内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々身ヲ喰ム虚シサダケデハ人ハ死ナヌ

2023-12-31 21:45:00 | 雑感

 今年はあとニ時間ほどで終わる。が、どうやら、私の人生はまだ終わらないらしい。除夜の鐘がなるまでは確定的なことは言えないが、多分、私の命は逝く年とともに尽きはしないようである。幸いなことである。とはいえ、余命を宣告されてはいないからといって、来る年をどれくらい生きられるのか知れたものではない。だから一日一日を大切にしましょうね、という話がしたいのでもない。
 今日も走った。年間総走行距離は4087キロ。頑張りましたね。でも、バッカジャナイノ、とも思う。健康のために走っているのではない。走ることは、「走るゆえに我あり」みたいな、情けないほどに軽い存在理由でしかない。走る以外のすべてのことはほとんど無に等しい、という思いがこの一年つのるばかりだった。
 一月にはジョギング中に転んで肋骨に罅が入った。三月には駅まで三百メートルほど走っただけでなぜか激しい動悸に襲われ、駅で気を失った。以後、一月あまり、軽い目眩につきまとわれた。八月、前期高齢者となった。九月以降今日大晦日まで、運動しなかった日は零日。一年間で運動しなかったのは五日だけ。で、それが、なに?
 日々身ヲ喰ム虚シサダケデハ人ハ死ナヌトイフコトヲ誰ニ頼マレテモイナイノニ老醜ヲ晒シナガラ我ハ実証シテイルダケデハナイノカ。

 皆様、どうぞ良いお年を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「いま消えつつあるのは人だ」

2023-12-30 23:59:59 | 読游摘録

 27日の記事で話題にした小関智弘の『大森界隈職人往来』(岩波現代文庫、2002年。原本、朝日新聞社、1981年)には、その底本となっている同時代ライブラリー版(岩波書店、1996年)の「あとがき」が収録されている。その中の次の一節を読んで、本書の本文が活写している「職人」たちは、シモンドンのいうところの「技術者」と「労働者」の間に位置する存在だということに気づいた。引用中の「その人たち」とは、モノづくりを忘れた工場労働者たちのことである。

その人たちは、そのボタンを押せばなぜ機械が動き、どうしてバイトで鋼が削れるのか、ということなど知らない、考える必要もない。それでも機械がモノを作ってくれる。そういう労働者として働いている。
 そこで働いている人たちは、たしかに働いているのに、モノを作っているという労働実感からはほど遠く、作らされているのか、せいぜいのところ、作れてしまうという実感しか持ち得ない。そういう労働が、町工場のなかにもたくさん生まれた。[…]自分の手で作っているという実感とは限りなく遠い労働、仕事が出現した。

 モノそのものとの対話のなかから新しい形を創り出していく技術者。技術者によって開発された技術を工場現場での創意工夫によって再生可能なモノの形として実現する職人。技術によるモノとの直接対話とは無関係となり、モノづくりから疎外され、ただ技術と機械に使われるだけの労働者。
 シモンドンのいう「技術者」たちだけではモノは作れない。シモンドンが批判する「労働者」だけでももちろんモノは作れない。しかし、「職人」がいなければ、「技術」は現実に機能しない。「職人」がいなくなった社会はモノが作れない。それだけではなく、「人がいなくなる」(同書巻末の小関氏と経済評論家の内橋克人との解説対談の中での内橋氏の言葉)。
 対談の終わりの方で、小関氏は、「職人」の復活についてほとんど絶望的な状況だとの認識を内橋氏と共有しつつも、モノづくりの新しい形を生み出しつつある次世代に希望を託している。

いま若者がよく育っている町工場を見ると、むしろあまりこまごまと、あれはこうしろ、これはこうしろと言わないで、語った理念に向かって、あとはお前たちがやってみな、プロセスはどうでもいいんだ、お前たちに任せるから、やってみてくれないか、という任せ方をしている。
 そうすると、そこから、いいのが育つのです。マニュアル労働をさせてしまうと育たないのですけれども、大胆に任せてしまうと、経営者の頭のなかにあるようなプロセスとはぜんぜん違うものを若者は発見してきて、新しい工夫が生まれたりしている。

 この解説対談が行われたのは2002年6月26日である。それから二十年余りが経過した。現状はどうなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「フツー」の街の普段着の「顔」を路上観察する

2023-12-29 23:59:59 | 雑感

 東京の一部しか知らないように、東京近郊の中小都市のことも、せいぜいその名を知っているか、車や電車で通り過ぎたことがあるくらいで、その都市のほんとうの「顔」についてはほとんど何も知らない。
 観光とは無縁な中小都市ともなると、そこに住んでいる親類縁者友人知人を訪ねる機会を除けば、わざわざ訪ねてみようとも普通思わないだろう。
 そういう「フツー」の街は、観光目的で訪れる人などに媚びを売る必要がないから、それだけその街の「素の顔」が道行く人たちの姿にそのまま現れている。いわば、化粧もせず、着飾りもせず、普段着のまま、皆歩いている。
 その国を代表する大都市や海外にもその名の知れた観光地を訪れるのが「ガイコクジン」観光客の常であろうが、コロナ禍が沈静化して彼らが戻ってきたそんな場所に行きたいとは、特に年末年始のこの時期、まったく思わない。
 そこに住まう人たちと表向き変わるところなく振る舞いながら、実はただの余所者としてその地に数日間滞在し、街の風景を路上観察するのは、なかなかに面白く、いろいろと考えさせてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ワタシィー、ニホン、愛おしぃ」― センチメンタルジャーニー・イン・トーキョー

2023-12-28 22:27:52 | 雑感

 渡仏する以前は、生まれてこのかた、数年間を除いて、ずっと東京住まいでした。でも、どれくらい東京を知っているかというと、自分が生まれ育った地域以外についてはほとんど何も知らない、ということを、今回の東京滞在は気づかせてくれています。
 変な言い方ですけれども、今頃になってはじめて、「フツー」の東京のあるごく一部を発見しつつあります。メッチャ面白い。と同時に、ふるえるほど、カナシイ。今、「カナシイ」って、カタカナで書きました。そう、「悲しい」ではないから。「おもしろい」と「カナシイ」が一緒になると、私的語感としては「愛おしい」になります。
 山の手育ちの良家の「お坊っちゃま」(ワテ、ホンマニ、ソウナンデッセェー。このカタカナ部分、ちょっとフランス語的に発音シテクンナマシ)的な上から目線ではなく、そして、「ワタシィー、ニホン、ダイスキデスゥー」みたいな「ガイコクジン」にありがちな過剰な感情移入もなく、ただただ、「ああ、みなさん生きていらっしゃいますね。ありがとうございます。いろいろあると思いますけど、どうかお幸せに」という、願いにも似た気持ちが、自分にとって未知で非観光的な「トーキョー」のある一部を、今日も、走り回り、歩き回っていると、沸き起こってきたのです。
 あっ、そっか。こう書いて気づきました。こんなカンジョーも、結局、他人事的で、現実的視点不在の、ただひたすらセンチメンタルな目線なんだよなっ、と。
 カクテ我レ振リ出シニ戻レリ。誠ニ我ガ人生ハ双六ノ如キ哉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早朝、小さな町工場が立ち並ぶ界隈を走る

2023-12-27 14:49:20 | 雑感

 特別な意図があって選んだわけではなく、ただ空港から近く、比較的安く、短期間ならそこそこ快適に過ごせそうという理由だけで選んだホテルに今いる。およそ観光には縁のない場所だ。昨晩九時過ぎにチェックイン、荷物を部屋に置いたらすぐにホテル内のレストランで遅めの夕食を済ませる。
 都内でありながらこれまでまったく縁のない区で、ホテルからほど遠からぬ街区には小さな町工場が立ち並ぶ。今朝、出発前におおよその地図を頭に入れただけで、六時半すぎから一時間半ほどその一帯をジョギングした。携帯も持参したが見なかった。そのほうがいろいろと発見があって面白そうだ。町工場が立ち並ぶ一帯には独特の香りがする。油や金属の削り屑、あるいは何か分からないが薬品の匂いが漂う。七時前だというのに、もう職人さんや工場勤務の人たちが事務室やガレージで仕事の準備を始めているのが見える。
 走りながら、多分四十年ほど前に読んだ小関智宏の『大森界隈職人往来』(朝日文庫版、今は岩波現代文庫版の中古本のほうが入手しやすい)のことを思い出した。六十年代から七十年代にかけて、日本経済の柔構造を支えた町工場の誇り高き職人さんたちはこの地区に住んでいたのだ。数人の零細工場でありながら、その技術水準は世界最高レベルの工場がかつてはこの地域にいくつもあった。
 その一帯の周辺には東京湾埋め立て地区内にいくつかの公園などもあり、ジョギングコースとしても悪くない。
 途中、東京湾上に登り始めた朝日とともに埋め立て地区の大型工場に向かう自転車の群れと一緒になる。その中には外国人労働者も少なくない。
 この一帯のここ半世紀余りの変容をつぶさに観察すれば、その間の日本社会の変化の縮図が浮かび上がってくるのかもしれない。
 そんなことを考えながら15キロ走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「悼む」ということ

2023-12-26 00:34:31 | 日本語について

 島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる』を読んでいて、「悼む」とはどういうことなのか、気になるようになった。同書には、天童荒太の小説『悼む人』とそれに基づく映画作品について数頁にわたる紹介と著者による考察が示されている。そこを読めば、小説と映画のなかで「悼む」とはどういうことなのか、一応の回答は得られる。小説からの引用箇所を以下に孫引きする。

人が亡くなった場所を訪ね、故人への想いをはせる行為を静人は初めて「悼む」と表現した。/言葉の意味を問うと、冥福を祈るわけではなく、死者のことを覚えておこうとする心の働きだから、祈るより、「悼む」という言葉が適切だと思って、と、ぼそぼそと力のない声で答えた。(『悼む人』上、二五五頁)

 確かに、「悼む」と「祈る」は違う。しかし、島薗氏が言うように、「「祈る」ときには、応答する存在が前提されている」というところに両者の違いがあるのだろうか。そもそも「祈る」ことがそれに応答する存在を前提しているとは限らない。人の死に際して、「冥福を祈る」という表現がよく使われるが、この「祈り」に応答する存在を前提してはいないだろう。
 しかし、だからといって、この表現が単に形式的に使われているとは限らない。自分は無宗教だと思っている人でも、この表現を軽々しく使っているとは限らない。祈るのに資格も権利も必要ないだろう。自分がその実現にはまったく無力だとわかっていても、それを心から願わずにはいられないときに人は自ずと「祈る」のではないか。
 「悼む」は「痛む」と同根である。「悼む」ときは、心が「痛む」。ただ悲しむのとは違う。人の死に際して、「悼む」とき、心が痛みはするが、泣き叫ぶなどあからさまにそれを表には出さない。手元にある辞書はどれも似たりよったりの語義しか示していないが、『三省堂国語辞典』(第八版)には、「人などの死をおしみ、静かに心を痛める」とあり、二つの点で他の辞書と異なっている。「人など」としてあるから、人以外に対しても「悼む」ことがありうるという含みがある。「静かに」とあるから、大声を上げて泣いたりはしないということだろう。だからといって、心の痛みが小さいわけでも、悲しみが浅いわけでもないだろう。
 ただ、まだ一つ気になることがある。これは私の個人的語感に過ぎないのかもしれないが、身内の死に際しては「悼む」とは私は言わない。例えば、自分の母親の死を「悼む」と言うのには何故か違和感を覚える。皆さんはどうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悲しむという心の「仕事」に時間をかける

2023-12-25 00:00:00 | 読游摘録

 島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書)のなかにも「予期悲嘆」に言及されている箇所がある。そこでは、「相手が生きていても、すでに悲しみが始まっている」ことが「予期悲嘆」だとされている。ところが、そこに挙げられている例のなかには、ちょっと不適切ではないかと思われる例もある。言い換えると、なにか悲嘆の「安売り」ではないのかと私には思われる例も挙げられている。「試験に失敗して、自分の希望を諦めなくてはならない」程度のことも「予期悲嘆」なのだろうか。その希望の喪失が本人にとっては大切な人との決定的な別離に匹敵することもあるということだろうか。
 この点は措くとして、以下の段落には共感を覚える。

悲しむことは悪い反応ではない。喪われた尊いものを抱き直す「仕事」なのだ。その意味では、むしろよりよく生きていくために不可欠の「仕事」だ。悲しみを省いてしまうことは、心のなかの大切なものを切って捨てるようなことだろう。悲しみという心の仕事を時間をかけて行うことが成熟につながり、それまでにもまして奥深い生きがいを見出していくことに通じる。(78頁)

 悲しむことが無条件的によいことだとは私は思わないが、何らかの「気晴らし」によって悲しむことを避けたり悲しみを紛らわしたりせずに、ただ悲しむことがその不可欠な一過程を成している経験はある。その過程を必要十分に生きることではじめて見出される生の奥行きとも呼ぶべきものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日常を長期間に亘って浸すような恒常的な予期悲嘆としての「かなし」

2023-12-24 00:00:00 | 雑感

 昨日の記事で言及した「予期悲嘆」という言葉は、例えば、この医療関係のサイトでは次のように説明されている。

 予期悲嘆とは、患者さんやその家族が死を予期したときに生じる正常な喪のことをいいます。予期悲嘆では、患者さんの没後に家族が経験するものと同じ症状が数多く現れてきます。この悲嘆には、予期されている死に関する思考や感情、文化的・社会的反応で、患者さんとその家族が感じるもの全てが含まれます。

 予期悲嘆では、抑うつ、死にゆく人に対する極度の心配、死に対する準備、その死がもたらす変化への適応などが起こってきます。予期悲嘆には、この喪失という現実に家族がゆっくりと時間をかけて慣れていくことを可能にするという効用があります。また、死にゆく人に対してやり残していたことを済ませておくことも可能になります(例えば、「お別れの言葉」、「愛の言葉」、「許しの言葉」を伝えるなど)。

 予期悲嘆は必ず生じるわけではありません。また予期悲嘆とはいっても、死の後に経験する悲嘆と同種のものを死の前に経験するということではありません。人が経験する悲嘆には決まった量はありません。そのため、死の前に悲嘆を経験したとしても死の後の悲嘆の期間が短くなるわけではありません。

 この説明に従えば、予期悲嘆は、間近な死が予期されたときに起こることが多いのということになるのだろうけれど、死は不可避である以上、必ずしも間近な死に対してばかりとは限らないのではないだろうか。日常を長期間に亘って浸すような恒常的な予期悲嘆は何と呼べばよいのだろうか。
 『古典基礎語辞典』(大野晋・編、角川学芸出版、2011年)の「かなし」の項には以下のような解説がある。

愛着するものを、死や別れなどで、喪失するときのなすすべのない気持ち。別れる相手に対して、何の有効な働きかけもしえないときの無力の自覚に発する感情。また、子供や恋人を喪失するかもしれないという恐れを底流として、これ以上の愛情表現は不能だという自分の無力を感じて、いっそうその対象をせつなく大切にいとおしむ気持ちをいう。自然の風景や物事のあまりのみごとさ・ありがたさなどに、自分の無力が痛感されるばかりにせつに心打たれる気持ちをもいう。

 「かなし」という言葉に日頃から馴染んできた古代の日本人たちは、「予期悲嘆」を基底的な感情として日々を生きていたとも言えるのではないだろうか。そういう古代人たちに私は限りない愛おしさを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人の死生観についての学生たちの発表を聴く(下)

2023-12-23 14:55:38 | 講義の余白から

 今週水曜日の「日本の文明と文化」の最後の授業では、二組のトリオと四組のデュオの発表を聴いた。タイトルはそれぞれ、「日本のポップと死生観」「『君の膵臓をたべたい』と死生観」「映画『おくりびと』の死生観」「喪の作業」「死生の儀式」「心中」であった。
 「日本のポップと死生観」のトリオは、神聖かまってちゃんの「Ruru’s Suicide Show」、米津玄師の「Lemon」、Aqua Timez の「ALONES」というそれぞれ別々の歌を取り上げ、歌詞から死生観を読み取るという発表。アイデアは良かったが、もう少し歌詞そのものに即した分析をしてほしかった。
 「『君の膵臓をたべたい』と死生観」のデュオは、劇場アニメ版のなかのセリフから桜良の死生観を取り出し、春樹が桜良との交際とその死を経験して死生観が変化していくことに焦点を合わせた発表。言いたいことはわかるのだけれど、日本語発表能力がそれに伴っていない。
 「映画『おくりびと』の死生観」は、成績が最優秀の二人の女子学生による発表で、内容も優れており、日本語もしっかりしているのだが、この二人に共通する欠点は、発表でも小論文でも、論点を絞りきれず、冗長に流れやすいこと。
 「喪の作業」のデュオの発表は、日本人の死生観という課題テーマから離れてしまっているという大きな欠点があるものの、発表テーマについてよく調べた発表であった点は評価できる。キューブラー・ロスの On Death and Dying(邦訳『死の瞬間―死にゆく人々との対話』)、ジョン・ボウルビィの Attachment and Loss(邦訳『母子関係の理論』全三巻)の要点を紹介した後、「予期悲嘆」にも言及していた。
 「死生の儀式」のトリオは、日本の死生の儀式についてよく調べてきた点は評価するけれども、自分たち自身の考察に乏しく、内容的には高く評価できない。
 「心中」のデュオも、調べたことを並べただけ。二人の日本語能力からして仕方のない面もあるのだが、テーマを自分たちで選んだという以外は、いわゆる「主体性」のまったくない発表。
 全体として、先週の第一回目の発表のほうが概して出来がよかった。
 まあ、それはさておき、学生諸君、これで前期の課題はすべて終わりだね。お疲れ様でした。よい年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度担当授業すべて終了

2023-12-22 16:23:23 | 雑感

 今日の午前中の「近代日本の歴史と社会」の授業が前期最後の授業であったばかりでなく、私にとっては今年度最後の授業だった。授業内容は予定通りで特別な感慨もないが、これで来年九月の新学年度開始まで授業をしなくていいのかと思うと、やはり自ずと心身が軽くなるのを覚える。これだけ長い期間授業をしなかったことは、一九九八年にストラスブール大学日本学科で語学講師として教え始めて以来、過去二十五年間に一度もなかった。博士論文を書いているときも、非常勤の掛け持ちをしていたから、授業をもっとも長く休めるのは夏期休暇のときで、せいぜい四ヶ月間であった。
 正式な研究休暇開始日は来年二月一日だが、一月中旬に行われる担当授業の学期末試験の監督と採点を除けば、授業関連の業務からは今日解放されたと言える。休暇中もその他の責任は引き続き負わなくてはならないが、そのために割かなくてはならない時間は、平均すればせいぜい週に二、三時間であろうから、ほとんどの時間は自由に使える。
 参加予定のシンポジウムおよび研究集会は、一月に一つ、三月に二つ、五月に一つ。ちょうどよいリズムだ。少し気が重いのは、フランスで出版予定の日本哲学辞典の項目執筆だ。十ほどの項目を担当することになっており、特に総括的な解説を担当する大項目は小論文程度の長さを書かなくてはならないし、それだけに準備にも時間がかかる。
 それらはそれらとして、この最初で最後の研究休暇の一日一日を大切に過ごしたいと思う。