美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

文芸復興期の非凡な人々(ヴァッケンローダー)

2019年03月09日 | 瓶詰の古本

 或る日、外出から彼が帰ると弟子たちが大急ぎでやつて来て大よろこびで告げ知らせた――ラファエルの絵が着いて、彼らはそれを、フランチェスコのアトリヱの中に、最も光線のぐあひのいい位置に置いてあることを。フランチェスコは夢中(むちゆう)でアトリヱの中に馳け込んだ……
 だがしかし、この巨匠がラファエルの画をひと目見た瞬間に自分の心の底が裂けたやうに感じたその激動感を、私は現代の人々に、どうやつて表現すべきだらうか? それはたとへばこんな気持ちだつたに違ひない――彼は幼い頃から離れて暮した兄弟に再会して大よろこびで抱擁しようとしたところが、とつぜん眼前に見たのは兄弟ではなくて光の天使だつたのである。彼の心の底は射抜かれた。人間より一段と高い者の力に心を全く圧しくだかれて、くづ折れながらひざまづく者の心もち――それがその時のフランチェスコの気もちであつた。
 雷に撃たれたやうに彼は立つてゐた。そして彼の弟子たちは彼の周りに集まつて、彼を支へながら、一体どうなさつたのです、と師に問ひかけたが、彼らはどう考へていいのか判らず途方にくれた。
 彼はいくらか回復して、なほも此の絵を――この上なく神々しい絵を眺めつづけた。何と彼は、その誇りの高みから、突如と突きおとされたことか! 僭越にも自分を星の高さにまで高めて考へ、到底及び得ぬラファエルの上に傲然と自分を置いてゐた誤ちを、彼は何とつらい思ひで悔い改めなければならなかつたことか! 彼は自分の白髪頭の額(ひたひ)を手で打ちながらはげしく泣いて、かう思つた――自分は功名欲に燃えていたづらに努力をしたが、そのために却つてますます愚かになり、今や死に近づいた歳になつて、急に眼が覚めてみると、自分の一生は哀れむべき、未完成のでき損ひであつたことを悟らないではゐられない、と。彼はラファエルの聖女セシリアと同じやうに、自分の眼なざしを上に向け、きずついて悔悟に充ちてゐる心を天に示して、へり下つた思ひで、赦しを乞ふ祈りをした。
 彼は身心の力が抜けてしまつたやうに感じた。弟子たちは彼を寝床につれてゆくほかに仕方がなかつた。画室を出て行くとき自分の画が幾つか彼の眼に映つた。まだその室に懸けてあつた殯死のセシリアの画がとりわけ目についた。そして彼は、悲しみのあまり死にさうだつた。
 その時から彼の精神は乱れてしまつた。彼の心がうつけたやうになつてしまつてゐることが人々に気づかれた。高齢のための衰へと、そして永年努力に努力を重ねて無数の作品を描きつづけた精神の疲労とが、彼の魂の住家である肉体を根柢からぐらつかせた。彼の画作の心の中に生きて動き、色彩と線とによつて画布の上に具現せられて来た無限に多様な形象たちが、今やいびつな姿を取つて彼の心の中を群がり動き、熱病の中で彼をさいなむ呵責の霊どもになつた。弟子たちが気づかないうちに、フランチェスコは寝床の中で死んでゐた……
 かくてこの人は、神々しいラファエルに比較して自分が甚だ劣つてゐると感じたことによつて始めてまことに偉大になつた。既に永い前から、芸術を深く理解する人々の眼には、彼もまた芸術の神に嘉せられてゐる者と見られてをり、芸術的熱意のまことの殉教者としての彼にふさはしい円光を頭上に与へられてゐる者として認められてゐた。
 フランチェスコ・フランチアの死についてのこの物語りは、あのヴァザーリによつてわれわれに伝へられたものである。文芸復興期の巨匠たちの霊が、あのヴァザーリの精神の中には未だ生き生きと吹き渡つてゐた。
 超自然的な奇蹟を信じないと同様にまた非凡な精神の人々の事どもを信じようとせず、信じることもできない批評的頭脳の人々は、昔のうやうやしい美術史家の書き留めたことを伝説に過ぎぬものとして本気には受け取らず、そして「フランチェスコ・フランチアは毒殺されたのだ」と断定してゐる。

(『フランチェスコ・フランチアの死』 ヴィルヘルム・ハインリッヒ・ヴァッケンローダー 片山敏彦譯)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする