内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「砂漠に住まう者」の徒然なる読書日記のはしがきにかえて

2017-01-31 22:30:41 | 読游摘録

 最近の拙ブログの記事は、その内容も写真もまったくお座なりで、継続性も計画性も一貫性もありません。そのことは記事を書き写真を撮っている本人もよく自覚しているところです。
 何を書こうが、何を撮ろうが、そして何を記事としてアップしようが、人様に迷惑をかけないかぎり、本人の勝手じゃねえか、と開き直ればいいではないかと仰る方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私はそうは思えないのです。時に戯文を書くのはありとしても、まるで無内容な文章は書きたくない、そんなことをするくらいならブログはやめる、というくらいの「覚悟」はもって、毎日記事を書いているのです。
 写真については、ど素人ということもあり、あくまでブログのアクセサリのつもりなのですが(でも、こちらの方がウケがよかったりするんですよね。記事はぜ~んぜんわからないから読まないけど、写真は見ているよぉ、けっこういけてるときもあるよぉ、なんて励ましてくれる方もいらっしゃるのです。それに対して、「ほんとにありがとうございますぅ」と謝しつつ、後で独り溜息をついたりしています)、それにしても最近は写真を撮る意欲をほとんど失いかけています。正直に申し上げますが、ここのところの寒さに負けて、とても外に写真を撮りに出かける気にならない日が一月中は続きました。昨日あたりから寒さが緩んできたのですが、そうしたら雨なんですよ。それで、出鼻をくじかれちゃったんですね、ただそれだけことで。
 それはさておき、仕事柄と趣味との両方の理由で、書物は性懲りもなくよく買うし、買ったら必ずすぐに内容をざっと把握できる程度には流し読みするのが習慣です。それらの本の中には、このブログで紹介したいなあとかねがね思っている本も少なくないのです。日本語の本やすでに邦訳が出ている仏語の本については、何も私ごときが紹介するには及ばない場合がほとんどですが、ここ十年くらいの間に出版された仏語の本の中には、私の狭い読書範囲の中でも、話題にしたいと思う本もかなり出ているのです。
 と、なにやら前置きが長くなりましたが、そして、話を引っ張るだけ引っ張っておきながら今日の記事には「オチ」がないのですが(大阪人には許されませんね。東京生まれでよかったぁ)、明日から、少しだけですが、比較的最近購入した新刊で書棚に並べただけになっている本を紹介していきたいと思います。
 ヨーロッパの片隅に青息吐息で生息する極東出身の「隠者」の徒然なる読書日記、とでもしておきましょうか。因みに、「隠者」に対応するフランス語は « ermite » です。この仏語は原始キリスト教時代のギリシア語 « erêmitês » に由来し、その意味は「砂漠に住まう(宗教)者」ということです。













もう一つの近代の超克 ―「国語」の「主体」とその運命 ―

2017-01-30 23:59:59 | 哲学

 この週末は、三月下旬にストラスブール大学と CEEJA とで三日間に渡って開催される学会での発表要旨作成に費やした。先程その発表要旨を学会運営責任者の同僚に送ったところである。学会のテーマは、両大戦間の日本社会の「近代」再考。学会での発表言語は、英仏日のいずれかで、私は仏語で発表することにした。発表原稿を基とした論文集が仏語で出版されることが決まっており、それなら最初から仏語で原稿を準備するのが最も手っ取り早いからである。
 発表のタイトルは、「もう一つの近代の超克 ―「国語」の「主体」とその運命 ―」とした。「近代の超克」座談会に参加した西谷啓治や「世界史的立場と日本」座談会に参加した高坂正顕や高山岩男などによって当時盛んに使用された「主体」概念を、彼ら京都学派の哲学者たちとはまったく異なった文脈で、しかしほぼ同時期に盛んに使用している時枝誠記の言語過程説(当人は言語過程観と呼んでいた)が主な考察の対象である。
 この時枝独自の言語理論が京城帝国大学在任中に構想されたことと当時の朝鮮での国語教育に時枝が深く関与しなければならなかったこととの間には密接な関係があり、その関係の要に位置しているのが「主体」概念である。時枝の言語過程説も一つの近代の超克の試みであり、その可能性と限界は言語過程説における「主体」概念によく見て取ることができる。
 最近の日本での「近代の超克」論を一通り押さえた上で、言語過程説においてなぜ「主体」概念が前面に打ち出されることになったのかを、当時の歴史的文脈の中で、特に朝鮮での国語教育の現場という特定の状況の中で考察した後、時枝の「主体」概念の構想がソシュールの『一般言語学講義』(1928年に『言語学原論』という題名のもとに小林英夫訳が岡書院から出版されているが、これは『講義』の世界最初の翻訳であり、時枝はもっぱらこの邦訳によってソシュールを批判した)の誤読に基いており、そのことが時枝による近代の超克の試みを特徴づけているとともに、それを蹉跌へと導くことになるところまで論じるつもりである。











ウィトゲンシュタイン『哲学的書簡集』仏訳版

2017-01-29 23:37:42 | 読游摘録

 2015年にGallimard 社の « Bibliothèque de philosophie » 叢書の一冊として、Ludwig Wittgenstein, Correspondance philosophique が出版された。九百頁を超える浩瀚な同書には、ウィトゲンシュタインがラッセルのもとで哲学研究を始めた当時のラッセルとの往復書簡から、友人たちとの晩年のやりとりまで、現在までに知られているすべての書簡が宛先人ごとにまとめて収められている。量から言えば、ラッセルとの往復書簡が百頁を超えていて飛び抜けて多いが、ムーア、ケインズ、ラムジー、スラッファ、ラッシュ・リースなどとも往復書簡の形で収録されている。もっとも、いずれの場合もウィトゲンシュタインからの手紙のほうが圧倒的に多けれども。
 各宛先人の略伝が各往復書簡の冒頭に置かれ、書簡によってはそれが書かれた前後の経緯なども編訳者の Élisabeth Rigal によって丁寧に説明されており、巻末には、あとがきに代えて、Brian McGuinness の Wittgenstein in Cambridge, Letters and Documents, 1911-1951, Oxford, Wiley-Blackwell, 2012 (2e édition revue et corrigée) の序論の主要部分の訳が付されているなど、行き届いた編集になっている。
 収録されている書簡の中には、過去に出版されている書簡集や伝記によってすでに知られている書簡ももちろん多数含まれているが、こうしてすべての書簡が一書に収められていると、ある特定の相手とのやり取りをまとめて読むことができるだけでなく、同時期に他の相手とどんなやり取りをしていたのかすぐに読み比べることができ、それがまたウィトゲンシュタインの人と哲学について新たな興味を掻き立ててくれる。











F. ブローデル『文明の文法』と日本史暗記ラップ

2017-01-28 23:11:54 | 講義の余白から

 今週の火曜日のことであった。古代史の授業を終えて教室を出ようとすると、毎週のように質問してくる女子学生が、「世界の諸地域を横断的に比較している歴史の教科書はありませんか」と聞いてきた。この学生、前期の期末試験の論述問題の答案が抜群の出来で、最高点だった。こちらが教室で教えたこと以上のことを自分で勉強して身についてけていて、それをよく活かした見事な答案だった。毎回の授業での質問も、自分でさらに勉強するための手掛かりを得たいがためであり、今回の質問も、先週の授業で私が引用したレヴィ・ストロースの講演 « Place de la culture japonaise dans le monde » (L’autre face de la lune, Seuil, 2011, p.13-55.1988年に日本で行われた講演。同書の邦訳は仏語版の編集者である川田順造先生ご自身による『月の裏側』中央公論社、2014年刊。同書については、拙ブログで2015年1月29日の記事から十回に渡って取り上げている) の一節に示されていた文明史観を念頭に置いてのことであるのは明らかであった。
 お恥ずかしい話だが、その場では即座に回答できなかったので、来週までに調べて答えると約したら、「自分でも探してみます」という反応。その日、自宅に戻ってから、自分の手持ちの本の中に推薦できる本があるか自問していて思い浮かんだのが、フェルナン・ブローデルの Grammaire des civilisations (Flammarion, coll. « Champs histoire », 1993) だった(もともとは高校生向けの教科書の主要部分として執筆され、1963年刊行。その後、ブローデル執筆部分が独立の書として著者没後の1987に再刊される。邦訳『文明の文法』は、みすず書房から1995年とその翌年に二巻に分けて刊行されている)。同書には、二十世紀を代表する歴史家による世界の各地域を見渡す壮大な文明史観が暢達なフランス語で展開されており、大学生なら容易に通読できるだろう。
 こんな向学心に富んだ学生がいるかと思えば、同じ古代史の授業を受講している別の女子学生から今日メールが届いて、「日本の友だちが日本の歴史を覚えるためのラップのヴィデオを教えてくれたのですけれど、先生がどう思うか知りたいと思いました。こんなのがクラスに存在する曲であってもよいです。これはどうですか」と、YouTube のリンクが貼ってある。楽しく日付・人名・事項を暗記するにはなかなか良く出来ていたので、「面白そうだから、来週の授業で紹介するね」と返事する。
 「歴史は暗記物じゃない。日付や人名など、最重要なもの以外覚えなくていい」と日頃繰り返しており、昨日の記事で述べたように、歴史的事実の「選択性」、さらには「虚構性」についてまで注意を促しているくらいであるから、日付の暗記なんか二の次でいいと本当に思っているし、実際、試験問題にはいっさいその手の問題は出題しないのだけれど、せっかく日本の歴史に関心をもって、メールを、それも日本語で、くれたのだからね、意気阻喪させるような反応はしたくなかった。
 日本への関心の持ち方は様々であってよい。それぞれに異なった側面から日本にアプローチしてくれればいい。












歴史的想像力について

2017-01-27 23:51:32 | 講義の余白から

 古代史の講義の中で、いわゆる歴史的事実はいかにして構成されるのかという問題を学生たちに考えてもらうために、毎年引用するテキストがある。それは、ポール・ヴァレリーが1932年に高校生たちを前に行った講演 « Discours de l’histoire » の一部である。例えば、次の箇所である。

« Il faut donc choisir, c’est-à-dire convenir non seulement de l’existence, mais encore de l’importance du fait ; cette convention est capitale. […] Mais puisque nous ne pouvons tout retenir, et qu’il faut se tirer de l’infini des faits par un jugement de leur utilité ultérieure relative, cette décision sur l’importance introduit de nouveau, et inévitablement, dans l’œuvre historique. » (Œuvre, vol. I, Gallimard, coll. « Pléiade », p. 1130-1131)

 科目としての歴史なんて「事実」を覚えることに尽きると思っている学生も少なくない。それが理由で歴史はちっとも面白くもないと決めつけている者たちさえいる。いや、歴史にとても興味がある学生たちでも、事実は事実でしょ、それは動かしがたいでしょ、そう信じていることが多い。だから、学生たちに、一度、「歴史的事実」とは何か、より端的に「事実」はいかにして作られるか、考えてほしくて、上掲の引用箇所を読ませる。
 どんな歴史書であれ、広く読まれている歴史の教科書でさえ、その歴史記述が行われる際に新たに導入された重要度の基準―より正確には、相対的な事後的有用性という基準―に照らして、無数の事実の中から選択された「事実」によって歴史は構成されている。これは資料的制約が大きい古代史に限られた問題ではなく、むしろ現代史においてこそ鋭く提起されなくてはならない、歴史記述についての根本問題である。
 この問題を現代史の事例に即しつつ深く掘り下げた一冊に、ロシア人でフランス近代史の専門家である Nicolay Koposov が書いた De l’imagination historique, Éditions de l’École des Hautes Études en Sciences Sociales, coll. « Cas de figure », 2009 がある。本文は200頁ほど、それに引用文献についての詳細な後注が80頁余り付いているが、いずれも小さな活字でぎっしり組まれており、少し持ち重りがするほどである。問題へのアプローチも大変重厚である。例えば、固有名詞の定義をめぐって、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキまで引き合いに出されており、歴史家の余技などといって済ませられない本格的な議論が展開されている。
 少し読み込んでから、拙ブログでも紹介したいと思っている。











Aqua vitae(アクア・ウィタエ)あるいは命の水でこの寒い冬を乗り切る

2017-01-26 23:55:45 | 雑感

 ふと、個人(って私のことですが)年間アルコール消費量をリットルで試算してみたのですが、少なく見積もっても月平均で15リットル、したがって年間で180リットルということになりそうです。一升瓶に換算すると100本ということですね(それが全部並んでいるところを想像してみると壮観だなぁ)。内訳は、95%以上がワインであり、赤対白の割合は9対1というところでしょうか。
 だからどうなんだというような話ですが、これってやっぱり飲み過ぎですかねぇ。健康第一とか嘯いて毎日泳いでいる一方、フランスに暮らしていてワインを飲まずにいられるか、という理由にもならない理由で正当化を試み、ようするに酒が好きだから、毎日飲んでいて、これはもう、現実生活における矛盾的自己同一だなどと、もし口に出して言えば篤実な西田哲学研究者たちの逆鱗に触れるようなことを密かに思ったりしながら、少し酒を控えるかなあなどと殊勝な考えがときどき頭をかすめたりもするのですが、今日もやはり飲んだわけです。
 しかし、量は減らしたほうがいいかなと反省し、それならワインよりも遙かにアルコール度の高いのを少しだけ飲むのがいいのではないかと「妙案」が浮かび、数ある候補の中から、やはりフランスならではの eau de vie にすることに致しました。日本ではブランデーと言ったほうが通りがいいでしょうけれど、果実酒からつくった蒸留酒で、果実の種類によって微妙に味と香りが異なり、それがまた楽しみでもあります。アルコール度は40度から50度で、私が好んでいるのは45度ほどの地元アルザス産のフルーツブランデーで、今飲んでいるのは Meyer’s 社の Poire William です。これはまったく無色透明で、見たところは水と変わりません。鼻に近づけるとほんのりと洋梨の香りがして、喉ごしは大変円やかで、美味でございます。
 この eau de vie という名称は「命の水」ということであり、英和辞典には「強い質の悪いブランデー」などというけしからん説明が載っていますが、ちゃんとしたメーカーのものを買えば、むしろ質の高い蒸留酒ということであります。第一名前がいいじゃありませんか。「命の水」ですよ。ラテン語の aqua vitae を語源としています。名前からして健康にもよさそうじゃありませんか。
 というわけで、このアルザスの寒い冬を元気に乗り切るために、食事中のワインを控えめにしつつ、毎日50cc ほど食後酒として「命の水」を嗜んでおるところでございます。












アニメ『舟を編む』を観ながら、辞書愛を語る

2017-01-25 22:07:10 | 雑感

  フランスにいながら日本で公開されている邦画をリアルタイムで観ることは必ずしも可能ではないのですが、公開から何年か遅れでもネット上で観ることができるようになるのは本当にありがたいことです。もちろん著作権を蔑ろにした違法なアップのケースが圧倒的に多いわけですから、喜んでばかりもいられないのですけれど、海外在住者にとってはそれでもやはり嬉しいものです。
 そんな「非合法な」仕方で去年観た日本映画の中で特に印象に残った映画の一つが『舟を編む』でした。三浦しをんの原作は読んだことがありませんでしたが、ネットで映画版の評判をちょっと読んで、気になっていました。普段から様々な辞書のお世話になっている身として、辞書作りの現場を主題とした映画がどのようにして可能なのだろうかという興味があったのです。
 映画版がどれほど原作に忠実かどうかは私にはわかりませんけれど、端的に面白く観ました(主役の松田龍平も、脇を固める小林薫、オダギリジョーも皆大好きな俳優さんたちだったということもあったかもしれません。ただ、女性陣はちょっと物足りなかったかなぁ。黒木華はさすがの演技だったけれど、出番が後半だけで残念。ついでですが、昨年度の私個人の「輝けテレビドラマ大賞」は、黒木華主演『重版出来!』でした)。年末年始の帰国中に、NETFLIXで同映画を再度観ました(ついでですが、NETFLIXには去年の秋からフランスで加入しているのですが、国によって配信されている映画にかなり違いがあるんですね。フランスでは見られない邦画が日本では沢山見られることがわかりました。悔しい。なんとかなりませんか、これ)。
 年明けにこちらに戻って来てから、アマゾンが配信している映画の中に『舟を編む』のアニメ版(昨年十月から十二月にかけて十一話放映)を見つけて数日前から観ています。絵柄は気に入らない(特に、林香具矢がひどい、と私は思う。もっと彼女は丁寧に描くべきではなかったでしょうか。岸辺みどりのほうがよっぽどましに描かれている)のですが、映画にはないエピソードやディーテールが盛りだくさんで、とても楽しんで観ています。
 今日、第九回を観ていて、印象に残ったシーンが一つありました。辞書編集部に最近配属された若い女性社員の岸辺みどりが主人公の馬締光也に向かって「辞書って何ですか」って聞いたのに対して、馬締が「人が人と理解し合うための助けとなるものです」と答えているシーンです。ちょっとはっとしたんですね。そんな風に辞書を捉えたことはなかったかも知れないなぁと思って。
 でも、今までいろんな辞書のお世話になってきて、フランス語の辞書の中でこの辞書はコミュニケーションのために本当に役に立つなと思っていた辞書の一つをつい最近こちらで買い戻すことができました。日本では、しばらく読んでいると目が痛くなるほど小さい活字で組まれた駿河台出版社版『ラルース現代仏仏辞典』(1976年発行、原版の Dictionnaire du français contemporain は1971年刊行)を愛用していたのですが、その図版増補版(1980年)を日本円にしたら千円程度で入手できたのです(図書館の廃棄本ってやつで、あんまり使われていなかったらしい良本)。以来、折にふれて同辞書を引いているのですが、絶妙なんですよ、定義と用例が。毎朝起床してすぐの二十分ほど、この辞書の中を「散歩」することを最近の日課としています。
 そんなわけで今日の記事の写真は、アニメ版『舟を編む』を背景とした同辞書の写真です。











厳冬、零下の外気の中、屋外で泳ぐ快感

2017-01-24 21:03:12 | 雑感

 今年に入ってからヨーロッパは寒波に襲われていて、ストラスブールも近年では一番寒い冬なのではないかと思います。朝晩は零下十度くらいまで下がります。日中も零下のまま。今日は、曇天下、午前中、粉雪がちらつく中、自転車で大学に向かいました。十分も走っていると、指先がかじかんできます。キャンパス内を行き交う学生の姿もまばら。皆足早に建物内に入ろうとしています。そんな寒さの中ですが、学生たちは授業にはちゃんと来るんですよ、これが。今日など、なぜかわからないけれど、特に集中して聴いてくれていました。寒さでほかにすることもないから、勉強に気持ちが向かっているんですかね。
 寒い冬というと、留学でストラスブールに来た最初の冬を思い出します。一九九六年から一九九七年にかけての冬のことです。年末から新年にかけて、フランス人の友人のパリ近郊の実家に泊めてもらったのですが、パリでさえ零下八度まで下がったのを覚えています。テレビの天気予報を見ると、同時期、ストラスブールは零下十五度くらいまで下がっているとのこと。街中を流れるリル川の一部が凍結している映像が流れ、こんなことが毎年続くのかと少し恐れ慄きました。
 正月をパリで過ごした後にストラスブールに戻って来ると、確かに滅茶苦茶寒かったんです。それにその冬は雪がよく降りました。一月に降った雪が消えずに積み重なり、それが踏み固められ、アイスバーン状になり、歩道で転ぶ人が相次ぎ、けが人続出。ストラスブールの住民たちは、寒さには慣れていましたが、雪にはそれほど慣れていなかったんですね。市内の歩道を覆う冷たく凍りついた雪は二月に入ってもしばらくは解けずに残っていました。
 ストラスブールに来て最初の冬にそのような厳冬の洗礼をいきなり受けたものですから、翌年はどうなることかと戦々恐々としながら冬の到来を迎えました。ところが、そんな厳しい冬は訪れず、それ以後は、むしろ拍子抜けするほどの暖冬だったときもあります。二〇一四年の赴任以来、これが三回目のストラスブールの冬ですが、去年の冬も暖冬でした。暖房費が前年比で半分だったほどです。でも、この冬は暖房費が嵩みそう。
 そんな寒さの中なのですが、いつも通っている屋外プールにはちゃんと人が来るんですよ(って、私もその一人ですが)。まあ、いくら外気が零下でも、水温は三十度くらいありますからね、水に入ってしまえば、ぜ~んぜん寒くないんですよ。それに寒さに対して体が熱を発そうとするからでしょうか、小一時間も泳いで上がると、体がすっかり温まっているんですね。これがやみつきになるんですよ。どうぞ、お試しあれ。












永遠に始源へと帰還しながら自己自身と出会うこと ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(九)

2017-01-23 19:58:55 | 読游摘録

 ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』の最終章の摘録を始めたときは、せいぜい四、五回、と思っていた。それが今日でもう九回になる。野球とは何の関係もないけれど、今日の記事を同書の摘録の最終回とする。それはもう十分だと考えてのことではなく、今の私にはこれ以上同書の思想の理解を深めるだけの準備ができていないから、研鑽を積んでからいずれまた戻って来ようという気持ちからである。
 最終章の終わりに近づくにつれ、ヴァイツゼッカーの語調は内省的になり、確信と自問が交錯するようになる。最後の二段落から引用する。

生殖、出産、成長、成熟、老年、死、さらには想起や予見などは、生きものが示す最も直観的で、反論理的で、従ってまさに最も始源に近い現象様式である。生命の消滅と生命の存続とはいわば生死を賭して同盟を誓っており、回帰 Wiederkunft とはこの同盟の永遠の象徴なのである。この回帰が終りを始めに結びつけ、始めを終りに結びつける。生成の無窮の転変の中で、永遠の回帰を示しつつ不変の始源が、存在の静止が現出する。(301頁)

 引用の最後に出てくる「不変の始源」と「存在の静止」、私にはこれらの概念は反生命的だと思えるのだが。ヴァイツゼッカーにとっても、探究の究極の目的は、やはりそのような概念によって把握されなくてはならないものなのだろうか。私はそれに打ち消し難い違和感を覚えてしまう。
 本書の最後の段落全文を引用する。

 もろもろのゲシュタルトの系列は、究極的にはやはり秩序をもつ。しかしそれは時間的前後関係の秩序に組込まれるのではなく、いろいろな行為や認識の系列、生の諸段階や世代の回帰の系列の中で秩序づけられる。生命の秩序はかように直線にではなく円環に比すべきものではあるけれども、かといってそれは円周線にではなく円の自己回帰に譬えられるべきでもある。ゲシュタルトは次々に継起する。しかしすべてのゲシュタルトのゲシュタルトはそれらのゲシュタルトの帰結ではなく、それらのゲシュタルトが永遠に始源へと帰還しながら自己自身と出会うことである。これが、ゲシュタルトクライスの名称を選んだ無意識の理由であった。ゲシュタルトクライスとは、いかなる生命現象の中にも現れている生の円環の叙述であり、存在を求めてつぶやかれた片言である。(同頁)

 究極的な秩序の探究、始源への止みがたいノスタルジー、自己回帰の希求、これらの志向はヴァイツゼッカーが西洋哲学史の伝統の正嫡であること示しているのかもしれない。しかし、始源への帰還は、その始源がすでにどこかにあるからそこに向かって発生する運動なのだろうか。むしろ、始源への回帰が自己回帰にほかならないような円環運動が〈同一なるもの〉を描き出すこと、それこそが生命の動的な生きたゲシュタルトクライスなのではないだろうか(この〈同一なるもの〉について、2016年1月25日の記事でドゥルーズの『ニーチェ』の中の永劫回帰論に言及したときに若干触れたことがある)。
 私は私で己のゲシュタルトクライスを叙述していきたいと思う。












生命の方法としてのゲシュタルトクライス ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(八)

2017-01-22 17:07:59 | 読游摘録

 存在的属性には、「ある」か「ない」か、「必然的にある」か「偶発的にある」か、「持続的にある」か「束の間ある」かなどの違いはあるにしても、これらの属性だけで私たちの人生の出来事が構成されているわけではもちろんない。
 それらの存在的属性に対置されるだけでなく、それらをより深いところで規定しているパトス的属性は、自由と必然、「したい」、「ねばならぬ」、「しうる」、「すべきである」、「してもよい」などの様態として展開される。しかも、それらの様態は、ある人称性をもつことではじめて意味をもつ。例えば、「私はしたい」、「君はできる」、「彼はしてもよい」など。
 このことは、行為の主体は、異なった人称同士の関係とその変化の中で規定されるということを意味している。

パトス的範疇を用いる際には必ず、それが或る他者に対するかかわり Verhältnis のうちにおかれた誰かへと向かって具体化するということが生じざるをえない。生物学的なものに属する諸範疇は、単に主体的であるばかりでなく、社会的でもある。生命とは個体であるとともに社会でもある。(296頁)

 生命の世界における行為の主体の個体性と社会性とからなるこのような動的な構造の円環、それがゲシュタルトクライスであり、その中で自らも行為主体として各個体を別の主体として捉え、その行為のパトス的様態を観察・記述し、個々の問題の解決を探ること、それが生命の方法としてのゲシュタルトクライスにほかならない。