学生たちは興奮気味に私に言うかもしれません。
 それでも私は無関心なままだと思います。繰り返しになりますが、それは「ふん、つまらん」とか、「へっ、くだらねぇ」とか思っているからではありません。「もう、ちょっと、無理」ってところですかねぇ。
 彼らの話を聴けば聴くほど、きっとすごく面白いのだろうなぁ、と羨望の念さえ覚えます。それでも、やることはありません。そもそも試してみる時間がないし。無理してそれを捻り出そうとも思いません。他のことで手一杯なのです。
 もう引き際なのでしょうね。ゲームにかぎらず、もうちょっと無理かも。そんな感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ウクライナ語の小説の日本語訳開始

2022-11-22 23:59:59 | 講義の余白から

 今日からウクライナ語の短編小説の日本語訳を目的とした演習が本格的に始まった。ZOOMを使って一時間余りで六〇〇字ほどの訳文が一応できた。昨晩、たった一人の受講生であるウクライナ人女子学生から、私訳、過去に出版された仏訳、ウクライナ語原文が送られてきた。今朝九時からの演習直前に、彼女が準備した日本語訳と六〇年代に出版されたらしい仏訳の当該箇所、それにその仏訳をベースにして彼女自身が原文のニュアンスをより正確に伝えるために修正した仏訳に目を通しておいた。
 演習では、それらを参照しつつ、二人で話し合いながら、日本語訳を推敲していった。ウクライナ語がまったくわからない私は、仏訳を頼りに、まず、時代背景、社会背景、登場人物の性格、年齢、社会的立場、家族環境等について、次に、訳された場面の作品内文脈について彼女に説明してもらった上で、一文一文検討していった。この作業が実に面白かった。
 当該場面は、ソビエト連邦体制下のウクライナにおける反体制派の監視役を務めることで心身ともに疲労困憊している三十代の息子とそのような息子の仕事を深く憂慮する年老いた母親との間の、息子の寝室内での薄暗い常夜灯の下での会話である。
 息子の自称詞を「俺」にするか「僕」にするか、母親についての叙述の中で母親を指す言葉を「母」とするか「母親」とするか「彼女」とするか、息子の母親に対するいささか屈折した愛情と距離感を表現するには常体がいいか敬体がいいか、常体にするとして、ちょっと冷たさを感じさせるような表現を選ぶべきか等々、一文一文、いや一語一語に対して、選択の問題が生じ、その都度私が日本語のニュアンスを説明し、それに対して彼女がウクライナ語原文のニュアンスとそれが対応するかどうか確認しつつ、翻訳推敲作業は遅々と、しかし楽しく進められた。それぞれの問題箇所に対して解決案が見出されるごとに、少しずつ霧が晴れていくように小説の場面が眼前に立ち現れてくるのには私もいささか興奮した。
 一時間あまりで訳の推敲を終え、「今日はこの辺にしようか」と私が言うと、「本当に面白かったです。ありがとうございました」と彼女は日本語で返してきた。その言葉に偽りがないことはその声の調子からわかった。
 過去に仏語の哲学書の日本語訳は出版したことがあるが、文学作品の訳を試みるのはこれが初めてである。しかも、原文はまったく読めないのであるから、訳しているとは厳密には言えないし、隔靴掻痒の感なきにしもあらずではあるが、一外国文学作品のこのような鑑賞の仕方はめったに経験できることではない。フランス語と日本語ができる一人のウクライナ人学生のお陰で、得難い機会を得られたと喜んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の映画を日本語による日本語の解説付きで鑑賞する

2022-11-21 23:59:59 | 講義の余白から

 さまざまな日本語を聴かせるためということもあり、「日本の文明と文化」では映画をよく教材として使う。学生たちの日本語レベルからして、字幕なしでは難しすぎるので、アニメーション映画など、比較的わかりやすい日本語を使っており、発音も明瞭な場合は、日本語の字幕入りのヴァージョンを使う。こうすれば、かなり細部まで彼らも理解できる。
 使える教材に日本語字幕がない場合は、仕方なしに仏語字幕入りヴァージョンを使う。これは日本語学習としては望ましくないが、学生たちにしてみればよりストレスなく話についていけるから、内容理解や各シーンの細部に注意を集中させることができるというメリットはある。
 二時間の授業をまるまる映画鑑賞に当てることはなく、長くて約半分の一時間余りである。映画を観る前に、私の方から映画の主題や重要語彙・表現などの説明を行い、さらに映画の内容に関する五つほど問題を出し、その答えを探しながら映画を観るように促す。
 教卓を黒板脇の窓際に寄せ、学生たちの方と黒板の前に降ろされたスクリーンとが半々に見えるような位置に私は座る。この位置からだと、映画を鑑賞している学生たちの顔を観察しやすい。学生たちにしてみれば、私に見られているのはあまり居心地がよくないだろうが、これは前方の学生たちの陰に隠れるように後ろの方に座っている学生たちがさぼっていないか「監視」するためでもある。たとえ映画そのものには関心が持てなくても、日本語の学習としては無駄にはならないのだから、そのためたけにも一時間は集中してほしいと思う。
 最前列から三列目までに座る十数人の学生たちはほぼ一定していて、彼女彼らたちは概してよく集中して授業に参加している。あるシーンのセリフの中にちょっと難しい言葉があると、そこで画面を止め、簡単な解説を差し挟む。すると、それらの学生たちは必ずノートに説明を書き取っている。
 たとえまるごとではないにしても、このような日本語による日本語の解説付きで日本の映画を観る機会はそうそうないであろうから、そこからいろいろと学び取ってほしいと願っている。