切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

州見山 念仏院 安養寺~幣羅坂神社 京都府木津川市・・・古代の様子は?

2019-05-27 23:07:43 | 撮影

州見山 念仏院 安養寺



 岡田国神社から南へ約2 km。木津川市州見台にある安養寺に行く。
 近くを国道24号線、JR奈良線が走り交通の大動脈となっている。
 州見台について少し調べたが、全く何の資料もなく類推でしかないが、この辺り一帯は少し高台になっていて、特に京都南部の一帯がよく見渡せる。そういった点から「国(州)見」という地名が随分昔から使われていたんだろうと思われる。かつては単なる丘陵地帯だったものが今や、大開発が進められ多くの戸建住宅、マンションが建ち並び木津川市全体の人口は今現在も急増している。
 安養寺は本来ならば、その丘陵地の林に囲まれた中にあったと思われるが、現在は周りは住宅だらけ。背後に小山はあるものの、その意味では静かな風情はやや失われている感じがする。
   
 門から本堂にかけての構えはなかなか立派なもので、本格的な寺院と言える。本堂は少なくとも見た目には比較的新しいように見える。再建されたのか修復されたのか分からないが、かなり綺麗な建物だ。境内全体もよく整備されており、すっきりした眺めとなる。
 創建は奈良時代初めと考えられている。当時、東大寺の大僧正の役にあった行基が大仏造営の勅命を受け、この寺を開き近くを流れる木津川に祈りを捧げたのではないかと思う。
 木津川の名前の由来は、この地に水運の港があり、上流から上質な木材が運搬されここで陸揚げされて、平城の都に陸送されたと考えられている。そういった意味では、平城京の建設や大仏殿建設などに大きな役割を果たした重要な場所ということになる。
 ここ安養寺では僧侶による祈りが捧げられ、木津川の氾濫が無いように願いが込められたんだろうと思われる。
 その当時は州見山阿弥陀寺と呼ばれていたが、後年寺が荒廃し、再建をされた後に、総本山知恩院によって州見山安養寺と改称することになった。そこから念仏院の号も入れられることになったようだ。
   


幣羅坂神社 へらさかじんじゃ



 安養寺から南へ約100m。奈良街道沿いに幣羅坂神社がある。
 幣羅坂という地名に古代からの歴史を感じさせる。「古事記」や「日本書紀」にも出てくる地名だ。
 神社そのものは参道から境内に入ると、思った以上に広く正面に見える拝殿・本殿共に、これまた立派な建物だった。境内全体もよく整理されており、この地域の鎮守社として大切にされているんだろうと思う。
 祭神は、天津少女命(あまつおとめ)・大毘古命/大彦命(おおひこ・おおびこ)。
 古事記を中心とする様々な文献研究の中から、次のような推測がなされている。
 3世紀頃の大王と思われる崇神天皇が、大毘古命天に対して、越の国(現在の北陸地方)へ遣われる際に、幣羅坂である少女に出会い、その少女が繰り返し同じ歌を歌ったと言う。大毘古命は不思議に思って朝廷に戻り、この件を報告。その歌の内容から崇神天皇は側近の皇族による反逆の動きを知り、大毘古命が幣羅坂に戻ってその反逆を抑え込んだ。
 その時に彼は州見山に登って、神の社を築き祀ったと言う。後に朝廷はこの地に宮殿を建立。きっかけになった少女を「天津少女命」として祀り、この社は幣羅坂宮と呼ばれるようになったとのこと。後に「大毘古命」が亡くなった後、この地に一緒に祀られたと言われている。
 これが後に神社となるが、後年様々な変遷を経て春日神社と称することになった。明治時代になって神社側から請願が出され、現在の幣羅坂神社の名前に戻されたと言うのがこの神社の歴史ということになる。
    
 崇神天皇も祭神の少女や武将も、日本書紀や古事記に登場する人物だ。そういった意味では、この神社の創建後の由緒も神話に基づくものではないかとも考えられなくもない。しかし、古事記の記述は途中から事実を元にした記述になっていると言われている。ではどこから歴史的事実を反映しているのかという点については、様々な学説があって決定的なものはないが、ここに登場する崇神天皇は、実在の可能性が高いと言われている人物だ。
 もし実在していたとすれば、3世紀後半から4世紀にかけての天皇ということになる。古墳時代の終わる前だ。実在の根拠としてあげられているのは、それまでの登場人物や大王たちが、現在の奈良周辺の行動に限られているような文章であるのに対し、崇神天皇の話からは、一気に様々な人物の行動範囲や情景描写なども、かなり広い範囲になっていることから、具体的な事実を反映しているのではないかと考えられている。
 もちろんこれも諸説の中の一つに過ぎないことは確かだが、可能性ゼロというわけではない。特に少女の話などはどうにもこうにも、信じがたいような作り話的な感が否めない。そういった意味では、部分的に神話的要素を残しながら、周辺の状況の具体的な事実を入れ込んでいるような謂わば、記述の真偽の境目あたりになるのではないか、とも言えないでもない。
 こういう話についてはただ単に、古事記や日本書紀をを読んでみたというだけでは到底理解はできない。その後に発刊されたさまざまな古文書にも色々な記述があるだろうし、そういったものも全部含めて多角的な検証と推察が必要になってくる。素人の方でも随分詳しい方がおられるようだが、私のような社会科の教員をしていたくらいのレベルではとてもじゃないが、対応するのは非常に難しい。
 しかし様々な情報を読んだりしてみると、ある意味歴史的なロマンというものも感じるの確かだ。もちろんあくまでも科学的な視点で見ていくことが大事であり、神話の内容に真実性を覚えるようなことがあってはならない。最近では書店に行くと、漫画で読む古事記、などと言った何とも言いようのないような書物もたくさん出ている。入門用なのか、それとも古代英雄伝説の誇りを伝えようとしているのか、意図は分からないが、様々な角度から発刊されている書物にも十分気を付ける必要がある。とにかく学校の歴史教科書にも神話の世界が掲載されていると言う現実的な問題もあるし、十分気をつけてそしてことが大事だ。
  


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