内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する積極的態度(一)警告 ― 受苦の現象学序説(20)

2019-05-31 01:14:07 | 哲学

 痛みに対する最初の積極的態度は、痛みを身に迫る危険に対する警告として捉えることだ。
 私たちが身体に感じる痛みは、私たちを脅かす危険を知らせる一種の警告として機能している。このことだけをとっても、痛みそれ自体が悪いものではないことがわかる。痛みは、差し迫った危険に対して、身を守るために有効な反応であり得る。我が身に危険が差し迫っているのに、それを察知するのに知識によるほかなく、痛みを感じるという本能的な反応によって自己防御できないとしたら、無知な生体はまったく無防備なまま環境世界の中に投げ出されていることになる。痛みは、一つの兆候であり、私たちの身体にそれに対する抵抗を引き起こし、私たちの身体に備わる諸力を自己防衛のために動員させる。
 一応はこう言えそうだ。しかし、実のところ、事はそれほど単純ではない。痛みの大きさは身に迫る危険の大きさに対応しているとは限らない。命に関わる危険が迫っているのに痛みを感じないということさえある。痛みの役割が私たちの身体を自己防衛のために動かすことにあるとしても、私が致命傷を負い、それによる激しい痛みを感じても、もはや為す術がない。
 痛みは、差し迫った危険に対して、自己防衛のために持てる力を動員するように身体を仕向ける身体の自発的な反応だと定義することは、したがって、本能と存在の目的性を過大評価することになるだろう。生体の自己保存本能という目的ための生得的手段として痛みを定義することには無理があるのだ。
 痛みの中に身に迫る脅威を察知するのは、ほかならぬ私たち自身だ。私たちがそう解釈するのだ。つまり、痛みそのものが警告なのではない。痛みが警告として機能するようにしているのは私たちの意識なのだ。
 他方、危険は私たちの身体の外にあるとは限らない。私たちの内に痛みを伴わずに潜んでいることもよくある。逆に、歯痛の場合のように、痛みに苦しんでいるのに、命に関わるような危険はそこにないという場合もある。
 痛みが私たちのうちに引き起こすのは、私たちの身体に害を与えるものと私たちが望んでいることとの間の葛藤である。この葛藤のうちに長く留まることに私たちの意識は耐えられない。
 そんな状態にあるとき、痛みによって失われた内的統一を回復しようとするのは個々の精神の働きだ。痛みは私たちに考えさせる。それは、単に痛みを取り除く手段を見つけるためだけではない。その痛みが何なのか、外界と自分との間の調和が崩れた理由は何なのか、どうしたらこの不調和を乗り越えられるか、さまざまなことを考えさせる。
 そうすることで私たちの生はより豊かにされ、私たちの運命に意味が与えられる。












痛みの拘束は私たちの意志の対処次第で生に輝きを与える ― 受苦の現象学序説(19)

2019-05-30 13:36:34 | 哲学

 痛みと悪の間の関係という問題において、私たちにとって重要なのは、痛みそのもの価値を探すことではなく、意志がしかるべく働くときに痛みが私たちに与えることができるものを探すことである。
 確かに、痛みの中には、自己分裂があり、内的存在の葛藤、さらには断絶さえある。痛みのせいで私たちの意識の統一は失われてしまう。私たちのうちに、苦しむものと苦しみを望まないものとが同時にいるだから。しかし、私たちの裡なるこの葛藤状態こそが、痛みはほんとうに存在の剥奪なのかどうかと私たちに自問させる。
 痛みを存在の剥奪と考えることは正しくもあり間違ってもいる。それが正しいのは、痛みがあるのは私たちが何らかの損傷を被っているからである。正常な状態から何かが欠けているからである。それが間違っているのは、痛みは、私たちの意識に平常ではありえないような興奮状態を引き起こし、それに先立つ平穏な状態に対して、強烈な際立った心理状態を生じさせるからである。このことが、痛みがあたかも自分自身のもっとも個人的な部分を成しているかのように、自分の人生の中で痛みに特別な重要性を与えるようにさせる。
 痛みは私たちの意識を拘束する。私たちはそうされることを拒否しようとする。しかし、その痛みの拘束に対する私たちの意志の対処の仕方次第で、痛みは私たちの生にそのもっとも見事な発展を与える。この事実は、まさに感嘆すべきことではないだろうか。















痛みに対する否定的態度から積極的態度への変換はいかにして可能か ― 受苦の現象学序説(18)

2019-05-29 23:59:59 | 哲学

 今日から、痛みに対する積極的態度の諸相・諸段階を見ていこう。ラヴェルの受苦論のもっとも重要な箇所であり、その重要度に応じてもっとも多くの頁が割かれている。今まで以上に注意深くテキストを考察していきたい。
 四つの積極的態度とは、順に、警告(avertissement)、精錬・深化(affinement・approfondissement)、共感(communion)、純化(purification)である。四つの否定的態度がそうであったように、四つの積極的態度も相互に密接に連関している。しかし、それだけなく、それらは痛みに対する態度の四つの発展段階でもある。
 ラヴェルは、これら四つの態度について順に論述する前に、否定的態度から積極的態度への移行過程について考察している。
痛みがあるとき、意識はつねに危険にさらされており、否定的態度のいずれかが発現する可能性はいつもある。というよりもむしろ、それらの態度はただ何らかの仕方で意識の表面から覆い隠されているだけだと言ったほうがよい。それらの態度と戦い、それを変換できるかどうかは私たち次第である。
 痛みに対する否定的な態度はなぜ生じてしまうのだろうか。それは、私たちが痛みを一つの出来上がった現実として受け取り、それを排除するか甘受するかのどちらかしかないと考えてしまうからだ。ところが、痛みは、私たちが思う以上に、私たちの精神活動と密接に結びついている。この精神活動は、痛みに耐えるだけでなく、その中に入り込み、それを我がものとしなくてはならない。
 痛みは、単なる存在の剥奪でも減少でもない。痛みの中には、積極的な要素もあり、その要素は私たちの生の中に組み込まれ、その生を変える。痛みに襲われるとき、私たちはまずそれを排除しようとする。しかし、過去を振り返ってみるとき、自分がかつて感じた痛みが自分にもっとも大きな作用を及ぼしたことに気づく。痛みが私の生に刻印を残し、私の人生に真剣さと深みを与えた。その時々に感じた痛みからこそ、生きるように定められたこの世界について、自らの運命の意味について、もっとも本質的な教えを引き出した。そう私は気づく。












痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(四) ― 受苦の現象学序説(17)

2019-05-28 16:39:13 | 哲学

 痛みに対する否定的態度の四番目は、迎合(complaisance)である。フランス語の原語には、何かに迎合するという意味と自分を甘やかすという意味との両方が込められている。
 痛みが引き起こす苦しみに独り悦に入って浸るというのは、しかし、矛盾していないか。あるいは倒錯的ではないか。
 迎合は、徹底的な痛みの排除への衝動として発現する憤激とは真っ向から対立しているように見える。両者の間にあるのは、消沈と憤激との間にある対立以上に根本的な対立であるように見える。なぜなら、迎合的態度においては、痛みを自己の外に排除しようとするどころか、自己の内奥に痛みを抱え込み、それを維持し、育みさえするからである。痛みから一種の陶酔を引き出そうとさえする。この苦い享楽を人は好む。
 実のところ、憤激は迎合からそれほど遠く離れてはいない。両者の間にはむしろある種の共犯関係がある。世界に対する憤激は、世界によって自分は苦しめられており、自分には世界に反抗するだけの正当な理由があるという感情によって強化される。私は、被っている不正義そのものがつねにもっと大きく見えることを望む。それだけいっそうよく自己が正当化されると思っているからだ。
 苦しみへの迎合は、自己への迎合、つまり自己満足でもある。苦しみは、私たちのもっとも個人的な存在に属しており、ある意味で私たちの意識の繊細さの徴であるから、私たちの属性であるように思える。苦しみは、私たちを周りの人たちから引き離すが、自分を特別なものにもする。私が受け、他の人たちは知りもしない私の苦しみは、私の運命の徴であるかのようだ。
 苦しみには、それが何か例外的なものであることを望む傾向がある。それが誰にでも起こりうるようなありきたりのものではないことを望む傾向がある。苦しみへの嗜好のようなものがある。私たちが人の苦しみを見て、何とも説明し難い満足のようなものを密かに感じてしまうのはなぜだろうか。それは、その人の実存をそこで目の当たりにしているからだろうか。
 ちょっとした苦しみでさえ、私たちの注意を引きつけ、気持ちを動かすことがある。何らの苦しみも感じないままで、深い感情によって人は心を動かされることがありうるのだろうか、とさえ問うことができる。私たちの感受性が豊かかどうかは、どれだけ喜べるかどうかよりも、どれだけ苦しむことができるかによって測られるように思われる。
 人がその心のうちを明かし、自己自身のもっとも深いところまで入り込み、世界との繋がりを見つけ、自分のもっとも大切に思っていることを発見したと確信が持てるのは、自分が苦しんでいることを告白しなければならないときだけだからこそ、無数の文学作品がそれをテーマとしているのではないだろうか。
 痛みへの迎合にあって私たちを蝕む悪はなにか。世界への疑惑が自分への甘やかしと混ざり合い、自分が感じている痛みにあまりも私たちを執着させるところにそれはある。












痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(三) ― 受苦の現象学序説(16)

2019-05-27 12:42:27 | 哲学

 痛みに対する否定的態度として三番目に挙げられているのが分離である。
 痛みは、私たちに自己の個別的存在性を強く感じさせる。痛みは、私たちに「私はここにいる」と言わせずにはおかない。人を痛めつけることによって、その人の個別的存在の核心部にまで到達する。私たちが考えていることなど私たちの存在にとって外的なものでしかないことが、痛みによってそれこそ痛感される。私たちは激しい痛みという代償を払ってしか自己の現実の本質に達することができないのであろうか。耐え難い痛みの極点においてもっとも強く感じられる私たちの生命は、まさにそこでもはやこれ以上耐えられないものとなるほかはないのであろうか。
 私たちの内奥の最深部にまで侵入してくる痛みは、私たちを孤独のうちに閉じ込め、他者たちから遠ざけようとする。痛みは、それが激しければ激しいほど、私に私以外のことを考えられなくする。人のことを気にかける余裕などまったくなくなってしまう。痛みは、このようにして人々の間に分離を生じさせる。
 同情や憐れみによって痛みが和らぐことなど、ほとんど奇跡に近く、それは神の如き業だ。痛みに苦しむ人は、自分のうちに引きこもり、他者とのコンタクトを失う。それだけではない。自分が苦しんでいる痛みの強度と質との中に、自分だけが経験している何かを感じる。「あなた(たち)には、私がどれだけ苦しんでいるか、どんな痛みか、想像もできない」と言わせる何かがある。
 他者からの分離には別の新しい痛みが伴う。それは逃避だ。それは本能的でもあり自発的なものでもある。それは自分を探し求めることと不可分だ。「放っておいて」(あるいは「そっとしておいて」)と苦しむ人は言う。たとえそれが恩義からであれ友情からであれ、それに応えて何かしなければならないことが辛いのだ。
 痛みが悪になるのは、痛みが私たちを自己のうちに閉じこもらせるからではない。なぜなら、自己のうちに私たちは自分を深化させる原理を発見することができるからだ。痛みが悪になるのは、他者からの分離を悪用してしまうときだ。逃避し、分離を望み、それに執着し、果てしなく深刻化させてしまうところに問題がある。
 そんなとき、私たちは世界とのあらゆる絆を断ち切って、苦痛なエゴイズムの中に自分を閉じこめようとする。それは憤激の為せる業でもあり、自分の置かれた状態に甘んずる自己満足への傾斜がそこにすでに見られる。












痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(二) ― 受苦の現象学序説(15)

2019-05-26 02:30:19 | 哲学

 痛みに対する第二の否定的態度は、昨日の記事で使った言葉をそのまま使えば、反抗なのであるが、以下の内容を見ればわかるように、「反抗」より「憤激」(激しい怒り)のほうが適切だと気づいたので、そのように訂正する。昨日の記事のタイトルも本文も同様に訂正する。
 一見すると、憤激は、第一の態度消沈の反対であるように見える。これもまた否定的な態度だとラヴェルがみなす論拠を見ていこう。
 私は、痛みの中に私の意に反して入り込んできた余所者を感じる。その余所者が勝手に私の意識をすっかり占領し、支配し、意志を無力化し、私の心を荒しまわり、私をめちゃくちゃにする。このとき、苦しむことは、痛みに対して私の内部で立ち上がった抗議にほかならない。苦しむこと、それは自分が苦しまなければならないことへの異議申し立てにほかならない。痛みを自分から叩き出そうとする。痛みを引き起こす原因を抹消しようとする。
 憤激は、限度を知らない。痛みに対して異議申し立てをすることにとどまらず、生命に対しても世界の秩序に対しても異議申し立てを行うまで突き進んでしまう。ほんの僅かな痛みがあるだけで、それを可能にした世界を弾劾するのに十分だと思い込んでしまう。
 痛みは、私のもてる力をすべて痛みに対して差し向けさせる。しかし、私は、結局、痛みを我がものとし、支配下に置くことには成功しない。痛みに対しての怒りに駆られた人間は、痛みに対していかなる判断も下そうとしない。痛みの中に何か理解しうるものがないかどうか、探そうとしない。痛みは、それを通じてしか手に入れることのできない良きものの条件なのではないかと問うてみようとはしない。
 痛みに対する憤激は、私たちの無力を顕にするだけだ。憤激は、痛みから何か良きものを引き出そうという試みを不可能にしてしまう。そこでは痛みも消えるであろう新しい世界を立ち上げることを不可能にしてしまう。憤激は、ただ破壊しようとするだけだ。痛みそのものに対しては為す術もなく、それを引き起こす原因に対して戦うのではなく、その痛みに場所を与えた現実、その痛みを内に含んでいる世界そのものを否定しようとする。果ては、痛みに苦しむ自分まで否定しようとする。
 痛みそのものが悪なのではない。痛みの中に何か意味を探そうともせず、自らをより大きく強くするために乗り越えなくてはならない試練を痛みのうちに見出そうともせず、痛みを口実として生命に歯向かい、無を存在へと昇華させようとするかわりに、存在を無へと投げやること、それが悪なのだ。












痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(一) ― 受苦の現象学序説(14)

2019-05-25 07:26:02 | 哲学

 ラヴェルは、痛みに対する四つの否定的態度として、消沈(abattement)・憤激(révolte)・分離(séparation)・迎合(complaisance)の四つを挙げ、順次その様態を記述していく。
 今日の記事では、最初に挙げられている態度、消沈についての記述を摘録し、それについての私のコメントを若干付す。
 痛みは、私たちの意識を消沈させ、いわば麻痺させる。自ら何かを進んでしようという気になれない。このとき私たちの内部で起こっているのは、自己との対話の放棄である。しかし、この対話がなければ、考えることも意志をもつこともできない。
 痛みゆえに消沈した意識は、すっかり受け身になってしまったのだろうか。いや、意識の活動がまったく停止してしまうことはない。衰弱したり、諦めたりする。しかし、誰も己のもてる力を超えたことを痛みに要求されることはない。むしろ、己のもてる力をもう消尽したかどうかは誰にも確実にはわからない。痛みにすっかり打ちひしがれているとき、それでもなお訴えかけることができたかも知れない己の存在の底に秘された源泉などもはやないと、過ちを犯す畏れなしに表明できる人は誰もいないだろう(このあたり、精神的存在の無尽蔵を信じるラヴェルの哲学の特徴がよく出ている)。
 激痛によって消沈・衰弱させられているとき、いわばその代償として、痛みは若干緩和する。もう痛みに向き合おうとしなければいい。痛みにすっかり意識を明け渡し、人格が解体してしまえば、もはや痛みを感じる主体がそこにはいない。この主体の消失が消沈において痛みが見出す唯一の「療法」だ。












痛みによって失われたものが促す新しい存在の生成、あるいは自由の勇気 ― 受苦の現象学序説(13)

2019-05-24 11:49:03 | 哲学

 身体的苦痛がある程度を超えると、たとえ毎日肉体を鍛え抜いているアスリートでさえ、本来の調子は出ないし、記録も好調時に比べて落ちる。一般的に言って、痛みが度を超せば、普段のように行動できない。いずれの場合も、普段の自分の状態から何かが奪われているか、失われているか、欠落している。つまり、痛みは私たちに何かを失わせる。それが取り戻すことができるものであっても、しばらくは自分から何かが失われている。
 しかし、それを知っているということは、痛みのないときにはなかったことである。痛みというマイナスによってはじめて得られるプラスである。しかも、痛みについて正確に知れば知るほど、意識の中に以前にはなかった新しい存在が生まれる。
 痛みは、私たちに厳しい現実を突きつけるかも知れない。しかし、その痛みについての意識もまた現実なのである。この痛みの意識は、痛みに抗して、痛みのおかげで、痛みにもかかわらず、痛みを手立てとして、私たちにとってのより本来的で、深く、個別的な現実を形成する。
 このあたりの展開は、いかにもラヴェルらしいところだ。ラヴェルにとって、存在とは、acte (おこない・はたらき)であって、意識はまさに acte であり、したがって、意識がそれまでになく鋭くなるということは、新たな存在の生成にほかならないからだ。
 痛みのないときの溌剌とした自発性は、痛みのせいで失われたかも知れない。しかし、その喪失が私に反省的思考を促し、新たな意志をもたらす。無意識の自発性が本能的なもの或いはそれに近いものであるのに対して、反省と意志は、私たちの活動をそれだけ精神的なものにする。失われたものをなんらかの獲得に変換させられるかどうかは私次第だ。この意味で、悪を善に変えられるかどうかは私次第だ。誰もがというわけにはいかないが、人によっては、喪失の試練の大きさがそれだけその人の精神を純粋かつ豊かにするということがある。
 痛みに起因する喪失あるいは喪失の痛みに直面させられるとき、私たちの自由の勇気が試されている。












痛みが消えても、苦しみがなくなるとは限らない ― 受苦の現象学序説(12)

2019-05-23 18:16:46 | 哲学

 痛みと苦しみについての昨日までの記事を読まれて、同じようなことを繰り返し述べているだけという印象を持たれた方もいらっしゃることだろう。ラヴェルのテキストを咀嚼しながら、その過程を通じて私自身の考察を少しずつ深めていこうとしているのだが、その歩みは遅々としている。が、焦っても仕方ない。この哲学的考察の重要性については確信があるので、焦らずに坑道を掘り進めていこう。
 ちょっと予告しておけば、ラヴェルの後に読解対象として控えているテキストは、ニコラス・ベルジャーエフの Dialectique existentielle du divin et de l’humain (1947) の第五章 « La souffrance »、エマニュエル・レヴィナスの談話 « Une éthique de la souffrance » (1982)、ポール・リクールの論文 « La souffrance n’est pas la douleur » (1992) である。
 さらに、シモーヌ・ヴェイユとミッシェル・アンリがその後に続く。ただ、この二者の哲学にとって、souffrance は決定的な重要性を持っており、しかも一つのテキストに限局して論じるわけにはいかないので、準備にもそれ相当の時間がかるだろう。ただし、ミッシェル・アンリについては、博士論文の中で souffrance の問題を取り上げた節があり、そこを見直し、発展・深化させるという形で考察を展開するつもりだ。
 今は、何はともあれ、ラヴェルのテキストを読みながら、考察を続けよう。言うまでもなく、この記事は学術論文ではない。私的考察の域を出るものではない。論文ならば、ラヴェルの説と私の考えとをはっきりと区別しなくてはならないが、以下では、ラヴェルのテキストに依拠しつつ、私の考えをそれに絡ませるようにして論述を進める。
 苦しみは、身体的苦痛には還元され得ない。あるいは、それとは質的区別されなければならない。そのもう一つの本性は、苦しみは他の存在との関係の中で自己において経験されるところにあるとラヴェルは言う。苦しみの程度は、他の意識との私たちの繋がりの親密さや強度に応じて変わる。私たちは、自分が無関心な対象については苦しまない。無関心は、私たちにとって苦しみに対する自己防衛であるとも言える。確かに、いちいち他者のことで苦しんでいたら、それこそ身が持たないだろう。逆に言えば、苦しみの大きさが私たちにその他者との繋がりの強さ・深さを示す。
 痛みと苦しみとの違いは、前者はその外的原因が消失すれば消滅するのに対して、後者は私にとってもっと内的なものであるところにある。痛みが消えても、苦しみがなくなるとは限らない。苦しみにおいて危険に曝されているのは、私の精神的存在である。そこに一種の内的な弁証法的関係が己自身との間に生成する。良心と意思との間に揺らぎや葛藤が生じる。苦しみはそこから生まれる。私は苦しみの理由を探さずにはいられない。
 苦しみの大きさは、痛みの強弱のように原因との関係において計量することはできない。痛みは、倫理的には、良くも悪くもない。その苦しみ方についてのみ、良いか悪いかを問うことができる。なぜなら、苦しむことは私の行為だからである。












痛みの瞬間と苦しみの持続 ― 受苦の現象学序説(11)

2019-05-22 14:15:20 | 哲学

 痛みと苦しみの質的な差異について、ラヴェルはさらに考察を続ける。
 痛みは、身体に結び付けられているまさにそれゆえに、瞬間に結び付けられている。たとえ痛みが持続する場合でも、そこには断続があり、やわらぐときと激しくなるときとがあり、一種のリズムがある。痛みが鋭くなるとき、それは時間の持続の中へのその都度の突入である。痛みが止むとき、安堵し、期待に胸が膨らみ、まだ恐る恐るではあり、不確かではあるが、喜びも感じる。まだ慄きを感じもするが、もはやそこに痛みの性格はない。痛みがまた再発するかも知れないという恐れはあるにしても、痛みそのものを想像力で再生することはできない。
 痛みとは反対に、苦しみは、つねに時間と結び付けられている。苦しみの中で、苦しみは、その都度の現在においてつねにそれとして感得されている。苦しみは、つねに瞬間を放棄し、持続を満たそうとする。外部からやってくる原因によって更新される痛みとは違って、苦しみは、私たち自身の中にその糧を見出す。苦しみは、私たちが生み出す表象によっていわば栄養摂取する。
 苦しみは、すでにないもの、あるいは、まだないものへと向かう。自己正当化・自己保持のために絶えず賦活される記憶へと向かう。不確かな未来へも向かう。しかし、未来に想像される諸々の可能性の中に苦しみが見出すのは、苦悶を増殖させる手立てである。
 痛みを追い払おうとするのが意識の常態であるとしても、苦しみについては同じようには言えない。確かに、意識は、苦しむことを積極的に求めてはいないだろう。しかし、矛盾しているようだが、苦しみは一種の熱傷であり、内的な炎である。苦しみはその炎を絶やさないように新しい糧を自ら調達しなければならない。苦しみは、私の意識が完全な不活性状態になれば、存在しないであろう。私は絶えず苦しみに同意し、それを深めさえしなくてはならない。
 痛みは、体の一部にしか関わらない。ところが、苦しみにおいては、私の全存在が賭けられている。苦しみが収まったときでも、苦しみは私の人生全体に浸透し、それを変える。現実に、苦しみは、私の生きる持続を満たすだけでなく、持続そのものを超えていく。苦しみは、私の人生の一部にしか関わらないように見える。しかし、その名に値する苦しみは、私たちの存在の恒常的な状態を表現しているのであって、私たちの存在の本質にまで浸透している。