天道神社
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『天道神社
本社御祭神
天照皇大神
八幡大神
春日大神
境内社
約束稲荷神社
天道天満宮社
厳島社(弁財天)
八坂社
明治天皇 皇后(昭憲皇太后)
御胞衣埋納所
由緒
延暦十三年(七九四)桓武天皇が平安遷都されたとき国家安寧子孫長久万民豊饒を祈願して長岡京より当寺の三条坊門東洞院(現在の東洞院西御池上がる付近に勧請された
その後たびたびの兵火にあうが天正二年(一五七四)織田信長公より五条坊猪熊の此地を授かり遷座して今日に至る』
(説明板より)
『天道神社
伊勢神宮の天照大神を主神とし、八幡大神と春日大神を左右に三柱の神々を祀る。
天道宮と呼ばれ、山城の国の長岡の地(現在の京都府長岡京市)に鎮座したが、延暦十三年(七九四)の平安遷都とともに、三条坊門東洞院(現在の東洞院御池上る付近)に勧請された。
平安京に勧請された当時は、皇族をはじめ京の人々が常々集まり、荘厳な宮であったが、度々の兵火により焼失した。
天正二年(一五七四)に、織田信長により現在の地を授けられ再興したが、天明八年(一七八八)の大火で再び焼失し、その後は数度修繕されて現在に至る。
境内には、天照大神の姫君 市杵島比売命を祀る、厳島社、洛陽二十五社天満宮、約束稲荷神社、八坂社を祀る。また明治天皇の皇后昭憲皇太后の御胞衣(胎盤)塚があり、これは一条家に誕生した皇后の栄華祈願のため、父君がこの地に御胞衣を埋納したところ、十九歳のとき皇后宣下を受けられたと伝えられる。
毎年十一月三日には例祭(神幸祭)が行われるほか、五月十七日には、長い竿の先に季節の花を三方向に結び高く揚げる、天道花神事(てんどうばなしんじ)が行われる。
京都市』 (駒札より)
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天道神社は京都市街地のほぼ中心部にある。
昔からの古い道路が交錯する住宅街の中にあって、少し分かりにくい場所だ。天道神社の由緒については、上記の境内に掲げられていた説明の通り。神社そのものは決して広い敷地ではないが、鳥居をくぐりすぐ正面に拝殿・本殿が控えている。上記駒札のとおり、皇室との関わりが強く、菊の御紋章が垂れ幕に描かれていた。かなり有名な神社のようで、訪れる人は結構多いようだ。境内には社務所もありまた大木もあって、いかにも神社らしい。本殿も少なくとも正面から見る限り、立派な構えをしており、その全容は見るのはちょっと難しかったが、長い歴史と風格を感じさせる。
平安遷都と共に勧請されたとあるが、その頃から天道という名前があったんだろうか。祭人を見てみると、天照大神もあり、いわば古代の太陽信仰から、太陽の動きを天の道として崇めたものが、この名前になったと考えてもいいのかもしれない。
ずっと後世になって、戦国時代に天道信仰というものが神道と結びついて、仏教なども含めた統一信仰のような形で武士や人々の間に広まったことがあるが、この場合の天道とは関係があるのかないのかはわからない。
しかし古い歴史を持つ神社の名前については、神話や自然の摂理等の関係や影響がかなり強い形で見られる。それらはただ単に神社の名前だけではなく、それぞれの土地の名前においても同様なことが言えると思う。
天道神社の前に小さな稲荷社があって、これがおそらく境内社の約束稲荷社ではないかと思うが、そこまで確認はしなかったと言うか、予備知識なしで行ったので全くわからなかった。このような場所は車で行くのはなかなか難しく、どこかのコインパークにおいて後は歩いて回るのがいいだろうと思う。付近には多くの神社や有名な寺院もあってそれだけの価値がある。
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中堂寺
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天道神社から西へ移動し、中堂寺へ。
山門は閉まっていたが横の車の通用門から入る。全体的に細長い敷地。境内はなかなか見事な庭園を構成していて、様々な植物が配置され、樹木もを適度な大きさのものが並んでいる。その中に石造多宝塔や石造物などが少し置かれいいポイントになっている。幅の狭い境内の背後に、本堂が目の前に迫っている。敷地の割には大きな建物で、枠には所々彫刻が施されていて、いろんな工夫が見られる。残念ながらお寺の人に会うことは全くなかったが、全体的に静かな雰囲気のお寺らしいお寺と言える。
このお寺に関する情報は手持ちの書物にもネット上にもほとんど無いに等しい。わずかな情報をもとにすると、創建等の由来は不明とのこと。明確にこのお寺が登場するのは室町時代ではないかと考えられている。というのもここの地名に「中堂寺」という名称が入っており、室町時代の文献に登場するようだ。おそらく中堂寺ができて地名になった、と思われるが、そうであるならばもっと古い時期に建立されたとも言える。もともとあった地名に、後になってからお寺が出来たということで、あえて地名を変えるということはあるんだろうか。そのあたりよくわからないが、一説によれば平安時代の創建であるというのも出されている。
どちらにせよよく分からないというのが結論。
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