内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世阿弥『遊楽習道風見』における「器用」と「器物」の意味論的差異について(下)

2020-06-30 12:16:01 | 読游摘録

 まず、「器用」と「器物」という言葉が出て来る段落全文を注意深く読んでみよう。

そもそも、器のこと、当芸において、まづ、二曲三体より万曲となる数達人、これ器用なるべし。諸体に渉りて、広態の見勢を一身多風に所持する力道、これなり。二曲三体の見聞、いづれも延感をなして、不増不滅の得益あらん所、これ器物なり。

さて、器ということを、われわれの芸で考えてみると、まず二曲・三体の基礎をかため、次にあらゆる応用風にまでひろまり、どんな曲でも演じえる達人は、すなわち器用だと言えよう。各種各様の行きかたにわたり、広くさまざまの演じぶりを、一身に兼備する力量が、それなのである。二曲・三体で習熟した視覚的・聴覚的な巧みが、その延長線上に在る芸にまで行きわたって、無限の芸術的効果をあげうるのは、まさに、器物というべきである。(小西甚一訳)

 ここだけを読んでも、「器用」と「器物」の意味の違いを明確に捉えることは難しい。大系本には両語についての補注がある。まず、両語それぞれが芸位の段階を示しているとする能勢朝次『世阿弥十六部集評釈』の説を排して、「ほぼ同じ事であり、実質的に差が説かれているとは言えない」とする。その他の解釈の可能性も示しているが、整合性に欠けるという理由でやはり採ってはいない。仕舞には、後続の段落との接続が「唐突」で、そもそも「世阿弥の論法自体に無理があるのであろう」と、世阿弥自身を批判するに至っているが、こう言ってしまっては身も蓋もない話で、解釈の努力の放棄でしかない。
 段階説は確かに採りにくい。しかし、単なる言い換えで、実質的な意味の差はないと言い切れるであろうか。一昨日の記事で見たように、ルネ・シフェールの仏訳では「器」には capacité が、「器用」にも「器物」にも capable が訳語として使われている。これらの使用は、一見すると、実質的な意味の差異を否定する立場を支持しているように思われる。
 ところが、まさにこの capable の語義が別の解釈の可能性を示唆している。6月20日の記事で見たように、capable には、大きく分けて二つの意味がある。「することができる」と「受け入れられる」であり、語源的には、後者の意味が前者に先立つ。アビラのテレサの場合は、霊魂から人間的な「することができる」という働きを追い払わないと、神を「受け入れられない」という仕方で二つの意味が区別される。霊魂本来の受容可能性は、そこにおいて可能な人間的な種々の働きより遥かに広大な「城」だと考えられている。
 もちろん、この区別をそのまま世阿弥のテキストに当てはめることはできない。しかし、この区別は次のような解釈の可能性を示唆しているとは言えないであろうか。
 「用」が働きを示しているのに対して、「物」は、その働きの「場所」を示している。「器用」が実現される芸(の総体)の現勢態を指しているのに対して、「器物」は、諸芸がそこにおいて実現される無限の受容性の場所としての役者の生ける身体を指している。「用」と「物」とは、同じ一つの事柄の二側面であり、したがって不可分である。この不可分性をうちに包んでいるのが「器」という端的な一字である。
 もしこのように解釈することができれば、少なくともテキストの第四部全体をより整合的に読むことができる。
 しかし、昨年末12月30日から今年の1月5日までの記事で七回に渡って『風姿花伝』における「位の差別」の条の解釈問題を取り上げたときに述べたように、内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とは限らないという問題はどうしても残る。
 今回はこれ以上深入りしない。一つの訳語が原テキストの解釈に意外な光を当てることがありうるという一つの読書経験の記録として読んでいただけたとすれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


世阿弥『遊楽習道風見』における「器用」と「器物」の意味論的差異について(中)

2020-06-29 15:17:58 | 読游摘録

 「器」という言葉は、今日でも、物を入れる容器を指す一方で、「あいつは人の上に立つ器ではない」(俺のことか)などと、人の能力・包容力を意味するときもある。この意味では、「器量」という言葉がその同義語になる。
 さて、昨日の記事で取り上げた世阿弥の『遊楽習道風見』の中での「器」の用法を見てみよう。同じ漢字が文脈によって、「うつはもの」と「き」の二通りに読み分けられている。まず前者の例。

ただ、舞歌二曲の風ばかりを嗜むべし。これ、器たるべし。

舞と歌との基本芸だけを身につけるがよい。この舞と歌の二曲は、あらゆる芸を包摂する容器だといえよう。(小西甚一訳)

この二曲をよくよく習ひ得ぬれば、次第々々に大人しくなるに従ひて、物数揃ひて、すでに三体に至る時分、何になりても、謡へば感ありて、舞へば面白きは、かねて舞歌の器を蓄して持ちたる徳にあらずや。かへすがへす、二曲を惣物の器になして、物まね態にする所、よくよく案得すべし。

この両者を十分に習得しておけば、だんだん成人するに従って、不足な芸も揃って来、三体を演ずる時期になったころ、何に扮しても、謡えば感心させ、舞えば興趣を生ずるが、これは、以前に、舞歌という基礎的な容器を充実させている効果でなくて何であろう。あくまでも、二曲を、あらゆる芸を包摂する容器とし、その上に劇的所作をまなぶのだという点を、十分に理解してほしい。(同訳)

 これらの箇所からわかることは、「器」(うつはもの)という言葉が使われているのは、舞と歌とが諸芸の基礎中の基礎であり、その他の諸芸はその上でこそ成り立つものであり、その意味で、すべてがそこから生まれ出て来る容器のようなものだということを言うためであるということである。
 「うつはもの」という言葉は中古からあり、『源氏物語』では、「才能・能力・手腕。またそれのある人物」という意味で使われている。世阿弥がこの語に込めている意味は、だから、それとは異なっており、単に才能があるとか有能であるとかいうことではなく、あらゆる才能がその上ではじめて真に持続的に開花するようなもっとも基本的なもののことである。
 それはまた、生得的なものではない。稽古を通じて獲得されるものである。もって生まれた資質のままに少年期にこの基礎をおろそかにしてあれこれ演じてしまうと、たとえそれが人々の称賛を集めるような芸だったとしても、大人になる前に器が固まってしまい、大人になってからは、もう詰まらない芸しかできなくなってしまうことを世阿弥は戒めている。
 次に、「器」(き)の用法を見てみよう。
 『遊楽習道風見』は内容から四部に分かれているが、その最終第四部は『論語』の引用から始まる。そこに「器」が出て来る。引用されている論語の箇所(公治長篇)で、弟子の子貢が孔子に「私を物にたとえたら、どんな物でしょうか」と尋ねたのに対して、「お前は器だ」と答える。その答えに対して、子貢はさらに、「器といっても、どんな器でしょうか」と尋ねる。それに対して孔子は、「瑚璉だ」と答える。「瑚璉」について、大系本の頭注は、世阿弥自身が参照した苞子の注釈に倣って、「神に備える食物を盛る容器で貴重品らしい」としている。それを世阿弥は「当芸」、つまり能芸にあてはめる。その段落で、「器用」と「器物」(きもつ)とが出て来る。
 当初の予定では、今日の記事で「器用」と「器物」との意味論的差異にまで説き及ぶつもりでいたが、ここまでですでにかなり長い記事になってしまったので、それは明日の記事に譲ることにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


世阿弥『遊楽習道風見』における「器用」と「器物」の意味論的差異について(上)

2020-06-28 21:47:13 | 読游摘録

 昨日の発表を聴いてくださった日本仏教研究の碩学フレデリック・ジラール先生から、今朝、拙発表についてのかなり長いご感想を頂戴した。発表内容に直接関わる部分(過分のお言葉だった)よりも、お耳汚しの拙論を聴いて先生がお考えになったこと、現在進行中のご自身の翻訳の話、お流れになってしまった八月末の日本思想の翻訳セミナーのこと(私もお手伝いすることになっていた)などの方が長かった。そちらの方に大変示唆に富んだご見解が示されていた。
 無から有が生まれるという発想は東洋では珍しくはないという話の流れの中で、最近お訳しなったという世阿弥の『遊楽習道風見』が引用されていた。その翻訳の定本とされた岩波の日本思想大系版『世阿弥 禅竹』が手元にあったので早速当該箇所に当たってみた。全体でも六頁弱の短い能楽論である。その終わりの方に「有無二道」論が出てくる。

 有無二道にとらば、有は見、無は器なり。有をあらはす物は無也。縦ば、水晶は、清浄体にて、色文無縁の空体なれ共、火生・水生を為せり。火・水の別性を無色の空体より生ずる事、是いづれの縁生ぞや。或歌に、「桜木はくだきて見れば花もなし花こそ春の空に咲きけれ」と云へり。遊楽万曲の花種をなすは、一身感力の心根也。只、水晶の空体より火・水をなし、桜木の無色正より花実を生る如く、意中の景より曲色の見風をなさん堪能の達人、是、器物なるべし。

 小西甚一訳(『世阿弥能楽論集』たちばな出版 二〇〇四年)は次の通り。

 仏教の方で説かれる「有」と「無」にあてはめると、有は見にあたり、無は器にあたる。有を顕現させる本源は無である。たとえば、水晶は、ごくきれいで、色も模様もない透明な物質であるが、それから火を生じ水を生ずるようなものである。火と水というまったく別な性質のものを、同じ無色の透明物質から生ずるというのは、いったいどんな原因結果なのであろうか。ある歌に、「桜木はくだきて見れば花もなし花こそ春の空に咲きけれ」とある。芸能において、さまざまな芸の花を咲かせる種となるものは、演者の身心にひそむ芸の「ちから」である。水晶という透明物質から火・水を生じ、桜木の色もないところから美しい花や実を生ずるように、演者の心に在る表現的意象を、多彩な表現をもつ演技にまで生かしてゆく達人は、まさしく器物というべきであろう。

 確かに、無から有が生じるという発想は東洋では珍しくない。世阿弥のこの一節はその例証の一つに過ぎない。私がこの一節で惹きつけられた言葉は、「無」よりもむしろ引用の最後に出てくる「器物」という言葉である。引用した一節の直前の箇所に、「器物」とともに「器用」という言葉が出てくる。両者の実質的差異について、大系本の補注を担当した表章は懐疑的だし、小西甚一訳も両者を明確に区別しているとはいいがたい。ルネ・シフェールの仏訳でも、どちらも « capable » と訳されている。
 しかし、6月20日の記事「霊魂における能力と受容性の対立について ― アビラのテレサ『霊魂の城』にふれて」で話題にした、« capable » という言葉の二つの意味が「器用」と「器物」の意味論的差異を明らかにする手がかりになるのではないかと気づいた。
 この点について、明日の記事で考察する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黄昏の途を今日もトボトボと歩いている猫背のK先生の独り言

2020-06-27 19:06:40 | 雑感

 これからどれだけ残されているか不確かなこの世での時間の中で、自分はいったい何を本当にしたいのか。
 これが、日々、自分に向けて発している問いです。
 私は、時間的にこの世の後に来るあの世というものをまったく信じていません。そんな信心は精神の頽落形態でしかない。そんなものを信じて安心立命を求めるのは心の弱さでしかない。
 別に死病を病んでいるわけではありません。普通の意味で、いたって健康です。でも、わからないでしょ、いつ死ぬか。自殺なんか、さらさら考えていません。そもそも、論理的に、結論として、それはありえない。
 いたずらに問題を深刻化させたいのではありません。むしろ、逆です。本当はどうでもいいことに心を悩まされないために、上掲の問いを、日々、自分に突きつけています。
 今日、研究発表してみて、ひとつわかったことがあります(何を今更なんですが)。
 私は、自分が考えたことを人に伝えたいのです。それは、「俺って、ちょっとすごくネ」って認めてほしいからではありません(ああ~、ウソウソウソ、ゼッタイに、ちょっとあるよね、承認欲求ってヤツ。 ― う~ぅ、認めたくないけど、あるね、たしかに)。
 いや、そうではなく(え~、まだ白を切るの?)、「物事をこう考えてみたら、どうだろう?」「そうしたら、世界が今までとはちょっと違って見えてこない?」って、人に問いかけてみたいのです。
 貴様ごときデクノボーが何をホザクか、と、お叱りを受けるだけかも知れません。
 でも、私がこのブログで愚にもつかない御託を並べ続けているのは、決して単なる自己満足のためではありません(これだけは信じてほしい)。「届け!」って願いながら、毎日、宛先も書かずに、目をつぶって、記事を「投函」しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


久しぶりに原稿作成に集中できた一日

2020-06-26 16:53:25 | 雑感

 今朝五時起床。すぐに雑用を片付ける。七時からプール。二〇分で八〇〇メートルだけで上がる。八時から、明日の発表原稿というかパワーポイントの作成に集中する。午後二時に一応完成する。すぐに明日の研究会の司会者に完成したパワーポイントを送る。原稿作成にこれだけ集中できたのは本当に久しぶりのことで、脳にもよい刺激になったようだ。
 基本的に、日本語版に忠実な仏訳を作るつもりだったが、そのままでは訳しにくいところ、発表時から少し考えが変わったところ、よりよい表現が見つかった箇所、補足事項などがあったので、日本語版とは少し違う原稿になった。全体として改善されたと思う。
 発表時間の三〇分に収まるかどうか、ちょっと怪しいが、研究会なので多少の超過は大目に見てもらえるだろう。ただ、ZOOMを使ったオンライン研究会なので、研究会全体はいつもよりかなり短くなっている。長時間、PCの画面に張りついて人の話を聴いているのは疲れるものだし、集中力も途切れがちだ。
 発表は、昨年末に博士号を取得したパリ第一大学パンテオン・ソルボンヌの若手研究者の「内面性」に関する発表と私の発表の二つ。午後一時開始。発表三〇分・議論三〇分で、間に十五分休憩を挟む。いつもの研究会の半分以下の長さであるが、オンラインでは、これくらい「軽い」ほうがいいだろうというのが私も含め研究会の主要メンバーの意見だった。もっとも、予定された時間内に収まるという保証はない。
 今日はもう原稿には手を入れず、夜は発表内容と直接関係ない本をあれこれ読み、しょうもないテレビドラマを一つ見、寝ながらイメージトレーニングをし、明日の午前中に最終的な手直しをする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


少し休ませてください ― K先生の遺言的随筆集『初夏、澄んだ青空の下、風にそよぐポプラの木の根本で私は死にたい』(出版予定なし)より

2020-06-25 20:27:26 | 雑感

 今日は、ほんに身も蓋もない短い雑言でございます。
 仕事上、パソコンの画面を眺めている、いや、そこに表示されている、メッセージ・情報・データをちゃんと読み、それに即応するということに費やす時間は、平均して、一日ざっと六時間は下回らないという業務形態を数年に渡って続けてきたわけですが、それがこの三月から、少なく見積もって八時間に増えており、そのための眼精疲労はもう苦痛の域に達しており、誰に向かってかわかりませんが、「もういい加減にしてくれ。少し休ませてくれ」というのが現在の偽らざる心境でございます。
 というわけで、誰の承認を受けたわけでもありませんが、明日は一日、自主的に一方的に休みます。メールには一切返事をしません。でも、休むって言ったって、それは翌日の研究発表の準備の時間を確保するためで、何もしないで、ボーッと過ごす休日ではありません。
 私は体力もストレス耐性も人並み以上だと思いますが、最近つくづく思うのは、自分はいったい何のためにそれを使ってきたのかということです。労ばかり多くして、結局無益なことのために無駄に使ってきたのではないかという思いを拭い去ることができません。
 一言で言えば、すべてのことに対して、「バ~ッカじゃないの」って、叫びたい衝動を抑えるのは容易ではありません。
 それでも私は「キレません」、というか、「キレる」ことができないのですね。はぁー、これって、育ちなのか、なんなのか知りません。一つはっきりしていることは、私は自分が大嫌いです。
 と言っておきながらなんですが、明後日の発表原稿、結構「イケてるじゃん」って、自己満足に浸りながら(まだ半分しかできてないのですが)、この愚にもつかない記事を書かせていただきました。
 ここまでこの文字通りの駄文を読んで下さった、その寛大さ海のごとく広く深い皆様に、衷心より感謝申し上げ、筆を置かせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人は、いつ、どのようにして、美しいということがわかるようになるのか ― 美をめぐる断章

2020-06-24 16:48:04 | 哲学

 「美」といふことをめぐりて、日ぐらし、机にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこかはとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 私たちは、いつ、どのようにして美しいものを美しいものとして見ることができるようになるのだろう。それは学習できることなのだろうか。美は教えることができるのか。

 感覚に快いか快くないか、これは赤ちゃんでもわかる。見ていて快いものが美の原初的体験なのだろうか。美の感受は快の感覚に還元されるのか。

 何かを美しいと感じるとき、それが誤りだということはありうるであろうか。かつては美しいと感じていたものが、あるときからそう感じられなくなったというのは別の問題だ。なぜなら、美しいと感じたという事実は誤りではないからだ。

 美しさを感じなさいと命令されても、そう感じられない。それは自ずと起こる感情だ。

 なにかを美しいと感じるとき、その理由を私たちは説明できるだろうか。できたとして、それに意味はあるか。

 センスが磨かれていき、知識が深まり、ある芸術の真髄に近づけば近づくほど、美しいと感じられる対象・事柄も変化するだろう。それは、美は快には還元できないということ意味しているのか。

 感覚されうる美はすべて移ろいやすい。それは、感覚されうるのは美の表象(représentation)であって、美そのものではないからだろうか。しかし、美しいと感じるために美そのものの認識は必要ではない。

 調和とバランスが美の感覚を与えることがある。しかし、そのことは美を調和とバランスに還元できるということを意味しない。

 感覚では捉えられない、超感覚的な美はあるだろうか。例えば、数学者がある証明に感じる美しさは、少なくとも感覚だけでは捉えられない。しかし、知解の対象でしかない美はありうるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「美学」(esthétique)について考えていたら、深い森に迷い込んでしまった

2020-06-23 23:59:59 | 哲学

 今週土曜日にZOOMを使って行なう、谷崎の『陰翳礼讃』とメルロ=ポンティの『眼と精神』との交叉的読解の試みについての研究発表の準備は、いつものごとく、遅々として進まない。
 いや、そう言っては正確ではない。もう言いたいことは定まっている。時間的制約からして、その言いたいことを全部言うこともできない。だから、すでにできている日本語の原稿を削ってフランス語で発表すればいい。パワーポイントについても同じことだ。
 では、なぜ進まないか。発表では触れるつもりはないが、それに「奥行」を与えるために、美学という概念について考えはじめたら、深い森に迷い込んでしまったからである。数日間彷徨っていて、まだ出口が見つからない。
 『陰翳礼讃』について、「日本の伝統的な美学」(« l’esthétique traditionnelle japonaise »)を見事に表現した作品といった評価が過去によくされてきた(今でも見かけることがある)が、これは額面通りには受け取れない。「伝統的」というのが実に曖昧な言い方であることは、この問題については今年の一月十一日からの七回の連載の最終回の結論部ですでに触れているから、ここでは措く。
 「美学(esthétique)」というのは実に便利かつやっかいな言葉だ。「〇〇の美学」という表現はいたるところで見かける。例えば、「男の美学」とか、雑誌の特集記事で見かけたりする。フランス語のエスティックも定義は容易ではない。
 この厄介さはどこから来るのか。「美しさ」に関する言説や趣味や態度について「美学」という言葉が広く使われていることがその理由の一つだ。学問の一分野としての美学に話を限れば、一応考察対象が絞れたかに思われるが、これもそれほど自明なことではない。美の概念の定義についてどれが正解かなんて簡単には言えない。
 美学という学問分野に限定されない美についての様々な考察も「美学的考察」と呼ばれたりする。バウムガルテンの『美学』出版以降の十八世紀後半からの美についての哲学的言説になら、「美学的」という限定を与えることは、少なくともアナクロニズムではない。しかし、プラトンやプロティノスやトマス・アクィナスにおける美の考察について、それを美学的考察と呼ぶことには問題がある。近代的概念を古代・中世の哲学・神学に当てはめようとするアナクロニズムに陥ってしまいかねないからだ。
 「美学」という言葉を、いわゆる日本的美に関する言説に適用することは、また別の問題だ。日本の美しさ或いは美しいものについての多かれ少なかれまとまった言説すべてを「美学的」と形容したところで、なにがわかったことにもならない。
 まず、「美学」という言葉の使用を自らに禁ずることによってしか、美の経験に関わる諸問題には近づけないということだけが今の私には確からしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


美の経験、美の表現、美についての言説、言語の美、美の概念

2020-06-22 23:59:59 | 哲学

 今日の記事のタイトルは、美にまつわる言葉をただ思いつくままに並べたのではない。これらのそれぞれが指し示している事柄を明確に区別することが美の問題を考えるときには不可欠だということを Le beau et la beauté au Moyen Âge, édité par Olivier Boulnois et Isabelle Moulin, Vrin, 2018 をところどころ読みながら考えた。
 美しいものを感受することはいつの時代にもあっただろうが、何を美しいと感じるかは時代によっても文化によっても、さらには人によっても違う。それに、同じ対象の美しさの感じ方も違う。中世の絵画や建築を見て、現代の私たちが感じるようには中世の人々は感じてはいなかった。キリスト教世界では、知解される美、つまり感覚世界を超越した美に優位を置き、感覚的美に超越性を認めることは例外的なことだった。
 美の表現も、それが何かに奉仕するための目的連関の中で目指される場合と、美そのものが目的とされる場合とでは、表現者における美の経験の質は異なる。享受者のそれも異なる。中世キリスト教世界においては、感覚によって感受される美は、美の経験の最終目的ではないから、美の享受者という概念自体が不適切の誹りを免れがたい。
 美学という一つの学的体系は、昨日の記事で見たように、18世紀半ばの産物であり、それ以前には、美についての言説はつねに他の問題との関連において展開された。それらの言説を、それぞれの文脈を無視して、整合的な美学的言説とみなし、そこになんらかの体系性を読み込もうとすることは問題を見誤らせる。
 美の経験について語る文章が美しいとはかぎらない。経験された美しさが少しも伝わってこない悪文は美しくない。美についての議論が美しいとはかぎらない。美についてのただ難解なだけの抽象的議論は美しくはない。しかし、美しくはない議論が正しくないとは言えない。
 言語表現の美しさは、記述された内容の美しさとは別の問題である。残酷なまでに悲劇的な場面の表現の美しさに打たれることがその一例である。
 美の経験と美という概念との関係はまた別の問題だ。
 などなど、上掲書に触発されてぼんやりと考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


美と崇高の表現としての詩的言語 ― veritas aesthetica

2020-06-21 18:43:39 | 哲学

 バウムガルテンが1750年に出版した Aesthetica は、美学を哲学体系の中に初めて位置づけた記念碑的な著作として紹介されるのが一般的だが、この書名を『美学』と訳すことには問題がある。なぜなら、バウムガルテン自身は、この自らの新造語によって、悟性的認識論の下位に位置づけられる感性的認識論を構想していたのであり、その中で美の問題は小さな位置しか与えられていないからある。それなのに、『美学』と訳したのでは、美を主たる学的対象とした著作であるかのように誤解されてしまう。しかも、美学の定義は今日でも容易なことではない。
 本書で悟性的認識と感性的認識との違いを説明するための例として挙げられている日食の例は示唆的だ。前者は、この天体現象を天文学的に説明することからなるのに対して、後者は、羊飼いがその恋人にこの現象を見たときの感動を語るようなことだとし、前者の真理を veritas logica、後者のそれを veritas aesthetica と呼ぶ。
 この区別はカントにも受け継がれる。『判断力批判』の中で、 大海原の崇高さをそれとして感得するためには、その光景の知覚に学的知識を結びつけてはならならず、詩人がそうするように、大海原が自ずと現れるのを見ることができなくてはならないという。例えば、ただ大空によってのみ限界づけられた輝く鏡のように静かな海、あるいは、すべてのものを飲み込む深淵のように荒れている海をそれとして見ることができてはじめて崇高さを感得できるという。
 ただ、そのように見ることができれば、美的体験をもったとは言えるかも知れないが、それだけでは個々の体験例というに過ぎない。悟性的認識における真理の表現が概念を必要とするように、感性的認識にも、上掲の例のような美あるいは崇高を表現する言葉、対象をそのように見ることへと導く言葉、そのような現象を現前させる言葉が必要だ。それが詩的言語であり、それによって実現されているのが veritas aesthetica だ。