ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

他の資料との比較~富田メモ6

2006-07-30 11:08:18 | 靖国問題
●昭和天皇のお言葉の他の記録との対照

 マスメディアが報じた富田メモの最重要部分は、次の文言である。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」

 私は、この文言は、昭和天皇のご発言を直接または間接に書き留めたものである可能性があると思う。その場合、先に書いたように、この部分の前には、中曽根・藤尾・奥野への言及があり、そこからの全体の流れを踏まえて理解を試みるべきだと思う。
 仮に昭和天皇のご発言を反映したものだとすれば、天皇は戦前・戦後のわが国の歴史、周辺諸国との関係、わが国の国としてのあり方について、強い関心をお持ちだった。その中で、靖国問題を考えておられた、と推察することが出来ると思う。そのような試みをしないと、真意を表面的にしかとらえられず、場合によっては誤解してしまうおそれがあると思う。

 上記の引用については、徳川元侍従長の発言である可能性も排除できない。また、もし昭和天皇のご発言を間接的に書き留めたのであれば、徳川元侍従長を通じてだろう。この場合は、昭和天皇のご意思をどこまで正確に反映したものかの検証が必要である。徳川の個人的な意見が強くにじみ出ている可能性もある。
 これらについては、公開されていない富田の日記・手帳・貼付部分の前後等を検証しないと、確かな判断が出来ないと思う。

 そこで、富田メモをどうとらえるかの補助として、昭和天皇のお言葉の他の記録と対照して精査する必要があると思う。

●『木戸幸一日記』が伝えるもの

 富田メモは、一人の人間が私的にメモしたものである。公開されている部分に関する限り、簡略な覚書を、そのまま日記に貼り付けたものである。書き留めた言葉の整理や清書もされていない。文中の「私」が誰かが明記されていない。複数の人間の発言を記録したようであるが、「私」以外が誰なのかも明記されていない。
 これに比べ、『木戸幸一日記』(東京大学出版会)や『昭和天皇独白録』(文春文庫)は、まさに第一級の史料である。史料としての評価が定着している。これらと富田メモを比較して検討することは、有益だと思う。

 『木戸幸一日記』は、戦前の内大臣・木戸幸一が残した日記である。木戸は大東亜戦争の以前から戦争の終結まで、最も近い側近として昭和天皇を輔佐した。敗戦後「A級戦犯」として東京裁判で終身禁錮の判決を受けたが、昭和30年に仮釈放され、ついで自由の身となった。富田朝彦より、はるかに重要な歴史上の人物である。『木戸幸一日記』は、昭和史を研究する際の重要文献として、多くの歴史書に引用されている。

 富田メモには、「A級」「松岡」「白取」等と書かれているが、いわゆる「A級戦犯」に関して、『木戸幸一日記』は、次のように書いている。
 昭和20年8月29日、昭和天皇は「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と語られた。また同年12月10日には、 「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と発言されたとしている。
 これらの記載から、昭和天皇が東京裁判で起訴された戦争責任者を「犯罪人」とは見ていなかったことがわかる。これは、非常に重要な情報である。

 富田メモには「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とあるが、もし「A級」の語が発言者の言葉を富田がそのままメモしたのだとすれば、こうした言葉遣いを、昭和天皇がなさるとは考えにくい。また、仮に元「A級戦犯」の合祀について、昭和天皇が「不快感」を持っておられたとしても、それが元「A級戦犯」全員に対してのものとは、考えにくい。

 次回に続く。

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