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『子守勝手神社
粟生村の産土神。この神社の由来は定かでないが「延喜式」によると、子守社は農業に大切な用水をつかさどる水分神を、勝手社は国土を開き国家を守り悪魔を降伏せしめる天忍穂耳尊・大山祇命などを祀る。
神社の縁起によると女人安産、子孫繁栄の守護神と書かれている。また、地元では、水の神様として親しまれている。
観音寺
天台宗。洛西観音霊場第八番札所。本尊、十一面千手観音菩薩。
寺の創建は奈良時代と言われる。文献で初めて見られるのは室町時代初の暦応三年(一三四〇)で、江戸時代末の『都名所図会』にも同寺の絵が描かれている。
長岡京市観光協会
(社)京都府観光連盟』 (説明書きより)
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長岡京市の紅葉で有名な光明寺の南側にある。
周囲は田畑が広がり、山裾を少し上ったところとなる。入り口の階段のところに駒札があり、上記のような比較的簡単な説明書きがあった。子守勝手神社と粟生山観音寺が一緒に記されている通り、両者は敷地を共有するかのように隣り合っている。
子守勝手神社については、上記の説明書き以上のことはよくわからない。「延喜式」と出てくるが、これは平安時代に編纂されたもので、仮にこの神社のことを記しているとすれば、平安時代以前には創建されていたことになる。しかし延喜式神名帳の記述はこの神社のことを直接指しているものではないとも言われている。「子守」という由来と「勝手」という由来について、延喜式に述べられているということで、この解説があるんだろう。
石段を登ると鳥居があってすぐ目の前に本殿がある。境内全体は隣の観音寺と同様、敷地全体が苔むした状態になっている。あえてそうしているのか、あるいはなかなか手入れがされていないのかはわからないが、おそらく前者のように感じられた。
神社そのものも隣の観音寺も、建物としては比較的きれいに整備されており、境内だけが放っておかれているとは思えない。そういった点ではこの苔むした境内に、多くの草花や樹木があるというのもなかなか趣があっていいと思う。
子守や勝手については、そのいわれについてネット上に想定された説明があったが、どこまで本当なのかどうかは分からない。どちらにしろこの両者の名前は、奈良の吉野の方にある神社から来たものと考えられているようだ。
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観音寺についても上記の数行の説明書き以上のことはよくわからない。僧行基の創建だとか、本尊の製作者とかいろんな説があって、非常に不明確。奈良時代の創建という説は何を根拠にしてるのかも全くわからない。このお寺が正式に歴史上の文献に登場するのが、室町時代なので、奈良時代とはかなりな差がある。もちろん今現在の観音堂は比較的最近に再建されたものだろうが、寺伝とか何か残っていないんだろうか。
境内は上にも述べたように、神社と続いているので同様に苔むしている。多くの草木が育っており、この時期は緑に囲まれて所々に花もあって、雰囲気としては決して悪くはない。その昔、江戸時代には神社と共に多くの参詣者で賑わったと伝えられているようだ。
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