内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学的思考の型としての日記(十二)― 日々の出来事をその軽重を問わずに記録し続けることの哲学的意味

2020-03-11 23:59:59 | 哲学

 日々の外的な出来事のみを記録する日記を付けることにもそれなりの動機があるはずだ。その動機はさまざまだろう。特に事細かにその日の出来事を記録する場合は何がその動機になっているのだろうか。しかも日記を書いている本人にとっても必ずしも重要ではないことまで詳細に書き綴る理由は何であろうか。
 後年その記録が必ず何かの役に立つというようなはっきりとした目的意識がある場合はこの問に対する答えも簡単である。ところが、そう問われてみると自分でもなぜ続けているのかよくわからない場合のほうが実は意味深いのではないだろうか。日記の長期に渡る継続がそれを付けている本人とって実用的な有用性を超えた重要性を帯びているときこそ、日記の哲学的な意味が問われうるようになるのではないだろうか。
 ひとたび日記を付ける習慣が定着してしまえば、本人もなんで自分がそうしているのかいつの間にか問わなくなるのが自然だろう。最初は特にはっきりとした決意や目標があってはじめたわけではなくても、何年と続けていれば、特に継続を困難にする事態でも発生しないかぎり、やめる理由もなくなる。というよりも日記を付けること自体がその人の生活の一部になっている場合、もはや簡単にやめるわけにはいかないだろう。
 そのような日記の場合、記録された出来事の重要さによってその価値が決まるわけではない。その日記の記述が他人にとってまったく興味が持てないような些末なことの羅列だったとしても、それらを記録し続けることそのことが、その人がその人自身であるために不可欠な日々の行為になっている。それだけでも日記をつけることの哲学的な意味を考えることができる。