美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百六十四)

2018年10月31日 | 偽書物の話

 おずおずと差し出した質問に直ぐには応えず、水鶏氏はそぞろ黒い本を開け閉てしている。定めし挿し絵の人物に挙動の含意を探り、その顔色を読んでいる具合である。作為的に焦点をぼやかして、絵頁に埋ずみ隠れた紋様を視感で捕らえるための工夫なのか、窮屈な体勢で鋭い理方の眼孔を黒い本へ近づけ遠ざけしている。
   そうこうするうち、水鶏氏は椅子の背に沿って少しずつ体をのし上げ、やがて床から椅子へ斜めに立てかけたつっかえ棒になって固まる。体全体で完全な直線形を成しているので、何者かがたわむれに頭を押した場合、椅子を支点とする梃子の原理で伸び切った脚が爆ぜて、重たげな机をひっくり返すことも簡単にできそうである。机の上で犇めく古書、笠付ランプ、インキ壺、雑誌類相互の妙絶な引力と斥力とによって釣り合っていたつかの間の小宇宙は、偽書物や石山もろとも反転して瞬くうちに雲散霧消してしまうのである。そんな儚い均衡に乗じているからこそ、眼前の机は水鶏氏の自心が安心して放逸し得る場になっていると評して大した誣言になるまい。
   「私がこの本と感応して別世界に没入したのが、どの時機だったか、既に陽のあたる記憶の領野には跡形もありません。それに、この本は追思を人に催起させる薫りを外へ洩らしてくれないのです。」

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坂本龍馬襲撃の諸因(小林博)

2018年10月28日 | 瓶詰の古本

 坂本暗殺の原因は、伏見の寺田屋で、同心二名射殺したことが、直接原因となつてゐたが、其の他にも、より以上の有力な原因があつた。彼が薩長聯合を策したり、大政奉還の黒幕となつたりして、幕府の不為を計つたばかりでなく、当面の政局にも、猶ほ重要な位置を占めてゐたので、幕府の不利として、除いたらしいやうに見える。当時彼は、長崎に海援隊を組織して、自ら隊長となり、盛に海軍振興や、通商航海の奨励をして、幕府の向ふを張つてゐた。殊に海援隊のいろは丸が、此の年の四月廿三日の夜半頃、濃霧の為め、紀州藩の明光丸と、備後の鞆津沖で衝突し、沈没したことがあつた。其の時坂本は、幕府の異身同体と見られてゐる紀州藩に迫り、英国提督キングを証人とし、国際公法に照すぞと脅かして、無理矢理に八万三千両を、賠償せしめたことがあつて、大分恨まれてゐた。
 中岡は、坂本とは同郷であり、刎頚の友であつたが、其の主義は旧幕府の破壊倒滅にあつた。それ故岩倉具視や、西郷吉之助、大久保市蔵などゝ深く結託し、洛外白川村の陸援隊を以て、これが一助をなさんとしてゐた。坂本は、中岡の戦闘破壊に対し、建設組織の方策を以て臨み、王政復古の為めに公議政体をとるとか、当初の財政策は如何に講ずべきかとか、かうした方面迄既に努力してゐた。彼は王政復古の為め、幕府を必ずしも、戦闘によつて、倒さねばならぬとは考へなかつた。藩閥専横の弊を避ける為め、幕府をも打つて一団とした、公議政体の建設を策する等に至つては、却つて薩長の功名的立場よりは、疎んぜらるゝ傾向さへあつた。坂本の暗殺には、此等の諸因の何れかに起因して、大なる黒幕があつたかも知れず、如何なる方面の手であるかを知りながら、憚つて語らぬ、と云ふ人さへある。此等は幾分なり、かゝる消息を語るもので、万一さうなると、単に下手人が誰彼と云ふ問題ではないことになる。

(「趣味の幕末秘史」 小林博)

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偽書物の話(百六十三)

2018年10月24日 | 偽書物の話

 私が偽書物の中で読めない文字と邂逅した時、不詳の文字を何と名付けたらいいのか、女に尋ねてみた。初めて見る奇怪な文字形へ付すべき名称を尋ねて答は得られず、況して頁の白地へ文字の黒が隆起し蠕動して、幻境世界へ私を拉してくれることはかつて一度もない。ズカズカと古本屋の店に入っては勝手な振る舞いで女を怒らせた得体の知れない男も、黒い本の幻界を云々することはなかった。判読できない文字を一個一個読み解く術から早々見捨てられた惰夫の私だが、文字の詰まった頁の合間合間に挟まれた挿し絵が射掛けて来る風切の矢に好奇心のつぼを刺し貫かれた。それほどの書物の絵頁に目が留まらぬ水鶏氏とは思われない。
 「お話しの別世界を先生が見聞するに至ったのは、黒い本を繙かれる咄嗟の間、本の数頁と経ないうちに起きた出来事ではないですか。大略は、黒い本の扉を開くと同時に頁を占める白地と黒影とが生動して形を成し、別次元の世界がたちどころに先生の周辺へ迸出したということではないですか。」
 無謀な推理の押し売りをしでかして、言ってるそばから恥ずかしさに紅潮して行くのが分かる。つねづね学習しない空疎な理会癖は恨めしく、元より私の立場で水鶏氏の繕いに手を染めようと瞬息でも思い立つ無分別の神経が怖ろしい。

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髪の毛の妖異(モーパッサン)

2018年10月21日 | 瓶詰の古本

 僕は全く女の髪の捕虜となり、全くそれに取つ附かれてしまつたのだ。それで、今愉快にしてるかと思ふと、直ぐともう煩悶してゐた。この猫の目のやうな感情の動揺は、女を我物にする迄の恋慕のどよめきとちつとも変らない。
 かくして僕は人なき室に閉籠つて、女の髪に燃ゆる如き愛情を注ぎ、果ては顔に捲附けて、黄金の波に眼を埋めるのであつた。
 恋だ、恋だ、全く恋だ。僕は唯の一時もそれを見ずには生きてゐられない。そして僕は女を待つて待つて待ち焦れた。
 ある夜の事、なんだか誰か室にゐるやうに思はれて眼が醒めた。けれども素より誰もゐる筈もなく、僕は依然たる独りぽつちだ。するともうどうしても眠附かれない。僕は不眠症に冒されてゐるのだ。それから例のむつくと起上ると女の髪を取出した。と、其夜は日頃に増して膚ざはりよく、また美味(うま)く遥かに生々してゐた。そして飽かず飽かずそれを愛撫するうちに、全く生きたる恋人に対する心地して、心は強く強く刺撃せられ、果ては殆ど堪へ難い感情の興奮を覚えるのであつた。
 と、見る見る女は現れた!あゝ死んだ女が復活(よみがへ)つたのだ。まさしく僕は女を見た。まさしく僕は女の手を取つた。女はすらりと高い実感的の妖女であつた。そして肉附ふつくりと滑らかに、腰は七絃琴(ライヤー)の形ちをしてゐたが、その胸は流石に冷たかつた。

(「女の髪」 モーパツサン原作 三宅松郎譯)

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偽書物の話(百六十二)

2018年10月17日 | 偽書物の話

   断るまでもなく、水鶏氏相手に偽書物との親和度を競おうなどと常軌を逸する狂焔に身を焦がしているのではない。水鶏氏の発言を振り返って、これまで氏が偽書物と昵懇の間柄にあると自ら認定している節は露ほども窺えない。黒い本は、表向き無頓着に水鶏氏の自心とその自心を触れ合わせ、文字を介する書物一般と隔たる方途でもって別世界に縦横する歓心を満たした。いわば、新次元に位する別世界への導き手であるが、愛憎の対象となるものではない。
   それに比べ、啻に訴えずにおれなかった現様と仮象との間で進行して止まらない容貌の漸近は、私にとって画然たる形姿を伴わぬ、なにがしかの啓示の前端と印象されている。西国の古本屋で大きな黒い本の挿し絵に気を惹かれ、女と呟き交わした畳の帳場が目に浮かぶ。黒い本の解せない文字の面妖さはさることながら、水鶏氏らしくない軽い狼狽に打ち返されて、あの時早速に眸へ飛び込んだ絵像の手際良さが、改めて意味ありげに燻り立って来る。だからだろうか、箍の外れた私の臆想の中では、水鶏氏は水鶏氏なり、黒い本と交わした感応の流路にまだ隠された川床の筋目があるのなら、喫緊にそれを確かめずにはいられない焦思に駆られて、せっかちに歩き回っている。そして現実の部屋の中では、やっぱり水鶏氏は椅子に座り沈思の姿勢を崩さないでいる。

 

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真の芸術品にして悪魔の協力のないものはない(正宗白鳥)

2018年10月14日 | 瓶詰の古本

   「人間は何を為し得るか。一個の人間は何を為し得るか」といふニイチェの問題は、ドストイエフスキーの心の暗室に於て、極度まで実験されたものらしい。「超人」哲学の主唱者は、「人間が他のものになり得るといふこと、なほそれ以上のものになり得るといふこと、なり得るにも拘はらず完成に達せんと努力することなく、卑劣にも最初の泊りで身を休めた」と、人類史を批判してゐるが、このニイチェは昨年何処からか発刊された、彼の発狂後の日記によると、女に関したことばかりを頻りに書散(かきちらし)してゐたさうである。女から超然としてゐた筈のニイチェにしても、その意識の底には、女性が巣を張つてゐたのであらう。真の芸術品にして悪魔の協力のないものはない。「女子と小人は養ひ難し」と孔子の云つてゐたのは、孔子自身が女子と小人に苦しめられてゐたことの告白であらうが、この女子と小人もドストイエフスキーの創作的火炉に投ぜられると、純金の素質を現はすやうになつた。我々が有るがまゝに見てゐる人生は謔の世界で、天才に具つてゐる「暗室」で濾過されたものによつて、純真の人生を感得することが出来るといふことになるのだ。
   ジイドの文学論を読むと、論旨はいつも根本の問題に触れてゐるやうに思はれるが、私自身にはドストイエフスキーの創作的境地は手の届かない所にあるやうに感ぜられる。

(「文學修業」 正宗白鳥)

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偽書物の話(百六十一)

2018年10月10日 | 偽書物の話

   果たして私の容面が挿し絵に乗り移っているかについて、水鶏氏が熱を入れて抓もうとしないのは、話頭が神奥なクレバスへ雪崩れるのが忌まわしかったせいではない。挿し絵の存在に全く気づかなかった原因が意識の裂隙によるのか、それとも何ものかの狡知な意図によるのかといった埒のない迷想は苛烈に泡立ち、黒い本が差し挟んだ絵頁をすっかり見過ごしているかたわらで、生き生きとした別世界を精彩に見聞きしたのであれば、その別世界の真体を闡明しないまま自心を引き合いに世界の実在性を語るのは、今や水鶏氏にとって忍び難い苦痛になっていると察せられる。
   盛んに顛動する水鶏氏の琴線によって、絵像に現われる変容に浮足立った能天気の精神が取り敢えず隅っこへ押しやられるのは当然の成行きであるが、いざ流れがそうなってみると、頭を納得させる理路の力に見合った勢いの反作用が生まれ、絵図から与えられた心象へのこだわりが沸々と湧き上がって内心を満たし、それを私が快く受け容れているのが明瞭に実感されるのである。未だ根底的に掴み切れていないにせよ、どうやら私に自心らしき核心があるとしたら、偽書物にぞっこん魅入られている本心をひた隠し、手を替え品を替え黒い本が打ち出す別世界の複層や現世界の実在性は水鶏氏独得の仮説の岩戸へ封じたから安泰と自己瞞着していて、そもやいつまで飄逸を装っていられるだろうか。

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故意に奇言奇行を尚ぶ者(洪自誠)

2018年10月07日 | 瓶詰の古本

能脱俗便是奇。 作意尚奇者。 不為奇而為異。
不合汚便是清。 絶俗求清者。 不為清而為激。

能ク俗ヲ脱スレバ便チ是レ奇、作意ニ奇ヲ尚ブ者ハ、奇ト為ラズシテ異ト為ル。汚ニ合セザレバ便チ是レ清、俗ヲ絶チテ清ヲ求ムル者ハ、清ト為ラズシテ激ト為ル。

凡俗の境地を能く脱却することが出来た人は、それこそ奇特にして偉大なる人と謂ふべきである。然るに、故意に奇言奇行を尚ぶ者は、決して奇特偉大なる人に非ずして、単に異を好む変人に過ぎない。また、世間の汚濁の中に在つて、しかも之に混合しない者は、それこそ清節の人と謂ふべきである。然るに、世俗の交りを絶ちて独り清節を求めんとする者は、決して清節の人となり得ずして、単に矯激なる行為をなす者に過ぎない。

(「ポケツト菜根譚」 五島慶太)

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偽書物の話(百六十)

2018年10月03日 | 偽書物の話

 水鶏氏は口に石を含んだみたいにして回転する舌の動きを制し、論外な方向へ突っ走りかねないこの場の会話を用心深い手綱さばきで食い止めているようだ。容易く喪神へ魂を売り渡す私が、はやり過ぎてしまったのではと不安に駆られるくらいだから、黒い本に委ねた私の正気に信を置いていいものやらどうやら、水鶏氏がいわく言い難い胸騒ぎに襲われて昏迷の念を募らせるのは、誰にも咎められる筋合いのものでない。
   せせこましく開いた絵頁を凝視していた水鶏氏は、ゆっくり頭を上げて私の眼に見入った。それから再び俯くと、黒い本を前後へ微かにずらしながらさっきより遠目に挿し絵を眺めている。取り立てて絵像と私と顔の造りを見比べるというのではない。私が大袈裟に囃した奇幻譚がきっかけで翻然顧みてはじめて絵図を見出したのであり、宛も心に穿たれる節穴によって非道に見過ごされていた黒い本の自心を篤と探尋する好時機を逸すまいとする意気込みが、水鶏氏の張り直した肩口を通して伝わって来る。
   「成程そうですか。あなたが認知しつつある現象が、この本を繰って絵像と対面する都度に漸々進行していることに一点の疑雲もないのでしょう。生憎、絵画造形に関する識別力に欠ける私には、神妙な折り紙をつける資格などありませんが。それにしても返す返すの愚痴になりますが、こんなにしっかりと綴じられた挿し絵の頁ことごとくを見落としていたとは、とんだ目眩ましに引っかかったと今更らしく嘆いたりするのは余りに白々しいですかね。」

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