内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

なんとか無事にたどり着いた大晦日にプラトンの『クリトン』を読む

2021-12-31 15:24:52 | 雑感

 今年も、無事にというか、やっとというか、もうというか、大晦日を迎えました。今年もまた世界中コロナ禍の一年ではありましたが、個人的には比較的平穏に過ごすことができた一年でした。昨年同様、今年も風邪一つ引かずにずっと健康でいられたことはほんとうに幸いなことでした。
 今年の四月までの約十一年間、年間二百数十回通い続けてきた水泳でしたが、通っていたプールがかなり混むようになり、モチベーションが下がって休みがちになってしまいました。これではいかんと五月十五日から一日一時間ほどのウォーキングを始め、それが七月からはジョギングになり、今日までの七ヶ月半、二百三十一日間で運動を休んだのは五日だけ、十月十七日から今日までの七十六日間は連続運動記録(うちウォーキングは七回のみ)を更新中です。ここまでジョギングにはまるとは、始めたときには自分でもまったく想像できませんでした。この間の総走行距離は優に2000キロを超えています。
 おかげで、体脂肪率は、五月には18%台だったのが、今日の計測では11,6%まで下がり、週間平均でも12%台をキープできるようになりました。体組成計のその他の数値もすべてきわめて良好で、このことだけでも、いいことのあった一年だと言うことができます。来年も、なにはともあれ、走り続けたい、そう単純に願っております。
 今年最後の読書はプラトンの『クリトン』となりました。きっかけは、「忠義」(角川ソフィア文庫版では「忠誠」と訳されているが)がテーマとなっている渡戸稲造の『武士道』第九章 The Duty of Loyalty に『クリトン』からの引用があるからです。皮肉を込めて言えば、新渡戸の牽強付会は、この箇所に限ったことではなく、『武士道』の至るところでそれこそ確信犯的に実行されており、それをいちいち批判しても不毛なだけので止めておきますが、『クリトン』そのものを再読するきっかけを与えてはくれたことには感謝したいと思います。
 忠義あるいは忠誠については、別途注意深い考察を要しますが、『クリトン』に表明されている正義に基づいた遵法精神といわゆる日本的忠義あるいは忠誠とはまったく別物で、新渡戸も実はそのことに気づいていたことが同章の終わりまで読むとわかります。それはともかく、今年の「締め」はプラトンの味読と相成りました。
 皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない」― 高坂正堯『国際政治』より

2021-12-30 16:57:03 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した高坂正堯の『国際政治 ― 恐怖と希望』(中公新書)の初版は一九六六年刊行で、著者はそのとき三十二歳。国際政治についての確固たる洞察が明晰な文体で表現されており、五十五年を経てもその輝きは失われておらず、「古典的名著」(『三酔人経綸問答』解説より)の名に恥じない。長くなるが、「絶望と希望」と題された最終節のほぼ全文を引用する。

 国際政治に直面する人びとは、しばしばこの最小限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある。それゆえ、国際政治に直面する人びとは懐疑的にならざるをえない。しかし、彼は絶望して、道徳的要請をかえりみないようになってはならないのである。そしてこの微妙な分れ目は、じつに大きな分れ目を作るのである。
 昔から人びとはこのジレンマに悩んできた。たとえばソ連との冷戦という困難な状況にあって、アメリカの外交を立案したジョージ・ケナンは、このジレンマを何回も味わったように思われる。彼は異なった正義の体系を持つ巨大な国家ソ連に、なんとか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決しえない対立であった。しかし、彼はその問題から逃げるわけにはいかなかったのである。だから彼はできることをしながら、すぐにはできないことが、いつかはできるようになることを希望したのであった。
 そのような信念の持主であった彼は、医師であったロシアの作家チェーホフ(一八六〇~一九〇四)を深く愛した。彼は、チェーホフが解きがたい問題を解かざるをえない状況に置かれて悩む人間を描いているのに、共感を感じたのである。彼はとくに短篇『往診中の一事件』を好んだ。この物語の主人公の医師は、ある工場に往診に出かける。患者はそのエ場主の娘で、彼女は陰気な工場の雰囲気のために神経症的心臓病にかかっている。そしてそれは治療しえない病気である。医師はいかに自分の力がかぎられたものであるかを感じざるをえない。
 同様のことは外交の世界でもおこる。ケナンは『外交五十年』のなかで、歴史家バターフィールドの言葉を引いてつぎのように述べている。

 人類の大きな闘争の背後には、恐るべき人間的苦悩があるのであり、これこそ歴史の真実なのである。現代の人びとはかかる苦悩を理解しないし、その真実性を認めようとしない。いつも人びとは、人間の知恵をもってしても、解きほどくことのできないような恐るべき結び目があったことを、のちになってほんとうに理解するようになるのである。

 しかし、希望することをやめてはならない。じっさい、たとえ合理的な根拠がなくとも、人間は希望することをやめない。『往診中の一事件』の医師は、なんにもしてやれないことを知りながら、求めに応じてその家に一泊し、眠れないその娘に話してやる。

 あなたの不眠症は尊敬すべき不眠症です。なにはともあれ、よい徴候です。まったくのところ、私たちの両親はいま私たちがしているような会話をすることなどは思いもよらなかったのですからね。私たちの両親は、夜はべつに話もせず、ぐっすりと眠ったものです。ところが私たち今の世代の人間は、ろくに眠ることもできず、煩悶し、おしゃべりをし、たえず自分たちが正しいか、正しくないかを決めようとしています。私たちの子供や孫の時代になったら、この問題――つまり正しいか否かという問題はもう解決がついていることでしょう。

 戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力しつづけなくてはならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間のつとめなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナ禍が誘因と考えられる書籍購入熱

2021-12-29 23:59:59 | 読游摘録

 今年も今日を含めてあと三日を残すばかりとなりましたね。今年もコロナ禍に明け暮れた一年となってしまいました。職場では、新学年度が始まった九月一日以降、建物内でのマスク着用義務以外には特段の制約もなく、前期の授業はすべて滞りなく行われましたし、日常生活においても、オミクロン株のここ数日の爆発的な感染拡大以前は比較的平穏な日々が続いていました。しかし、現在の世界的な感染状況からして、年明けからしばらくはまたしても予断を許さない日々が続くのでしょうね。
 日課のジョギングと週に二、三回の買い物を除けば、ほぼ「引きこもり」状態を満喫しているこの冬休みです。それでも、読みたい本がありすぎて、時間が足りないくらいで困っております。これは青年時に罹患して以来の根治不能な慢性疾患のようなものですが、あれこれの異なった分野の本が同時に気になったり、ある本の一節に言及されている他の本がすぐに読みたくなったりして、一冊の本を集中して読むことができません。この呪わしくもある病的傾向に電子書籍が拍車をかけています。なにしろ気になる本がそれこそ数秒で入手できてしまうのですから、この便利さに抗うことは私のように精神が病弱な者にはとてもむずかしいことなのです。
 例えば、「症状」はこんな具合です。今日、角川ソフィア文庫今月新刊の一冊『三酔人経綸問答』の現代語訳者先崎彰容氏による見事な「解説」を感嘆しつつ読んでいたら、その終わりの方に高坂正堯の『国際政治』(中公新書 改版再版2018年 初版1966年)からの引用が出てくる。その引用箇所を確認すべく、同書の電子書籍版を即購入する。すぐに当該箇所は見つかったが、同書の終章最終節の「絶望と希望」が気になり、そこを読む。その節にチェーホフの『往診中の一事件』という短編が引用されている。これも確認せねばと、『かわいい女・犬を連れた奥さん』(新潮文庫 小笠原豊樹訳 1970年)の電子書籍版(2016年)を購入。ついでに(これが曲者なのです)、チェーホフ短編集の仏訳を数冊まとめて買う。高坂書の同箇所には、アメリカの外交官・政治学者・歴史家のジョージ・ケナンはチェーホフを深く愛し、特に上掲の短編を好んだとある。そのケナンの『外交五十年』(American Diplomacy, The University of Chicago, 1951, 1979)も参照すべく、電子書籍版を購入。確かにチェーホフへの言及が一箇所あり、上掲の短編を念頭に置いて書かれていることがわかる。これでようやく一段落です。やれやれ。
 これらの熱に浮かされたかのような連鎖購入は一時間足らずの間の出来事なのです。ちょっと、いや、かなり、症状が深刻化しているなあという自覚はあります。ひょっとすると、これもコロナ禍が誘因になっているのかも知れませんね。


ホイジンガ『中世の秋』― 熟しきり死にゆく時代の細部を生き生きと描き出す喪の作業

2021-12-28 04:39:56 | 読游摘録

 ホイジンガの『中世の秋』(堀越孝一訳 中公文庫 2018年 文庫初版 1976年)を最初に読んだのは、四十年以上前、中公文庫版だった。なんとなく書名に惹かれてのことだった。手元にはもうその文庫版はなく、2018年刊の中公文庫新装版の電子書籍版で読み直している。こういう歴史叙述の名品(オランダ語原本の初版は1919年刊)はやはり紙の本で味わうように読みたい。手元には、1932年に初版が刊行された仏訳がある。現在は Payot & Rivage 社の文庫版叢書 « Petite Bibliothèque Payot » の一冊(1989年刊)として簡単に入手できる。
 この仏訳の巻頭には、中世史の大家 Jacques Le Goff の Claude Mettra との対談が収められている。この対談が『中世の秋』を現代の歴史研究の趨勢の中で読み直すためのよき案内となっている。この対談の冒頭で、1932年に最初の仏訳が出版されたときのタイトルが Le Déclin du Moyen Âge だったことが話題にされている。このタイトルは、その当時の中世に対する一般的認識を反映しており、またシュペングラーの『西洋の没落』(第一巻 1918年 第二巻 1922年)の影響もあったろう。
 しかし、衰退を意味する déclin という語の選択は明らかに不適切だ。ホイジンガが「秋」というとき、それは死滅を前にした爛熟期を意味しているからである。そのことは、仏訳には収められていないが、中公文庫版では巻頭に置かれている「第一版緒言」を読めば明らかだ。

たいていの場合、ひとは、新しいものの起源を過去にさがそうとする。新しい思想、新しい生活の形態がどのようにして生まれいでて、後世、まったき光を輝きはなつにいたるかを知りたがるのだ。ひとは、どの時代も、その次の時代に約束されたものを隠しているとみ、なによりもまずそれを知りたがる。近代文化の萌芽を中世文化にさがしもとめようとの努力が、なんと熱心に続けられてきたことか。[中略]かつては、死んだ時代、硬直した時代とみなされていた中世が、いや、実はすでに新しいものが生まれいでていた時代であった、すべてが近づく完成をめざしていた時代であったとみられるようになったのである。だが、新しい生の誕生のことをたずねるに熱心なあまり、歴史においても、自然におけるのと同様、死と誕生とはその歩調を一にしているとのことが、ともすれば忘れられがちになってしまったのであった。古い文化の諸形態が死滅する。そのとき、その同じ土壌に新しい文化が養分を吸い、やがては花を咲かせる。

 ホイジンガは、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とは見ず、中世の終末と見ようとする。

中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも思うがままに伸びひろがり終えた木のごとく、たわわに実をみのらせた。古い思考の諸形態がはびこり、生きた思想の核にのしかかり、これをつつむ。ここにひとつのゆたかな文化が枯れしぼみ、死に硬直する。

 来たるべき「輝かしい」時代を準備する萌芽をその前の時代に是が非でも探り出して、その時代を「再生」させようとするのではなく、その時代の熟しきり死にゆく文化をその細部に至るまで生き生きと丁寧に描き出す喪の作業が美しい絵画の如きこの歴史叙述の名品を生み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年の掉尾を飾るに相応しい出版に喝采を送る ― 安藤昌益『自然真営道』(講談社学術文庫)

2021-12-27 02:59:17 | 読游摘録

 これはまったく個人的な狭い視野の中に入ってきた今年の新刊書籍(しかもそのほとんどは文庫か新書である)中でのことであるが、今月新刊のうちの一冊、安藤昌益の『自然真営道』(講談社学術文庫 野口武彦 抄訳)の衝撃は大きい。
 本書の原本は、1971年に『日本の名著19 安藤昌益』(野口武彦責任編集)として中央公論社から刊行された。ちょうど半世紀前である。その後、中公バックス版が1984年に刊行され、今回の版は、中公バックス版から「自然真営道(抄)」、野口氏による解説、年譜を載録したものである。
 管啓次郎氏の書き下ろしエッセイ「昌益の道、土の道」が巻頭に置かれている。このエッセイが昌益のことなど何も知らない読者へのインパクトのあるイントロダクションになっている。このエッセイを読んだら、野口武彦による渾身の現代語訳と訳注をどうしても読んでみたくなる。その野口氏による解説「土の思想家 安藤昌益」の分量も熱量もすごい。
 菅氏のエッセイから少しだけ抜粋する。

そもそも、昌益が問う自然が「自然/文化」といったありきたりな対立の一項をさすのではないことはいうまでもない。それは nature ではない。昌益はこれを「自リ然ル(ヒトリスル)」と読む。その意味するところは、野口によれば、宇宙万物の根源たる土がひとりで運行して木・火・金・水の四気に変化展開することなのだそうだ。

土がすべて。宇宙と生命の中心に土があり、われわれは土を耕し、それで生きてゆく。人だけではない、獣も、鳥も、魚だって、その体の中心には土があり、土が生きている、土で生きている。それではこれを生命の根本原理として、宇宙を、生命圏を、社会を、生活を、どう捉えなおせばいいのだろうか。

昌益が出した答えは「直耕」だった。土をみずから耕すという本来の道が失われているのを彼は憂えた。[中略]土地に忠実に、生涯をつうじて農民たちの味方であり、農の大切さという観点から社会制度とあらゆる権力、神話とあらゆる思想家たちを徹底的に批判した。口調は激しい。それというのも農民たちの窮乏を目の当たりにしていたからであり、その原因となるものを見抜いていたからだろう。ニンゲンの暮らしという観点からすれば、糾されるべきは不耕貪食の徒、つまりみずから食糧生産にたずさわることなく、他人の労働の成果を横どりして生きる者たちということになる。人の道は「直耕」にある。これは昌益の造語だが、同時に彼はこれを「直ら(てずから)耕す」とも読み、それを人の農のみならず、万象のさまざまなアクションにもあてはめて考えた。

ルソーのフランス語は現代人にもふつうに読める。昌益の日本語は現代語訳されたものでなければそうはいかない。言語的連続性のこの喪失は、逆に、日本列島社会が克服できずにいるさまざまな問題の連続性を証言しているのではないか。昌益がしめす道を眺めやりながら、改めて土にふれながら、そんなことを考えてみる必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


補助器具をつけた神としての人間 ― フロイト『文化の中の居心地の悪さ』より

2021-12-26 08:31:02 | 読游摘録

 Das Unbehagen in der Kultur が出版されたのは1930年、その四年後の1934年には最初の仏訳が Revue française de PsychanalyseMalaise dans la civilisation というタイトルで発表されている。原書初版出版からちょうど80年後の2010年に、三つの新しい仏訳 Le malaise dans la civilisation, Éditions du Seuil, coll. « Points Essais », Malaise dans la civilisation, Éditions Payot & Rivages, coll. « Petite Biblio Payot Classiques », Le malaise dans la culture, GF-Flammarion が出版されている。同じ年に同じ原書の新訳が三つも出版されるというのは、あまり例のないことだと思う。それだけフランス読書界での本書に対する関心が高いということであろう。現代社会で私たちが感じている居心地の悪さについて考えるとき、本書の「悲観的な」文化・文明観が一つの重要な手掛かりを与えてくれるからでもあろう。
 しかし、タイトルの翻訳からして、独仏の文化・文明観には共約困難なものがあることを読み取ることができる。それに、フロイト自身が Kultur と Zivilisation について、十九世紀ドイツの知識人たちに広く共有されていた前者を優位に置く文化・文明観に対して批判的で、本書では、前者をほぼ中立的に用い、後者は一切使っていないということも忘れるわけにはいかない。
 フランスでは、十九世紀から civilisation に普遍的価値を見いだす思想(例えば、福沢諭吉も参照した François Guizot の Histoire générale de la civilisation en Europe, 1838)が普及する。そこでは、civilisation という概念はそのうちに「市民」(citoyen)を含み、進歩の観念と分かちがたく結びついている。したがって、Kultur を civilisation と訳すことには大いに問題がある。この点に自覚的なのは上掲三つの仏訳のうち、GF-Flammarion 版だけである。
 フロイトによれば、神々はその文化の理想を表現したものであり、1930年当時、人間はその理想の一部を自らの手で実現しつつある。かくして、人間は、言ってみれば、一種の「補助器具をつけた神」となった。その補助器官をまとえば、人間は確かに素晴らしいものになる。しかし、それらの器官は、人間とともに成長したわけではなく、人間にあれこれ厄介事を引き起こしもする。
 それら補助器官、未来において目覚ましく進歩するだろう。そして、人間はそれだけ神に近づくであろう。しかし、神に似ることで人間はそれだけ幸福だと感じているわけではないことを忘れてはならないとフロイトは言う。
 第一次世界大戦後のヨーロッパ社会の混乱や反ユダヤ主義の席捲、優秀な弟子たちの離反、自らの癌疾患など、フロイトを悲観主義に傾かせる要素はいくつもあった。しかし、今それらの要素は措いて、私たちが現に置かれている世界の状況の中でテキストそのものを虚心に読むとき、フロイトはあまりにも悲観主義的だとは私には言えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神の玩具として最も美しい遊びを遊ぶ ― プラトン『法律』より

2021-12-25 21:25:30 | 読游摘録

 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳 講談社学術文庫 2018年 原本 河出書房新社 1971年)の第一章「文化現象としての遊びの性格と意味」の「遊びの中の聖なる真面目さ」と題された節(節の見出しは原書にはなく、訳者による)にプラトンの『法律』(第七巻八〇三)からの引用がある。同じ箇所が最終章である第十二章「現代文化のもつ遊びの要素」の最終節「遊びの要素の不可欠性について」にも再び引用されている。『ホモ・ルーデンス』のいわばキー・ノートである。

人は真面目なことには真面目をもってしなければならないが、そうでないことにはそうしなくてよい。あらゆる自然の中で真面目に値するのは聖なる神だ。しかし、人間は神の玩具として作られている。そうなることが彼にとって本質的に最善のことなのだ。かくして、彼はその本性に従って、最も美しい遊びを遊びながら、今の生き方とは逆に、人生を生き抜いてゆかねばならない。

 手元にあるプラトンの研究書及び注釈書にざっと当たってみたが、『法律』のこの箇所に触れているものはなかった。ホイジンガはこの箇所についてこう注している。

人間精神は至高の存在に眼を向ける時にのみ、それによって遊びの魔術的支配圏から解放される。物事を論理的に考え抜くだけでは、とうていそこにまで達しえない。人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見いだす。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎだす限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。古くからの「すべては空なり」に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ「すべては遊びなり」がのし上がろうと構えている。これは安っぽい比喩で、ただ精神の無力を思わせるかのようだ。しかし、これこそプラトンが人間は神の玩具であると名づけた時に達しえた知恵なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


武士道の道徳の「遊戯精神」とは―ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』の「日本語版への序」より

2021-12-24 08:29:18 | 読游摘録

 武士道という言葉は意外なところに顔を出すので油断がならない。
 前田勉の『江戸の読書会』(平凡社ライブラリー)についてはこのブログでも数回取り上げているが、同書の中に、江戸時代に広く行われた会読の性質を説明するためにロジェ・カイヨワの『遊びと人間』からの引用がある。遊びの四分類の箇所である。
 この『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫 一九九〇年 初版 講談社 一九七一年)の原書 Les jeux et les hommes の初版は一九五八年刊行だが、一九六七年に増補改訂版が出版されており、邦訳はこの増補改訂版の全訳である。この邦訳には、著者のカイヨワが寄せた「日本版への序」(一九七〇年五月十二日記)が巻頭に掲げられている。
 その序の中に武士道(bushido)という言葉が出て来る。驚いたことに、日本文化の「遊戯精神との明白な血縁関係」を誇示している例の一つとして武士道の道徳が挙げられている。「遊戯精神」と訳された原語は何か、今確かめる手立てがない(原書には « esprit de jeu »という表現が十箇所ほど使われているが、いずれも「遊びの精神」と訳されている)。
 それにしても、その他の例―生け花、茶道、和歌、俳諧、凧揚げ、贈り物の交換、能、歌舞伎、弓道、禅問答など―については、それらの活動の中に広い意味での遊戯精神を認めることはそれほど意想外なことではないが、武士道の道徳と言われると、首を傾げてしまう。カイヨワは何を念頭に置いて、武士道の道徳に遊戯精神を認めたのであろうか。カイヨワの序の中にこの問いに対する答えのヒントがないわけではない。

遊びは文明の根源をなすものであり、芸術と修辞学、祭式、政治と戦争の規則(ルール)、これらはいずれも遊びの精神の性質をうけたものである。人間の行動は、人がそれを本能と混乱と野蛮な暴力とから解き放とうとするとき、はじめて人間の行動となるが、そのことを判定するたしかな基準とは、ほかならぬ遊びの精神―明るい興奮、誰しもが持たねばならぬ創意、任意の規則の自由意志にもとづく尊重、これら三つの要素のいり混じったもの―が存在しているかどうか、であるとさえいえる。

 カイヨワが具体的にどのような事例を念頭に置いていたのかはわからないが、日本の武士たちの戦場での戦い方には自ら定めたルールがあり、それを敵味方共に尊重し、そのルールに従った見事な振る舞いがあれば、それが敵によるものであれ賞賛を惜しまないという、『平家物語』に描かれているような武士を想像して、武士たちの戦場でのルールに遊戯精神を認めたのではないかと想像される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


武士道をめぐる解釈の葛藤 ― ありもしないものを語るときの恣意性への誘惑

2021-12-23 23:59:59 | 読游摘録

 武士道関連書籍は枚挙に暇がない。武士道に名を借りただけの胡散臭い日本精神・文化論は論外としても、二十一世紀に入ってから出版された武士道研究書及び一般読者向け解説書に話を限っても、それらに一通り眼を通すのは私のような素人には容易ではないし、そこまでするつもりもない。ごく限られた数の書籍を読んでの感想に過ぎないが、専門家による信頼できる良心的な著作がある一方、日本史研究者なのに結構いい加減なことを平気で書いてしまうものなのだなあと思わざるを得ない代物もある。
 その理由について少し考えてみた。もちろん理由は一つではないだろう。ただ、その主たる理由の一つは以下のようなことではないかと考えるに至った。
 ある特定の時代の武士の実際の生き方、及びその時代の一定の地域の同じ集団に帰属していた武士たちに共有されていたエートスが考察されるときには、同時代の史料に基づいてなされるのが一般的であるのに対して、武士道が語られるときには、それが特定の文献(例えば『葉隠』)に表現された思想を直接の考察対象としていない場合、多かれ少なかれ歴史的現実から離れた、あるいはそれを超越した理念化が伴い、それだけ語る者の解釈に恣意性が混入しやすいということである。
 思い切って言ってしまえば、武士道とは何かという問いに答えようとしている書籍を読んでいるときに私たちが直面しているのは、それぞれに意匠を凝らした解釈の間の葛藤であり、そもそも、これが武士道だと言えるような〈武士道そのもの〉は存在しないのではないか。ありもしないものについて語るのであるから、そこに語る者の恣意性がつきまとうのは避けがたい。「武士道」とは、そのような解釈の恣意性へのほとんど抗しがたい誘惑を覆い隠している仮面のようなものだとさえ言いたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メディア・リテラシー前期期末試験問題 ― デジタル・メディアの「再帰性」の中をいかに生きるか

2021-12-22 23:59:59 | 講義の余白から

 先週金曜日に公表したメディア・リテラシー前期期末試験の問題は、前期後半に読んできた石田英敬の『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書 2016年)からの出題。しかし、授業で読んだ章からではなく、授業では触れることもなかった最終章第6章「メディア再帰社会のために」の抜粋の読解を前提とした設問である。
 少々長いが、その抜粋を全部引用しよう。

 メディアがデジタル化すると、メディアは再帰化する。そのように書くと、何が何だか分からないと思われるかも知れませんので、この点を少し説明します。
 「再帰性」とは、このとき、内容や相手や状況に応じて、そのつどそれ自身のあり方を変化させて調整する、というほどの意味です。その元にある原理は、サイバネティクスの「フィードバック」という考え方です。

 デジタル・メデイアとは、そのつど関係性が自律的に生成する場であり、しかも無限の記憶の貯蔵庫であり、それゆえにむしろ、ユーザーの行動を予め決定してしまうプログラムであり、いつでもどこからでもヒトとモノを現前へと呼び出すことができる「プラットフォーム」となったのです。

 プラットフォーム化とはすなわち、読む人、見る人、使う人によって情報が刻々と変化していくということです。たとえばテレビは、チャンネル・時間によって内容が決まっている。新聞も、そこに掲載される内容は決まっている。
 ところがYouTubeやツィッターやフェイスブックやニコニコ動画などはメッセージ・フリーで、ユーザーのアクションによってメッセージが変化していく。ですから、ときに新聞、ときにラジオでテレビ、ときにミュージックビデオというように、そのつど変化するコミュニケーション基盤としてのITプラットフォームというわけで、現在ではそちらのほうへどんどん人びとが移動している。

 みんながどんどんそのプラットフォームを使っていくと、こんどは人間の生活そのものがアルゴリズム化していくということが起こります。先ほど、記号は必ず情報とセットになっていると言いました。記号は情報として処理されるため、記録が残っていく。そうすると情報は、人びとの記号生活の影(分身)のような存在となる。
 たとえばあなたがアマゾンで買い物をすればするほど、趣味や読書の傾向・考え方などがフロファイリングされていく。このことにより、アマゾンのプロフィールがあなたにどんどん近づいていく。つまりそこでは、あなたの輪郭がはっきりしてくるわけです。そうなれば、アマゾンでの買い物はますます便利になりますよね。あるサイトを使えば使うほど、それがあなたにフィットしていくわけですから。あるいはマイクロソフトのワープロソフトWordで文字を入力すると、あなたがよく使う言葉遣い・熟語をすぐに提示してくれる。Wordも使えば使うほどどんどん変換精度が上がっていきますから、あなたが文章を書くことをさらにサポートしてくれるようになる。つまりここでは、あなた自身の情報入力がアルゴリズム化・計算式化され、予想可能になっていくわけです。

 たとえば私たちは日頃、いろいろな人とメールをやりとりしている。そこでは注意力が奪われるので、少し疲れてしまう。あるいは、ネットサーフィンをずっとしていても疲れますよね。そこでは我々の注意力を奪おうとして、いろいろなものが割り込んでくる。マルチタスク・インターフェイスですので、メールが来たりニュースのアラートがかかったりする。テレビを見ている時、我々はチャンネルを変えることしかできない。しかしパソコンやスマートフォンでは、そういった情報がどんどん割り込んでくる。しかも自分もどんどんリンクして、ページを飛んでいく。マルチタスクに対応していると、知らず知らずのうちに注意力散漫になる。いつも、メールが来ていないかとか、新しいニュースがあるだろうかとか、いろいろなものが次々と割り込んでくる情報生活に慣れてしまうと、それがないとかえって落ち着かなくなって気もそぞろということになっていませんか。かくいう私もときにそんな自分に気がつきます。

 元が講義で話し言葉の調子が保たれており、構文も比較的単純、語彙レベルも高くなく、内容的にも学生たちが日頃実感していることでもあるから、テキストの理解に困難を覚えることはないだろう。
 問題として与えたのは、私たちがその中で生きている現代の情報消費社会の中で、デジタル・メディアの再帰性に一個人としてどのように向き合っていくべきか、という問いである。つまり、テキストの読解を前提として、自分自身の自己同一性の問題としてデジタル・メディアの再帰性について考えてみよ、と問うているわけである。