美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

夜の観光バス(一巡三時間)ガイドブック(雑誌・婦人生活)

2010年06月30日 | 瓶詰の古本



☆一人でも直ぐ乗れる(ガイドつき)
夜の観光バス 一巡三時間 クーポン 四〇〇円

☆観光コース
  新橋-銀座-東京温泉-東劇-歌舞伎座-尾張町-P・X-京橋-日本橋-浅草橋-両国メモリアル・ホール-浅草-上野-神田-大手町-東京駅-和田倉門-日比谷公園-新橋フロリダ-新橋

☆下車見物
  歌舞伎座一幕観劇(休場の場合は国際劇場)
  フロリダ・ダンスホール(御飲物付)

☆発車場所・時間
  新橋駅正面・毎日午後六時(サンマータイム期間中 午後七時発)

☆申込所
  東京都千代田区丸の内一の一新日本観光株式会社本社(電話日本橋(24)六九八一番・六九八ニ番)及各発車場又は日本交通公社各案内所

(「新東京ガイドブック」 婦人生活 昭和二十六年九月号 東京地方特別附録)

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古本屋の道義

2010年06月28日 | 瓶詰の古本
  過日、神田神保町のT-U堂にて、「漢和大辞書・縮刷版」(芳賀剛太郎著)を購い求めた。家に帰って、例の如く心ときめきながら頁を繰っていて愕然とした。二十頁近くにわたって落丁があるではないか。かつて、神保町の古本屋では、落丁・乱丁本は値札なりにその旨を必ず記し置き、顧客は納得づくでその分廉価な不良本を購っていたと記憶する。相対了解の下という、これもある種の信頼関係で物の取引が行われていると勝手に思い込んでいた。なにより、落丁・乱丁の有無の確認は、古本屋の入口の入口、基本の基本ではなかったのか。
  思えば、T-U堂において辞書類を購入するにつけ、貧乏人からすれば高額な買物をしても、求めなければレシート1枚手渡されたことがない。所謂神保町老舗の古本屋にして、古本屋の道義をどう秤量している心算なのだろうか。
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ファド Fado(雑誌・宝石)

2010年06月26日 | 瓶詰の古本

 ★ファドとは英語のフェイトに当るポルトガル語で、運命という意味。転じて運命の悲しさを唄つたポルトガル独特の民謡の名前でもある。
 ★最近封切られたフランス映画「過去をもつ愛情」は、ポルトガルの首都リスボンを舞台にしているが、この映画の中で人気歌手アマリア・ロドリゲスが2つのファドを唄つている。
 ★その昔の流刑者たちの間で歌われていたバラードから発生したものといわれる。前記の映画で唄われるのは「孤独」と、漁に出たまま帰らぬ夫を待ちわびる傷心の妻をうたつた「黒い船」。ギターの胴を叩く3拍子のリズムにのつて6絃のヴィオラ、12絃のギタルラの澄んだ音色の伴奏で唄われる。胸をしぼるような調べである。
 ★リスボンでは大統領の名前は知らなくてもロドリゲスを知らぬ者はないという程の人気者。 t

(「宝石」 12巻1号)

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唄い手であること

2010年06月24日 | 瓶詰の古本
 ちあきなおみの唄う「霧笛(Fado:Naufrágio cover)」を聴き、また何返も繰り返し聴き入ってしまった。更に「酔いどれ船(かもめ)」という歌を聴き、時間の経つのを忘れ歌の中に座っていた。ただ茫々と時間は過ぎて行き、きりがないままに「喝采」を聴き、唄は唄い手によって命を与えられ、人にその命の一部を分け与えるということを思った。
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世を渉るの道(佐藤一齋)

2010年06月22日 | 瓶詰の古本

  人の世を渉るは、行旅の如く然り。途に険夷有り、日に晴雨有り。畢竟避くるを得ず。只だ宜しく処に随ひ時に随ひて相緩急すべし。速やかならんを欲して以つて災ひを取る勿かれ、猶予して以つて期に後るる勿かれ。是れ旅に処するの道にして、即ち世を渉るの道也。

(「言志後録」 佐藤一齋)

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サーカス(雑誌・宝石)

2010年06月21日 | 瓶詰の古本

 ★キャロル・リード監督の「空中ぶらんこ」はサーカスのシーンをたつぷり眺めさせてくれる映画だ。主演のバート・ランカスターは元軽業師だつただけに吹き替えなしで堂々と演じている。そういえばサーカス映画の最大作「地上最大のショウ」のベティ・ハットンは映画のために猛訓練の結果、本職級の腕前になつたそうだ。
 ★かのミッキー・スピレーンが名演技をみせた映画は「恐怖のサーカス」だつた。
 ★サーカスの先祖はローマのコロセウムでクリスチャンを猛獣の餌食にしたあの頃のこと。
 ★廣重の錦絵に招魂社境内のフランス・スリエ曲馬を描いたものがある。明治4年の作だ。明治19年には「伊太利国チャリネ曲馬団之図」という絵草紙が出ている。曲馬の他に今日の如くライオンや象の曲芸も見せたらしい。 

(「宝石」 11巻14号)

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部屋の数だけ生きるのか

2010年06月20日 | 瓶詰の古本
  今まで、いくつもの部屋で暮らしを暮らして来た。その部屋の数だけ人生を生きて来たような気がしないでもない。確かに、部屋が変わるたびに、行路はうねったり曲がったりした。思いがけない展開に茫然としながら、何者かに急き立てられるようにして、深く考えもしない決着を繰り返した。そうして、いつの間にか、たくさんの部屋を捨てて来てしまったようだ。
  部屋には、もちろん一つひとつかけがいのない生活があった訳で、振り返れば、すべては途中で断ち切られ、過ぎた日の中で静止したままだ。まるで、田園を走る列車の中から広い平野に散らばった家々の窓が見渡せて、一軒一軒にそれぞれの暮らしが生きているのを眺めているような気持ちがする。捨てて来た暮らしが温かく生きているのを、遠く近くに眺めているような気持ちがする。走る列車の中から眺めるその暮らしを生きることは、二度とないのだ。
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言の口より出づる者は(淮南子)

2010年06月19日 | 瓶詰の古本

夫れ言の口より出づる者は、人に止む可からず、行の邇(ちか)きに発する者は、遠きに禁ず可からず。事は成り難くして敗れ易く、名は立ち難くして廃れ易し。千里の堤(つつみ)は螻蟻(ろうぎ)の穴を以て漏り、百尋の屋は突隙の煙を以て焚(や)く。堯は戒めて曰く、戦戦慄慄として、日に一日よりも慎めと。人山に躓く莫くして垤(てつ・蟻づか)に躓く。是故に人は皆小害を軽んじ微事を易(あなど)りて以て悔多く、患至りて後に之を憂ふ。是に由(な)ほ病者已に惓(はげ)しくして良医を索(もと)むるがごとし、扁鵲兪フ[足+付](名医の名)の功ありと雖も、猶ほ生かすこと能はざらん。 (一部漢字を置換)

(「淮南子」 塚本哲三編)

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私の後悔と悲しみを書いているにすぎない(魯迅)

2010年06月18日 | 瓶詰の古本

  初春の夜はやつぱり永い。久く枯坐してゐる中、午前中町で見た葬式が思ひ出された。前には紙人形と紙の馬で、後には歌のやうな泣声。私は今やつと、彼等の聡明さが判つた、それは何と気軽な簡単なことよ。
  さはいへ子君の葬式もまた、私の眼の前に見え、それは独りで空虚な重荷を背負つて灰色の長い道を進んでゆき、急に、周囲の威厳と冷たい眼のなかに消え失せる。
  私は真に所謂、鬼魂といふものがあつて、真に所謂地獄といふものがあればいいと思つた、さうすれば、すぐにでも、妖風の吹き荒ぶなかで、私も子君を尋ねてゆき、面と向つて、私の後悔と悲しみとを語り、彼女の許しを求めようと思ふ、さうでなければ、地獄の毒焔は、私を取り囲み、私の後悔と悲しみを猛烈に焼きつくすであらう。
  私は、妖風と毒焔のなかで、子君を抱擁し、彼女の許しを求めよう。さうすれば彼女を満足させるであらう……

  だがそれは、新しい生くべき道よりは、より空虚である。現在にあるものとては、たゞ初春の夜のみで、それもやつぱりこんなに長い。私は生きてゐる。私は新しい生くべき道に向つて、その第一歩を踏み出さねばならぬ。たゞ子君のため、自分のために、私の後悔と悲しみを書いてゐるにすぎない。
  私も矢張、歌のやうな泣声で、子君を忘却のなかに葬つてゐるにすぎない。
  私は忘れよう、私は自分のために、決して忘却をもつて子君を葬るやうなことを思ふまい。
  私は、新しい生くべき道に、第一歩を踏み出さう、私は真実を深く深く心の傷のなかに蔵つて置き、黙々として前に進み、忘却と偽りとを私の道しるべにしよう。

(「傷ましき死」 魯迅 井上紅梅訳)

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丹に染まる花

2010年06月16日 | 瓶詰の古本
   丹に染まって咲く花は、赤い言葉を吐く。どこかで誰かに話しかけられているらしい。相手は子供のようだが、眼や鼻、唇は霞んで見えない。相手から息遣いが消え、森とした静けさがおれと子供を包み込む。大地が背中を丸めて悲しんでいるなどとどうして信じられただろう。
   おれは一人の女を失くした。ほんの小さないさかいがあり、女は去った。女から遠ざかる足でおれは夜の橋を渡っていた。足許を流れて行く水はかすかな音を立てた。霧は橋を蔽い尽くし、目の前は分厚くそそり立つ白い壁のようだった。そのときぼんやりと壁に映って見えるのは、子供のなりをした影だった。
   おれは物事に慣れることのできない子供だった。そして、そのことを女に伝える言葉を持たない子供だった。もともとおれの声が女の耳に届くこともなかったのだろうが。そして、おれは霧の壁におれの影を見た。子供の姿のおれの影を。
  丹に染まって咲く花は、赤い言葉を吐く。歌うことによって言葉を祈りに変えてしまう力を知っていて、その力を支配している。霧の向こう側に、おれは、おれを待っている女を祈った。おれは、咲く花のように歌いたいと一度だけ望んだ。
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ポーと乱歩氏(夢野久作)

2010年06月15日 | 瓶詰の古本

 私は、乱歩氏の作品の全部を通読してゐる訳ではありませぬ、たゞ好きなものを繰り返し繰り返し読んでゐるだけで、発表された年代や順序なぞは、調べてみやうと思つた事もありませぬ。これは乱歩氏の作品に限らず、ほかの小説でも同様で、調べること嫌ひの私は「猟奇」とか「探偵」とかいふ名目すらも、ツイ此の五六年前までは、赤の他人の名前と同様に、通りすがりに記憶してゐるくらゐの事でした。
  その後に私は、友達の処に在る雑誌の中で、偶然に乱歩氏の「心理試験」を読んだのですが、興味に釣られて一気に読まされたにも拘はらず、その内容に対しては、一種の失望を禁じ得ませんでした。
『日本人は直ぐに西洋人の真似をするのだナ』
  と思ひながら「ヱドガー・アラン・ポー」「ヱドガワ・ランポ」と心の中で繰り返して、何とも云へない物足りなさを感じた事を、今でもハツキリと記憶してゐます。
  それから矢張り同氏の作にかゝる「D坂の殺人」「二銭銅貨」なぞを、作者の力に引き付けられて次から次に読みは読みながら、構想や行文の苦心が一つ残らず西洋人の模倣に見えて仕様がありませんでしたので、巻を蔽うと同時に、二度と読む気がしなくなつたものでした。さうして
『江戸川乱歩は要するにヱドガー・アラン・ポーに対するヱドガワ・ランポに過ぎないのかナ』
  なぞと思ひ思ひした事でした。

  ところが私のかうした乱歩氏に対する失望感は、同氏の「白昼夢」を読むと同時に、あとかたもなく引つくり返つてしまつたのでした。
  それは古本屋の店頭にゴミクタの様に投げ出されてあつた、表紙も奥附も無いボロボロの数十頁でしたが、その中に「江戸川乱歩」の署名がありましたので私は又かと思ひました。さうして読むともなく読んで行きますと、今度は『チヨツトいゝなあ』と思ひましたので、その汚ない数十頁を、たしか二銭か三銭ばかりで買ひました。
  それから山の中の一軒屋の寝床の中に落ち付いて、今一度繰り返して読んでみたのですが、そのうちに、私はスツカリ昂奮させられて、眠られなくなつてしまひました。
  私はズツト前に或る処で、改葬に立ち会つた事がありますが、その時に出て来た屍体の白い腐肉、褐色の血? 死水に浮く脂肪? のかゞやき、太陽の黄色い臭気なぞ……それは今思ひ出してもウンザリして唾を吐き度くなる位ですが、さうした太陽の下のタマラナイ感じの数々を、私はソツクリそのまゝ「白昼夢」の中に発見したのです。しかも、私に取つては一カタマリの不快感に過ぎない其の様な印象を、乱歩氏は細かに、やわらかに分解し、象徴化し詩化し、小説化し得る人である事を、私はふるえ上がるほど、うなづかせられたのです。
  ……白昼の人通りの中で、天日に顔を晒しながら、ダラシなく涙を流す中年男、うす暗いところで開け放しにされてゐる水道の栓……ドラツグの人形の奇妙な形と光りその中に交つた生ぶ毛だらけの実物標本……そのやうなものが力なくつながり合ひ、重なり合ひながら描き出す白昼夢の交響楽……事実以上のこゝろの真実……虚偽以上の自然の虚偽……その純な日本風な、ヤルセの無い魅力に、私はスツカリ強直させられてしまひました。
  ……日本でもコンナ小説が生み出され得るのか……此種の小説で純日本式の気分を取り扱つたものとしては谷崎潤一郎のものを読んだ記憶がある丈けであるが、これは又、全然、別世界を作つた純真、純美なものでは無いか……と思ふと、感激とも感謝とも形容の出来ない、タマラナイ読後感に囚はれて、眼を大きく大きく見開きながら、いつまでもいつまでも同じクラ闇を凝視させられた事でした。
  私は、かうして初めて乱歩氏の偉大さを知つたのでした。硝子窓が深夜にワナワナとふるえるやうなポーのペンに対して、眼の玉が白昼にトロトロと流れ落ちるやうな乱歩氏の筆が対立して居る事を初めて知つたのでした。
  ポーが地上に残したモノスゴイ薬品のにほひに対して、乱歩氏が生み出すオドロオドロしい黒砂糖の風味が存在してゐる事を、生れて初めて教へられたのでした。 

(「江戸川乱歩氏に対する私の感想」 夢野久作)

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冬隣

2010年06月13日 | 瓶詰の古本
 たまたま、ちあきなおみの「冬隣」を聴いた。繰り返し聴かずにはおれず、酒を呑みながらの独りよがりな気分がこの上なく恋しくなった。呑むことでしか目に映らない声、呑まなければ耳に届かない影を徒に欲しがる自分の心、なにかと陶酔したがる悪癖を、忌まわしくも法外に大切に思えてならないときがある。
 ちあきなおみの唄にそんな心を揺さぶられたので、今日は酒を呑むことにしたい。
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古本の中に自分の破片を求める

2010年06月11日 | 瓶詰の古本
  この時代の、分別盛りにして寒い精神を実見したければ、例えば古書展へ行けばよい。本物の狂狷でもない寒い偏執など、誰にしたっておぞましかろうが、古書愛などと言い繕えば、やがて消え行く奇怪な心理標本として見世物的価値が全くない訳ではない。すべて他者に対して、故なく一途に尊大な態度をとりたがる滑稽で哀しい精神の群れ。古書展に常連の、あの学者もこの坊主も、古本の中に自分の破片を追い求める孤独な自己愛を露わにしながら、両手に本を抱え込んで棚から棚へと廻り廻るのである。
  もはや自尊を幻視することでしか世間との接点が残されていないこれらの傷み易い精神は、時代に埋もれた高貴な古書を発掘したといっては喜悦に咽び、そそくさと僅かな硬貨を支払って隠秘の古書とやらを受け取り続ける。いよいよ益々自らを尊しとする倒錯的な妄想に溺れて古書展内を闊歩し、何事も成し得ない無為の内心を書物によって飾りたてるばかりなのだ。
  これはまた、均一台とは別領域で展開される、古書展の精神現象学に現れる自分自身の姿でもある。
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かりに名付けて風羅坊という(松尾芭蕉)

2010年06月10日 | 瓶詰の古本

百骸九竅(ひやくがいきうげう)の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものヽかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終(つひ)に生涯のはかりごとヽなす。ある時は倦(うみ)て放擲せん事をおもひ、ある時はすヽむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたヽかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫学で愚を暁(さとら)事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無藝にして、只此一筋に繋る。
西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて、四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類(たぐひ)。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。

(「卯辰紀行」 松尾芭蕉)

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自ら作せる禍(書経)

2010年06月09日 | 瓶詰の古本
    水鳥の行くもかへるもあとたえて
           されども路は忘れざりけり。
 初めての道路(みち)を歩く際に、うつかりして歩いたヽめに、二度目に解らなくなつてゐるといふことは、誰でもよく実験する所であるが、或は既に三度四度歩いた道でも、何時も注意を怠つてゐると、中々その道を知ることさへも出来ぬ。現在形を具へて、眼に見えてゐる道路(みち)でさへも然うであるから、況して形も無ければ眼も見えぬ人の道は、うつかりして歩いてゐると、何時の間にか蹈み外して、自ら思ひも寄らぬ方角に向つてゐることが無いとも限らぬ。それも深入せぬ中に気が付いて、直に途中から引返して来れば、更に最初から歩み直すことが出来るけれども、何処までも気付かずに歩いてゐると、本道との距離が段々と遠くなつて、再び本道に立ち返る機会が無くなつて終ふ。然るに、常に道を歩む工夫を怠らぬ者は、最初の出発点を誤ることなく、必ず平坦な本道に蹈み入れて、然も絶えず用心することを忘れぬから、誤つて傍径(わきみち)に逸れるといふこともない。
 最初に道の取方を誤つたものは、段々その道を辿つて行く間に、傍径まに傍径と逸れて、或は時に峻坂に差しかヽり、或は時に懸涯に臨みして、危険の道を通る間に、遂に谷の底に転げ落ち、深い淵に陥(はま)り込んで、その身の滅亡を招くことヽなる。既に本道を逸れた者の落ち行く結果は、大抵こんなものである。
 書経(太甲、中の篇)に、
『天の作(な)せる禍(わざはひ)は猶違(さ)るべし。自ら作せる禍は逃(のが)るべからず』
 といふ語がある。即ち天から降した災難なら、なほ逃れることも出来るけれども、自分の犯して受けた災難は、逃るべき道がないといふのである。例へば、奢侈を極めて自ら節することを知らぬ者、強欲にして多くの人の怨を受ける者、放縦にしてその身の徳の修まらぬ者、驕慢にして毫も戒愼する所を知らぬ者、これ等の人に報いられる結果は、大抵覆没か破滅か、或はそれまでには至らずとするも、既に自ら禍の種を下したのであるから、必ず相当の報は免れない筈である。
 こんな結果を生むに至るは、何うしたことであるかと言へば、みなその本道を失つてゐるからである。既にこの本道に拠つて、絶えず工夫を怠らぬ者なら、何処にも落ち来る禍の作り成されることはない。(一部漢字を置換)

(「四書・五経 経書物語」 小林花眠)
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