内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(九)― 人はなぜ初めて見る景色に「なつかしさ」を感じることがあるのか

2020-09-30 00:30:03 | 哲学

 「あなたの生まれ育った風土はどのような風土ですか」と聞かれたとき、どう答えたらいいだろうか。もちろん、風土をどう定義するかによって答えは違ってくる。だが、それ以前に、定義如何にかかわらず、そもそもこのような問いに一種の違和感あるいは戸惑いを覚えないであろうか。
 和辻の風土論のように、いくつかの類型を風土に認めれば、その類型のうちのいずれに自分の生まれ育った風土が属するかを答えることはできる。しかし、自分が生まれ育った風土と言えるには、生後ある程度長い期間その生まれた土地に暮らすことが必要だろう。ところが、その期間に何らかの客観的基準を設けることができそうには思えない。かと言って、まったく主観的な個々人の実感によってのみ、その人の生まれ育った風土が決まるということはありえない。
 生まれ育った土地の気候その他の自然環境・地理的条件・食文化・風習・しきたり・信仰等が私たちの感受性の形成に影響を及ぼすことは間違いないとして、それがどの程度の範囲と深度において共通性を持つかははっきりと決めがたい。影響の程度は何重にも何層にも分かれているようにも思われる。
 「日本の風土」などと一括りにすると、それはひどく曖昧で掴みどころがないものになってしまう。他の著しく異なった風土との弁別的差異を列挙することはできても、それで風土が定義できたことにはならない。風土とは、つまるところ、一つの共同幻想なのだと言ってみたくなる。
 しかし、人間の自己形成が生まれ育った何らかの〈場所〉においてしか成立しないこともまたきわめて確からしいことだ。それを風土と呼ぶかどうかは措くとして、それは〈どこ〉にあるのだろうか。
 「私はどこで生まれ育ったのか」という問いに答えようとするとき、「なつかし」の情が一つの重要な要素になると思う。昨日の記事でも言及したように、本来的な「なつかし」は、懐旧の情でも過去への憧憬でもない。それは、本来、〈現在〉の場所への親しみや慕わしさのことである。
 とはいえ、この〈現在〉の場所とは、現に生活を送っている土地のことではないし、長年暮らした土地とも限らない。自分がどこで「なつかし」の情を懐くかは、今いる場所を離れてみることでかえって明らかになることもある。特に、まったく初めて訪れた土地なのに、そこで見る初めての景色なのに、なぜかそこにおいて「なつかし」の情が湧くとき、私たちは自分の本来の〈現在〉の場所が、ただ慣れ親しんでいる処とは別の次元のどこかにあることに気づく。
 そのような本来の〈現在〉の場所に憩うことができるまで、私たちの心は安らぐことがないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(八)―「なつかし」の中に私たちは皆生まれたはずなのに

2020-09-29 11:41:30 | 哲学

 「情緒」という言葉に込められた岡潔独特の思想を本当に深く摑むことは容易ではないが、岡が言うところの人の心の二つの根本要素として懐かしさと喜びということであれば、私たち誰しも、程度の差こそあれ、直に実感することができる。いや、私たちは、誰に教わることもなく、懐かしさにおいてすでに情緒を知っているはずなのだ。人は懐かしさという情緒の中に生まれると言ったほうがいいかもしれない。
 その実感は、しかし、必ずしも「なつかしい」という語の今日における通常の用法と重なるわけではない。懐旧の情とか過去への憧憬としての「なつかしさ」は、万葉時代の古語「なつかし」の原義から遠く隔たった後世に派生してきた意味であり、現代日本語における「なつかしい」の用法は、この原義を覆い隠してしまいかねない。未来が暗く先行きの見えない不安で不確実な現代に生きる私たちは、人にとって本来的な情緒である「なつかし」を忘却しかけているのかもしれない。
 昨年6月22日の記事で引用した『古典基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)の「なつかし」の項を再度引用しよう。

動詞ナツク(懐く)の形容詞化した語。ナツクは、近寄り、密着して、親しむの意で、ナツカシの原義は、なつきたい、目の前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち。ナツカシの対象は、人・自然・物・動物など、広い。人については、男性・女性、また同性・異性を問わず用いる。離れていたり、過去の存在である人や物事についての親近感から、目前にあるゆかりの物になつき寄りたいと思う気持ちをいう用法を経て、後に、目前にない対象、離れていたり過去のことであったりするものが慕わしく思い出される気持ちをいうようになった。

 つまり、一言で言えば、「なつかし」とは、「それが慕わしくて、いつまでもそれと一緒にいたい、あるいはそう感じる場所にいつまでも共にありたい」という情である。そういう情を懐かせるものが、人であっても、人の姿・声・仕草であっても、他の生き物のことであっても、自然の景物であってもよい。
 現に「なつかしきもの」と共にあるとき、私たちは喜びを感じる。反対に、何か決定的に現世から失われたものに対してこの情を懐けば、私たちは胸を締めつけられるように感じるが、それは悲しみとは違う。想い出すことそのことにおいて、その想起されたものとの繋がり・結びつき・絆を現に実感しないわけにはいかないとき、私たちはやはり「なつかし」の情を生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(七)― 人間の心の二元素、懐かしさと喜び

2020-09-28 00:00:00 | 哲学

 岡潔『数学する人生』(森田真生編)の第一章には、岡潔の京都産業大学での最終講義(1971年度)が編者によって圧縮・編集された形で収められている。その講義は編者によって「懐かしさと喜びの自然学」と題されている。小見出しも編者による。
 その小見出しの一つが「懐かしさと喜び」である。そこで岡は、人の心は、簡単にいえば、懐かしさと喜びからなっていると言う。赤ん坊は情で「生きることの喜び」がわかっていて、それが幸福だと言う。そして、禅の「尽十方界是全身」という言葉を引き、それについてこう説明する。

これは何を見ても、何を聞いても懐かしいということです。この懐かしさの心が健全に発露していると、生き甲斐とか幸福とかいうものを感じるのです。
 外界はすべて懐かしく、そうであることが嬉しいという、これが大宇宙の心です。ところが、小我だけを自分だと思って、小我中心に考え、感じ、行為していると、その心の働きが止まってしまうのです。
 大宇宙は一つの心なのです。情だといってもよろしい。その情の二つの元素は、懐かしさと喜びです。春の野を見てご覧なさい。花が咲いて、蝶が舞っているでしょう。どうして蝶が花のあることがわかって、そこへ来て舞うのでしょうか。
 花が咲くということは、花が咲くという心、つまり情緒が形となって現れるということです。その花の情緒に蝶が舞い、蝶の心に花が笑む。情には情がわかるのです。情の世界に大小遠近彼此の別はないから、どんなに離れていてもわかり合うのです。

 この「懐かしさ」について、森田真生は、「結」の中で、最終講義の別の箇所、大宇宙と人との関係を木と葉との関係と類比的に岡が述べている箇所を引きながら、実に的確な説明を行っている。

 ここで言う「懐かしさ」とは、過去への憧憬のことではなく、周囲と通い合う心の実感のことである。木から切り離されない葉としての自分。常に大地から生命を受け続ける個体としての自分。その全体と個体との連関を実感するとき、人は「懐かしい」と感じる。しかも、懐かしいということは、それだけで嬉しい。

 この「懐かしさ」は、まさに「なつかし」の本来の意味から来ている。この「なつかし」の原義については、昨年6月22日から24日までの記事を参照していただければ幸いである。
 一言で言えば、情緒とは、この「なつかしさ」を感じることであり、風土とは、本来的に「なつかしいもの」のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(六)― 情緒論と風土論を架橋する試み

2020-09-27 13:00:15 | 哲学

 今年度前期の修士一年の演習で和辻哲郎の『風土』を読んでいることは9月9日の記事で話題にした。優れた仏訳があるから、読解はさほど難渋することなしに進むのではないかと楽観していたが、これは完全に私の見込み違いであった。学生たちは和辻の風土の定義が理解できずにひどく困惑している。
 そこで、彼らの理解の手助けになるような補助概念を導入してみようかと試みた。情緒がその一つである。ただ、情緒を概念とするのは適切ではなく、そうしてしまっては最初から逆に学生たちをつまずかせることになってしまう。森田真生が『数学する人生』の序で言っているように、情緒は、「概念ではなく実感であり、理解されるべきものである以上に、「体得」されなければならないもの」だからだ。
 それに、和辻は、『風土』のなかで一度も「情緒」という言葉は使っていない。「感情」という言葉は八十箇所以上で使われているが、風土論にとって特に重要な理論的価値が与えられているわけではない。「情愛」という言葉は十七回使われているが、「情緒」と意味的には重ならない。「情が湧く」「情が移る」など、「情」が単独で使用されている例はない。
 しかし、風土は無情ではない。むしろ情に満たされていると言ってもいいのではないかと思う。最晩年の大森荘蔵に倣って言えば、「天地有情」である。その局所的な表現が風土であると言えないだろうか。
 『数学する人生』の「結 新しい時代の読者に宛てて」で、森田真生は、岡における「情と情緒」の思想を次のようにまとめている。

 自他を超えて通い合う情を踏まえた上ではじめて、「個性」は成り立つというのが岡の考えだ。自他切り離された個体の中に閉じ込められた別々の心が最初からあるのではない。自他に通底する情がまずあり、それが森羅万象においてそれぞれの色どりとともに現われる。その「情の色どりが情緒」なのだと岡は言う。

 自他を超えた情を踏まえた上で個に着目するとき、そこに立ち現われるのが「情緒」の世界だ。情緒とは情の局所的な様相のことである。

 この文章の「情緒」のところに「風土」を代入してみることで、和辻の風土論に新しい光を当てることができるのではないかと私は考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(五)― 「心配しなければならないことを心配しないといういまの風潮」

2020-09-26 23:59:59 | 哲学

 情緒という言葉を聞いて、あるいは目にして、多くの人が思い起こすのが数学者岡潔のそれをテーマとした随筆群だろうと思う。この情緒論素描を書き始めたとき、私もそれが念頭にあった。しかし、あえて直接参照することはひとまず避け、私自身がこの語に込めたい語感を頼りに書いてきた。
 その上で、岡の情緒に触れた多数の随筆の中からいくつか拾い読みした。かつてそれらを熱心に読んだのは、1970年代の終わりから1980年代前半にかけてのことだった。何がきっかけだったか、もうよく覚えていないが、おそらく岡潔と小林秀雄の対談『人間の建設』(初版 1965年)を読んで、興味を掻き立てられたのだと思う。
 岡潔の随筆集は、刊行後たちまちベストセラーとなった『春宵十話』(1963年)を皮切りに、生前発表された最後の著書『神々の花園』(1969年)まで、矢継ぎ早に刊行された。それから半世紀立った2010年代半ばになって、角川ソフィア文庫として、『春宵十話』(2014年)、『夜雨の声』(2014年 山折哲雄編)、『春風夏雨』(2014年)『『風蘭』(2016年)『一葉舟』(2016年)が刊行された。同じく2016年に、新潮社から森田真生の優れた編集による岡潔撰文集『数学する人生』が刊行され、昨年文庫化され、次いで電子化された。『日本のこころ』(講談社文庫 初版 1971年)の電子書籍版も昨年出た。一昨日の記事で言及した森田真生の『数学する身体』(新潮社 2015年 新潮文庫 2018年)が岡潔の思想への関心を新たに高めるのに大きく貢献したことは間違いないし、2008年に刊行された高瀬正仁の『岡潔 数学の詩人』(岩波新書)も忘れるわけにはいかない。
 この関心の高まりにはそれ相当の理由があると思う。そこには私たちが忘れかけている何かとても大切なことが平易な日本語で瑞々しく表現されている。似たようなテーマを倦むことなく繰り返すその文章群は、美しい音楽のようにこちらの心に沁み入るように響く。
 しかし、ただ読んで感心するだけ、頭で理解しただけでは、あまり意味がないだろう。岡自身、毎日新聞に「春宵十話」を連載したあと、読者から彼のところに届いた手紙について、「一番心配なこと」と題された文章で、次のような厳しいことを言っている。

一口にいうと失礼ながら観念の遊戯と思われるのが大部分だった。私が一番心配しているのは、心配しなければならないことを心配しないといういまの風潮なのである。

 岡の心配は募る一方であるが、希望を失っているわけではない

 心配すべきことをちっとも心配しないという傾向は、ますますひどくなっている。だから私がいまその傾向が不安だといくら強調しても、せいぜい岡のいっていることはおもしろいという程度に受取られて、不安とは受取られない恐れがある。それならばしゃべればしゃべるだけ観念の遊戯の種子をまくだけになってしまう。となれば別の方法を考えなくてはと思うが、よい方法も思い浮かばない。ただ、手紙などくださらなかった人の中に、かえって私のいいたいことを理解してくださった方がいるように思え、そこに希望をつないでいる。

 岡の言葉に耳を傾けつつ、私は私で、甚だ稚拙ではあっても、情緒論を育て、実践していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


チームワークを乱すメンバーに対していかに対処するか

2020-09-25 22:01:49 | 雑感

 連載「情緒論素描」、今日はお休みします。今朝の時点では今日も連載を続けるつもりでいたのですが、夕刻以降に入ってきた数通のメールのせいで、すっかり気分を乱されてしまいました。
 特定の個人攻撃になってはいけないので、例によって、漠然とした言い方になってしまうのですが、一言でいうと、「あんた、何様なの?」って話です。どうしたらそういう無礼な物言いができるのかと言わざるを得ないメールを、直接あるいは間接に続けざまに受け取って、どちらかと言えば温厚で、虫も殺さぬ優しい性格(嘘も大概にせんかい!)の私も、ちょっと唖然としてしまったんですね。
 で、考え込んでしまったんです(言うまでもありませんが、自分のことは棚に上げてですよ。だって、そうしなければ、私、何も考えられませんもの)― どうしてそういうことになるのかなあって。もちろん、私も人様にそういう思いを散々させたことがあったであろうことは直ちに認めます(平身低頭)。
 そんな私でもね、柄にもなく、あるチームを束ねる立場に今あるわけです(決して望んでなったわけではありませんが、もう三年間も。でも、あと一年で、それも、お・わ・り!)。幸いなことに、とてもいいスタッフに恵まれて、これまでチームワークという点で問題が発生することはありませんでした。それどころか、足りないところだらけの私を皆が支えてくれたおかげでここまでなんとかやって来られたというのが実情です(なんかユート―セーくさい言い方だよね~ ― だってぇ、私、実際、優等生だったしー)。
 ところが、今回、明らかにチームワークが乱れる事態が発生しつつあります。その「火元」は明らかなのですが、それへの対処の仕方はかなり神経を使うデリケートな状況に今置かれています。一言で言うと、同僚間の意思疎通の不全という、どんな職場でもあるありきたりな問題なのですが、それを解消するためには、一応まがりなりも彼らの上司である私は、最良と思われる順番で当事者たちに話を聴き、その上で、現状で可能な最良の選択を提案しなくてはなりません。
 問題が単に意見の相違とか考え方の違いということであれば、つまり最終目的において一致している場合は、解決策を見つけることもさほど難しくありません。ところが、今回の事態はそれより深刻です。そもそも相手の話を聴かない、というよりも聴けない、そして自分で勝手にプログラムを組んでしまって、それをチームとしての仕事のために適宜変更する柔軟性を持てない人がチームの中にいると、そのチームの生産性は著しく低下するだけでなく、チーム全体の仕事への意欲も低減してしまいます(だったら、なんでそんな人間を採用したんだよってことですよね。はい、確かにそれは私の責任です)。
 幸いなことに、私が全面的な信頼を置き、かつ実際によく仕事のできる人たちがチームのコアを固めていますから、全体として大きな破綻はないだろうと思われますが、そのコアを担う人たちにしてみれば、どうしてこんな余計な苦労をしなくてはならないんだよぉと不満に思うでしょうし、何よりも、それによって不利益を被るのは学生たちで、それについて私たち教員は言い逃れができません。
 まあ、何ができるわけでもないのですが、こういう事態になったときにも、あんまり深刻ぶらずに、なんとか対処しようと思えるようになったくらいには、数十年の馬齢を重ねて、成長した、と思いたいのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(四)― 情緒が心のうちにあるのではなく、心が情緒のうちにある

2020-09-24 23:59:59 | 哲学

 情緒は心の内にしまっておけるようなものではない。独り心の内にしまっておけるような心情や感情は情緒ではない。情緒は一人一人の人の心より広い。その心の内にも外にも広がっている。いや、そもそも、このように心の内と外を最初から分けて考えるという悪癖から解放されないかぎり、情緒がわかるようにはならないだろう。情緒が身に沁むということもないだろう。情緒の中に心があるのであって、その逆ではない。情緒があるから心と心が繋がる。情緒は心と心とが繋がる可能性の条件である。
 森田真生が『数学する身体』(新潮社 2015年、新潮文庫 2018年)で言っているように、「わかる」という経験は、「脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する」。「「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある」。こう述べた直後に、「わかる」という経験の本来の深さを直截に示す例として、岡潔がしばしば挙げている「他の悲しみがわかる」という経験に言及している。『日本のこころ』(講談社文庫 1971年)収録の「情緒」と題された文章から該当箇所を引用しよう。

たとえば他の悲しみだが、これが本当にわかったら、自分も悲しくなるというのでなければいけない。一口に悲しみといっても、それにはいろいろな色どりのものがある。それがわかるためには、自分も悲しくならなければ駄目である。他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると、かえってその人を怒らせてしまうことが多い。軽蔑されたように感じるのである。
 これに反して、他の悲しみを自分の悲しみとするというわかり方でわかると、単にそういう人がいるということを知っただけで、その人には慰めともなれば、励ましともなる。このわかり方を道元禅師は「体取」と言っている。ある一系のものをすべて体取することを、「体取」すると言うのである。
 理解は自他対立的にわかるのであるが、体取は自分がそのものとなることによって、そのものがわかるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(三)― 情緒でわかるということ、あるいは共感的パトス

2020-09-23 23:59:59 | 哲学

 情緒でわかるということは、なんとなくわかったような気分になるということとはまるで違う。
 よく私たちは、「頭では理解できるけれど、どうも腑に落ちない」という類の表現で、相手の話に対する納得しきれない心的状態を吐露することがある。この「腑」とは「はらわた」、つまり内臓のことであり、そこまで考えが染み透らないと、ほんとうにわかったとは言えないから、このような表現があるのだろう。
 もう三十年近く前の話である。大学院生のとき、デイヴィッド・ヒュームの『人間知性研究』を英語原典で購読する演習で、ある日のこと、私を含め出席していた学生たちが様々な解釈を述べた後、それらに対して先生が「どうも腹の底からわかったという気がしないなあ」と首を捻られたのがとても印象に残った。今でもその時の教室の雰囲気をよく覚えている。そうか、わかるということはそういうことか、と、いまだ本当にはそういう経験をしたことがなかった私は、わかるということは身体的に生き生きとした感覚を伴うものなのだということにそのとき気づかされた。
 あることが情緒でわかるようになるということは、そのような身体感覚を伴うだけでなく、自分を取り巻く人たちおよび私たちが生きている世界との関係がそれ以前と以後とで変容する経験なのだと思う。知的な理解に留まるかぎり、仮に世界をそのように見ることにも合理性があるとまでは言えても、その理解の仕方にしたがって自分の感覚に変容が起こるわけでもなく、認知される世界はもとのままであり、私は相変わらず他者と世界に対して以前と同じような行動を反復する。実際、何も変わってはいないのだ。
 情緒は他なるものとの共生の根柢にあってそれを可能にしている共感的パトスのようなものなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(二)― 風景として表現され、生きられるものとしての情緒

2020-09-22 11:45:51 | 哲学

 昨日の記事で引用した新海誠の言葉の中で特に重要だと私に思われるのは、彼が情緒の例として夜景の映像による描写を選んでいることである。しかもそこに音楽をかぶせると言っている。つまり、音楽(あるいは音響効果)と相俟ってスクリーン上に描写される映像としての風景が情緒を喚起するということである。
 新海誠によれば、情緒とは、感情の一種であり、「人の営みがかもしだす感情」だと限定される。しかし、この感情は私たちが日々それぞれに感じ表現するいわゆる感情とは違う。つねに変化してやまない感情とも違う。窓の灯りの明滅ひとつで喚起され得るものであるということは、情緒は風景として表現されうるものであり、映像ではない現実の世界であっても、ある風景が情緒を表現している、いや、情緒そのものだということもありうる。
 情緒は、内面と外界とを対立させる考え方とは馴染まない。情緒は、風景に瀰漫するもの、あるいは浸潤しているものである。そのとき、その風景そのものが私たちの心なのだ。「下町情緒」と言うとき、それはその街の風景を対象化してその特徴を言おうとしているのではなく、その風景の中に自分も心地よく浸っている状態を表現している。情緒はそこにおいて生きられていると言ってもよい。
 私たちがある出来事に際会して心を揺すぶられ、ある感情が抑えようもなく沸き起こるとき、それが喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、それらは情緒とは呼ばれない。情緒は、それを分割したり、分析したり、何か他のものに還元したりすることができないなにものかである。
 感情は私たちの判断を誤らせる要因となりうるが、情緒にそれはない。悪感情はありうるが、悪い情緒というものはない。感情は理性的に抑制しうるが、情緒は理性の統御下にはない。情緒は、辞書的定義によく見られるような「さまざまな感情を含んだ複雑な感情」というよりも、諸感情の基底にあるより根源的な人間の存在様態のようなものだと言うべきではないだろうか。
 主知主義に対立する思想傾向を情緒主義(emotionalism)と呼ぶことがあるが、これは emotion に「情緒」という訳語を充てたことからそう訳されているだけのことで、今ここで私たちが問題にしようとしている情緒とは異なる。情緒は、「情」という同じ漢字を共有する「情念」「情動」「情感」「情意」などの諸概念とも異なる。
 「情緒」という語の語源を探っても、情緒とは何かという問いへの答えは見出だせそうにない。むしろ、私たちが現に生きている世界への現象学的アプローチの中に、この問への答えへと至る途があるように私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(一)― 新海誠『小説 言の葉の庭』「あとがき」の一節を手がかりとして

2020-09-21 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の授業で、新海誠作品を読み解くためのキーワードの一つとして「情緒」という言葉を挙げた。直ちにある学生から「情緒ってなんですか」と質問があった。確かにこの語の定義は難しい。日本語でする授業だから日本語で答えたが、フランス語で説明したとしても、納得のいく解答を与えることは容易ではなかっただろう。
 一つの概念を単独で定義してみても、仮に一定の定式化は可能であるとして、それでその概念が理解できたということにはならない。学生の質問に対しては、さしあたりの解答として、他の類義語との用法の差異を例示するだけにとどめ、「情緒とは何か」という問いそのものは開かれたままにしておいた。「風景と情緒」は、まさにこの講義の重要なテーマの一つであるから、解答を急ぐよりも、問い続ける姿勢を学生も私も持続させることのほうが現時点ではより大切なことだからである。
 例えば、感情、心情、心理、気分などと情緒とは違う。情念、情動とも違う。ある町の風景について「情緒がある」とは言えるが、同じようなことを言うためにこれを上掲の他の語に置き換えることはできない。一方、「風情がある」はかなり近い。「かおりがする」も重なるところがある(ちなみに、どうでもよいことだが、平成生まれの小生意気なガキや小娘が「昭和のかおりがする」とか、わかったような顔してほざいているのを聞くと、私は殺意を覚えるのを抑えることができない)。「情緒不安定」とは言うが、上掲の他の語と「不安定」とは同じようには直接しない。サルトルの『情緒論粗描』の原題は Esquisse d’une théorie des émotions であるが、この émotion と情緒はまったく違うものだと言っていいだろう。
 新海誠は『小説 言の葉の庭』の「あとがき」には、情緒についてとても示唆的な次のような一節がある。そこを学生たちに読ませて、情緒の意味を考え続けることを求めた。

 たとえば「情緒」のようなもの。街の夜景の絵を描くとする。そこに、切なさを含んだ音楽をかぶせる。どのタイミングでも良いので、どこかの窓の光をひとつ灯す、あるいはふいに消す。それだけで、情緒としか呼びようのない感情を観客に抱かせることが、映像ならばできる。情緒とは要するに「人の営みがかもしだす感情」だから、窓の灯りひとつで、映像ならばそれを喚起させることができるのだ。

 この一節を手がかりに、情緒についてしばらく考えてみよう。