切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

恋塚寺~念仏寺~妙教寺 京都市伏見区・・・有名無名あるが、どこもいいお寺

2019-05-29 23:48:51 | 撮影

恋塚寺



『戀塚寺
 利剣山と号する浄土宗の寺院である。
 寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤武者盛遠が、渡辺佐衛門尉源渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。
 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して、文覚と名乗り、彼女の菩提を弔うため、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。
 本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。
 境内には、宝筺印塔があり戀塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝えられている。本寺の縁起物語は、古来より人倫の大道を教えるものとして、物語、詩歌、謡曲などで知られている。
 京都市 (駒札より)

 
 恋塚寺は下鳥羽地域の国道1号線の西側にある。
 門前の通りは細いが抜け道のような形になっていて、結構車が多い。
 寺の名前の由来は上記の駒札の内容の通りだ。源渡の妻である袈裟御前が自分の身を呈して夫を守ろうとした、悲劇の物語からこの名前が付いていると言われる。境内にある宝篋印塔がその袈裟御前の墓ではないかと考えられている。
 寺の規模自体は非常に小さいもので、街道沿いの住宅が建ち並ぶ中にあるが、数台分の駐車場もあって、参拝者にとってはありがたい施設配置となっている。
 境内もよく整備されており、樹木が立ち並び過去の悲恋の話を知った上で訪れると、お寺に漂う落ち着いた雰囲気が、何か悲しさをもたらしてくれるような思いになる。
 平安時代の終わりにこの土地に、袈裟御前が住んでいたと言う。そこで起こった悲劇の事件は、直接彼女の夫を殺害する目的で、結果的には袈裟御前を殺めてしまった真言宗の僧侶である文覚が、1182年、お堂を建てたのがこの寺の創建に繋がると言う。
 文覚という人は元々は、遠藤盛遠と言う源氏側の武士であり、源渡の妻であった袈裟御前に惚れてしまったために起った悲劇であったわけだ。出家して文覚となった彼はその後、波乱に満ちた人生を送り、最終的には後鳥羽上皇により佐渡送りの刑に処せられるが、その道中に亡くなった。そのような物語が背景にあるということで、恋塚寺はその名前もあってか、結構人気のあるお寺のようだ。
      


念仏寺



 淀競馬場の近くにあり、すぐ近くを桂川が流れる。念仏寺という名前から浄土宗の寺であることは明白にわかる。
 しかし、この寺に関する情報が全くない。手持ち資料やネット上の情報も調べてみたが、どこにもなかった。唯一わかったのが、浄土宗捨世派という宗派の寺であるということだけ。
 門をくぐって境内に入ると、多くの樹木やツツジの花が綺麗に配置され、狭いながらも非常に良い雰囲気のお寺だ。本堂なども小ぶりではあるものの、全体として非常によくまとまった雰囲気に満ちている。
 名前から、何らかのいわれのあるお寺ではないかと想像しながら行ったものの、説明書きも何もなく、残念ながら無名と言っていいほどのお寺だった。しかし全体としてよく整備された良いお寺だと言える。なお、すぐ隣が次の妙教寺となる。
         


妙教寺



『妙教寺
 当山は寛永三年(一六二六)、大坂の富豪商人、法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室淀殿が住んでいたと伝わる淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺である。宝泉院日孝を開山上人に仰ぎ、寺地は新しい淀の初代城主、松平定綱公から寄進を受けた。
 十八世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保十一年(一八四〇)に再建されたものである。
 慶應四年(一八六八)、戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いでは周辺が戦場となり、一月四日、本堂の壁、柱を砲弾が貫通し、その跡と砲弾を保存している。平成二十五年(二〇一三)、京都市により、「京都市民が残しいと思う建物」に選定された。
 境内には淀古城跡の碑や榎本武揚揮毫の戊辰之役柬軍戦死者招魂碑、戦没学徒木村久夫の碑、当山鎮守きつね「小満・小女郎」の塚がある。
 京都市 (駒札より)

    
 最後に妙教寺へ行く。
 由緒については上記駒札の内容の通りだ。鳥羽伏見淀の戦いで大砲の弾が誤って着弾し、その跡が今も保存されており、またその時の砲弾がお寺に保存されている。もちろん堂内に入らないと見ることはできないが、この日は公開日でも何でもないので、後に写真で見ただけだ。その砲弾も思いのほか綺麗な形で残っていた。
 駒札の最後にある鎮守狐「小満・小女郎」の件について簡単に書いておく。
 その昔、妙教寺に狐の夫婦が住み着いていた。住職は小満・小女郎という名前をつけてかわいがっていたが、ある時狐夫婦が住職には内緒で、勝手に買い物をしたりして子狐に与えたりしていたことが発覚し、住職から寺を追い出されてしまった。
 狐夫婦親子は都の方へと歩いて行ったが、食べるものもなく小満が行き倒れとなってしまった。そこを貧しい老夫婦によって救われ、狐夫婦は感謝して老夫婦に、せんべいを作って売るように話した。そのせんべいが非常に美味しいということで都にその話が広がり、老夫婦は貧しさを脱却し金持ちとなった。こうして小満・小女郎はお稲荷様のお使いとして崇敬されるようになる。その後狐夫婦は妙法寺の住職の夢枕に立って、かつて犯した罪を詫び、お寺の鎮守としてお寺を守っていくと言う約束をしたと言う。この話に基づいた塚が境内にある。

    

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