内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ロンサールとモンテーニュを決定的に分かつもの

2023-05-31 05:47:56 | 読游摘録

 『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』の「Ⅵ 世界、この私を映す鏡」のなかでロンサールとモンテーニュを比較している一節が特に私の注意を引いた。
 まず、事物の世界と関わりにおいて両者に共通する点を次のように保苅氏は指摘している。

ロンサールとともに、かれはなかば事物の世界に棲んでいて、世界と自分の対立という余計な問題に悩まされずに、親しく外界と交渉しながら生きることができた、おそらく最後の人間だったであろう。(207頁)

 しかし、ロンサールの詩の世界が、モンテーニュのそれとは根本的に異なる自我の意識の上に成り立っていることに氏は気づく。

これはロンサールの詩を読んでいて感じることであるが、かれの自我の意識は、かれ以外の存在や外界のなかに散乱していて、はっきりと限られた自我の領域を持っていない。かれの自我は、自我の外にあるものと明確な境界をもたず、その透明な意識のなかに外部のすべてが偏在しているような印象を受ける。(210頁)

 そして、カッサンドルへの恋愛詩から、絶唱といっていい十四行詩を引用する。その詩について、「春の野原も、恋人の姿も、無垢なまま、かれの詩的想像のなかへ直接に入って来る。目の前に広がる春の景色に、失った恋人のまぼろしを見て心が乱れる詩人の想いにしても、それがロンサールのものでなければならないという感じがしない」(211‐212頁)。この非人称性が、ボードレールやヴェルレーヌなどの近代恋愛詩とロンサールの恋愛詩とを截然と分かつ指標である。
 また、「ロンサールの世界には、草木が茂り、動物が棲み、恋人が花を摘む自然がある一方で、天界までがその詩の世界に属していて、神々をはじめ、天使も、妖精も、ダイモンも、それぞれ住むべき場所を与えられていた。天と地が文字どおり、かれの感覚と想像力を介して、詩の舞台をなし、また天と地そのものが詩の主役になって、万物と万象が詩のなかに生動する」(212頁)。
 ロンサールは、「天界と自然界と人間界が時空を共有して生きているルネサンス的な宇宙を描くことで、壮大な相互関連の世界を詩のなかに出現させることに成功している」(213頁)。「それが可能だったのは、かれの自我がその限られた個人の枠を持たないか、あるいは極端にいって不在であるためであって、こうした自我のありさまは、近代人の個人主義の立場からはほとんど想像を超えるものがある」(同頁)。
 モンテーニュは、ロンサールの詩を讃えつつも、このような非人称的な詩の世界を共有することはなく、またそれに憧れることもなかった。「ここといまとからなる自我の現在のなかで、モンテーニュはかれがいう「もっとも美しい生活」を築くことに向かうだろう。その生活は、[…]「自分の存在を誠実に享受する」ことにあると言っていい。そして、この存在を享受する試みのなかでは、もはや宇宙も、超越的な彼岸も係わって来ない」(208頁)。
 このように、自然・世界・宇宙との関わり方において十六世紀の同時代人であった二人の間に見られる決定的な違いが鮮やかに浮き彫りにされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「今日からすぐに、命の薔薇を摘みなさい」― モンテーニュと同時代の詩人ロンサール

2023-05-30 12:10:43 | 読游摘録

 「マイ・モンテーニュ月間」も今日明日の二日で終了する。
 モンテーニュ『エセー』読解のために書かれた画期的な一書(昨年六月刊)の書評の依頼を三月に受け、その締め切りが今月末、つまり明日なのだが、昨日それを書き終え、今日明日と推敲してから依頼者に送信する。この書評執筆が「マイ・モンテーニュ月間」の「開催」理由だった。
 若い頃から『エセー』は折に触れて読んではきたが、この書評の依頼を受けて以後ほど集中的に読んだことはなかった。そのような機会を恵まれたことをありがたく思う。それを与えてくださった方々に感謝している。そして、なによりも、その書評の対象である一書の著者に心からの感謝を捧げたい。
 この書評のために『エセー』本文に親しく接することができただけでも、豊穣な読書の時間を享受することができたが、その傍らで多くのモンテーニュ論に出会うことができたことも、小さくはない「余得」であった。それらは主にフランス語の研究書やエッセイだが、すでにこのブログでもたびたび言及した保苅瑞穂氏の二つのモンテーニュ論をじっくりと読む機会を得たことも大きな喜びであった。
 モンテーニュの人と思想について教えられること数多であったばかりでなく、その美しい日本語を堪能できたことはそれだけ読書の愉楽を大きくし、さらに、氏が親しんできた他の作家・詩人たちからの自在な引用とそれをめぐる学識には度々目を開かれる思いがした。それはまるで予期していなかった素敵な贈り物を受け取ったような歓喜を私にもたらした。
 その贈り物の一つがロンサールの詩である。『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』の「学術文庫版あとがき」に著者が記していることだが、長年の大学勤めの先が見えてきたときに、「一筋にフランス文学を勉強してきた人間としてやっておきたい、やっておかねばならないと思ったことがあった」。それは、「もういちど気持ちを学生の頃にもどしてフランス文学をルネサンスから読み直すことであった」。それはまた、「フランスの文学や芸術にこころざしをいだく異国の若者たちを迎え入れて彼らに支援を惜しまないフランスという国へのせめてもの恩返しになる」という思いも伴っていた。
 そこで著者がまず読んだのがロンサールであった。「そこには近代詩とはまったくちがうルネサンスの豊かな詩の世界があってわたしを魅了し圧倒した」という。そこからいくつかの論文も生まれ、その成果が『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』にもふんだんに取り入れられている。
 ロンサールはモンテーニュより九歳年上で、七年早く一五八五年に亡くなっている。ふたりはまさに同時代人だったわけである。「モンテーニュと同じく旧教徒として宗教内乱に巻き込まれて、苦しみながら紛争を鎮めるために力を尽くした詩人だった」(65頁)。モンテーニュはロンサールを「古代の完璧さからそう離れているとは思わない」と高く評価している。
 しかし、両者は同じような世界観・自然観・宇宙観を共有していたわけではない。両者の思想を比べるときに際立つのはむしろ両者の特質の違いである。モンテーニュは、「ロンサールからも遠く離れた地点に立っている。かれは人間を等身大に引き戻す。われわれがそこに見出すのは、ルクレティウスが『事物の本性について』の根底に置いていた唯物的な現実認識に近い人間の認識だと見ていいだろう」(201頁)。
 この点については明日の記事で引き続き保苅氏の考察を辿ることにして、モンテーニュもおそらく共感したであろうロンサールの詩句(保刈書281頁に引用されている)によって今日の記事を閉じることにする。

Vivez, si m’en croyez, n’attendez à demain :
Cueillez dés aujourd’huy les roses de la vie.

生きなさい、私を信じるならば、明日を待たずに
今日からすぐに、命の薔薇を摘みなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モンテーニュの文章を「麹」として醸造されたパスカルの超辛口白ワインをあなたに

2023-05-29 03:43:30 | 哲学

 モンテーニュの『エセー』とパスカルの『パンセ』との文章としての味わいの違いを、独断と偏見に基づいて、不謹慎・不適切・無知蒙昧を百も承知のうえで、ワインに喩えて言ってみましょう。
 モンテーニュの文章の味わいは、ちょっと、否、かなり、複雑で、芳醇と言えばもちろんそうなのですが、その性格はというと、ミレジム(millésime 収穫年度)によってかなり異なります。まあ、でも、御本人が生まれ育った地方のワインであるボルドーの赤の味わいに対応しているとは言えるのかな。どんな料理と合わせるか、楽しみな味であるとも言えます。
 それに対して、パスカルの文章は、とことん磨き上げられた超辛口白ワインで、それ自体を味わうことを求めてきます。でも、そう何杯も続けて飲めない。というか、酔えない。いや、そもそもワインに喩えたのが間違いだったかも知れない。だって、一杯飲んだだけで、自分が置かれている「悲惨な」現実がびっくりするくらいくっきりと見えてきて、いっぺんに酔いが醒めてしまうのですから。
 一昨日、昨日の記事で引用したモンテーニュの『エセー』の箇所を「麹」としてパスカルが「醸造」した次の文章を読んでみればそれがわかると思います。
 なにはともあれ、さあ、極上の辛口を一杯、どうぞ。

 われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃しているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
 おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光を得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたないわけである。
           パスカル『パンセ』ブランシュビック版一七二;ラフュマ版四七、前田陽一・由木康訳、中公文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自然の傾向性を「あやまり」と呼ぶならばの話だが

2023-05-28 09:57:01 | 哲学

 『エセー』には、昨日記事で取り上げた箇所以外にも、過去・現在・未来についての考察が述べられている箇所がある。例えば、第一巻第三章「われわれの情念は、われわれの先へと運ばれていく」の冒頭である。この冒頭は一五八八年刊行の三巻本での増補とそれ以降の手書きの加筆からなっており、そこに見られる微妙な変化が興味深い。
 ちなみに、全文でも実質五頁ほどの短い文章だが、版ごとの変化が大きいことで諸家の注意を引いている章でもある。
 冒頭部に見られる加筆の跡がわかるように、宮下志朗訳を少し改変して引用する。

人間はいつだって先のことばかり追い求めているではないかと批判して、未来のことは思い通りにならないのだし、過ぎ去ったことよりも、つかみどころがないのだから、現在の幸福をしっかりつかんで、そこに腰をすえなくてはいけないと教える人々がいるけれど、彼らは人間のあやまちのうちでもっともありふれたものに触れているのだ。まあそれは、自然そのものが、その仕事を続けていくのに役立つようにと、そうした道をわれわれに進ませることを、あえてあやまりと呼ぶというならばの話だが。

 未来への配慮に囚われて現在の幸福を摑み損なっている人たちに対する批判に、モンテーニュは単純に同意しているわけではない。自然がそれ自身のために私たちにそうするように仕向けている自然の傾向性を「あやまり」と呼ぶとすればの話だがと留保を付している。
 そして、この文に末尾に、(自然そのものが)「知識(science)よりも行動(action)のほうに執着するという、このまちがった考え方(cette imagination fausse)を、その他同類のものとともに、われわれに刻み込むことによって」(われわれにそうした道を進ませる)と、手書きで加筆されている。
 この辺の微妙な変化が、執筆時期を区別することなく一体の本文として訳している宮下訳では見えなくなってしまっている。この手書きの加筆からまた一五八八年版で増補された部分に戻る。

われわれは自分のところになど絶対におさまってはいないで、いつでもその先に出ていくのだ。恐怖、欲望、希望といったものが、われわれを未来へと投げ出して、現在のことについての感覚や考察を奪いさり、やがてそうなるであろうこと、それどころか、われわれがもはやいない先のことにまでかかずらわせる。

 そして、このあとに手書きで、「未来を思いわずらう心は不幸なり」というセネカの『書簡集』から引用が付加される。
 自然の傾向性に引きずられることを単純に肯定することはできないが、かといって、自然に抗って「正しく」生きることで問題が解決するわけでもない。私たちはそうはできていないのだから。恐怖、欲望、希望などによって、私たちを今ここにいる私たちから未来へと追いたててやまない自然に対して、知識でそれに対抗することは無理なのだとすれば、いったいどう向き合ったらよいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「希望の奴隷」にならずに今を生きることの難しさ

2023-05-27 21:51:09 | 哲学

 日本語で「時を通り抜ける」とか「時を走り抜ける」とか言うと、「時をかける少女」のことが思い合わされ、どちらかというと積極的なアクションのイメージをもたれる方もいらっしゃるかも知れない。
 『エセー』で « passer le temps » という表現でモンテーニュが言わんとしていることは、もちろんそれとはまったく別のことだ。生きて享受するためにあるはずの現在から目を逸して生きていること、それが「時を通り抜ける」ことだ。

私は、運命や自分自身の誤りによって押し流され、嵐のように翻弄されている人々や、自分の幸運を無気力に、無関心に受け取っている、もっと私の身近にいる人々のことを、さまざまに思い描いてみる。かれらこそは本当に自分の時間を通り抜ける者たちなのだ。かれらは現在と、現にいま所有しているものを飛び越えて、希望の奴隷になり、想像が眼の前にちらつかせる影や空しい幻影を追っている。(『エセー』第三巻第十三章「経験について」)

 恵まれた今に心を集中し、それを味わい、よりよく生きようとするかわりに、未来を当て込み、未来に「投資」し、今ここにはないものに希望を託し、未来の「安心」を買い、そうすることによって現在をみすみす「通り抜け」てしまう。そのことに気づいたとき、もうそこにその「今」はない。
 一方、先の見えない不安な時代、未来に希望を託さず、現実から目を逸し、とにかくこの瞬間を楽しもうとする人たちもいる。しかし、それもまた、時を通り抜けてしまうという点で、「希望の奴隷」たちと同じなのだ。未来に希望を託し、その奴隷になりたくないからと、けっして捉えられない刹那の奴隷になってしまっていることに本人が気づいていないだけの話なのだ。
 そんな人たちのことを自分はそれとは違うよと私は嘲笑っているのではない。それどころか、これは私自身の切実な問題なのだ。
 無償で恵まれた今を感謝しつつ十全に生きること、なぜかくもそれは難しいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


時を過ごさず、時を味わうために

2023-05-26 10:02:32 | 哲学

 保苅瑞穂氏には、『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫、2015年。原本、筑摩書房、2003年)、『モンテーニュの書斎 『エセー』を読む』(講談社、2017年)という二つのモンテーニュ論があり、このブログでもたびたび言及・引用してきた。両者には重複するテーマもあり、ほぼ同じ記述が見られる箇所もあるが、いずれかでしか取り上げていないテーマももちろんあり、どちらも味わい深い名著であると思う。
 両書に取り上げられているテーマの一つに、モンテーニュが « passer le temps » という表現に独自の意味を与えているという話がある。前著でより詳しく論じられており、よりいっそう興味深い。
 この表現は今日でもごくありふれた表現で、「時間を過ごす」「時間を潰す」の意で使われる。ところが、モンテーニュはそれを承知の上で、「時を駆け抜ける」「時を通り抜ける」という独自の意味を与えている。その箇所を同書の保苅訳で引用しよう。

私はまったく自分だけの辞書を持っている。私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける je passe le temps。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れ、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない。(258頁)

J’ai un dictionnaire tout à part moi : je passe le temps, quand il est mauvais et incommode ; quand il est bon, je ne le veux pas passer, je le retâte, je m’y tiens. Il faut courir le mauvais, et se rasseoir au bon.

 興味深いのは、保苅氏が retâter という動詞を「何度も手で触れ、味わい」と訳していることである。現代の用法としては、他動詞として使う場合「再び手を触れる」という意味で、「何度も」という含意は必ずしもない。それに、「味わう」という意味で使うときには間接他動詞となり、前置詞 de を伴って「再び味わう」の意になり、この前置詞の後にその味わう対象が置かれる。この二つの意味を織り込 むことによって相当にアクセントをつけて保苅氏はこの動詞を訳している。ちなみに、同箇所、関根秀雄訳は「いつまでもそれを味わい」と保苅訳に近く、宮下志朗訳は「もう一度さわって」とあっさり訳している。
 訳の適否をここで論いたいのではない。この文脈で passer という動詞が「(できるだけ)対象に触れずにそれを通り抜ける」あるいは「その傍らを通り抜ける」という意で使われており、時に対する態度としてそれを信条とする「賢明な方々」に対してモンテーニュが異を唱え、次のように述べている箇所が保苅訳だとより際立ってくることに注目したい。

しかし私は、人生がそういうものではないことを承知しているし、いま私がそれを摑んでいる最後の老境のときにあってさえ、価値がある、快適なものだと思っている〔…〕人生を楽しむには、その切り盛りの仕方というものがあって、私は人の二倍は楽しんでいる。なぜなら楽しみの程度はそれにどれくらい身を入れるかに掛かっているからだ。とりわけ自分の人生の時間がこんなに短いことに気づいているいまは、それを重みの点で引き伸ばしたいと思っている。人生が逃げ去る素早さを、私がそれを摑む素早さで引き止め、人生の流れ去る慌ただしさを、人生を生きるたくましさで補いたいと思っている。生命の所有がますます短くなるにつれて、それだけ私はその所有をいっそう深い、いっそう充実したものにしなければならないのだ。(258‐259頁)

 この一節は、保苅氏も指摘しているように、残り短くなった命への執着を語っているのではない。恵まれた時を「過ごす」(通り抜ける)のではなく、それを「味わう」ための「切り盛り」(du ménage)あるいは工夫について語っている。Pochothèque 版には、« Il y a du ménage à la jouir » という一文に « il faut une sage administration pour en jouir. »(「それ[=人生]を味わうには賢い手配が必要だ」)という脚注が付いている。このような人生への態度は、保苅氏によれば、「生命に対する天性の意志」であり、「この意志は、すべての人間が生きものの本能として備えているはずのもの」である。ところが、この意志が「屈折することなく働いた例」はごく一部の例外を除いて、フランスの歴史に必ずしも多いとは言えない。
 フランスに限った話ではない。他人事でもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モンテーニュは『エセー』で consubstantiel という言葉をどのような意味で使っているか

2023-05-25 11:36:22 | 哲学

 キリスト教神学において、聖餐の秘跡に関して、実体共存(consubstantiation)と実体変化(transsubstantiation)という相対立する教義がある。前者は、聖餐においてキリストの体と血がパンとぶどう酒と共存すると考える。この考えはルター派によって支持されている。後者は、聖体の秘跡においてパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わると考える。カトリックの公式教義である。
 実体共存説は実体変化の教義に反対するものとしてルター派によって主張されたのがその始まりであるが、形容詞 consubstantiel はカトリックにおいて別の意味で使われていた。「同じ実体に属する」あるいは「同じ実体をなす」あるいは「実体において一つである」という意味である。父と子と聖霊の関係を表すときに使われる。例えば « Le Fils est consubstantiel au Père. » と言えば、「主キリストは父なる神と同じ実体である」ということを意味する。あるいは、主キリストと人間の関係について使われることもある。
 このキリスト神学用語がその神学的原義を離れ、「実体において同じである」という意味で使われ始めるのがモンテーニュの時代だった。実際、『エセー』のなかでこの語は非宗教化された意味で数回使われている。例えば、第三巻第十三章「経験について」のなかに « les biens et les maux, qui sont consubstantiels à notre vie » という表現がある。「私たちの人生の実質をなす善と悪」ということである。
 今日、非宗教的あるいは世俗的な意味でこの形容詞を使う場合、「不可分である」とか「共存する」という、原義からすればやや弱められた意味で使われる。しかし、モンテーニュ自身は神学的原義を承知の上で非宗教的な文脈において「実体として一つ」という意味で使っていた。特に第二巻第十八章「嘘について」の中の次の有名な箇所はそう読まなくてはならない。

Je n’ai pas plus fait mon livre, que mon livre m’a fait. Livre consubstantiel à son auteur.

わたしがこの本を作ったのではない。むしろこの本がわたしをつくったので、それはその著者と本質を同じくする書物……。(関根秀雄訳)

わたしがこの書物を作ったというよりも、むしろ、この書物がわたしを作ったのである。これはその著者と実体を同じくする書物……。(宮下志朗訳)

 手元にある四つの現代フランス語訳のうち三つはそのままこの形容詞を残しているが、一つだけ inséparable に置き換えている。誤訳だとは言わないまでも、誤解を招きかねない無用な置き換えだと思う。なぜなら、私と書物とがそれぞれに存在していて不可分だという意味に取られてしまいかねないからである。モンテーニュは、単に両者が不可分だと言いたいのではなく、実体において一つだというもっと強い意味で consubstantiel という形容詞を使っている。
 この点に関して、保苅瑞穂が『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社文芸文庫)のなかで引用しているフーゴー・フリードリッヒの次の指摘が参考になる。

Sa forme ouverte est l’équivalent littéraire de ce qu’il y a d’illimité dans la substance du monde et de la vie, dans l’expérience intime de l’auteur. Il est comme un vêtement étroitement ajusté qui épouserait la respiration calme ou précipités de l’esprit. […] Il permet de modifier les perspectives pendant la rédaction même et de placer toutes choses dans un éclairage changeant, aucun n’étant jamais définitif. (Hugo Friedrich, Montaigne, traduit de l’allemand par Robert Rovini, Paris, Gallimard, coll. « tel », 1968, p. 362-363)

この本の開かれた形式というのは、世界と生命の実体や著者の内的な経験のなかにある無限なものと、文学的にいって等価なのである。これは精神の穏やかな、あるいは激しい息遣いと一体になった、体にぴったり合った着物のようなものである。〔…〕そのおかげで著者はこれを書いている間も視点を変えて、変化する照明のもとに一切を置くことができるのだが、どの照明も決して最終的なものではないのである。(保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』、381頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たちが生きる場所としての médiocrité

2023-05-24 23:59:59 | 哲学

 ある言葉の意味が変遷し、もともとは価値中立的だった言葉が否定的な意味でのみ使われるようになることがある。
 フランス語に médiocre という形容詞がある。今日では、「凡庸な、ありきたりの、無能な」「平均以下の、並以下の」など、否定的な意味でしか使われない。学生の成績について使われるときは、合格点以下の悪い成績を意味する。名詞 médiocrité についても同様で、褒め言葉としてはけっして使わない。
 ところが、これらの語の元である中世ラテン語 mediocris にも mediocritas にもそのような否定的な意味はなく、「(大きさや質において)中間の、ごく普通の、ほどほどの」ということを意味し、上掲のフランス語ももともとは価値中立的、場合によっては褒め言葉にさえなった。上の二つのラテン語は medius からの派生語で、この語は「真ん中にあるもの」の意である。
 モンテーニュの『エセー』には、今日と同じように「平凡な、凡庸な」という否定的な意味で médiocre が使われている場合も数カ所あるが、そうとは言えない箇所が一つだけある。それは第三巻第二章「後悔について」の中にある。アレクサンドロス大王とソクラテスを比較している箇所である。

Et la vertu d’Alexandre me semble présenter assez moins de vigueur en son théâtre, que ne fait celle de Socrate, en cette exercitation basse et obscure. Je conçois aisément Socrate, en la place d’Alexandre ; Alexandre en celle de Socrate, je ne puis : Qui demandera à celui-là, ce qu’il sait faire, il répondra, Subjuguer le monde : qui le demandera à cettui-ci, il dira, Mener l’humaine vie conformément à sa naturelle condition : science bien plus générale, plus pesante et plus légitime. Le prix de l’âme ne consiste pas à aller haut, mais ordonnément. Sa grandeur ne s’exerce pas en la grandeur ; c’est en la médiocrité.

 この引用の最後の一文の日本語訳を比較してみよう。「魂の偉大さは、高い場所ではなしに、むしろ月並みさのなかで発揮される」(宮下志朗訳)、「偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見いだされる」(関根秀雄訳、国書刊行会版)、「魂の偉大さは、偉大さのなかにでなく、平凡さのなかに発揮される」(保苅瑞穂訳、『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』講談社学術文庫、2015年。原本『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』筑摩書房、2003年)。
 いずれの訳を読んでも、médiocrité 自体を道徳的価値として称揚しているわけではないことがわかる。どこで魂の偉大さはもっともよく見いだされるのか、という問いに対して、それは、ソクラテスのように、慎ましく人目につかない日々の行いにおいて、人間の生活をその自然な条件にしたがって導くことの中に見いだされる、とモンテーニュは答えている。そのほうがはるかに普遍的で、いっそう骨が折れ、いっそう正当な学問なのだと言うのである。
 保苅氏は『モンテーニュの書斎』(講談社、2017年)でも同箇所を引用しているが、「平凡さ」を「中庸」に置き換えている。「中庸」は、しかし、それ自体が道徳的価値の一つである。モンテーニュは médiocrité を礼賛しているのであろうか。そうではないと思う。ごく普通の、なんら特筆に値しない、日々の暮らしのなかにいつでも起こりうる種々の事柄において、人間の生活をその与えられた自然な条件にしたがって導いていくことのほうが、より多くの注意と勇気と持続する意志を必要とするのであり、それを日々実践できることにこそ魂の偉大さがあると言っているのだと思う。
 私たちが本来生きる場所。それが médiocrité なのだと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コクのある、いい文章に出会う。さあ、皆さんもどうぞご一献

2023-05-23 22:06:37 | 読游摘録

 安ワインしか飲まない。別にそう決めているわけではない。経済的事情からそうせざるを得ない。ざっと計算して、年間二百五十リットルはワインを飲んでいる。それを二十数年続けているから、少なく見積もっても、総計五千リットルには優に達している。自慢ではない。無駄だったとも思わないが、もちろん必要だったわけでもない。
 飲みすぎて失敗したこともなくはない。いや、少なからずあった、と正直に言おう。でも、まあ、飲めば楽しかったことのほうが圧倒的に多かった。ちょっと恥ずかしい失敗をしたからといって、金輪際酒など止めてしまおうなどと短絡的で思慮に欠けた決定をしなかったことは我ながら褒めてよいかもしれない。
 安ワインでも不味いわけではない。少なくとも、肥えていない私の舌にはそれなりに美味しいワインは日本円にして数百円でいくらでもある。ただ、安さは危険である。つい酒の旨さのありがたみをないがしろにしてしまいがちだ。酒を味わうこともせず、ただ酔うために飲むのは、そもそも酒に対して失礼だ。それに、言うまでもなく、飲み過ぎは体に良くない。
 「旨い」文章にはその懸念がない。いくらでも、何度でも、読めばいい。読みすぎて体を悪くすることはない。実際、長年、そうやって文章を味わってきた。
 今日もまた、そんな極上の文章に出会えた。それだけで今日は佳日だった。それに、酒と違って、同じ場所に居なくても、電子媒体を介してその文章を皆さんと分かちあえる。
 さあ、どうぞ、ご一献。

わたしは本を読むのが遅い。それでずいぶん損をしているかもしれないが、この年になればいつも勉強や仕事のために本を読んでいるわけではないから、読める本が二倍になっても別にありがたいとは思わない。だからどこまでも我流で読む。読みたいと思う本は、活字を目で押さえるようにして読む。というよりも、むしろ本がそういう読み方をわたしにさせるのである。いい酒が呑み方を教えるようなものであって、旨いから欲張ってもっと呑もうとしても酒がそうはさせない。旨ければ旨いほど酒というものは、まるで味を愉しめといわんばかりに呑み手の手を止めさせて、じっくり呑むように誘ってくれる。本も、コクのある、いい文章に出会うと、読みながら立ち止まって、いま読んだ数行を読み返すことがある。文章の味わいをもう一度味わって、言葉のどこにあの味わいがあるかを知りたいと思うからだ。いうまでもないが、文章の味わいというのはそれを書いた人間の味でもある。

保苅瑞穂『モンテーニュの書斎』(講談社、290頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「わたしは踊るときは踊るし、眠るときは眠る」― 『エセー』第三巻第十三章「経験について」より

2023-05-22 13:41:17 | 読游摘録

 昨日あたりからようやく初夏らしい天気がやって来てくれた。それまではジョギング・ウエア上下も冬場と変わらずほとんど長袖とタイツで、朝方まだ寒い時間帯に走るときなどは、さらにジャケットを着ていた。それがようやく半袖・ショートパンツで走れるようになった。耳が冷えないようにと頭に被っていた毛糸のボネも必要なくなり、強い日差しを避けるキャップや汗が目に流れ込まないようにするヘアバンドがそれに取って代わった。身が引き締まる寒さの中を走るのも、それはそれで気持ちがいい。が、太陽の暖かみを肌に感じ、爽やかな風の中、流れる汗をハンドタオルで拭きながら走るのは、やはり格別な気持ちよさを恵んでくれる。
 モンテーニュの『エセー』を論じる諸家がこぞって引用する第三巻第十三章「経験について」の次の美しい一節がふと思い合わされた。

Quand je danse, je danse : quand je dors, je dors. Voire, et quand je me promène solitairement en un beau verger, si mes pensées se sont entretenues des occurrences étrangères quelque partie du temps : quelque autre partie, je les ramène à la promenade, au verger, à la douceur de cette solitude, et à moi. Nature a maternellement respecté cela, que les actions qu’elle nous a enjointes pour notre besoin, nous fussent aussi voluptueuses. Et nous y convie, non seulement par la raison, mais aussi par l’appétit : c’est injustice de corrompre ses règles.

わたしは踊るときは踊るし、眠るときは眠る。いや、ひとりで美しい果樹園なんかを散策しているときだって、ふと上の空になって、別のことに気をとられたりする時間もあるけれど、それ以外は、わが思考を、この散策に、果樹園に、ひとりでいることの幸福に、そしてわたし自身に連れもどしている。自然は、われわれに必要だとして、さまざまな行為を命じると、それが快楽にみちたものであるようにと、まるで母親のように、しっかり見守ってくれている。そして、理性だけではなく、欲望によって、われわれをそうした行為へのいざなうのであるから、こうした自然の定めにそむくのはまちがっている。(宮下志朗訳)