内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人と人との、人と世界との本源的交流の基層を打ち開く実践的試みとしての看護 ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(3)

2020-07-31 09:20:36 | 哲学

 著者自身看護師として植物状態患者の看護の経験があることが本書における患者の状態・反応についての記述を精確なものにしていることは確かですが、本書の基になっている著者の研究にとって決定的な重要性をもっているのは、本書の三分の一を占める第二章において詳細かつ周到に再構成された看護師Aさんへのインタビューの中身です。
 インタビューの際のAさんの言葉遣いをできるだけ忠実に再現しようとしているその聞き書きは、看護の専門用語を除けば、ほぼ日常言語だけで構成されています。Aさん自身、適切な表現を探しながら、自己の過去の看護経験を反芻・反省し、主観的な思い込みに過ぎないかも知れないと繰り返し留保しつつ、自己の経験を語っていくことで、自己自身を再発見していく過程は、その全体を読まなければよくわかりません。ここでは特に私の印象に残った箇所のみ摘録しておきます。
 摘録を始める前に、まず、植物状態患者の看護がその他の看護とはいかに異なっているかを見ておきたいと思います。
 一般に、怪我や病気で入院した場合、その程度の差はあれ、最終的な治癒を目指して治療プログラムが組まれます。つまり、その最終目的に応じて、それに至る手段が選択され、看護もそのプロセスの中に組み込まれています。完全な治癒・回復が見込めない場合であっても、その条件下で最良と見なしうる状態までいかにもっていくか、あるいはその状態をいかに維持するかということが目的になります。終末期医療の場合、死をいかに平穏に苦痛なく迎えるかということが最終目的になりますが、この場合も、その目的に応じて、患者の意思・状態を考慮しつつ、良しとされる手段が選択されるという点では、やはり目的-手段という連関構造をもっています。
 ところが、遷延性植物状態(回復がまったく望めない)患者に対する看護にはこの構造をあてはめることができません。いつまで続くかわからない現状を維持するということ以外に積極的な目標を設定することが非常に困難だからです。
 しかも、患者自身はもはや意思表示できる状態になく、患者とのコミュニケーションの確立そのものがきわめて困難であり、現場の看護師たち、とくにプライマリーナースとして患者と関わる看護師たち以外には、ほとんど把握しがたい微妙な変化・反応のみがコミュニケーションの手がかりであり、それらは科学的なデータとしてはまったく処理不可能な要素であるという、もう一つの大きな問題もあります。
 このような条件下での看護には、上記のような一般的な看護あるいは終末期医療における看護とはまったく異なった姿勢が求められることになります。
 自身が働いているTセンターの方針をAさんは次のように理解しています。

……病院の片隅に眠っていたのを拾い上げられた、すくい上げられたじゃないけれども、そういう意味合いがある。患者救済、家族救済っていうのも、一番大きな理由だったらしいんですよね。一生たぶん、リハビリとかコミュニケーションというものは、もうできないのだとみなされたまんま、一生終える、病院の片隅で終えていくような患者さんをひとりでも救おうと……その人の残っている、出したいと思っているところを出させてあげられるような関わりをするためにセンターはある……。

 このような方針で看護を行なっているTセンターは、いわゆる植物状態の患者を次のように捉えているとAさんは言う。

ここにいるすべての患者さんのことを、意識がないというか、そういうところまでの思考もないっていうような捉え方はしていないです。だから患者全員が前提としてそのような能力はあるけど、それを出す手段をもたないっていう、それを私たちは引っぱり出すんだっていうふうには、そこらへんはね、結構きっちり教育されているんだと思います。無意識のうちにでも。そして入ってくるスタッフもそれを求めてここに入ってくるのかなって。

 ここは決定的に重要な点だと思います。もし看護する側が、植物状態患者は意識もないし、痛みも感じないし、感情も失われている、コミュニケーションは一切不可能、ただ生体としての最低限の生命機能が維持されているだけの状態にある、しかもそのための処置・投薬・手術等がいつとはわからない死が訪れるまで必要とされると考えたとしたら、その時点で、生きているひとりの人を看護するという意味は失われてしまうからです。前言語的・前意識的な間身体性の層における、人と人との、人と世界との本源的なコミュニケーションが可能かどうかという問いはそこでは成立しようがありません。
 植物状態患者に看護師として日々向き合うことは、言語による双方的コミュニケーションがまったく不可能な他者との間にも成り立つコミュニケーションの基層をまさに身をもって開こうとする、自らの実存をかけた実践なのだと、第二章を繰り返し読みながら私は考えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この本をより多くの人が読み、深く共感すれば、それだけ世界は意味豊かに、より生きるに値するものになると私は思う ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(2)

2020-07-30 21:16:12 | 哲学

 第二章を読み終えました。第二章は、植物状態患者専門病院に務める看護師Aさんが語った看護経験を、Aさんの中に流れる文脈に沿って再構成し、記述した聞き書きです。このインタビューは、約一年間に渡り、七回行われました。その際のAさんの言葉遣い、言い淀み、躊躇い、言い直し、インタビュー間の心境の変化などを 、できるだけ忠実に再現することに細心の注意を払って構成されています。
 本書の第三章は、その語りの中のAさんの微妙な表現の襞を細やかに分析しながら、前意識的な層が語り出されていると考えられる知覚経験を、メルロ=ポンティの身体論を手がかりに記述しています。世界の意味の生誕地である、一人の人が他の人たち(ここでは看護師Aさんがプライマリーナースとして看護に携わった三人の植物状態患者)と前意識的な層で関わる生ける現実の現象学的記述から、人と人との関係の実存的意味の基層を析出していくその手際と到達点は、術語を巧みに操るだけの「表層的」なおしゃべり現象学者たちにはまったく手の届かない領域に達しています。
 その第三章には、読み終えてから立ち戻るとして、明日からの記事では、その第三章において著者が第二章で再構成されたインタビューから拾い上げていく論点とは独立に、私自身が特に興味をもった箇所を順次摘録していきます。第二章全体があまりにも深く豊かな内容なので、その摘録はそのごく一部に限られます。
 拙ブログのこの記事を読んでくださり、本書にご興味をもたれた方には、是非本書を手にとって読んでいただきたい。通常、自分の読んだ本の紹介をこのブログでするとき、あくまで自分にとって何が面白かったかに話を限定し、人様にそれを薦めるということを私はめったにしませんが、この本はできるだけ多くの人に読んでもらいたい。敢えて大げさな言辞を弄すれば、本書に深く共感する人が増えれば増えるだけ、世界はそれだけ意味豊かで生きるに値するものになるとさえ私は思っています。
 今日のところは、著者によるAさんの紹介を摘録しておきます。
 Aさんは関西出身の二〇代の女性で、二人姉妹の長女として育てられた。高校三年生のとき社会福祉科と宗教科の大学を受験するが、失敗。二年間の浪人を余儀なくされる。浪人中の約一〇カ月間は、受験料を稼ぐために精神科病院の老人病棟でヘルパーとして働いた。看護師になろうと思ったのは、母親の友人の看護師長に勧められたのがきっかけだった。浪人中の二年間に両親が離婚し、その後は母親と二人暮らし。
 看護の教育を受けた大学は、公立の看護短期大学。在学中には新聞配達をして家計を支えつつ、サークル活動でさまざまな大学の学生たちと医療について考えるという活動を行っていた。
 インタビュー当時Aさんが働いていた施設(そこでAさんは十七年後も働いていることが、文庫版のあとがきからわかる)は、植物状態と診断された人たちのみを専門に受け入れる病院(本書では一貫してTセンターという仮名が使われている)である。同センターは、一九八四年に、交通事故によって植物状態となった患者に十分な医療とケアを提供すること、およびこのような患者の家族を救済する目的で設置された。現在、こうした施設は国内に九施設ある。
 インタビュー開始時、AさんのTセンターにおける勤務年数は約四年。第二章は、Aさんの語りそのものを読み味わってもらうために、できる限り語られた表現で記述されています。その語りの前後の状況が著者によって補われ、Aさんによって語られた経験の意味の著者による理解がさらにそれに加わりますが、なんといってもAさん自身の繊細な感受性に満ちた語りが素晴らしく、読みながらなんどもハッとさせられ、立ち止まって考えされられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


始源的で前意識的な層における〈身体〉と世界との対話 ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(1)

2020-07-29 18:36:23 | 哲学

 ある本の読後感というものは、本来その本を全部読み終えてから語るべきものなのでしょう。とすれば、私が今日の記事で以下に書くことは、ルール違反です。でも、今、私は、一昨日から読み始めた本に深く心を動かされつつあり、その今の気持をどうしてもここに記しておきたくて、この記事を書き始めました。
 その本とは、西村ユミの『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫 2018年。初版 ゆみる出版 2001年)です。第一章「〈植物状態患者の世界〉への接近」を読み終え、第二章「看護経験の語り」を読んでいる途中で、後半の第三・四章はまだ覗いてもいません。しかし、これは日頃私が得意とする大げさな言い方ではなくて、この本を読み終えた後の自分は、読み始める前の自分とは同じではありえない、周りの世界が以前と違って見えるようになるだろう、と第一章を読んだだけで確言できるほどの衝撃を受けています。
 著者についても本書についても何の予備知識もなかったのにこの本に惹かれた理由の一つは、著者がメルロ=ポンティの『知覚の現象学』を頻繁に引用しているからですが、第一章を読み終えた今は、そのようなこちら側からの主観的な知的関心を超えて、本書が開示してくれている世界に完全に引き込まれています。
 通常は意識に覆い隠された「前意識的」次元における人と人のコミュニケーションの本来的構造が、看護師(医師ではない)と植物状態患者との交流という具体的な経験の現場への長期に渡る参加と、既成理論の概念装置を注意深く回避しつつ現場に密着した細やかな記述とを通じて、徐々に明らかにされ、そこから実践的理論が構築されていくそのプロセスは、まさに現象学的記述とそれに基づいた理論構成の見事な実践例です。
 第二章は、一人の看護師の経験の語りの記録という形を取っています。それを読んでいる今、その語りを聴くことで、生命の交流を通じて人と人との間に意味が生まれる瞬間に立ち会っているかのような感動を私は覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の美学・芸術精神からの西洋のそれへの問いかけ

2020-07-28 19:25:51 | 哲学

 学科長とは庶務係である。そのかぎりにおいて、私は、かなり、いや、きわめて、有能である(って、誰か褒めてくれないかなあ、この未曾有の困難を経験した今年度後期を乗り切ったご褒美として ― いわゆるひとつの承認欲求ってやつでしょうか?)。今日だって、午前中の数時間のうちに、夏休みに入りかけている大学部署諸方に連絡しまくって、数件の問題を一気に片付けたんだぜ。
 さて、研究に関しては、来年に向けて、今、ちょっとワクワクしている。
 一昨日日曜日には、来年春の日本的美学的概念についてのシンポジウムの企画への参加の話が舞い込んだ。すでに先月から、そのシンポジウムに先立って、日本美学論集の話も立ち上がっていた。これらの企画に日仏の生きのいい若手研究者たちを巻き込んでいきたい。私の父方の祖父は美学者でありかつ日仏の芸術的交流に尽力した人だった。なにか縁を感じる。今度帰国したら、これらの企画の報告のために墓参しよう。
 昨日は、ENSの高名な教授から、日中哲学概念小辞典の項目執筆の依頼が来た。出版企画段階だから、詳細は伏せるが、かなり重要な一項目の執筆依頼だ。西洋哲学思想辞典とそれを通じての西洋哲学の諸概念の東洋諸国における影響はまぎれもない事実なのに、その逆方向、つまり東洋発の哲学思想概念が西洋哲学にほんとうにインパクトを与えるということは、個別の事例はともかく、これまで辞典という企画としてはなかった。その狼煙としてこの小辞典は企画された。原稿締め切りは来夏。引き受けますと即答。やってやろうじゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あと一息で、ナ・ツ・ヤ・ス・ミ!

2020-07-27 20:13:14 | 雑感

 今日は、朝から澄み切った青空が広がり、昼過ぎから気温もぐんぐん上がり三〇度を越え、それにともない湿度は三〇%台まで下がりました。私はこういう夏の日が好きでたまりません。こんな天気が夏中続いてくれれば、さしもの新型コロナウイルスもすっかり鳴りを潜めてくれるのではないかと思わず夢想してしまいました。
 昨日、私は、自分の軽率な「勇み足」のせいでここ二週間ほど振り回してしまった方に電話で謝罪しました。その方は寛容にも私の謝罪を受け入れてくださり、気にすることはないと何度も繰り返し、むしろ、この夏、今回の一件はもう済んだこととして、直接会ってゆっくり話したいと提案してくださり、最後は和やかな気分で電話を切ることができました。
 今日の午前中、大学の業務上のこの二週間あまりの懸案事項がやっと解決を見て、ほっとしているところです。大学は実質的にもう夏休みに入ってしまっており、その懸案事項の最終的な決着は学務が再開される八月下旬に持ち越さざるを得ないのですが、新学期にはなんとか間に合う形で学科の態勢を調える目処がたちました。やれやれです。
 今日の午後、もう一つ嬉しいことがありました。六月半ばころから、ストラスブールともう一つ別の大学の入学許可を得た一学生から、何度も教科内容についての問い合わせのメールがあり、そのたびに最優先で最速の返事を出していたのですが、その学生はどちらを選ぶかずっと迷っていました。
 「迷うのはあなたの権利だから、時間が許すかぎり、ゆっくり迷ってください。どちらを選ぶのもまったくあなたの自由です。あなたが最良の選択をするために必要な情報を私はできるかぎり提供します」と六月中に伝えておいたのですが、しばらく連絡がありませんでした。その学生から、弊学科を選んだことを知らせるメールが届いたのです。
 「私が質問するたびに、いつでも直ぐに明快で正確な返事を先生がくださったおかげで納得のいく決断を下すことができました。新学期にお目にかかってあらためて直接お礼を申し上げるのを待ち遠しく思っています」という内容でした。こんな返事をもらって、嬉しくないわけないでしょ。
 直ぐに、およそ以下のような返事を送りました。
 「私たちの学科にとって嬉しい知らせをありがとう。学科教員一同、新学期に貴方を本学に迎える準備を調えているところです。私たちの教科内容が貴方の期待に応えるものであるように最善を尽くします。夏休み中、新入生の皆さんに、新学期をよりよく迎えるためのガイダンスメッセージを数回お送りする予定です。夏休み中、なにか質問があったら、いつでも遠慮なく連絡をください。」
 三月後半から心理的にはずっと懸垂状態のような日々が続いて、気の休まることはありませんでした。今でも、新学期がどのような形で迎えられるのか、予断を許さないという意味では、すっかり気を抜くわけにはいきません。
 でも、明日明後日、まだ少し残っている仕事を片付ければ、私も、やっと、夏休みです。一ヶ月休息させてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏虫くんたちに言いたいこと ― なんで君たちは学習しないの?

2020-07-26 23:59:59 | 雑感

 今日の記事の話題はですね、あんた、いい歳こいて、よくもまあそんなくだらんことを考えられるもんだねぇ~って話です。すいません、汚い言葉遣いで。でもまあ、ぴったりなんですよ、今日の記事のレベルには。
 それはそうと、面白かったのは、「いいとしこいて」ってキーを叩いたら、「いい歳恋いて」って出たんですよ。日頃、日本語変換システムの頭の悪さを「ちゃんと学習せんかい!」とPCの画面に向かって呪っている私ですが、これはやられましたわ。これ、ドラマとか映画のタイトルとして使えないかなあ。
 閑話休題、本題(というほどのものではございませんが)に入ると、私は、虫たちが嫌いではありませんが、彼らに対して怪優香川照之のような特別な愛情があるわけでもありません。できれば、お互い棲み分けて、別々に仲良く生きていこうねっていうのが私の基本的なスタンスであります。
 夏になると、虫たちの活動がひときわ活発になります。夏は暑いです(何この短文。アンタ、日本語初歩なの?)。それで、窓を開けっ放しにしています。そうすると、虫たちが、私に何の断りもなしに、室内にブンブン入ってきます。
 私は、内心、「っせーんだよ、こっちは仕事中なんだよ、早く出てけよ!」と毒づきながら、彼らの好きにさせておき、一通り室内を飛び回ったら、はいはい、もう気が済みましたか、じゃあ、出ていってちょうだいね、っていうのが基本方針です。つまり、無益な殺生はいたしませぬ(仏教徒じゃないけどね)。
 日中はそれでだいたいOKなのですが、夕刻以降が困るのです。外は暗くなります。多くの虫たちが明かりを求めて、日夜勉学と仕事に勤しんでいる私の仕事机の主光源であるハロゲンライトの付近に寄ってきます。
 あとはおわかりでしょ。ハロゲンはとても高熱になります。触れたら、やけどするほどです。そこに寄ってくるわけですから、彼らはひとたまりもありません。ジュッと音がして、即、焼死です。香ばしい匂いがあたりに漂います。彼らのご遺体の埋葬は私の仕事です(ナムアミダブツ)。
 そのたびに思うのです。なんで君たちは学習しないの?って。私は君たちに敵意はないし、ましてや殺意はない。でもね、人の家の中に勝手に入りこんで来て、ハロゲンライトに不用意に近づいて焼け死ぬのって、もうやめません? 仲間が即死するのを間近で目撃して、「アノ光ニハ近ヅクナ。即死ダゼ」って、どうして他の仲間に伝えないのだろう。
 彼らのために、光源をLEDに替えてやればいいじゃんというご意見もあるかと存じます。が、その出費は私の負担であり、しかも、そんなことをしたら、夜間も彼らは室内をブンブン調子こいて飛び回ること必定であります。
 器の小さきこと、おままごとキッチンの小皿のごとき私には、その選択肢はありえません。
 で、虫たちに一つお願いがあります。人間たちも生き延びるためにより賢くなろうと努力するから、君たちももっと賢くなっておくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつでもどこでも繋がれることで失われるもの ― 人はいつでもどこでも出逢えるわけではない

2020-07-25 23:59:59 | 雑感

 今日の午後は、札幌・京都・ストラスブールの三箇所を結んだZOOM飲み会がありました。それはとても楽しい時間で、気がついたときには四時間近く経っていました。その間に白ワイン一本(Chardonnay)空けてしまいまして、今、ボルドーの赤ワインを飲みながらこの記事を書いていております(飲みすぎ注意!― わかっちゃいるけどやめられない)。ですので、記事の内容の整合性については保証できません(過去の記事にも別に保証はついていませんでしたが)。
 まあ、いいじゃないですか、こうして月に一度位は、気心の知れた人たちと自由に話すくらい。なんて思っているのは、最年長者で、好き勝手に長広舌を振り回した私だけなのかも知れませんが。話題は多岐にわたり、要約のしようもないので、一言だけ、私見を述べさせていただきます。
 三月以降の遠隔授業・研究会・シンポジウムの実践を通じて積極的な成果として得られたことは、単に偶々うまくいってよかったネ、ということではなく、これまでの授業のあり方について私たちに反省を促し、これからの授業・議論・共同研究の形態の新たな可能性について具体的にプランを構想することができるようになったことです。
 例えば、ある授業で、ゲスト講師をお招きする場合、対面授業の場合は、謝礼云々の話は措くとして、日時の調整だけでもやっかいなことがあります。その調整はうまくいったとして、とにかく教室までご足労願わなくてはなりません。これまででも、学生たちがいる教室と他の場所をネットで結んで授業を行なうことは技術的に可能だったわけであり、私自身、三年前からフランスと日本を結んで演習を行なうことを試みてきました。ただ、接続環境その他技術的な問題もあり、アイデアそのものは悪くなかったとしても、実際にうまくいっていたとは言えない程度でした。
 しかし、三月来、遠隔授業が有無を言わせない仕方で一斉に強制され、いわば世界規模での大実験が数ヶ月に渡って行われたことで、それ以前とは比較にならないほど具体的に、遠隔授業の可能性について教師も学生も嫌でも気づかされました。今後遠隔授業がスタンダードになるかどうかは別として、各自が地理的に互いに離れ離れであることは共同で何かをすることの乗り越えがたい障害ではないということが皆に一挙に理解されたことが、これからの研究・教育のあり方を大きく変えていくきっかけになることは間違いありません。
 と言っておきながら、なのですが、エンカク・イケイケドンドン派(と私が勝手に名付けている現在ノリノリの方々のこと。略してEID派)にあんまり図に乗ってほしくないなあと強く思っています。ネット上では、当然の成り行きとして、このEID派が幅を利かせているのが現状ですが、タイメン・ヤッパダイジダゼ派(これも私の命名で、私はこっちの派に属しております。略してTYD派)が現実にはサイレントマジョリティーだと思うのですが、そういう人たちの声をかき消すような形で一挙に一方に突っ走ることは、たとえEID派の主張に正論が含まれているとしても、間違っているだけでなく、危険なことだと私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人類が作り出してしまった現代の荒ぶる神 ― 『肥前国風土記』「佐嘉郡」に触れて

2020-07-24 20:42:54 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げたハルオ・シラネの『四季の創造』の中に、『肥前国風土記』「佐嘉郡」を引いた一節がある。その段落を引く。

 古くから日本人は稲作のために原野を開墾した。古代に始まり平安時代から中世にかけて拡大した荘園制度にとって、新田の開発は最重要事項の一つであった。未開地を田に変えていく過程で、より多くの耕作可能な土地を作り出すために、人々は躊躇することなく大木を伐採して森を切り開き、動物を殺した。古代においては、野生の自然は「荒ぶる神(邪悪で人間に害をなす神)」の領域とみなされていた。『肥前国風土記』の「佐嘉郡」のくだりには佐嘉川の荒ぶる神の描写がみられる。

一ひと云へらく、郡の西に川有り。名を佐嘉川と曰ふ。年魚あり。其の源は北の山より出で、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神有りて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。

 古代から土地開発はあったのであり、野生の自然を統べる荒ぶる神の怒りを買うような環境破壊は現代だけのことではない。例えば、平城京の周辺の山々は、乱開発によって樹木がなく、保水力が低下した。そのため、ちょっとした大雨でも、一気に雨水が都を襲うことになり、土砂が流出した(『平城京誕生』角川選書 2010年)。
 しかし、現代の気候変動とそれが引き起こす豪雨等の自然災害は、そもそも人間には制御できない荒ぶる神の仕業とは言えないのではないだろうか。人類による歯止めなき環境破壊が荒ぶる神を造り出してしまったのではないか。
 だとすれば、その荒ぶる神を敵と見なし、それへの戦いを挑むことは、とんでもない的外れ、あるいは意図された責任回避でしかないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エコクリティシズムの日本文学史への適用 ― ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化の自然観の系譜』

2020-07-23 18:01:45 | 読游摘録

 この五月に刊行されたハルオ・シラネの『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』(角川選書)は、2012年に刊行された英語版 Japan and the culture of the four seasons : nature, literature, and the arts, Columbia University Press の単なる翻訳ではない。著者自身が「日本語版へのあとがき」に記しているように、英語版刊行後に得られた、日本文化や環境に関する著者の新たな考えが数多く盛り込まれている。いわば増補改訂版である。著者の長年の友人である翻訳者北村結花への、「北村さんの丁寧・的確で意を尽くした翻訳によって、英語版よりも日本語版のほうが格段に充実し、はるかによい本となりました」という謝辞は真率なものだと思う。実際、文法的に骨格がしっかりしていて、とても読みやすい訳文である。
 古代から現代までの日本文学史を通して、文学的自然観(二次的自然)がいかに形成され、変化・発展し、その自然観の系譜が逆に日本人の自然に対する関係をいかに規定している(場合によっては疎外している)かを、文学作品(万葉集から俵万智まで)から豊富な具体例を引きつつ、それらと社会・文化の諸側面との関連を押さえることで、楽しく教えてくれる好著である。
 時代認識は、よくいえば、おおらか、わるくいえば、大雑把なところがあり、個々の事例についての考察は、やや記述的あるいはナラティヴで、従来説を踏襲しているだけで、分析としてはいささか物足りないところもある。しかし、そのような専門的な細部の分析と論証は本書の目的とするところではないだろう。
 本書の「はしがき」から、執筆にあたって刺激を受けたというエコクリティシズムへの言及箇所を引こう。そこに著者の方法論の要処の一つが示されている。

これは自然の概念やイメージがさまざまな文化や制度においてどのように構築され、多様な文学的、文化的、社会的行為を通してどのように表現されているかを検証する手法である。ウズラ・ハイザの言葉を引用すれば、「エコクリティシズムは、歴史のある時点における人間と自然との関係を文学がどのように表現するか――どのような価値が自然に付与されているのか、また、なぜ、どのようにして自然に対する認識が文学のジャンルや約束ごとを形作るのか――を分析する。さらに、環境に対する社会的、文化的態度の形成に文学的修辞がどのように寄与したのかを検証する」。
 気候と文化に関する近代の研究は、気候と文化の間に直接の因果関係を見いだし、日本文化を気候や風土の観点から説明しようとした。これに対し、エコクリティシズムは環境と文化との隔たり――自然を文化的、文学的に表現する際、しばしば故意に覆い隠されるずれ――に焦点をあてる。自然の表現や再現はたいてい実際の現実とは逆であり、ありのままの自然の姿ではなく、むしろ支配階級の社会や文化が “見たい自然” の姿であることに着目する。

 英語原文も引いておこう(ただし、日本語版でカットされている部分は省略する。それらの箇所は、日本文学史に関する具体的な認識に関わる部分で、本文との重複を避け、「はしがき」ではより一般的に方法論を提示すに留めるために取られた措置であろう)。

[Ecocriticism] examines how concepts or images of nature are constructed in different subcultures and institutions and are expressed through a variety of literary, cultural, and social practices. To quote Ursula Heise, “Ecocriticism analyzes the ways in which literature represents the human relation to nature at particular points in history, what values are assigned to nature and why, and how perceptions of the natural shape literary tropes and genres. In turn, it examines how such literary figures contribute to shaping social and cultural attitudes toward the environment.”

Modern Japanese climate-culture studies posit a direct cause–effect relationship between climate and culture, attempting to explain Japanese culture through the climate and topography of Japan. Ecocriticism, by contrast, focuses on the gap between the environment and culture, a gap that is often deliberately obscured by cultural and literary representations of nature. Modern Japanese climate-culture studies generally assume a mimetic function in culture, as directly reflecting material reality or physical environment, when in fact reconstructions and depictions of nature were often the opposite of reality: what aristocratic society or culture wanted nature to be rather than what it actually was.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』における“nasty”の語義について

2020-07-22 18:35:51 | 読游摘録

 以前にも取り上げたことがあるが(この記事)、ノーマン・マルコムの『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(講談社現代新書 1974年、平凡社ライブラリー 1998年)は私の長年の愛読書で、今でもときどき手にとって適当に数頁読み返すことがある。その際には、原典の第二版 Ludwig Wittgenstein. A Momoir by Norman Malcolm with a Biographical Sketch by G. H. von Wrigth, Second edition with Wittgenstein’s letters to Malcolm, Clarendons Press・Oxford, 2001 を必ず参照する。 
 昨日話題にした『言葉の魂の哲学』の第二章はウィトゲンシュタインの言語論を考察対象としており、その他の章にもウィトゲンシュタインへの言及は頻繁に見られる。最終章第三章第2節「言葉を選び取る責任」の最終項にはマルコムの回想から二箇所引用されている。その後者は、1939年秋頃、散歩の途次、ウィトゲンシュタインがマルコムの発言に激怒した時のことを回想しているウィトゲンシュタインのマルコム宛の手紙の一節である。最初に読んだときからずっと忘れられない一節である。 
 まず、原文を引こう。そして、四十年あまり前に私が最初に読んだ板坂元訳、最後に、『言葉の魂の哲学』の古田訳を掲げよう(藤本隆志訳は未見)。

You & I were walking along the river toward the railway bridge & we had a heated discussion in which you made a remark about ‘national character’ that shocked me by it’s primitiveness. I then thought: what is the use of studying philosophy if all that it does for you is to enable you to talk with some plausibility about some abstruse question of logic, etc., & if it does not improve your thinking about the important questions of everyday life, if it does not make you more conscientious than any … journalist in the use of the DANGEROUS phrases such people use for their own ends. You see, I know that it’s difficult to think well about ‘certainty’, ‘probability’, ‘perception’, etc. But it is, if possible, still more difficult to think, or try to think, really honestly about your life & other peoples lives. And the trouble is that thinking about these things in not thrilling, but often downright nasty. And when it’s nasty then it’s most important. (op. cit., p. 35)

二人で川沿いに鉄橋の方に向かって歩いていたとき、君が言い出した“国民性”について激論したね。あのとき、僕は君の意見のあまりの幼稚さに驚嘆した。僕は、あのとき、こう思った。哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、そして、もし“国民性”というような危険きわまりない語句を自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心くらいしか、哲学が君に与えるものがないとしたら、哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。御存知のように、“確実性”とか“蓋然性”とか“認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にははりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。(平凡社ライブラリー版 41-42頁)

君と私が川沿いに鉄橋の方へ歩いていて、激しい議論になったことがあったね。そこで君は「国民性」について言い出して、私はその意見の幼稚さにショックを受けた。あのとき私はこう思っていた。哲学を学ぶことは何の役に立つのだろう。もしも哲学が、論理の難問についてもっともらしい理屈をこねられるようになるくらいしか君の役に立たないのだとしたら、また、もし哲学が日常生活の重要な問題について君の考える力を向上させないのだとしたら、そして、もしも哲学が、「国民性」というような危険極まりない常套句を自分の目的のために使うジャーナリスト程度の良心くらいしか君の与えないのだとしたら、哲学を学ぶことに何の意味があるだろう。君も知っての通り、「確実性」とか「蓋然性」とか「知覚」といったことについてよく考えることが難しいのは当然だ。でも、それよりもっと難しいのは、自分の生活や他人の生活について本当に誠実に考えること、あるいは考えようと努力することなんだ。そのうえ、困ったことに、これらについて考えるのはスリリングではないし、往々にして全く不愉快だ。けれど、その不愉快なときが、最も重要なことを考えているときなんだ。(『言葉の魂の哲学』中の古田訳)

 平凡社ライブラリーの板坂元訳(旧版の講談社新書とまったく同一)では、「哲学を勉強するなんて無意味じゃないか」という、原文にはない強意が加えられているのがわかる。「俗世間」に対応する語も原文にはない。古田訳のほうが概して原文に忠実だが、“if possible” が訳し落とされている。両訳を比べても私にはよくわからないのが、nasty のニュアンスである。板坂訳では「つまらない」、古田訳では「不愉快」と訳されているが、どちらも nasty の多義性をカヴァーできているとは思えない。かといって、「厄介な」とか「手に負えない」の方がいいとも思えない。ちなみに、仏訳(traduit par Guy Durand)は « pénible et déplaisant » と二語重ねている。この語によってウィトゲンシュタインはどんなことを言わんとしていたのだろう。