内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

簡潔に問題の核心を突く見事な日本語が書ける学部三年生

2020-03-29 08:31:28 | 講義の余白から

 「わかる」と「理解する」との違いはどこにありますか。これが宿題として出した課題でした。昨日が締切り。提出者は27名。
 その中で、私が録音講義で説明したことをもっとも正確に把握していたのは、いつも真っ先に宿題を提出してくれる学生でした。その文章は実に立派なもので、全文掲載に値するのですが、かなり長い文章なので、ここにそれに対する称賛の言葉を残すことで掲載に代えさせていただきます。というは、その一部だけ引用してもその文章のよさをうまく伝えることができないからです。つまり、論述の展開の仕方が見事なのです。
 その他、文章そのものは掲載しませんが、面白い観点を提出している例をいくつか挙げておきましょう。村上春樹の英訳者の「People don’t わかる things, things do わかる : they are understandable」」という見解を引用して論を展開しているもの、人類学的な観点から第三の比較項として「共感」を導入したもの、免疫システムを「わかる」に比定したもの、「サッカーの一流選手はボールの扱い方がよくわかっているとは言えても、その人が球体の力学を理解しているとは言えない」という文を考察の軸に据えたもの、子供のころからずっと話しているアルザス語が「わかっている」状態から、それを人に教える経験を通じて「理解する」過程に移行し、その経験がより深く「わかる」ことをもたらしたという自分自身の経験を語ったもの、「わかる」と「理解する」の違いが日本社会の「内」と「外」との違いに対応していることを指摘したものなどがありました。
 さて、本人から掲載許可が得られた文章の半分ほどを掲載しましょう。カットの理由は二つあります。一つは、その部分には、残念ながら、ちょっと文に乱れがあり、それをそのまま掲載するのはご本人に失礼だし、私が添削したものを掲載してもあまり意味がないということです。もう一つは、その部分には、先週の宿題「日記と自伝の違いは何か」の解答を前提として書かれているところがあるので、それを読んでいないとわかりにくいところがあるということです。
 まずタイトルが他の学生と違います。他のほとんどすべての学生は、宿題の課題そのままかほぼそのままをタイトルとしていたのですが、この学生はタイトルを「心と頭」としたのです。これだけで、この文章は問題の核心を突いているだろうと期待できます。では、読んでみましょう。

 一言でいうと、「わかる」とは物事とその具体性を直観的に認識することです。それに対して、「理解する」とは物事のメカニズム、あるいはその抽象性を論理的に認識することです。したがって「わかる」と「理解する」の二つの深い意味は、一見したところで近いようでも、実際にむしろ逆の意味合いを含みます。つまり生得と習得、無意識と意識、感覚と実証などという概念に繋がっています。
 また「理解する」の場合には、「が」という助詞の代わりに「を」という助詞を使用するのが、ある物事を制御できるように、その物事の構造を認識する必要性を示しています。一方、精神的な観点から見れば、「わかると理解する」は「心と頭」というアナロジーも呼び起こすでしょう。

 ここまででわずか310字です。長さの制約として400から600字としてあり、その制約の中でこれだけ簡潔かつ的確に問題の核心を突いているのが素晴らしい。一字の直しも入っていません。そして、カットした部分のあと、最後の一文はこうなっています。

サルトルが発言したように、「実存(わかる)は本質(理解する)に先立つ」かもしれません。

 これ、念のために申し上げますが、日本人が書いたのではありませんよ。日本学科学部三年生が書いたのです。このテーゼが正しいかどうか、ここでサルトルを引用するのは妥当かどうかがここでの問題ではありません。これだけ簡潔に(おそらく何度も推敲したのでしょう)人に考えさせる力をもった文が書けるというところを私は特に高く評価しているのです。
 この記事を読んでくれている方たちの中には、私の明日の日本語の講義を受講している学生たちもいるから、君たちに予告しておきます。
 明日の課題はもっと難しいから覚悟しておきなさい。