対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

懐疑論の核心 ―― Zwei

2011-01-23 | 場との対話

 栗原隆氏の『ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法』(NHK出版 2004年)は「論理的なものの三側面」を基礎にしている。それは悟性・否定的理性・肯定的理性の三段階を踏襲している。わたしたちはこのような理性の直列構造を否定し、否定的理性と肯定的理性の並列構造を想定し、「ひらがな弁証法」を構想している。

 栗原氏の見解を取り上げ、わたしたちの立場を対置しておこう。栗原氏の本のなかに興味ある展開がいくつかあるのである。

  1 懐疑論
  2 展開論
  3 矛盾論
  4 規定的否定論

 1 懐疑論

 栗原隆氏によれば、ヘーゲルは懐疑論の意義を、「真なるものそのものを見出さないまま、吟味し、探究し、探索すること」と捉え、次のように説明しているという(『哲学史講義』)。

 『スケプシス(懐疑)』を〈疑いの学説〉とか『疑り深いこと』と翻訳してはなりません。懐疑は疑いではないのです。だって、疑い(Zweiful)というのは、懐疑論の結果であるはずの安心とは反対だからです。〈うたがい〉というのは『互い(Zwei)』に由来していて、それは、二つのものやそれ以上の「選択肢の」間をあっちへ行ったり、こっちへ来たりすることです。一方にも他方にも安らぐことはありません。(Ι)ところが懐疑論は、一方にも他方にもどうでもよいのであって、対立しあうものの一方に確固としたものを見出そうとはしません。これが懐疑論のアタラクシア(平静心)の立場です。

 栗原氏は「ヘーゲル弁証法の原型は懐疑論にある」といっている。しかし、この懐疑論を否定的理性の働きのモデルとして捉えている。

 ヘーゲルにあって弁証法的な否定は、〈あれか―これか〉の二者択一や、〈ああでもないし―こうでもない〉という行き詰まり、さらには〈あれはあれで―これはこれ〉という相対性をも否定して、認識の進展をもたらすことのできるところに捉えられていた。対立的な構図を構成する二律背反を解消するところに否定的理性の働きが見定められていたのである。実際、そうした否定はどのような形で現われるのか。ヘーゲルはそのモデルを「懐疑」に求めた。懐疑というのは、必ずしも、これもあれも疑わしい、という態度をとるものではない。独断論が、対立する主張の可能な場合にあって、一面的に一方に加担する態度をとって、「あれ―かこれか」を構成するのに対して、むしろ常に、対立する主張を並存させようとする態度である。

 わたしたちは、懐疑論を否定的理性の働きではなく、否定的理性と肯定的理性の並列構造の働きとして位置づけよう。「〈うたがい〉というのは『互い(Zwei)』に由来していて、それは、二つのものやそれ以上の「選択肢の」間をあっちへ行ったり、こっちへ来たりすること」という説明は、わたしたちの「ひらがな弁証法」にふさわしいと思う。

 Zweiはドイツ語の2である。それはバイソシエーション(bisociation)のバイ(bi)に対応する。また、複素過程論(複合論)の「複」に対応する。

 「あれとこれと」――懐疑論のアタラクシア(平静心)の立場である――「ひらいて  つないで  ふたつを  ひとつに  むすぶ」。